『もう一年そのままに』 (ルカの福音書 13章1-9節) 2022.3.27.
<はじめに> 春はいのちの芽吹きの季節です。また新年度の始まりでもあります。また春が巡って来たからと言って、全く同じことの繰り返しではありません。私たちは確実に時の流れを進んでいます。
Ⅰ 災難に思うこと(1-5)
①身近な出来事(1,4)
イエス一行はガリラヤからエルサレムに向かう旅の途上です。駐パレスチナ総督ピラトがいけにえにガリラヤ人の血を混ぜる蛮行も、シロアムの塔が倒れて18人が犠牲になった事故も、痛ましい出来事でした。なぜそんな災難が彼らの身に及んだのでしょうか。
②出来事とその人との関係(2,4)
悲惨・理不尽な出来事に遭った人を「罪なき人」と呼ぶことがあります。どうしてこのように言うのでしょうか。ここでは災難にあった人を「罪深い人」「負いめのある人」と結び付ける見方があります。この考え方をすべての出来事に当てはめることはできるでしょうか。
③そんなことはありません(3=5)
イエスは因果応報とは別の見解を示します。地上で災難に遭遇するか否かにかかわらず、私たちすべてに滅びは待ち受けています。私たちはみな罪を抱えているからです。同時にイエスは一筋の希望も示します。自分の罪を悔い改めるなら、滅びから免れます。
Ⅱ 実の無いいちじく(6-9)
①いちじくの木(6)
いちじくはパレスチナでよく見かけられます。芽生えたいちじくの苗木は、大した世話も必要なく、大方3年で実を結ぶまでになります。主人がぶどう園にわざわざいちじくを植えたのは、何のためだと思いますか。主人といちじくは、それぞれ何を例えているでしょう。
②切り倒してしまいなさい(7)
期待外れのいちじくに業を煮やした主人は、園の番人に切り倒すよう命じます。この主人は、なぜこんな命令をしたのでしょうか。それは理不尽な要求・命令でしょうか。因果応報で判断すると、どうなるでしょう。
③番人のことば(8-9)
番人は1年の猶予を願います。その間、施肥などの世話もしてみると約束します。彼はなぜこのような提案を主人にしたのでしょう。1年後、このいちじくはどうなったと思いますか。このたとえで、イエスは一体何を伝えようとしているのでしょう。
Ⅲ いのちがあるなら
①人生は不公平か
人生に起こり来る出来事すべてを、因果応報で片付けられるわけではありません。原因理由のわからない不遇も多々あります。神様は不公平なのでしょうか。確かに人生の道筋は人それぞれです。しかし、神様は一人ひとりに一度の人生、いのちを与えておられます。
②いのちへの期待
生けるものには、それぞれ独特の生命の表れがあります。いのちは成長、増殖します。維持法則から外れたり、寿命を迎えると死にます。神様は私たちにいのちを与えたのは、期待があるからです。どんなことを神様は私たちに期待しているでしょう。
③生かされている間に
実の収穫は主人の喜びです。私たちは神に喜ばれる何かを生み出しているでしょうか。神様は、私たちのいのちの発露を見出すために今も働いておられます(エペソ2:1-10)。生きているうちに、罪を悔い改め、キリストとともに生かされることを切望されています。
<おわりに> 私たちは今生きています。それは神様の恵みで、実を結ぶためです。私たちに与えられた時には限りがあります。その間に神様の前に喜ばれるものとならせていただきましょう。それは、まず神様と顔と顔を合わせることです。(H.M.)
『あなたは終わりまで歩み…』 (ダニエル書 12章1-13節) 2022.3.20.
<はじめに> ダニエル書も最後の章を迎えました。一見、不可解に見える幻に忍耐をもって向き合ってくださり感謝します。すべてを理解できなくても、その中から何かに気付き、取り組むことができれば幸いです。
Ⅰ 終わりの時に
①苦難の時(1)
完成と繁栄へと真っ直ぐ向かい、終わりに至る絵を描きたいと願いますが、ダニエルが見た幻は、かつてない混乱と苦難の極致が終わりの時に来ると語ります。反神・反キリストの力が聖なる民の力を打ち砕きますが、それも永続せずに終わりを迎えます(7)
②いつ終わるのか(5-7、11-12)
至高の神を信じる者には、苦難の時は不思議・不可解に思われます。亜麻布の衣を着た人は受肉前の御子なる神です(10:5-6)。永遠の神から見れば、苦難の時は「一時と二時と半時」(7、7:25、黙示12:14)で、長短を繰り返しても暫しの間のみ、必ず終わります。
③立ち上がる時(1、7)
その時に、守護天使ミカエルが神の民を守るために立ち上がります。神の呼び掛けに応答した者は神の書物に登録され、みな救われます。神はすべての人を救おうと願われています(Ⅰテモ2:4)が、個人的な受容と応答によって確かにされ、すべて成就します。
Ⅱ あなたは…歩み
①目を覚ます時(2-3、10)
ちりの中に眠っている死者の中から、あの書に記されている者は永遠のいのちに、そうでない者は恥辱と永遠の嫌悪によみがえります。この二極化は生きている時から始まっています(10、黙示22:11)。ですから、終わりの時までに方向転換しなければなりません。
②賢明な者(3、10、9:22、11:33・35)
「賢明」は本書の大切な語の一つです。知識(4)や要領の良さよりも、時機を弁え、見分ける洞察力です。今がどのような時で、何を為すべきかをとらえて、適切に行う資質です(マタイ24:45-51)。その人は自分だけでなく、多くの者を神の義の道へと導きます。
③神は報われる(3、12-13)
賢明な者に神が保証されているのは報いです。「輝き」「星」は天的栄光を示します。一人ひとりに神は道を備え、導き、割当地を備えておられます。それが自分の願い通りではなくても、主は時の終わりに、さらに優るものを与えられます(Ⅱテモテ4:6-8)。
Ⅲ ダニエル書が語ること
①神は生きておられる
神を認めない国と支配者の下で、囚われの身ながら神を信じて生き続けるのは至難です。しかし祈りと信頼を誰も止められません。生ける神はその祈りを聞き、答えられます。「私の神は今も生きておられる」と告白し、逆風下でもそれを掲げる者を神は見捨てません。
②神は治められる
支配者や力ある者が時代を席巻しようとも、それもしばらくの間です。神はすべてを治められ、その計画は揺らぐことなく着実に実現します。試練や困難が信仰者を悩ませますが、それも私たちが身を清め、白くし、錬られる(10、11:35)ためで、救いは確約されています。
③封印はやがて解かれる(4、9)
この幻のすべてをダニエルも理解できず、むしろ封印するために託されました。そして、封印が解かれる終わりの時が近づいています(黙示5-8章)。私たちは聖書のことばと時のしるし(マタイ16:3-4)を賢明に読み取り、生ける神の御心に歩ませていただきましょう。
<おわりに> 本書に取り組む間にも、私たちを取り囲む世界と状況は大きく動きました。これからも動くことでしょうが、それはすべて天の神、主の御手の中であることをダニエル書から学びました。主を仰ぎ、忍耐と信仰をもって終わりまで歩む者に、主は報われる御方です。(H.M.)
『その時が来る』 (ダニエル書 11章36節-12章4節) 2022.3.13.
<はじめに> 「歴史は繰り返す」と言われます。それ故に歴史から、私たちは多くの教訓・警戒を得ることができます。しかし、悲しいかな人間は同じ轍にはまることが何と多いことでしょうか。そんな人間を神はどのようにご覧になっているでしょう(創世記6:5-8、詩篇2:1-6)。
Ⅰ ギリシア帝国の中で(11:2-20)
①ダニエル書の預言と幻
2・7章で帝国の変遷の流れが明らかにされます。8章で示されたペルシア・ギリシア両帝国の興亡は、10-11章でより詳細に描かれ、それは「終わりの日」へと向かいます(12章)。ダニエルはその渦中にいるイスラエル民族の回復を祈り、幻を与えられました(9章)。
②北の国と南の国(11:2-20)
ペルシア帝国は、「一人の勇敢な王」ギリシア・アレキサンダーの出現で滅亡します(2-3)。彼の死後、国は4分割され、その二つの国、「北の国」セレウコス王朝と「南の国」プトレマイオス王朝が政争を繰り返しますが、両国とも圧倒的な覇権を得るには至りません。
③あなたの民(14)と麗しい国(16)
捕囚から帰還したイスラエル民族は、列強の狭間で勢力争いの餌食とされます。当初は南の国エジプトの支配下で、民の反乱も失敗します(14)。やがて、北の国シリア・アンティオコス3世の侵攻に呑み込まれます(15-20)。
Ⅱ 反逆の歴史(11:21-45、12:1-4)
①一人の卑劣な者(21-35)
アンティオコス4世(エピファネス:神の顕現)は狡猾・残虐で勢力を伸ばし、2度のエジプト侵攻を企てますが失敗し、その怒りを彼は、エルサレムと神殿・ユダヤ人に向けます。神殿にゼウス像を立て、祭壇にユダヤ律法で忌避な豚をささげ、逆らう者を倒します(9:27)。
②神よりも自分を高く上げる王(36-39)
エピファネスに倣う王は、その後も姿を変えて次々現れます。「この王」(36)はその総体であり、その本質は神をも崇めず大言壮語し、「砦の神」「金、銀、宝石、宝物」(38)「異国の神」(39)を信奉して、自分の意のままに侵略し、なびく者に国土を分け与えます。
③終わりのとき(40-45,12:1-4)
「終わりの時」(40)に、神に逆らう者の象徴である北の国が南の国に破壊的襲撃と略奪を行い、麗しい国を占領しますが、東と北の出来事に怯え、激しく怒り退却します。最終的に彼は海(地中海)と聖なる麗しい山(エルサレム)の間に進み、そこで遂に滅ぼされます。
Ⅲ 歴史と預言が示すこと
①しかし、成功しない(17、27)
「しかし」11回、「…が」12回繰り返されてます。諸王が力を増し、周囲に幾度も攻めますが、いずれも勝利に至りません(12)。怒り・恨み・高ぶりから撃って出て、ある程度制圧しても、それさえしばしの間で、人の世はこれの応酬です。ヤコブ4:1-9を読んでください。
②人の怒りは空しい
怒りは「自分は悪くない」と思う者が抱き、それを示すことこそ正義だと思いがちです。しかし、私たちは何も悪くないのでしょうか。相手の非を責めたから、自分が正しくなれるわけではありません。人の怒りは神の義を実現しないのです(ヤコブ1:19-20)。
③堅く立って事を行う(32)
私たちはさばく者ではなく、さばかれる者に過ぎません。神はその行いにしたがって、さばかれる方ですが、あわれみ豊かな方です。軽んじてはなりません(ヤコブ2:12-13)。周囲に流されたり、惑わされず、この御方の前に堅く立って歩ませていただきましょう。
<おわりに> 苦難も賢明な者たちが錬られ、清められ、白くされるため」(35)の道具です。「しかし、その時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる」(12:2)と聖書は確約しています。騒ぎ立つ時代の中にあっても、揺るがされることなく神を仰ぎ、歩みましょう。(H.M.)
『私を力づけてください』 (ダニエル書 10章10節-11章1節) 2022.3.6.
<はじめに> 目の当たりにする出来事、入ってくる情報やうわさ、今後予想される状況と展開が、私たちをひどく落ち込ませ、活力も失せてしまう経験がありますか。本章のダニエルは正にそうでした。どうしたら再び立ち上がることができるでしょう。何がそのきっかけとなるでしょう。
Ⅰ そこに一人の人がいて(10: 1-9)
①キュロス王第3年に(10:1)
キュロス王の第3年(BC536)に、本章~12章の幻がダニエルに示されました。ダレイオス元年(BC538、11:1)にペルシャはバビロンを倒し、イスラエルの民に帰還の布告が出され、第一陣が祖国エルサレムへ出立しました。しかしダニエルはそれに同行しませんでした。
②喪に服すダニエル(10:2-4)
ダニエルは3週間喪に服します。エレミヤの70年の預言(9:2)が実現した喜びも束の間、「大きな戦」の幻に彼は打ちひしがれたのでしょうか。現実の厳しさを前に、彼は断食して祈りました。その後、彼はティグリス河畔で一人の人と出会います。
③亜麻布の衣を着た人(10:5-9)
それは異様な相貌(5-6)で、使徒ヨハネが見た方(黙示1:12-17)とよく似ています。ダニエルの反応(8-9)も、天からの光と声に打たれたパウロ(使徒9:3-4)や黙示録のヨハネ(1:17)と類似しています。これらから、この方が受肉前の御子なる神キリストだと分かります。
Ⅱ 人のように見える方(10:10-19)
①特別に愛されている人よ(10:11、19)
ダニエルはこの方の幻を見て、力を失い、打ち伏せられます。この方は彼に「理解せよ。立ち上がれ。恐れるな」と呼び掛けます。主が現れ、夢・幻を解き明かされるほど、彼は主に重用されていました。しかし、ここでは彼は力を失い、打ち伏せられています。
②手が私に触れて(10:10、16、18)
そんなダニエルに、この方は語るとともに、個人的に何度も触れて力づけられます。主イエスも近づき求める人たちにそうされました。重荷を負い、倦み疲れ、落ち込んでいる者のすぐ近くにおられ、親身に関わっている証しです。主に触れられたことがありますか。
③ことばは聞かれている(10:12)
列強国の興亡と「大きな戦」(1)に主の民が翻弄される幻を示され、ダニエルは今までの祈りは無駄なのかと恐れ悩みます。主は「最初の日からあなたのことばは聞かれている」と言われます。また、彼のことばのために、主は立ち上がり、彼のもとに来られました。
Ⅲ 終わりの日に備えて(10:13-11:1)
①天上と地上の戦(10:13)
13節の描写は天でペルシア側につく天使が主の行く手を妨げていたと見られます。地上だけでなく天でも戦いは繰り広げられています(エペソ6:12)。21日間はダニエルが喪に服した期間と同じです。彼の祈りはミカエルを動かし、主が彼のもとに来れるようにしました。
②なぜ来たか(10:14-11:1)
主が来られたのは、来たる「終わりの日」を彼に告げ知らせるためです。それは救い主の到来とこの世の終焉です。消沈するダニエルに主は再び触れて力づけられます。かつてバビロンを打ち、今ペルシアと戦い、後にギリシャにも立ち向かうと知らされます。
③神の武具を取りなさい(エペソ6:12-20)
眼前に起こる地上での出来事がすべてではありません。霊的な格闘も同時進行です。神に敵対する者の邪悪な攻撃に対抗するために、私たちに神は武具を与えてくださっています。主に力づけられて堅く立ち、すべての武具をつける時が来ています。
<おわりに> 突如、現実に世界中が戦争に巻き込まれる危惧を突き付けられていますが、それも主の幻に描かれたとおりです。恐れ惑い、打ちひしがれるのではなく、「勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」(ヨハネ16:33)と主は言われます。(H.M.)
『幻を理解せよ』 (ダニエル書 9章19-27節) 2022.2.27.
<はじめに> 「その街と石垣とは擾乱の間に建てなおされん」(文語訳)。51年前の年頭に、母教会でこの聖句が開かれました。このみことばと幻を受け取ったダニエルに「理解せよ」(23)と御使いガブリエルが呼び掛け、主イエスも「読者はよく理解せよ」(マタイ24:15)と語られています。
Ⅰ 祈りを始めたとき(19-23)
①御使いガブリエル(20-21)
若くして捕囚民となったダニエルも、この箇所では80歳代です。エレミヤの預言でエルサレム荒廃が70年(エレ29:10)と悟った彼は、数年でその時が満ちると知り、その実現を主に祈り求めました(3-19)。久しく祈る彼に、ガブリエル(8:16)がすばやく飛んで来て近づきます。
②悟らせようと(22-23)
ガブリエルは彼に一つのみことば(24-27)を伝えるために来ました。エレミヤの70年の預言の詳細を伝え、神の意図(24)と計画の型と段階(25-27)が示されています。神はご自分の友、特別に愛する者(23)にそのことを明かされます(マタイ13:11)。
③賢明にさせようと(22-23)
みことばを伝え、悟らせるのは、大切なことを示し、気付かせ、理解させるためです。祈りとみことばに心を向ける者は、表層的な理解だけでなく、その奥に隠されている神の御計画と御旨を注意深く見つけ出し、真理を洞察するようになります。
Ⅱ 一つのみことば(24-27)
①70週の幻(24)
エレミヤの70年の預言に基づき祈ったダニエルに、イスラエルとエルサレムに向けて、神は70週を定めていると語られます。人の背き・罪・咎の終結とともに、神の義と真実と聖を確立するためです。民と都の赦しと回復だけでなく、その先にある完成まで示されます。
②幻が示す型(25-27)
ここで70週が、エルサレム再建命令から油注がれた者・君主が来るまでの7週、62週の苦しみの期間の終わりに油注がれた者は断たれ、破壊・荒廃・反逆の最後の一週を経ると描かれます。「週」は7を単位とする一巡りで、7倍と解することが自然です。
③油注がれた者と荒らす者
油注がれた者(ヘブル語:メシア、ギリシャ語:キリスト)については、来たる救い主イエス・キリストを指すと見てよいでしょう。しかし、苦しみの期間(25)や次に来る君主(26)、荒らす者(27)が何時の何事/何者を指しているのかについては様々な意見があります。
Ⅲ 今、あなたを賢明に
①定められている(24,26,27)
三度「定められている」と神は言われます。70年で終わらないことにダニエルは衝撃を受けたかもしれません。しかし、永遠に続くわけではありません。神は終わりを明確に定めて、そこに向けて着実に段階を経て進められます。神はカウントされる方です。
②真っ直ぐではない(25-27)
勧善懲悪の物語にも波乱はあります。わかりやすくとんとん拍子に物事が進むことの方が稀です。権力者(角)同士が争い、悪がはびこり、苦難と混乱が人々を悩ませ、正義と平和が踏みにじられる現状を見て、神の義と真実と聖を投げ捨ててはいけません。
③そしてついには(27)
聖書全体に描かれている神のシナリオの大きな流れを知り、そこから私たちは神の御計画と真実さに気付いているでしょうか。ルカ18:7-8で主イエスもそのことを確約されています。問題はそれが実現するとき、地上に、私たちの内に、信仰が見られるかどうかです。
<おわりに> 主の御計画は着実に実現し、信じる者はそれを見て、神の真実さを賛美します。地上でそのすべてを見られるかどうかは分かりませんが、神の御前において必ずそうさせてくださいます(へブル11:13)。みことばにより、賢明にならせていただきましょう。(H.M.)
『あわれみと赦しは、主にあり』 (ダニエル書 9章1-18節) 2022.2.20.
<はじめに> 「祈ってください」「お祈りします」ということばを、クリスチャンはよく使います。それが単なる挨拶になってはいないかと自問します。自分のために祈ることとともに、私たちは周囲の方のために親身になって祈れているでしょうか。この箇所のダニエルの祈りはその一つの模範です。
Ⅰ 主のことばによって
①預言者エレミヤのことば(1-2)
ダレイオス元年(BC538)はダニエルらが捕囚(BC606)から68年、エルサレム陥落(BC586)から48年です。彼は捕囚と荒廃の期間が70年で満ちるとの主のことばを、預言者エレミヤの文書によって悟り(エレミヤ25:11-12、29:10)、彼は主に実現を祈り求めます(3-19)。
②読む人ダニエル
ダニエルはどのようにしてエレミヤの文書を手に入れたかは定かではありません(エレミヤ36:32、51:59-64)。後に続く彼の祈り(3-19)は、モーセの律法(申30:1-10)やソロモンの神殿奉献の祈り(Ⅰ列王8:46-53)が土台になっています。これらに親しんでいたのでしょう。
③予め語られる神
神は御計画をそのしもべ(6,10,11,17)に予め語られます(創世記18:17)。聞く者に備えをさせ、事が実現した時に神こそ偉大で真実な方、時とこの世を支配される方であることを明らかにされます。神は、今も聖書を読み、そこに神を見出そうとするものに語られます。
Ⅱ ダニエルの祈り(3-19)
①私の主、私の神(3-4,18)
切なる祈りは態度や姿勢にも表れます(3)。また祈る相手を正視し、どんな御方と心得るかが土台です。大いなる恐るべき神は、命令を守る者には契約を守って恵みをくださる方(4)で、あわれみと赦しは神にあります(9,18、詩篇130:4)。あなたはどう捉えていますか。
②イスラエルはみな(5-14)
しかし、神の民イスラエルは、主のことばから外れ(5,11)、聞き従わず(6,10,11,14)、逆らい(5)、罪を犯し悪を行いました(8,15)。それ故、神はのろいの誓い(11)と災い(12-14)を彼らにもたらされました(レビ26章、申命28-30章)。70年間に及ぶ捕囚がそれです。
③あなたの名がつけられている(15-19)
しかし同時に、神は回復の道も示されます(申命30:1-10,Ⅰ列王8:46-53)。それは彼らの正しい行いによるのではなく、神の大いなるあわれみによります(18)。エルサレムとイスラエルの民には、御名がつけられ、主ご自身のために赦し救ってください、と祈ります。
Ⅲ ともに祈る者として
①「私たち」と祈る
ダニエルは「私たち」と31回繰り返します。彼は聖書中でも類まれな義人で、むしろ諸王と先祖たちの罪の刈り取りを負わされた側とも言えます。しかし彼は自分もイスラエルの一員として、我が事として罪を告白し、神のあわれみによる回復を心から哀願します。
②祈る者の課題
私たちは神と対等に語らい、取引できる者では到底ありません。ですから、神に祈るとき、首を垂れてへりくだるしかないのです。しかし、「私は悪くない」と主張することが何と多いことでしょうか。まして、他人の罪を我が事として祈るなど、易々とはできません。
③キリストの心で
ダニエルはイスラエルの民の罪を共に負って祈りました。それは主イエス・キリストの心に通じます。キリストは多くの人の罪を負うためにご自分をささげ(へブル9:28)、涙をもって神に祈りと願いをささげ(へブル5:7)、その模範に倣うようにと招かれます(へブル13:13)。
<おわりに> 「主はこれを見て、公正がないことに心を痛められた。…とりなす者がいないことに唖然とされた。それでご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を支えとされた」(イザヤ59:15-16)。主の心をもってとりなす者が、主の御計画をこの地にもたらします。(H.M.)
『終わりの時の幻』 (ダニエル書 8章15-28節) 2022.2.13.
<はじめに> 7章から2年後、バビロニア帝国ベルシャツァル王第3年(BC551)に、ダニエルはもう一つの幻を見ました。彼は幻の中で、エラム州スサの城、ウライ川のほとりにいます。ウライ川はチグリス・ユーフラテス川の下流三角州にある支流もしくは運河用水と思われます。
Ⅰ もう一つの幻
①一匹の雄羊(3-4、20)
2本の角を持つ雄羊は、短い角はメディア、長い角はペルシャの王です(20)。後者の方がやがて優勢になりました。川岸に立ち、西・北・南に突進するのは、この国の侵攻の動きです。メディア・ペルシャ帝国は、バビロンを倒してBC539-331を支配します。
②一匹の雄やぎ(5-8、21)
そこに際立つ1本の角を持つ雄やぎが西から飛び回り来て川岸に立ち、雄羊に突進し打倒します。雄やぎはギリシャ帝国、際立つ角はアレクサンドロス大王(BC335-323治世)で、ペルシャはじめ中近東を制覇した最中に急死し、4人の将軍が帝国を分割します。
③小さな角(9-12、22-25)
小さな角は横柄で狡猾な一人の王(23,25)で、彼は南・東・麗しい国(9)に向かいます。シリアのアンティオコス4世=エピファネス(神の顕現の意味、BC175-164治世)は、ユダの神殿にゼウスを祭らせ、律法で禁忌されている豚をささげる屈辱を与えます。
Ⅱ 幻の意味
①呼び掛ける声(15-17)
ダニエルは幻の意味を理解したいと願うと、ウライ川の中程から声が響きます。帝国と諸王が行き交う所に、姿は見えなくてもすべてを知り治めておられる方が確かにおられます。この方は、ダニエルの願いを聞かれ、ガブリエルを遣わし、幻を解き明かされます。
②悟れ、見よ(17-25)
この幻はダニエルのいるBC551年からは遥か先の事です。永遠の神は備えさせるために将来の幻を見せることがあります。出来事や動きの奥に隠されている真理を悟ることが求められます。対照的な姿は真理を地に投げ捨て、身勝手を行う角(王)に見られます(12)。
③幻を秘めておけ(26)
この幻は真実ですが、今は秘めておくようにと言われます。すべての人が神を知り、その計画を素直に受け取るとは限りません。幻を見た者が高ぶる危険もあります。幻が真実であることは、時間が進むほどに明らかになります。心に納めて思い巡らし続けるのです。
Ⅲ 終わりの時
①終わりの時の幻(17,19,26)
時は漫然と繰り返し進むのではなく、終わりに向かって歴史は着実に進んでいる、これが聖書の歴史観です。ダニエルの見た幻は、この地上で行われる人の「憤り」(19)の業の行く末であり、神の定めた計画が実現される描写です。この両方が終わりに向かいます。
②歴史に働く神(Ⅰコリント14:33)
歴史(History)をHis Story(神の物語)という人があります。歴史の中に神は働かれることは本書の鍵句4:25の示すところです。ですから、過去の歴史から神が如何なる方でどう対処されるのかを汲み出せます。それを今と将来に適用するのが神への信仰です。
③その後、起きて(27)
壮大な歴史の行く末を幻で知らされたダニエルは数日寝込みますが、その後起きて普段の生活に身を置きます。驚きと困惑を抱えながらです。仕えている王の行く末も大まか知りつつ、今自分に与えられた務めを果たすことは、幻を見た信仰者に相応しいことです。
<おわりに> 壮大な歴史絵巻の中で、神の眼差しは麗しい国(9)と聖所(11,13,14)と聖なる民(24)を見据えています。私たちが苦難・困難を通るときにも、この方は私たちを忘れてはいません。この世を歩みながら、私たちは神を仰ぎ、神を知り、神を信頼して歩むのです。(H.M.)
『夜の幻』 (ダニエル書 7章1-18節) 2022.2.6.
<はじめに> 9-11月に10回にわたってダニエル書の前半を見て来ました。1-6章にはダニエルたちの物語でしたが、後半の7-12章はダニエルが見た幻が綴られています。本書の概要は、聖書プロジェクト 「ダニエル書 概観」 https://www.youtube.com/watch?v=4NhD0vZ9yPcにあります。
Ⅰ ベルシャツァルの元年(1-3、BC553年)
①ベルシャツァル王(5章)
ダニエルが最初に仕えたネブカドネツァル王は専横的でしたが、自らの愚かさを認めて悔い改めもしました(4章)。しかし、その孫ベルシャツァル王は高慢不遜で独裁的でした。5章では彼の最期が描かれていますが、7章はその14年前、彼の即位直後でした。
②王座を巡って(年表参照)
ネブカドネツァル亡き後、身内同士で王権を巡り、血で血を洗う状況が続いていました。やがて王座に就いた父ナボニドスの摂政としてベルシャツァルは実権をふるいました。ダニエルは比較的近くでこの状況を見、行く末を案じていたのでしょう。
③風が大海をかき立て(1-3)
風がぶつかり合い、海が逆巻き、その中からそれぞれ特徴のある4頭の大きな獣が上がって来る幻をダニエルは見ました。その風は天から吹いていました。見える現象の背後には、天的な神の干渉と支配があります。
Ⅱ 四頭の獣
①四頭の獣(4-8、17)
鷲の翼をつけた獅子、口に牙を持ち横たわる熊、4つの頭と翼を持つ豹、大きな鉄の牙を持ち10本の角を持つ不気味で強い獣が次々現れます。ダニエルは傍らに立つ者に尋ねると、彼は「これら4頭の大きな獣は、地から起こる4人の王である」(17)と告げます。
②第四の獣(8、19-21、23-25)
最後の獣は10の角にもう1本角が生え、3本が抜け落ちます。この国から立つ10人の王の後に現れる王は3人の王を打ち負かし、いと高き方に逆らうことばを吐き、聖徒たちを悩ませます。この小さな角は反キリストとその国で、聖徒たちに戦いを挑みかけます。
③悩み怯えるダニエル(15)
この幻は2章の巨大な像と似て、これから起こる列強国の興亡を示し、その後確立される神の国を示すものです。ダニエルはすでにその幻を解き明かしていましたが、今回の幻には悩み怯えます。戦いを挑む者の手に、聖徒たちが委ねられているからです(21,25)。
Ⅲ 永遠の主権
①年の経た方と人の子のような方(9-14)
四頭の獣の後に、ダニエルは幻の新しい局面を見ます。御座に着く「年の経た方」によるさばきが始まり、第四の獣は滅ぼされ、他の獣は主権を奪われて定めの時を待ちます。さらに人の子のような方が来られ、年を経た方はこの方に主権と栄誉と国を与えます。
②確かめようと(15-19,26-27)
「いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者にお与えになる」(4:25)ことを知っていたダニエルは、この一連の幻もそうなのかと傍らに立つ者に確かめます。神の国の真理がこの世の現実を支配していることを、聖書と御霊で私たちも確かめるのです。
③すべての主権は聖徒たちに(27-28)
最初から勝利と祝福・喜びへ一直線なら、受け取るのは容易ですが、困難試練が巡り来ることもこの幻は示します。だから動揺し、悩み怯えます。しかし、そこでひるんではなりません。敵対する者は必ず滅ぼされ、主権と権威はいと高き方の聖徒に与えられます。
<おわりに>神を信じる聖徒たちへの戦いは現在進行形です。「しかし、それは『年を経た方』が来られるまでのことであり、いと高き方の聖徒たちのためにさばきが行われ、聖徒たちが国を受け継ぐ時期」(22)が来るまでです。夜の幻は今を耐え忍び、後に希望を抱かせます。(H.M.)
『ぼく、持ってるよ』 教会の7つの本質③賜物分与
(ヨハネ6章1~14) 2022.1.30.
<はじめに>
「教会の7つの本質」シリーズ第3回目「賜物分与」(Empowering)
聖書の中で有名なストーリー「5つのパンと2匹の魚の奇跡」or「5000人の給食」
4つの福音書全てに記されている唯一の奇跡
(参照マタイ14:15~20、マルコ6:30~44、ルカ9:10~17)
まず最初に、4福音書の記事から状況の背景も含めて全体像を見ていきましょう。
Ⅰ 3人の人物
①ピリポ(5~7)
12弟子のピリポ。
理由6節「ピリポを試すため」、彼はこの地域出身として状況を把握していた。
現在の教会に置き換えると、「常識ある一般クリスチャン代表」?
②アンデレ(8~)
アンデレは、教会に置き換えると「信徒リーダー」「役員」
少年の持っていた「5つのパンと2匹の魚」をイエス様のところに持って行った。
大切な役割
③少年(9)
たまたまいた子供?
5つのパンと2匹の魚、自分の持っている僅かなものを差し出した。
Ⅱ イエス様の奇跡の目的(6:5~)
①群衆たちのため
群衆の現状と必要を知っておられ、憐れまれた。
十字架が近づいている。
ご自分がメシアであり「いのちのパン」であることを示す
②弟子たちのため
まもなくご自分が十字架にかかり弟子たちがご自身の働きを継承する。
必要不可欠な信仰と祈りの模範を残された。
③わたしたちのため(3)
キリストの弟子であるわたしたちにも必要
この奇跡から、わたしたちに与えられている賜物について
Ⅲ 私たちのすること(6:25~32)
①必要を認識する 現状よりも必要優先
②常識的な考え、方法では主の奇跡を体験できない。
③持っているもの「賜物」を自覚し差し出す。イエス様に従い手伝う
<おわりに>
イエス様は私たちに、ご自分の働きを手伝ってほしい思っておられる。
賜物は神さまの働きのために与えられ委ねられている。
少年のように「ぼく持ってるよ!」
結果を見がちだが、イエス様はプロセスを大事にされている。
少年が差出し、弟子たちが配ったことが大事 私たちも! なぜなら、
「イエスはご自分が何をしようとしておられるか知っておられる。決めておられるから。」
(M.M.M)
『神に喜ばれる礼拝を』 (へブル人への手紙 12章25-29節) 2022.1.23.
<はじめに> より良い礼拝のために、場所、時間、内容やスタイル、雰囲気や分かりやすさなど、論じるポイントは多岐です。しかし、礼拝(奉仕)は神に向けて、神のためになされることを忘れてはなりません。神に喜ばれる礼拝 (28)は、神が如何なる方かを知ることから始まります。
Ⅰ 語っておられる方(25)
①昔から今に至るまで(1:1-2)
神は古から今に至るまで人に語り続けておられます。直接人にご自身を顕現されて語られるだけでなく、御使い・夢・幻・不思議と奇蹟・歴史の出来事を通して語られます。書かれた律法や預言などとともに、終わりの時には御子イエスを世に遣わして語られます。
②拒まないように(25)
シナイ山麓で警告を受けた民の姿から、私たち自身の態度も吟味しなければなりません。私たちに与えられる勧告と警告を拒むとき、どういう心境でしょう。「自分は大丈夫、わかっている、うるさいな」などの根底には誤解と高ぶりがあり、神はそれを見過ごされません。
③語り手を知る
語られる事柄以上に、語られる方への私たちの理解と信頼が問われています。私に語られる御方が聖い愛と真実に満ちた英知に富む方であると信頼できるなら、たとえ語られることがすべて理解納得できなくても、そのことばを受け取り、従えるのではないでしょうか。
Ⅱ 揺り動かす方(26-28)
①天地は消え去る(26-27、マタイ24:35)
「あのとき」はシナイ山が激しく震えた律法賦与(出エジプト19:18)の時です。「もう一度…」はハガイ2:6の終末的預言です。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません」と主も言われます。その日は確実に近づいています。
②残るもの(27-28)
外見がどうであれ、一瞬の地震でその建物の真価が露わになります。崩れたものは取り除かれ、耐えたもののみ残ります。天の御国は永遠不朽です。その永遠にふさわしい真価を持つ者のみ、御国を受けます。そのために神は天地万物を揺り動かされ、試されます。
③その日は火とともに現れ(Ⅰコリント3:13)
私たちは現世しか見ていませんから、人が築き上げたものをこの世の尺度で判断します。しかし聖書は「その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです」と語ります。「私たちの神は焼き尽くす火なのです」(29)。
Ⅲ 焼き尽くす火(28-29)
①さばきの火
聖書で「焼き尽くされる」多くは、逆らう罪人への神の最終審判です。神は事前に警告を与えて、悔い改めるように促されますが、それを拒み続けるなら処罰を免れられません。このことから、神はどんな御方だと言えるでしょう。
②きよめる火
律法では、礼拝者がささげた全焼のいけにえは焼いてすべて煙にします(レビ1:9他)。礼拝者のすべては神のものであることの表明で、煙は祈りの象徴です。目に見える朽ち行くものを神の御前にささげるとき、火によって焼き尽くされ、聖なるものに変えられます。
③神に喜ばれる
神は、私たちを揺り動かされない御国に迎え、永遠にともに住まい、ともに生きることを切望されています。この世に生きる私たちを、やがての御国に相応しく整えるために、罪を赦すためにイエスの血を、罪をきよめ天的な聖いものに神は変えてくださいます。
<おわりに> 私たちの歩みは天的、霊的な御国に向かって進んでいます。目に見える地上に慣れ親しんだ私たちを、揺り動かされない御国に相応しく整えようと、神はあらゆる機会を用いて語り掛け、働き掛けてくださいます。感謝しつつ御前に進み出ようではありませんか。(H.M.)
『近づいているのは…』 (へブル人への手紙 12章14-25節) 2022.1.16.
<はじめに> この箇所には競争の描写を用いて、私たちが辿る歩みを描いています。それは、タイムレース、順位争いではなく、耐久レースのようです。走り始めた全員に、完走が期待されています。そのための伴走者からの助言とエールとして受け取らせていただきましょう。
Ⅰ 完走を目指して(1-13)
①走り出した私たち(1-2)
私たちは、前に置かれている競争(走路)にエントリーした選手に例えられています。イエスを信じることから始まり、イエスのようになることを目指す信仰の走路です。指導者であり模範でもあるイエスに倣い、注目して、神の御前に立つことを目指して走り出しています。
②整えられるため(3-11)
一歩踏み出した私たちの現状と、目標であるイエスの姿には隔たりを感じます。うまく行かない現実に打ちひしがれるかもしれませんが、道を間違ったのではありません。神が私たちをご自分の聖さへと、義という平安の実を結ばせるための訓練の場でもあります。
③真っ直ぐに(12-13)
私たちは自分勝手に歩んで、弱り衰えた部分に目を背けて来たのではないでしょうか。真っ直ぐ主に信頼し、祈り求め、導いていただくことから始めましょう。主を素直に呼び求める環境に自分を常に置くことも大切です。自分中心からイエス中心に癒されるためです。
Ⅱ 完走への助言(14-17)
①追い求めなさい(14)
信仰の歩みは孤独ではありません。主を仰ぐ仲間と励まし合い、協力することはもちろん、私たちを眺めている人たちも招き入れるためにも良好な人間関係を追求します。同時に、主の御前に居心地の良い関係を保ちます。やがて主の御前に立つためには当然です。
②元に戻らないように(15)
走り出した者を主が破門にすることはありません。神の恵みは絶大です。しかしそれを拒み捨てることは不可能ではありません。まとわりつく罪を放置すると、苦い根が生え出て心中にはびこり悩ませ、周囲にも悪影響を与えます。不退転の表明は前進の力となります。
③すり替えないように(16-17)
目先の利得のために永遠の祝福を手放した悪例がエサウです(創世記25:33-34)。彼は手放した祝福を取り戻すことはできませんでした(創世記27:36-38)。賢く立ち回ったつもりが、愚かになったのです(ロマ1:21-25)。神の愚かさは人よりも賢いのです(Ⅰコリ1:25)。
Ⅲ 完走に近づいている(18-24)
①シナイ山麓の民(18-21、出エジプト20:18-21)
ユダヤ(へブル)人が神の民である自覚と誇りは、神の律法を受けたからです。シナイ山上でモーセが神から律法を受け取る間、民は山麓で待っていました。20節の禁止命令(出19:20)から、神から直接語り掛けを受けることを恐れ、仲保者モーセを求めました。
②近づくゴール(22-24)
私たちの走路の先には、ゴールが見えているでしょうか。神の御住まいである天上のエルサレムには、無数の御使いと神の嗣業を受け継ぐ聖徒たちが喜び集い、すべてを公正にさばかれる神と、その御前に立つ仲保者イエスが、私たちの到着を待っています。
③神と語らう民として
神の御声を聞き、御心を知ることは、難しいこと、畏れ多いことでしょうか。救い主イエスによる新しい契約で、私たちは神と顔と顔を合わせ、直接語らうことができるようになりました。モーセの時代の民のように、恐れおののいて退いてはなりません。
<おわりに> 私たちの信仰の歩みには、苦しいこと、辛いこともあります。その中で、主イエスの御声を聞き、語らいながら進むのです。やがて顔と顔を合わせて、直接語らい、主の御顔の笑みを仰ぎ見るその時が、確実に近づいています。(H.M.)
『愛する者を訓練する』 (へブル人への手紙 12章4-13節) 2022.1.9.
<はじめに> 私の父が10年ほど前に不意に転倒し、右膝半月板骨折で入院しました。帰宅に向けてのリハビリをする中で、父が笑いながら医師に言いました。「患者が金を払って、こんなに痛い目に遭わされるなんて、こっちがお金をもらいたいくらいだ」と。
Ⅰ だれでも苦しい
①訓練のイメージ
僅か5-11節に9回「訓練」を記されています。軍隊などが連想されます。あるいは「しつけ」「懲らしめ」と訳せば、親子・主従関係が思い浮かびます。ある目的を果たすために能力を十分に発揮するために、普段からその能力を地道に鍛え、整え、伸ばす営みです。
②歓迎されない(11)
訓練に当てはまることは辛く苦しく、喜ばしいものではありません。避けたり、手抜きもできますが、そうすると効果も表れにくくなります。ですから、訓練を受ける者には覚悟が必要です。私たちを訓練に向かわせる動機付けには、どんなものが考えられますか。
③訓練の分野(1-4)
罪との戦いに抵抗し、勝ち切るための訓練です。過去の罪を主イエスの十字架によって赦された者に、罪はなおもまとわりつき(1)、反抗を仕掛け(3)、血を流させいのちを奪おうと襲い掛かります(4)。罪なき神の子イエスでさえ、この戦いを耐え忍ばれたのです(2-3)。
Ⅱ 愛するが故に(5-10)
①神の子どもだから(5-8)
神は、主イエスを信じた者に神の子どもとされる特権(=本当の子⇔私生児(8))が与えられます(ヨハネ1:12)。いのちと立場を与えた子を愛するが故に、父が家族に相応しくしつけるのは当然です。「神はあなたがたを子として扱っておられるのです」(7)
②父と子(9-10)
子どもは未熟ですが、自分の弱さ・乏しさを認め、素直に指導を受ける謙虚さも持ち、指導者を尊敬して従います。肉親・世の指導者は自分の経験と価値観で訓練を与えますが、霊の父である神は私たちを愛し、その益の実現のために訓練します。
③誤解しないように(5-6)
私たちは「自分は分かっている」と言いがちですが、自分のことを冷静に見ていません。また、苦しみに遭うと神を疑い、のろい、神から背を向けて自分勝手にしようとします。これがまとわりつく罪です。しかし神はなおも私たちを愛して、訓練して引き上げようとされます。
Ⅲ やがて実を結ぶ(10-13)
①ご自分の聖さに(10)
私たちには自分をよく理解し、愛してくれる指導者が必要です。罪は神よりも自分を高ぶらせ、神より自分を優先します。今までこの原則で生きて来た私たちを、子として迎えた神は、神を信頼し、愛し従うよう訓練されます。ご自身にある聖い愛を持たせるためです。
②義という平安の実(11)
訓練の効果をすぐに求めると、失望します。「後になると」は訓練の先にある確実な将来です。神が語り掛けを聞き、それを愚直に信頼して、不安・恐れを抱く時にも忍耐し、神に従い続けると、神の善の中に居るという自覚と平安がその人を包みます。
③いざ訓練へ(12-13)
まず弱り衰えた箇所を見つけ、そこを神に従って動かすことから始めましょう。最初はうまく動かせず、可動範囲も限られているかもしれませんが、やがて改善します。また、躓きや転倒の元となるものを片付け、神とともに歩むにふさわしい環境を整えましょう。
<おわりに> 歯を食いしばってリハビリに励んだ父はやがて無事退院し、ほぼ以前と同じ生活に戻れました。治療費は払いましたが、願っていた実家での生活の日々を手に入れ、教会にも再び通えるようになりました。主はその訓練を受ける者に、必ず実を結ばせます。(H.M.)
『前に置かれている…』 (へブル人への手紙 12章1-6節) 2022.1.2.
<はじめに> ツアーに申し込むと旅程表が届き、旅の概略がつかめます。年頭は、今年そしてこれからを展望する機会です。どんなことが予想されるでしょうか。予想外の展開もあり得ます。聖書は私たちの人生の旅程表を提示しています。
Ⅰ 駆け抜けよう(1)
①置かれている競争?
他人と優劣順位を競うのではなく、自分に与えられたコース・持ち場・馳場(文語訳)です。そのコースを私たちの前に置かれたのは神様で、一人ひとりに独特なルートなので、他人と比べようがありません。動機と意図を示す励ましのことば(5-6)も添えられています。
②悩まされる課題
前進を阻む材料は多種多様です。あれこれと心配して、思い煩いと重荷を抱え込んではいないでしょうか。それらを手放し(マタイ6:31-34)委ねて(Ⅰペテロ5:6-7)、身軽になりましょう。また疲労から来る倦怠も襲い掛かります。主のことばによって断ち切りましょう。
③忍耐をもって
私たちの人生は、新年を迎えて振出しに戻ったのではなく、次の局面に入ったのです。長い旅路ですから、調子のよい時ばかりではありません。それでも投げ出さず、あきらめずに駆け抜けるには、克己忍耐が必要です。それをどうして保てるでしょうか。
Ⅱ 注目しよう(1-3)
①多くの証人たち(1)
私たちは前人未到に挑んでいるのではありません。雲のように取り巻く多くの経験者・証人が11章に列挙されています。彼らは「約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です」(10:35-39)と声援を送っています。先達がいることは励ましに繋がります。
②信仰の創始者(Author)、完成者(Perfecter)(2)
先達の中でもひときわ輝くのがイエスです。この方は父なる神の救いの御計画と約束に従われ、最後まで全うされた方です。また私たちを造り、その内に信仰を生み出し、育み、完成まで導くと約束されています。イエスご自身もその道程を駆け抜けられた御方です。
③耐え忍ばれた方(2-3)
イエスは神の御子だから楽勝だったのでしょうか。イエスの辿られた道は謙遜と苦難とに満ちています。神の御計画に従い、人となって私たちの間に住まわれ、神の御子なら味わう必要のない辱めと苦しみを受けつつ忍耐された姿は、悩み苦しむ者の励ましです。
Ⅲ 突き抜ける喜び
①罪人たちの反抗(2-3)
人を罪から救い、神の子どもとして迎える御計画の実現を阻む者の反抗はすさまじく、突き進もうとする御子イエスを十字架に追いやり、血を流させました。加担した罪人たちにとってそれは、実は自分たち自身に対する反抗でした。
②走路の先にある喜び(2)
しかし、神はイエスを甦らせ、彼は神の御座の右に就かれました。神からの栄誉、信任と全権委任の証しです。この光栄と喜びを待望して、イエスは前に置かれたコースを完走されました。イエスの姿は自分の馳場を駆け抜ける私たちの希望であり、喜びです。
③イエスから目を離さないで(2)
私たちの辿るこれまでの道筋に、ともに歩まれたイエスの足あとを見出しているでしょうか(13:5)。そのイエスがこれからの歩みにも共に歩まれます。行く道筋にはイエスの足跡が必ず見出せます。その足跡をたどれば、必ず完走できます。
<おわりに> 新年を思い巡らし、思い描くものは人それぞれでしょうが、聖書は私たちに共通の一枚の旅程表を提示します。途中には戦いや忍耐を要する場面もあるでしょうが、多くの証人たちが、私たちの主イエスが先駆けています。私たちもそれに続こうではありませんか。(H.M.)
『おことばのとおり』 (ルカの福音書 2章21-40節) 2021.12.26.
<はじめに> クリスマスの物語に御使い・夢・星など超自然的な現象が大切な役割を果たしています。同時にキリスト誕生の一連の出来事は、神の約束と聖書の預言が成就です。まさしく、クリスマスは神ご自身が様々な方法で関わり、この事を実現されました(へブル1:1-2)。
Ⅰ 既に語られていること
①律法の定め(21-24,27)
モーセの律法(22)は神のことばとして、ユダヤ人はこれを読み、聞き、守っていました。イエスの両親も、幼子イエスに割礼を施し(21)、きよめの期間(=40日)を守った後(22)、幼子を主に献げる証しとしてのいけにえ献納にエルサレムの神殿を訪れました(23-24,27)。
②律法にしたがってすべてのことを(39)
これらの律法の規定は、生来罪深い人間が神の民・家族の一員とされるためです。神の御子には本来不要なのに、人となられた故に律法の下に服され、イエスの両親はそれを忠実に成し遂げました(39)。イエスは律法を成就するために来られた方です。
③すべてが実現します(マタイ5:17-18)
私たちは聖書を手にし、読めます。それらは既に語られた神のことばとして、今も私たちに語り掛けます。神の働きと計画は聖書に記されたとおりに進み、実現します。それ故に、神が何を願い、どのように進まれるかを知るために、私たちは聖書を読むのです。
Ⅱ 個人的な導き
①二人の老人(25-38)
幼子イエスを伴って神殿を訪れた両親は、二人の老人シメオンとアンナに相次いで出会い、それぞれが幼子について語り、神を賛美します。この出会いは偶然でしょうか。両親が律法にしたがって行動していた中で、この出来事は起こりました。
②イエスへと導く
羊飼いには天の御使いが(10-12)、東方の博士たちには星が(マタイ2:1-12)イエスへと導きました。シメオンは「聖霊に導かれて」(27)、アンナは「祈りと断食をもって神に仕え」(37)とあります。それぞれ個人的な導きと語り掛けによって、この幼子と両親と出会いました。
③待ち望む人に(25,38)
この二人は長寿なのは、イエスに会い、イエスを証しするためでした(26)。主の御言の実現を待ち望んでいたからです。聖書を読むとき、聖霊の助けにより、また聖霊に導かれた人を通してイエスを知り、出会えます(ヨハネ14:26)。主のことばは必ず実現します(1:45)。
Ⅲ 語り掛けを受けて
①驚きつつ理解する(29-33、38)
両親は既にイエスについて啓示を受けていましたが、シメオン・アンナが幼子イエスについて語ったことで驚きます。この幼子が異邦人を照らす光(32)であり、万民の前に備えられた救い(30-31)、主の民に慰め(25)と贖い(38)をもたらすと、両親は理解が深めました。
②人の心の試金石(34-35)
マリアには悩ましいことも告げられています。イザヤ53章、詩篇22篇の受難のメシア像と重なります。イエスが、反抗する人にはつまづきの石(イザヤ8:14)、信じる人には踏み台の石(イザヤ28:16)となるからです。イエスへの向き合い方がその心の試金石となります。
③聞く耳のある者は聞きなさい(ルカ14:35)
主から与えられる御言には、素直に受け取れるものだけではなく、不可解や悩ましいものもあります。人々が耳に心地よい話を聞こうとして、真理から耳を背ける時代が来ると聖書は警戒します(Ⅱテモテ4:3-4)。厳しい御言の中にも祝福があると信じていますか(34)。
<おわりに>主が語られたことは必ず実現します。年頭に、折々にいただく御言もそうです。最初に受け取った時とその後では、その御言が心に語り掛ける内容や視点に変化と深化があるはずです。「主のみことばのとおりです」と体験し、告白するお互いでありたいものです。(H.M.)
【ルカの福音書 2章10-12節】
10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。
見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。
この方こそ主キリストです。
12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。
それが、あなたがたのためのしるしです。」
『救い主が生まれた』 (ルカの福音書 2章10-12節) 2021.12.19.
<はじめに> クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う時ですが、世にいう生誕祭とは異なります。誕生したイエスが成長して、やがて救い主になったのではありません。聖書は「救い主がお生まれになりました」(11)と言います。イエスは生まれたときから救い主です。
Ⅰ 人は救い主を求めている
①救い主が待ち望まれる
人間社会は常に悩ましい問題課題に取り囲まれて喘ぎ苦しんでいます。それが救い主への期待と叫びとなります。それに応えようと立ち上がり、彼らの支持を得る者が、この世を変革するヒーロー/ヒロインとなります。時代は常にこのような救い主を求めています。
②理想の救い主
人々が救い主に何を求めているでしょう。卓越した能力をもって問題課題を超越する圧倒的な勝利者でしょうか。弱点など何一つ無い完成された姿をもって私たちの前に現れ、それが永続するならば、どんなにか願わしいことでしょう。
③夢のまた夢
「彼こそ私たちの救い主」と見られた者は、歴史上に各所に現れました。しかし、それはみな局所的、一時的、限定的で不完全な存在で、みな去って行きました。私たち人間が待ち望む完全な救い主の登場など、決して実現しない空しい幻想なのでしょうか。
Ⅱ 神は救い主を与えられる
①救い主が生まれた!(11)
約2千年前、主の使いが現れてこの一大スクープを告げます。人類歴史の中に、すべての人のために救い主を、神が与えられました。「この方こそ」人々が待望した真の救い主です。「救い主が現れた」ではなく、「救い主が生まれた」とは、どういうことなのでしょう。
②飼葉桶に寝ているみどりご(12)
救い主は完成された成人ではなくみどりごとして現れました。一番無力で弱く、だれよりもケアを必要とする存在ですが、いのちに満ち、成長と変化が期待でき、愛を引き出させる存在です。救いは競って獲得保持する立場ではなく、救いを与える神との親子関係です。
③大きな喜びの知らせ(10)
神は、ご自身の約束どおりに、無条件で「この民全体(all the people)」に救い主を与えられました。救い主イエス・キリストの誕生はこの上ない喜びで、世界中が祝うのも当然です。飼葉桶に眠るみどりごイエスに、この喜びが込められています。
<おわりに> 「あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それがあなたがたのためのしるしです」(12)。クリスマスを祝うとは、救い主イエスを見つけることです。救い主のいのちと神の無限の可能性は、見つけたその人のものとなります。(H.M.)
『恐れずに迎えなさい』 (マタイの福音書 1章18-25節) 2021.12.12.
<はじめに> クリスマスは救い主イエスの誕生を祝います。今や世界中で祝われるクリスマスです。救い主の誕生当時、それを知った人々は歓喜して歓迎したでしょうか。救い主がもたらす救いが実現するとき、それに立ち会った人々は感動して感謝を表したでしょうか。聖書に事実を見ましょう。
Ⅰ イエス誕生の物語
①婚約中の発覚(18-19)
ヨセフとマリアは婚約中でした。ユダヤでは婚約期間から夫婦と見なします。その間にマリアは、御使いが彼女に告げたとおり(ルカ1:26-38)聖霊によって身ごもります。やがてそれをヨセフも知り、彼はマリアを法廷でさらし者にするよりは、内密に離縁しようと考えます。
②主の使いが夢に(20-23)
ヨセフがこのことを思い巡らしていたのはなぜでしょうか。その中で、彼に主の使いが夢に現れ、恐れずにマリアを妻として迎えるように促します。そして、マリアの懐妊は聖霊によるもので、生まれる子は男の子、名をイエス(=主は救い)とするように告げます。
③決心と行動(24-25)
眠りから覚めたヨセフは主の使いが命じたとおり、マリアを自分の妻として迎え入れます。彼はすべてが理解でき、恐れが消えて納得したのでしょうか。やがて子が生まれ、イエスと名付けます。こうしてイエスはヨセフとマリアの両親のもとで生まれることになりました。
Ⅱ ヨセフの葛藤と恐れ
①ヨセフの苦悩(19)
ヨセフは自分に身に覚えのないマリアの妊娠をどのようにして知ったでしょうか。彼の苦悩は計り知れません。ユダヤの律法では婚姻以外の不貞は両者を石打ちの刑です。暴行を受けたとしても、それを立証しなければなりません。いずれもマリアをさらし者にします。
②ヨセフが抱く恐れ(20)
愛する婚約者を苦境に陥れることは身を割かれる思いです。だからと言って、黙って彼女を妻として迎え、その子を抱き、育てて行けるでしょうか。周囲の眼差しも気になります。結婚は神と人に喜ばれ、祝福されるべきなのに、この結婚がそれにふさわしいのでしょうか。
③正しい人として(19)
ヨセフはマリアから直に話を聞けたでしょうか。彼はマリアを大切に思うことと、自ら正しくあろうとすることで葛藤し、ついに離縁しようとします。どうしても婚前妊娠した婚約者を妻として迎え入れることはできないと考えたからです。これが彼の中のベストでした。
Ⅲ 決断へと導くもの
①神は働かれる
主の使いも夢も不思議ですが、神が介入される超自然的な方法です。女性の妊娠は自然なことですが、「聖霊によって身ごもる」ことは理解し難いことです。このことをマリアにもヨセフにも説明抜きで同じように神は示されました。このことは神から出たことだと。
②神は計画し、実現される
ヨセフとマリアに神が語られたことは同じです。二人の証しは真実への指針です。神からの唐突と思える不思議は突然起こったのではありません。預言者の言葉(22-23)は、古からの神の計画が今、実現したことを示します。ヨセフは神の言葉を信じ、従いました。
③決断の後で見えるもの
正しいヨセフが律法を超えて妻を迎えたことは、救いが律法にまさる証しです。罪悪の実と思えた子を我が子として迎えたことは、救い主が民をその罪から救い、聖霊によって新しいいのちが与えられ、神の子どもとしての特権を与えることと重なります。
<おわりに> 救い主の誕生に戸惑い恐れるヨセフは、救い主を信じ、受け入れ、従うことにためらい、悩み恐れる私たちにも通じます。しかし、聖書は「恐れずに迎えなさい」と力強く言います。数々の証しとしるし、神の私のために立てられている神の計画もそれを支えています。(H.M.)
『光は闇の中に』 (ヨハネの福音書 1章9-18節) 2021.12.5.
<はじめに> 「クリスマス」の文言は至る所で使われています。しかし、そのすべてがイエス・キリストの誕生を祝っているでしょうか。クリスマスの原風景は聖書にあります。それを取り巻く人々の大半は、イエスの誕生に気付かず、知らされても戸惑い、歓迎していません。なぜなのでしょうか。
Ⅰ クリスマスの前から(1-8)
①もう一つの描写
マタイの福音書1-2章は父ヨセフ、ルカの福音書1-2章は母マリアの視点から主イエスの誕生を描きます。もう一つのクリスマスの描写がこのヨハネの福音書の冒頭です。17節が「イエス・キリスト」の初出です。イエスは誕生後に付けられた名前です。
②初めにことばがあった(1-5)
ヨハネの福音書は、誕生前から先在する「ことば」として描き始めます。「ことば」は神であり、万物の創造以前からおられ、その創造に関わり、いのちの根源です。視線は被造物から人へと絞られて、いのちは人の光として、今も闇の中に輝いています。
③光について証しする人(6-8、15)
神は証人・洗礼者ヨハネを遣わし、やがて現れる光について証しします。旧約聖書のモーセ(17)はじめ預言者たちも同じ役割を与えられ、彼はそのしんがりです。彼の証しによってすべての人が光を信じるためでした。その目的は十分果たされたでしょうか。
Ⅱ 神のご計画(9-13)
①この方と世(10-11)
「この方」は「ことば」「光」なる永遠の神で、世はこの方によって造られ、今に至るまでご自分のものとして治めておられます。世とは人とその世界です。しかし世は自分を造られた方に無知で、理解せず、神からの数々の証人と証拠を示されても受け入れません。
②新しい関係(12-13)
創造者と被造物の立場と関係は破綻していましたが、神は諦めません。神が遣わす者を信じる者には、神の家族・子どもとして迎え入れる(養子縁組)と定めます。民族・宗教的伝統や人間的な能力・意欲・意志によらず、神によって生まれる者に与えられる特権です。
③その時が来ようとしている(9)
この計画実現のために、神は人の光である「ことば」を世に遣わす、と古から約束されています。救い主(メシア=キリスト)です。それはユダヤ人から出ますが、ユダヤ人だけでなくすべての人を照らし、生かすために来られます。それが実現したのがクリスマスです。
Ⅲ ご計画の実現(14-18)
①ヨハネが描くクリスマス(14)
神なる「ことば」が人となり、肉体を持たれて誕生されたのがクリスマスです。そして私たちと同様に生活される姿がイエスの生涯です。この方は人となられた神であり、御業と行いを通して神の栄光を現し、神が恵みに満ち、真実な御方であることを示されました。
②私たちは見た(15-17)
洗礼者ヨハネは救い主を見た最初の人として証言します。記者ヨハネと読者もこの方を見て信じた者はみな、豊かな恵みと特権を受けました。この方を信じるなら誰でもです。この約束はモーセによって律法に示され、その本質はイエス・キリストによって実現しました。
③神を見た者(18)
「神は見えない」「神はどこにいるのか」は人の現実から出たことばです。だから、神はひとり子の神を人として世に遣わし、イエス・キリストが神を説き明かされました。クリスマスは、このイエス・キリストに世界中の注目が向けられる絶好の機会です。
<おわりに> この方を信じ受け入れ、恵みとまことをまず私は体験しているでしょうか。「この方の栄光を見た」(14)者は叫びます(15)。クリスマスの賛美はこの感動と感謝から生じます。この賛美と叫びがイエス・キリストに気付いていない人たちにも響きますように。 (H.M.)
『この方こそ生ける神』 (ダニエル書 6章10-28節) 2021.11.21.
<はじめに> 「神はおられる」と信じていても、今、この私の置かれている現実の中に神は生きておられ、力強く働かれていることを確信しているでしょうか。祈ることは日常で、自分を取り巻く全てはこの方の許に置かれていると神を信頼するダニエルの姿を見ました(10)。今日はその続きです。
Ⅰ 穴へ投げ込まれる(10-18)
①思惑通りの進展
禁令の制定を王に求めた大臣と太守たちの思惑通りに、ダニエルはいつものように神に祈るのを見つけ、王に訴えて禁令の執行を迫ります。王はここで彼らの真意に気付き、ダニエルを助け出そうとしますが、時すでに遅し、ダニエルは獅子の穴に投げ込まれます。
②愚か者の祈り(16)
自らも変更できない法令を制定する王の姿は愚の骨頂で、神を無視し逆らう人の姿です。イエスもそれを見て、祈っておられます(ルカ23:34)。王が期待できるのは、ダニエルが仕える神に祈ることのみでした(16)。十字架上でイエスに祈る強盗もそうです(ルカ23:42)。
③祈りは聞かれなかったのか
祈ることで、常に未然に事が収まり、助けが間に合うなら、どんなに良いでしょうか。残念ながら、正しい者が偽善によって虐げられ、殺されることさえあります(マタイ23:34-36)。しかし、それで最終結論ではありません。永遠の神の機会と方法はまだ残っています。
Ⅱ 穴から引き上げられる(19-24)
①夜明けとともに
翌朝早くに王は獅子の穴に近づき、呼び掛けます。「ダニエルよ、いつも仕えている神はおまえを救えたか」と(20)。穴の奥からのダニエルの声に、王は歓喜して彼を引き上げるよう命じます。さらに王は中傷した者らを獅子の穴に投げ込むよう命じます。
②神の前に潔白(22-23)
潔白な者にも非難・中傷は浴びせられ、不当な裁定は今に至るまで止みません。神はこれに黙っておられるわけではありません。ダニエルを無傷で引き出すことで証しされます。イエスも十字架で殺されましたが、神はこの方をよみがえらせました(使徒2:23-24)。
③主にゆだねよ(詩篇55:22-23、Ⅰペテロ4:19)
「あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらない」。「ですから、神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい」。
Ⅲ 平安が豊かにあるように(25-28)
①ダレイオス王の賛美
異国の王がダニエルの神を「生ける神、永遠におられる方」と崇め、天も地も治める御方と認め、賛美をささげます。信仰者の普段の営みと姿勢を通して、生ける神が人々にも明らかにされて、彼らが神をほめたたえるようになる、これが神の計画です(ピリピ2:9-11)。
②しるしと奇跡(27)
衆目に顕著なしるしと奇跡を求める時代は、実は神への不信仰がはびこる時であることは、私たちも注意しなければなりません(マタイ12:39、ヨハネ4:48)。主イエスの来臨と十字架・復活に、それによって日々生かされている私のうちに生ける神を見出せていますか。
③生ける神とともに歩む
しるしと奇跡が起こるときだけでなく、神は今も常に生きておられます。イエスを信じる者のうちに住まわれ、語り掛け、導きさとし、祈りに耳を傾けて応えられる方を、日々の生活の中で生ける神を実感する、これこそダニエルに倣うことではないでしょうか。
<おわりに> 捕虜となり異国で生きることを余儀なくされたダニエルたちは、生ける神に気付かず逆らうこの世に生きるイエスを信じる者と重なります。「死にかけているようであっても、見よ生きており…殺されておらず…すべてのものを持っています」(Ⅱコリント6:8-10,4:7-15)。(H.M.)
『開かれた窓』 (ダニエル書 6章1-16節) 2021.11.14.
<はじめに> バビロンが滅び、メディア・ペルシャの時代に移ります。ダレイオス王は太守120名に全国を治めさせ、ダニエルら大臣3名をその上に置きます(1-3)。さらに王はダニエルを首相に任じようとしたことから、彼への謀略が企てられます(4-5)。禍中にあるダニエルの姿に目を留めます。
Ⅰ 帰って祈るダニエル(10)
①罠を仕掛ける(6-9)
ダニエルをねたむ大臣・太守らは、彼の個人生活、信仰生活に目をつけて訴える口実を作ろうとします。彼らは、30日間王以外の神・人に祈願する者は獅子の穴に投げ込まれる、との禁令を王に提案したのです。王はその文書に署名し、その法令は即日発効となります。
②ダニエルは知って…(10)
明らかな悪意から彼に不利な状況が作られました。この状況を回避し、対抗するために、ダニエルには他にどんな行動ができたでしょう。危急のとき、どうするかにその人が大事にしているものが表れます。ダニエルは家に帰り、屋上で自分の神に祈ります。
③帰るところがある
自分で何もできないから、神頼みに向かうのでしょうか。ダニエルにとって神に祈ることは日常でした。彼は何事でも神に期待し、祈って示された対処で切り抜けて来ました。日々の生活、職務遂行の知恵と対処、困難な要求を突き付けられた時も、です。(エレ33:2-3)
Ⅱ 以前からしていたように(10)
①ダニエルの普段の祈り
彼は屋上に祈りの部屋を持ち、開かれた窓はこの地の神々ではなく、エルサレムを住まいとされる神・主を信頼する証しです。彼は日に三度自分の神に祈ることは、周囲にも知られ、それを敵さえも利用しました。主イエスの祈り場もそうでした(ルカ22:39-40)。
②祈るとき
どんな時に祈りますか。困った時、必要がある時、追い込まれた時…? では、普段は?
何を祈りますか。困り事、問題の解決、必要の満たし…? では、何とかなることは?
ダニエルは、時と状況にかかわらず、日々、事々に祈り、神に結び付けていました。
③私の「いつも」
私は「いつも」何に心がけて生活しているでしょうか。また、私の周囲にいる人は、私の「いつも」に何を挙げるでしょう。ダニエルは折々に「聖なる神の霊を宿している」と評されたのは、彼は祈りを通して、神に近く生き、神と語らい、神の思いを受け取っていたからです。
Ⅲ 感謝をささげて(10)
①この日も感謝?
「感謝をささげ」は別訳では「讃美」「告白」です。彼の祈りは感謝・賛美に満ちていました。厳しい状況を告げて、救助を訴え、相手への対抗と報復を嘆願する方が納得しませんか。この状況下で、彼はどんな感謝と賛美をささげていたのでしょう。
②感謝の祈りを想起する
敵の計画も意図も含め、すべてを知り、それを治めておられる神がおられるから、感謝。
神が自分を探って非難されるところがないことを証ししてくださるから、感謝。
如何なる状況に追い込まれても、神が私を守り支え、共にいてくださるから、感謝。
③祈りの点検
私の祈りは、報告と嘆願、応答を求める訴えに終始してはいないだろうか、神への賛美と感謝はどのくらいささげているだろうか、と探られます。祈りは、神の御性格を確認し、その臨在の中に自分とその周辺を置くことです。そうすると感謝と賛美があふれてきます。
<おわりに> 祈ったことで、何が起こり、どんな結果が生じたかは、祈りの主題ではないことをダニエルは教えてくれています。自分と自分に関わる一切を神の御手の中に置き、最善をなさる神様に感謝をささげるとき、いかなる時にも私たちは神の平安に包まれます。(H.M.)
「悪かった」が言える (マタイの福音書 21章28-32節) 2021.11.7.
<はじめに> この聖書箇所で「あれっ?」と思った方もあるでしょう。他の訳の聖書とは兄と弟が入れ替わっています。聖書は長らく書き写して複製してきました(写本)。その写本間に相違があり、学者たちがそれらを研究し、その成果に基づいて原本により近い校訂本を今も更新しています。
謝罪に接すると、本当に過ちを認めて心から詫びているのか、形だけの謝罪なのかは、何となく伝わって来ます。「悪かった」「間違った」という言葉を何としても避けようとする人もいます。これを言うと、本当にすべてが終わってしまうのでしょうか。イエスは一つの物語を通して問い掛けます。
Ⅰ 父と息子たちのたとえ話
①父の願い(28)
父は「今日、ぶどう園に行って働いてくれ」(28)と、まず兄に、それから弟に声を掛けます。息子たちは決して幼くはなく、大人でしょう。家人に家業のために働いてもらうことは、親としては自然な願いです。しかし、息子たちとしてはうれしくなかったのでしょう。
②息子たちの応答(29-30)
兄も弟も父の依頼を受けて、すぐにぶどう園に赴きません。そこは共通です。しかし、兄は「行きたくありません」(29)と返事し、弟は「行きます」(30)と言います。後で兄は父に断ったことを思い直してぶどう園に出向きますが、弟は最後までぶどう園に行きません。
③イエスの問い掛け(31)
イエスはこのたとえ話を聞いている<あなたがた>に問い掛けます。それは遡ると「祭司長、民の長老たち」(23)で宗教指導者です。「二人のうちのどちらが父の願ったとおりにしたでしょうか」に、彼らは「兄です」と答えました。そう答えたのは、なぜでしょう。
Ⅱ たとえ話が示す道
①神の願い
たとえ話の父は神様で、その願いは神の国に入る(31)ことです。代々の預言者やバプテスマのヨハネは「悔い改めよ」(マタイ3:2)と義の道を示します(32)。罪深いと見られていた取税人や遊女はそれを信じましたが、<あなたがた>はそれを見ても、なお信じません。
②「悪かった」が言えるか
罪を犯さず、きよく正しく歩めるのがベストですが、人は過ち・罪を犯す弱い者です。だからこそ神は、助け主なる聖霊を遣わして、「罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます」(ヨハネ16:8)。その促しにどう答えますか。
③告白するなら
「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」(Ⅰヨハネ1:9)。「悪かった」と認めて改めることは、神の前に義しい道です。これが救い主イエスによって打ち建てられています。
<おわりに>失敗してもやり直せる道が神の前にはあります。「あなたがたより先に」(31)は、拒んでいる者にも、まだやり直せるチャンスが残されていることを示しています。聖餐式は主イエスからの招きの声を聞き、応えるチャンスです。(H.M.)
『壁に書かれた言葉』 (ダニエル書 5章17-31節) 2021.10.31.
<はじめに> 今日は国政選挙の日です。国を治め導く者がどうあらねばならないかをダニエル書は語っています。4章まではネブカドネツァル王の治世(BC605-562)でしたが、5章はその孫ベルシャツァル(BC553-539)の時代です。ダニエルは老年に入っていたはずです。
Ⅰ 王の最後の日(5章)
①王の大宴会(1-4)
ネブカドネツァル亡き後、父ナボニドスと共同統治していたベルシャツァルはバビロン最後の王です。彼は千人の貴族を招いての大宴会を催します。酒の勢いでエルサレムの神殿から奪った金の器を持って来させて出席者と酒盛りし、異教の神々を賛美します。
②指が書いた文字(5-31)
その時、突如人の手の指が現れて、宮殿の壁に謎の文字が書きます。王は怯え、知者も解読できない中、ダニエルが解き明かします。その読みは「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン」、意味は王の治世の終焉と国の分割です。その夜、それは現実となりました(30)。
③メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン(25-28)
「メネ」は<数えて終わらせた>、「テケル」は<量って足りない>、「パルシン」は<分ける>です。メネとパルシンは神の審判の内容で、その理由がテケルです。神は秤でその人を量られます。天秤には、神が与えたものと、神からそれを受けた人が載せられて量られます。
Ⅱ 神は量られる
①天の神の栄光(1-4、23)
金は最も重たい光輝く金属で、栄光の荘重さを端的に表します。天の神・主の栄光をたたえるために献納された金の器で、彼は人が作った偶像の神々を賛美し、浮かれ戯れました。いのちと道を治める神とその栄光を軽くあしらう者が、釣り合わないのは自明です。
②父母のことば(10-12、18-22)
王母はネブカドネツァルの娘で、ダニエルの霊と資質を熟知し、王に推薦しました(10-12)。王も祖父の生涯を「知っていながら心を低くしませんでした」(22)。18-19節は1-3章、20-21節は4章と合致します。4章で繰り返された鍵句(21)がここでは反意となります。
③立場と状況(13-16、29)
怯えて顔色が変わってもなお、彼は王の威厳を振りかざし、召し出されたダニエルを「ユダからの捕虜の一人」(13)と扱います。「できると聞いた」のに「もし~できたなら」(16)と信じません。最後に王はダニエルに褒美は与えますが、神の前にへりくだっていません(29)。
Ⅲ 神の天秤の上で
①神が渡されるもの
「国と力と栄えは主のもの」です。その一部を神は人に渡され、その人がどうするかを注目されます。また苦難(へブル12:11)や試練(Ⅰコリント10:13)の背後にも神はおられ、私たちの内側を探られます。願わしくないものを与えられた時、私たちはどうするでしょう。
②苦難にある者たちの告白
ニューヨークの病院の壁に書かれた作者不明の詩があります。求めたものとは異なるものが与えられた時、大方、戸惑い悩み、神を疑いのろい、自分を蔑む方向に傾きます。しかし神はその中で、私たちが求めなかった重たいものを与えられます(Ⅱコリント4:16-18)。
③天秤は釣り合う
この詩の作者は、葛藤を越えて神が授けてくださるものを受け取り、彼自身もそれに見合う栄光をまとっています。一方ベルシャツァルは与えられたものも数々の機会もことごとく踏みにじり「風が吹き飛ばす籾殻」(詩1:4)となりました。いずれも秤は釣り合ったのです。
<おわりに> ベルシャツァル王は反面教師として、今も私たちに語っています。「いと高き神が人間の国を支配し、みこころにかなう者をその上にお立てになる」(21)のは、今も変わっていません。神の前にへりくだり、悔い改め、あわれみを信じることが、みこころにかなう道です。(H.M.)
『天の露にぬれて』 (ダニエル書 4章24-37節) 2021.10.17.
<はじめに>神をどのような御方で、物事をどのように進められる御方だと紹介しますか。その認識と理解はどこから得たものでしょうか。4章は私=ネブカドネツァル王(治世BC605-562)のことばとして記されています。1-3節、37節に、彼の神理解が賛美として記されています。
Ⅰ ネブカドネツァル王の経験
①王が見た夢(4-27)
神からのメッセージ「いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者に与えられる」(17,25)ことが、夢(10-17)とダニエルの解き明かし(20-27)で、ネブカドネツァル王に明確に示されました。しかし、知っていることと、それを自らに適用することは別物です。
②王の身に起こった(28-33)
この夢から12か月後、宮殿の屋上で権力と栄華を自画自賛する王に天からの声が響き、夢は現実となります。人の中から追い出され、野の獣の如くされました。7つの時は、神のメッセージ(32)を彼が真に理解し、受け留めるまでの神が定めた期間です。
③神への賛美と回復(34-37、1-3)
その審判の期間の果てで、卑しくされた彼は神を仰ぎ見て賛美します。天の神・主こそ永遠の至高者で、高ぶる者をもへりくだらせる方であると。賛美は神を崇め、へりくだる者から出て来ます。その時、彼に理性が戻り、人間性を取り戻し、王位へ復帰が許されました。
Ⅱ 天の露にぬれさせて
①予め語られる神
神のさばきは唐突で、憤怒の発露なのでしょうか。神はユダヤ人を選び、これに語り掛け、彼らを通してすべての国民にご自身の道を示されています。ネブカドネツァル王にも2・3章で夢と不思議を通じて、本章でも夢と解き明かしで警告と対処を重ねて促しています。
②機会を与える神
王に明確に語られたことは1年後に成就しました。聞いたことを受け留める十分な時間を神は与えておられます。更に、彼を野の獣とともに住まわせ、天の露にさらして、神の道を悟らせ、その前にへりくだるようにと、7つの時を与えて、彼に向き合わさせます(37)。
③天の露の二面性(23、33)
神は高ぶりと罪に対して妥協はされません。王の身に成就したことは厳しい神のさばきですが、教育的です。「根株は残せ」と彼を天の露にさらさせます。それにより、へりくだって赦しを乞う者には、天の露は神のいつくしみとあわれみを実感する機会です(ロマ11:22)。
Ⅲ 天の露がもたらすもの
①御手の中にある(23、26)
ネブカドネツァル王のように順境にあると人は高慢になります(30)。逆境・試練に遭うと、内省と吟味が促されます。いずれにしても、私たちは神の御手の中に置かれていることを覚えたいものです。そこには神の厳しさだけでなく、いつくしみとあわれみも豊かです。
②回復の道がある(27、36)
神の御手の中で、自分の本当の姿を直視する機会が与えられます。醜く、卑しく、罪と汚れに染んだ自分の歩み・思い・ことばに気づく時です。そんな者の前になおも神は立ち、へりくだってご自分に目を上げる者を赦し、引き上げられます。
③真実と正義を知る(37)
これらの経験を通ると、神をより深く体験的に知るに至ります。ネブカドネツァル王はそれを賛美のうちに告白しています。個人的な神体験と神理解が、その後の私たちの歩みを支え、祈りの土台となります。
<おわりに> ネブカドネツァル王の記事の最後がこの出来事であることは意味深いことです。彼の生涯に幾度も関わり、御前にへりくだるように導かれる神がおられました。この神・主が私たちにも語り掛け、関わり、導かれます。その御手に抱かれる者は幸いです。(H.M.)
『天が支配する』 (ダニエル書 4章1-28節) 2021.10.10.
<はじめに> 4章は私=ネブカドネツァル王の叙述形式で綴られています。「いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者にお与えになる」が17・25・32節に繰り返されています。このことを異国の王ネブカドネツァルに意味深な夢を通して天の神・主は告げられました。
Ⅰ 意味深な夢
①不思議で語る神(4-18)
聖書全体を通じて、神はご自分の思いと計画を人に伝えようとされています。夢・幻・奇蹟は、神を信じる者だけでなく、頑なな者にも見える方法です。そこから神のみこころを的確にとらえるには、神を信頼し、交わりに生き、神の聖霊の助けが必要です。
②知者たちの動き
9-17節で王が見た夢が語られ、最後の17節にはその意味と目的も語られています。なのにバビロンの知者は意味を告げられません。本当にわからなかったのでしょうか。最後にダニエルが来たのは、なぜだと思いますか。
③真実に、真実を(19-27、エペソ4:15)
夢を聞いたダニエルは、驚きすくみ動揺します(19)。王に厳しい内容(24-27)だからです。それでもダニエルは王に真実を真っ直ぐ告げ、その対処まで勧告します(27)。神からメッセージを託された者の襟度は、相手の顔色に関係なく、愛をもって真理を語るのです。
Ⅱ その木はあなた
①地の中央の高い木(10-12、20-22)
高くそびえ、枝葉を伸ばし、実を実らせ、鳥や獣がそこに宿り養われる木は、諸国を手中に収めた帝国バビロンに君臨するネブカドネツァル王そのものです。今や並び立つ者は地の上にはありません。地上の覇権を手にした帝国と主権者は栄華を誇ります。
②成功と繁栄の中で (申命記8:11-14)
成功と繁栄は支配者の力による、と人は思っています。成功・繁栄を手に入れると、その人は心が高ぶり、慢心・腐敗によってやがて没落して行きます。『わたしの力、私の手の力がこの富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい(申命記8:17)。
③いと高き方が人間の国を(17,25,32)
あなたに富を築き上げる力を与えるのは主(申命記8:18)です。人間が作るすべての国、組織、団体とその支配者さえも、いと高き神・主は全て治めておられる、と聖書は一貫して語ります。成功と繁栄の力の源は神・主にあります。忘れてはなりません(申8:12-14)。
Ⅲ 木の根株は残せ
①その木への決定(13-17、23-26)
天から見張りの者が来て、「その木を切り倒せ」の叫び声が響きます。根株は残されて野にさらされ、その心を人間から獣へと変え、7つの時を経過させます。「いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者にお与えになる」(17)ことを王が知るためです。
②みこころにかなう者
王は天は神が支配し、地は自分が治め、跡取りがそれを継ぐと捉えていました。しかし神はそれをみこころにかなう者に与えられる、と言われます。国を受け継ぐみこころにかなう者とはどのような人なのでしょうか(17節、マタイ5:3・6)。
③根株は残せ(26-27)
厳しい決定の中にもあわれみがあります。天の神は王に夢を見せ、ダニエルを通してみこころを示されました。王の高ぶりは神には無視できず、裁定も明らかです。しかしダニエルの勧告(26-27)には回避する道が示されています。罪を除き、神に立ち返るようにと。
<おわりに> ネブカドネツァル王がこの勧めにどう向き合ったかは、章の後半に続きます。古の遠い国のことだと片付けてはなりません。天の神・主は今も人に語り掛けます。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える」(ヤコブ4:6)原則は今も変わりません。 (H.M.)
『炎の中にも』 (ダニエル書 3章13-30節) 2021.10.3.
<はじめに> ダニエル書1-4章はバビロンのネブカドネツァル王の治世に起こった出来事です。2章では、人が打ち建てる帝国の興亡と並行して、神の国が建て上げられ、やがて全地を治める神の計画がダニエルを通して王に明かされました。本章はそれに続く物語です。
Ⅰ 像を建てる王(1-7)
①金の像を拝め(1-7)
ネブカドネツァル王は高さ27m、幅2.7mの巨大な金の像を建て、奉献式にすべての高官を招集します。王は、諸々の楽器の音を聞いたなら、金の像をひれ伏して拝むように定め、従わない者は、即刻、火の萌える炉に投げ込むと、国中のすべての者に命じます。
②前章の夢とのつながり(2:44-49)
前章で王は巨像の夢を見、その解き明かしをダニエルから受けています。人の建てた王国も、天の神の国の前にはやがて崩れ去る予告と警告でした。それなのに、彼は金の巨像を建て、拝礼を命じます。夢と解き明かしから、王は何を受け取ったのでしょう。
③聞き方に注意しなさい(ルカ8:18、ヤコブ1:22)
メッセージを伝える側が、相手に届くように整えるのは当然です。聞く側も、その真意を汲み取り、それに応じられるように整える必要があります。主イエスが語られた種蒔きのたとえ(ルカ8:4-15)は、そのヒントを与えています。「聞く耳のある者は聞きなさい」と。
Ⅱ 神の前に生きる(8-23)
①拝まない三人(8-23)
シャデラク、メシャク、アベ・デネゴもバビロン州行政官として列席しながら、拝礼しません。告発によって彼らは王の前に引き出され、王は最後のチャンスを与えますが、彼らはそれでも金の像を拝むことはしないと明言します。王は怒り、3人を燃える炉に投げ込みます。
②誰に仕えるのか(17)
彼ら3人が天の神、主に仕える姿勢を変えないのはなぜでしょう。十戒の1・2戒を覚え、これまで祈りに応えてくださった生ける神に期待したからです。捕虜となり、異国で王に取り立てられて高位に就いた者として、他にどんな対応が考えられるでしょう。
③たとえそうでなくても(18)
自分の願い通りに聞き入れてくださる神だから仕えるのではありません。異国の王・異教の神々にまさる、すべてを支配される天の神に彼らは信頼しています。私の神は生きておられ、その御方は常に最善をなさる方と信じるなら、自らを委ね切ることができます。
Ⅲ 神は共におられる(24-30)
①炉の中の4人(24-30)
3人は激しく燃える炉に縛られたまま投げ込まれます。炉の中を王が覗くと、炎の中を縄を解かれて歩いている4人が見えます。王は彼らを呼び出すと、彼らは無傷でした。王は彼らの神をほめたたえ、このように救い出せる神は他にいないと宣言します。
②第四の者(25、イザヤ43:1-2)
この方は受肉前の御子なる神だと見られます。御子イエスも地上生涯で試みを受け、十字架の苦しみも甘受されました。それは試みられている者たちに慰めと希望を与え、助け出されるためです(へブル2:18)。この約束が私にも与えられていると受け取りますか。
③目を天の神・主に向けよう
試練・苦しみに会うとき、聖霊は主イエス・キリストを思い起こさせてくださいます。自らが辿る道筋には主の足跡も必ずあることに気づかされます(Ⅰペテロ2:20-25)。復活の主はそこから救い出され(Ⅱコリント4:7-15)、脱出の道も備えられます(Ⅰコリント10:13)。
<おわりに> この世は天の神・主を知らないが故に、横暴に振舞い、服させようとします。しかしこの世で起こる事象の背後におられ、全てを治められる生ける神がおられます。この御方を見るのが信仰の眼差しです(へブル11:1,27)。(H.M.)
『永遠に続く国』 (ダニエル書 2章31-49節)④ 2021.9.26.
<はじめに> ダニエル書2章は、バビロンのネブカドネツァル王が見た夢を中心に進みます。王からの「夢とその意味を示せ」という無理難題に、ダニエルは挑みます。人は秘密を知ることが好きです。しかし、秘密を知らされた者には求められることがあることも見逃してはなりません。
Ⅰ 物語の確認
①王が見た夢(31-35)
王がまず見たのは、何でしたか。それはどのようなものでしたか(できるだけ詳しく)。
王が見ていると、何かが起こりました。どんなことですか。何か特徴的なことはありますか。
王の夢は巨像と一つの石の物語です。その結末はそれぞれどうなりましたか。
②巨像が示すもの(36-43)
像は幾つの部分に分かれ、各部は何を指していますか。各々に何か特徴がありますか。
像の上から下への流れは何を示しているでしょう。
「私たち」(36)とは誰のことでしょう。王に国・権威・力・栄誉を与えるのは誰ですか(37-38)
③天の神から王へ(44-49)
一つの石は何を指し、どんな特徴や役割がありますか。それは誰が起こされますか。
誰がこの夢を王に見せたのですか。「これから起こること」(45)を示された意図は何でしょう
夢と解き明かしを聞いて、王はダニエルに何をしましたか。天の神には何かしましたか。
Ⅱ この世の国と支配者
①覇権争いの歴史
巨像はこの世に現れる帝国です。帝国は時代とともに入れ替わります。バビロニアの後、メディア・ペルシャ、ギリシャ、ローマが次々と興亡し、やがて分裂して諸国が興ります。
それらが一つにまとまることなく、互いに覇権争いを続けます。これが人の世の歴史です。
②この世の国が目指すもの
この覇権争いは生けるものすべてを巻き込み(38)、支配者に就くと思いのままに生殺与奪を行います(5-6)。今もなお集散離合を繰り返して、自己の領域拡大を目指し、世界全体をも支配しようと目論見ます。国々に限らず、人の活動のあらゆるところに見られます。
③この世の国の限界
どんなに強大な国でも、異質なものや脆さを抱え、一つにまとまらず、また永続しません。偉大な支配者でも、どうすることもできないことがあります。どんなことでしょう。帝国も王も実はコントロールされています。どなたがそうされているのか、その方が見えてますか。
Ⅲ 永遠に続く国
①人手によらない国(44-45)
国々と諸王に立てた天の神が、一つの国を起こされます。これは諸国とは異なり、「人手によらず」(34,45)は神ご自身が治められる国を示します。神の国は、地上の諸国を凌駕・駆逐し(35⇒詩1:4、103:15-16)、最後には全地に満ち、永遠に天地万物を治めます。
②神の国とは
主イエスは神の国について多く語っておられます。「わたしの国はこの世のものではありません」(ヨハネ18:36)「神の国は、目で見える形で来るものではありません。…見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:20-21)。神の国とはどんな国ですか。
③地上の王の下で、神の前に生きる
神ならぬ者が権力をふるう今の状況は限定的です。すでに神の国は信じる者の心中に立ち上げられ、やがて必ず神とともに全てを治めます。この秘密を神から教えられる者に、神は相応しい対応を求めます。メッセージを聞いただけでは欺く者です(ヤコブ1:22)。
<おわりに> 異国・異教の捕囚の地でも、神は生きておられ、祈りを聞き、働き続け、ご自身の計画を着実に進展されています。主イエスの十字架と復活はその証しであり、希望です。この方を信じ待ち望む者には、慰め、励まし、希望、救い、神の力です(Ⅰコリント1:18)。 (H.M.)
『不明に生きる』 (ダニエル書 2章12-30節) 2021.9.19.
<はじめに> 2:4-7章はアラム語で書かれ、ダニエルらが諸王に仕える中で起きた不思議な出来事、夢・幻が続きます。各章は長いですが、印象深い物語です。できれば前もって読んでいただけると幸いです。2章はバビロンの王・ネブカドネツァルが不思議な夢を見て、心騒がせています。
Ⅰ 心騒ぐ夢(1-18)
①夢の意味を知りたくて(1-12)
夢を見たネブカドネツァル王は、呪法師、呪文師、呪術師、カルデア人に夢とその意味を告げるように命じます(5-6)が、さすがに彼らも王の見た夢までは示せません(10-11)。王は苛立ち(8-9)怒り、バビロンの知者すべてを滅ぼすように命じます(12)。
②神を知る方法
聖書には、神が夢を通して人に語られるケースが数々描かれています。夢・幻・預言・奇蹟などを神の啓示として受け取る場合、神の性質と計画・意志に矛盾しないはずです。それを知るために、聖書とその歴史、御子イエスのことばと生き方に注目すべきです。
③ダニエルの応対(13-18)
知者殺害の手はダニエルたちユダの捕虜にも伸ばされます。ダニエルは親衛隊長から事の次第を聞き、王のところに行き、夢を解き明かすための猶予を願い出ます。それから、彼は3人の同僚のもとに行き、共にこの秘密について天の神にあわれみを乞います。
Ⅱ 知恵と祈り(14-18)
①知恵と思慮深さ(14)
危機の中で彼は慌てふためいてはいません。厳命に困惑する親衛隊長に語り掛け、王の真意を探ります。王が求めているのは夢の意味で、知者のいのちではありません。人が憤る時、怒りの矛先の奥に過去からの痛み・不信(8-9)が潜んでいることがあります。
②祈り合う仲間(17-18)
王に猶予を願い出たダニエルには、まだ何もわかっていません。しかし、王の夢をも司られる天の神・主に望みを置き、同僚と共に祈り求めます。秘密も共に分かち合い、祈り合う友を得るにはどうすればいいでしょう。そのような友を思い浮かべられますか。
③祈りは聞かれる?
明らかに難しいことを、彼らは大胆に祈り求めました。彼らは自分のことだけを求めたのでしょうか。祈りを神は聞かれ、応えられます。神には、聞かれる祈りと聞かれない祈りがあるという人があります。どんな祈りを、神は待っておられ、それに応えて動かれるのでしょう。
Ⅲ 秘密を明らかにされる方(19-30)
①ダニエルの賛美(19-23)
幻のうちに秘密が示されたダニエルは神を賛美・礼拝します。知恵と力、自然界、諸王の勃興と歴史はすべて神の支配下にあります。秘密と不思議も神の前には明らかです。その御方が私の父祖の神で、私に知恵と力を授け、人の心の内さえも明らかにされます。
②心の思いを知るために(24-30)
ダニエルは親衛隊長を通じて王の前に出ます。「ユダの捕虜の中に」(25)も天の神・主を際立たせます。秘密を明らかにするひとりの神が天におられ、これから起こることを夢で王に知らせたのです。秘密を示された者は、それをどう受け取り扱うかを神に問われます。
③祈りのうちに聞く
人から神へ告げるだけが祈りでしょうか。神が何を願い、これからどうされるのかを示し、祈る者に具体的に語り掛けられます。祈りは神との交わり、語らいです。祈りで示されたことが、御子イエスの教えと生き方、聖書と合致しているかで確認します。
<おわりに> 神が秘密を人に明かされるとは驚きです。それにふさわしい人を神は今も求めておられます。クリスチャンは皆、期待されています(申命記29:29)。混沌とした時代ですが、神の御計画ははっきりしています。それを解き明かし、生きる人を神は求めています。(H.M.)
『どうぞ試してください』 (ダニエル書 1章3-21節) 2021.9.12.
<はじめに> 聖書とはどんな書物ですか? 聖書から何を知り、得ようとして読んでいますか?
聖書の過去の物語と叙述の中に、神が如何なる方で、どのように考え行動される御方なのか、人とは何者かで、神はどのように人と関わり、人に何を求めておられるのかを汲み取りたいと願います。
Ⅰ 異国に生きる
①溶ける民族
他国で生活するだけでも大変なことですが、捕虜には屈辱・冷遇・抑圧と差別が露骨に加わり、守ってくれる母国がない悲哀と辛酸を味わいます。やがて大部分は言語・文化習慣・氏名・宗教も崩れて寄留国に同化して、民族は溶けて消えるのが歴史の常道です。
②王の召しにより(3-7)
ネブカドネツァル王は仕官させるに有望な少年をイスラエルの捕虜の中から選び、英才教育を与えます。王と同じ食事、最高の学びの機会は格段の栄誉ですが、同族とは分断されます。その中に、ダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤがいました。
③ダニエルの決意(8)
モーセの律法には食物規定があります(レビ11:2-47,申命14:3-20)。神々に献納された食物が並ぶ王の食卓は宗教的儀式と直結していました。ダニエルは律法にそぐわない食事で身を汚すまいと決意します。この国で彼はどのように生きようと決意したのでしょう。
Ⅱ 提案と挑戦
①試してください(9-14)
ダニエルは決意を願い出ますが、宦官の長は難色を示します。そこで世話役に提案を持ち掛けます。どんな提案ですか(12-13)。ダニエルはこの提案の勝算がどれくらいだと思っていたでしょう。神の「恵みとあわれみ」(9)は具体的にどこに見つけられるでしょうか。
②神を試す
神を試みることをイエスも律法も禁じます(マタイ4:7,申命6:16)が、「わたしを試してみよ」(マラキ3:10)ともあります。両者の違いはどこにあるでしょう。ダニエルの提案は神を試みたのでしょうか。その動機、目的を言い表してください。
③神の恵みと賜物(15-21)
十日後、ダニエルたち4人は顕著に壮健で、世話役はこの食事を継続することにしました。神は、この4人の少年に知識・知恵・理解力を、ダニエルには幻と夢を解き明かす能力を授けます。彼らの知恵と能力は抜群で王も認めるところとなり、彼らは王に仕官します。
Ⅲ この世できよく生きる
①どのように生きたいか
私たち信仰者はこの世では少数派で、ひたむきに生きています。その中で神を信じる信仰を保つことは容易ではありません。異なる価値観・原理原則の中で私たちはどのように生きたいと願っているでしょうか。
②より良く生きたい
生活の必要が満たされ、日々支えられて平穏無事に生きられるよう、私たちは神に助けと満たしを祈ります。主の祈りの後半にも見られる自然な欲求です。私たちは何のために、どんな動機でそれらを神に求めているのでしょうか。マタイ6:35-34を読んでみましょう。
③きよく生きたい
神は聖く、比類なき方で、神はご自身に近づく者にも聖さを求められます(レビ11:44-45)。ダニエルはこの神の前にきよく生きることを求めました。聖い至高の神に相応しく崇め、信頼し、身をもってそれを世に示すためです。生ける神はそれに応えられる御方です。
<おわりに>この地、この時代にも神は生きて働いておられることを証しして、神から与えられる愛と平安と喜びを周囲に響かせるために、神は私たちを召されました。神が「あなたを祝福し、地のすべての部族はあなたによって祝福される」(創12:1-3)ためです。(H.M.)
『主が…渡された』 (ダニエル書 1章1-7節)① 2021.9.5.
<はじめに> 今日からダニエル書を読み進めて行きます。始まりに当たって、本書の概要をまとめた動画を紹介します。(他の聖書各書の動画もあります)
聖書プロジェクト 「ダニエル書 概観」 https://www.youtube.com/watch?v=4NhD0vZ9yPc
Ⅰ ダニエル書の背景
①旧約聖書の大きな流れ
聖書は歴史叙述を基本としています。イスラエル民族の始まり、出エジプトとカナン移住、王国の誕生と分裂、滅亡と捕囚、そして帰還が大きな流れです。その流れは大きく二つ、創世記~Ⅱ列王、Ⅰ歴代~ネヘミヤが並走しています。
②3度の捕囚
新バビロン帝国の興隆と侵攻の前に、ユダ王国は圧迫を受け、人民と財宝が奪われる捕囚が起こります。初回(BC605)にはダニエルら、2回目(BC597)にはエゼキエルも含まれていました。エレミヤはエルサレム陥落(BC586)、3回目の捕囚も見送っています。
③預言者ダニエル
ダニエルがバビロンに10代半ばで来て、宮廷で歴代の王に仕え、晩年にイスラエルの帰還を見届けます。彼はたびたび神からの夢と幻に触れ、これを解き明かし、バビロン以降の諸国の興亡と、そのすべてを導き支配される神の偉大な計画を本書に書き記しました。
Ⅱ 大波に呑み込まれながら
①エホヤキム第3年に(1-7、Ⅱ列王23:31-24:7、Ⅱ歴代36:5-8)
ユダ王国の末期は、エジプト・新バビロニアの二大国の覇権争いの間で揺れていました。BC605カルケミシュの戦いで新バビロニアがエジプトを破り、ユダ王国は存続のために神の宮の貴重な器や王族・貴族を差し出し、恭順を示しました。
②敗者の神、主は(2、17)
古代国家の戦争は神々の戦、勝利する神こそ偉大です。ユダ王国は破れ、神の宮の金銀の器、国の将来を託す若い貴人が奪われました。聖書はその記述の主語を「主」「神」としています。なぜでしょうか。
③国々は手桶の一滴(イザヤ40:15-17,23)
後の歴史から、主が約束された回復と帰還まで、器類も人々も保つためであったとわかります(エズラ1:7-11)。イスラエルは負けて屈服しましたが、神が負けたのでも滅んだのでもありません。神なる主はなおも主権を持ち、敵国の王さえ用いて事を進められます。
Ⅲ 荒波の中を生きる
①神不在の地で
ダニエル書の舞台は異国・異教の地です。捕虜、寄留民としてそこに長く生活すると、順化・同化するのが常道です。しかし、イスラエルは民族と信仰のいのちを保ち続けました。今、私たちはふるいにかけられているのかもしれません(ルカ22:31-32)。
②抑圧された中で
かつてのように共に集まることが、今は難しくなっています。この状況が解消することを願いましたが、長期化しそうな様相です。しかし、これは前代未聞の出来事ではなく、歴史の中で繰り返され、その中でもしたたかに生き、主を仰ぎ続けた聖徒たちがいました。
③なおも神は働かれる
神が表舞台に見えないからと失望してはなりません。神は負けたのではありません。諸国と諸王、諸々の権威・権力を手中に治め、ご自身の御心の実現のための道具として用いられます。今を生きる私とこの時代にも、この主なる神は同じだと信じ、期待しますか。
<おわりに> これからしばらくの間、ダニエル書を味わっていきます。この書を通して、この荒波の中で主を仰ぎ見ながら生きる人々と、力強く働かれる主なる神に、そして国々を越え、時代を越えてすべてを治め導かれる神に注目しましょう。今も主は生きておられます。(H.M.)
『わざわいの日に平安を』 (詩篇94篇 1-23節) 2021.8.29.
<はじめに> 13節の「わざわいの日に、あなたがその人に平安を賜るからです」は、不思議な表現です。普通、平安・安心は穏やかで幸せな日々の中で実感するものではないでしょうか。しかし、この聖書は「わざわいの日に平安を」と言うのです。それが何なのかに目を留めて見ましょう。
Ⅰ 災いの中で
①自然界に起こる災い
自然から私たちは多くの恵みと喜びを得ていますが、これが牙をむくと恐ろしいものです。気象の極端化で猛暑・干ばつ・洪水・土砂災害が襲い掛かり、大地震や火山噴火も警戒が促されています。加えて、今私たちはウィルス変異による感染症と直面しています。
②人間が引き起こす災い
人との交わりと関わりから、私たちは多くの喜びと励まし・慰めを得ますが、反面苦しみ悩みの多くも人由来です。3-6節には高ぶる者(2)、悪者(3)、不法を行う者(4)、暴力と虐待(5)、殺人(6)が列挙されています。人が一番厄介で怖いと感じる人は少なくありません。
③災いから目を移す
災いに満ちる世の中で、悪者は「主は見ることはない。ヤコブの神は気づかない」(7)と勝ち誇ります。それに目を留めるなら、苛立ちと苦しみを増すばかりです。しかし、作者は「なんと幸いなことでしょう」(12)と言います。彼は「主よ」(1,3,5,12,18)と目を転じます。
Ⅱ 主とはどんな方
①復讐の神(1-2)
復讐と報復は神のもの(申命32:35,ロマ12:19)、復讐の神(1)が敵でなく味方ならば心強い方です(17)。神はご自分の民を見捨てず見放さず(14)、立ち上がり(16)、とりで・避け所の岩となってくださり(22)、代わりに敵と戦い、これを滅ぼされます(23-24)。
②すべてを知っておられる(8-11)
人も万物も造られ、その成り立ちを知る方はすべてをご存知です(9)。気づいていないのは人の側です(8)。主は、人の思い計ること全てを読み取られ(11)、人の知識・知恵よりも優り、国々を戒め責められます(10)。すべての上におられ、公正に支配される御方です。
③聞いて、立ち上がる方(16-19)
人は苦しみの中で叫びます。「いつまで」(3)「だれが私のために」(16)「もしも」(17,18)と。それを聞いて立ち上がり(16)、支え(18)、思い煩いが増すときに慰め、喜ばせてくださる(19)のが主です。災いの日も、悪者のために穴が掘られる(13)時とされます。
Ⅲ 平安を保つために
①気づけ(8)
神がいないのではなく、神を見ていない、気づいていない人間側に問題があります。高ぶる者(2)、自慢する(4)者は、ことば、態度、行いに表れ、主は彼をまぬけ者・愚か者(8)と呼ばれます。そして復讐の神、主がおられることに「気づけ」(8)と挑まれます。
②へりくだり呼び求める(18-19)
人が神の前に何者であるかに気づくのは、どういう場面でしょう。歩みがおぼつかないとき、思い煩いが増すとき、試みの中で、人は自分の弱さに気づき、神を呼び求めます。神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを与えられます(ヤコブ4:6)。
③神が味方(12)
神なる主に戒められ、教えられる者(12)は幸いで、主はわざわいの日にあっても、彼に平安を賜ります(13)。神がご自分の民の味方となられるからです。神が味方となられる約束と証拠としてロマ8:31-37も読んでください。
<おわりに> 神は災いから逃れさせ、会わないようにもできますが、その中にあって平安を与えることもできます。いずれにしても、私たちが神の民であるなら、主は私たちの味方、私たちを支え、私たちのために戦ってくださる方です。この御方に日々気づいて生きていますか。(H.M.)
『証拠がある』 (ヨハネの福音書 5章30-47節) 2021.8.22.
<はじめに> エビデンス(evidence)が各所に問われる昨今です。信頼に足るかどうかを探るために根拠を求めることは当然です。しかし、エビデンスを選り好みしたり、無視することも現実には起きています。イエスは、人が論理的に考えて受け入れる特性を尊重されています。
Ⅰ イエスは何者か
①いのちを与える(17-29)
イエスが安息日に病人を癒し、床を取り上げたことの是非を問うユダヤ人に、イエスはご自分が父なる神から遣わされた神の御子であると語られます。御父と御子は一つとなって、いのちを与え祝福し、死せる者にも永遠のいのちを与えるために今も働いておられます。
②イエス自身の証言(30-31) ※(23,24,30,36,37,38,43)
イエスとは何者か?―この質問は福音書に一貫し、読者にもその理解を問い掛けます。イエスは父から遣わされたと繰り返し述べます※。遣わされた者は派遣主の意向に基づいて行動します。受け入れる者にはいのちを与え、拒む者はなすがままにされます。
③ほかにも証言がある(31-32)
イエスは31節で真偽を確かめる律法(申命記19:15)をあえて自身にも適用されています。人々が理解し納得するために、イエスは父から遣わされた御子である証拠を提示されます。彼らが受け入れ、救われるために何とかしようとするイエスの心が垣間見られます。
Ⅱ イエスを証しするもの
①バプテスマのヨハネ(33-35)
彼はイエスに先立ち、主の道を整え(マタ3:3)、救い主を指し示す声(ヨハ1:23)として証しするために現れました(1:6-8,15,32-34)。人々は彼のもとに集まり、彼の教えを最初は歓迎しましたが、その厳格な要求の前にしたとき、彼から離れて行きました。
②イエスのみわざ(36)
イエスは数々の御業、奇跡を行われ、人々はそれを見て神をあがめました(マルコ2:12)。病人を癒し、苦しむ人を救い、乏しい者を満たし、死人さえもよみがえらせました。これらの御業は、人を愛し、あわれまれ、そのいのちを祝福される父の御業を想起させます。
③御父のことば(37-39、46-47)
御父自ら「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」(マタ3:17)と証しされました。人々はその御声を聞いたことはありませんが、聖書から聞くことはできます。聖書は神のことばで、モーセら記者を通して与えられました。その聖書のテーマは御子キリストです。
Ⅲ 証拠と向き合う
①栄誉は誰から(41-44)
人はすべてを公正公平にさばかれる唯一の神の前に生き、この方を愛し、信頼するようにと神が造られました。しかしそこから目を逸らすと、自ずから周囲の目を意識して生きるようになります。それ故、父の名によって来たイエスを拒み、周りの誰かに依存するのです。
②証拠があるのに信じない(38,40,45-47)
イエスはユダヤ人たちの中にある強い不信を見抜いておられます。頑なに信じない人は自分が間違っていないと確信しているからです。その根拠はユダヤ人として生まれ、律法を守っているからです。しかし、彼らが望みを置く律法が彼らを罪に定めます(詩14:3)。
③わたしのもとに来なさい(39-40)
否定的な表現はイエスの切なる願いの裏返しです。証拠を客観的に精査したなら、イエスを神の御子キリストと信じ受け入れるはずです。頑なに信じて来たものを捨てるのは、死に匹敵する屈辱です。しかし、そうする者を神は永遠のいのちを与えると約束されます。
<おわりに> 「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)。愛は相手への尊敬と信頼に表れ、そのことばと心を受け取ります。神への愛はあなたにありますか(H.M.)
『いのちとさばき』 (ヨハネの福音書 5 章17-30 節) 2021.8.15.
<はじめに>病に38 年間縛られていた人をイエスは癒されました(1-9)。彼を真に生かされたので
す。しかしユダヤ人たちは、その人が癒されることよりも安息日に床を取り上げたことを問題視し、イ
エスを殺そうとしました。彼らは生かすより、殺す方が神の御心だと確信していました。
Ⅰ 御父と御子
①ユダヤ人の反発(17-18)
17 節のイエスのことばがユダヤ人たちの反発の原因です。彼らは、神は至高で絶対無
比、人とは全く次元の異なる偉大・神聖な御方と見ていました。それに固執したために、
イエスを遣わされた方が父なる神で、イエスは神の御子であるとは認められませんでした
②御父を見る御子(19,21,26)
イエスは父なる神を常に見て、同じ心で事を行われます(19)。父への尊敬と信頼の表れ
です。父なる神はご自分のうちにいのちを持ち(26)、いのちを与えられる(21)御方です。
ですから、御子も父から与えられたいのち(26)を、与えたいと思う者に与えます(21)。
③御子に委ねる(22,27,30)
御父はご自分がすることをすべて、御子に示されます。御父が御子を愛されている証しで
す(20)。その信任の表れとして、すべてのさばきを御子に委ねられ(22)、その権威を与え
られました(27)。御子は遣わされた方の御心に従ってさばかれます(30)。
Ⅱ いのちを与える
①まことに、まことに(19,24,25)
この枕詞は天的真理を示される時に使われます。誤解しないよう、注意深く聞かなければ
なりません。御父と御子は一つ心で、同じ目的に向けて統一して働かれます。それはいの
ちを与えるためです。死人をよみがえらせた奇跡も、天的真理の証拠です。
②死からいのちへ(20-21)
エリヤ(Ⅰ列王17:17-24)エリシャ(Ⅱ列王4:18-37)が死者をよみがえらせました。イエスは
ナインのやもめの息子(ルカ7:11-17)ヤイロの娘(ルカ8:49-56)ラザロ(ヨハネ11 章)をよみ
がえらせました。そして、イエスご自身も死から三日目によみがえられました。
③永遠のいのちを持つ(24)
いのちは関係が断たれると死にます。神に背き、離れた人は、神の前には死人です(創
2:17)。しかし神は、御子のことばを聞いて、御子を遣わされた方を信じる者の罪を赦し、
関係を修復して永遠のいのちを与え、死からいのちに移すと約束されます。
Ⅲ さばきをあたえる
①神のさばき(22,27)
究極的・終末的な審判を直感させることばで、神が怖く恐ろしい方と受け取られがちで
す。悪しきこと、災いが身に降りかかることがそれだと思う人も少なくありません。本当にそ
うなのでしょうか。確かに神はさばく方ですが、全てのさばきを御子に委ねられました(22)
②御子に委任された(23-24,27-30)
最終権者が交渉に特使を遣わすように、御父は御子にさばきの全権を与えて遣わされま
した。彼のことばを聞き入れるなら永遠のいのちを与えられ、受け入れないならさばきを
受けると御父は定められています。御子は遣わされた方の御心に従って事を行われます
③神の子の声を聞く時(24-25,28)
死んだら終わり、と言われます。しかし、父なる神は死からいのちに移す道を備えられ、罪
に死んでいる者が神の御子の声を聞き入れるなら、その者は再び生きると宣言されます。
御子が遣わされ、語っておられる今がその時です。驚いてはなりません。
<おわりに> 父なる神も御子イエスもいのちを与え、生かすために今に至るまで働いておられま
す。その働きかけを無駄にする者にはさばきが待ち受けます。永遠のいのちをいただくのも、
さばきを身に及ぼすのも、御子イエスのことばへの応答にかかっています。(H.M.)
『今もなお働かれる神』 (ヨハネの福音書 5章8-18節) 2021.8.8.
<はじめに> 子どもを育てることは、身体的に養うこととともに、生きる価値観を与えることです。「これは大切なこと」と教えるために、どうすればよいでしょう。私たちは神様が大切にしておられることを、どうやって学び取ればよいのでしょう。
Ⅰ その日は安息日(8-18)
①床を取り上げることは…(8-18)
38年間病で臥せる人を、イエスは癒され、彼は床を取り上げて歩き出しました(8-9)。その日が安息日だったので、ユダヤ人たちは床を取り上げた彼を咎め、やがて彼を治したイエスに非難は向けられます。それほどユダヤ人にとって安息日は大切な日でした。
②聖なる日
安息日は神が万物の完成を祝う日(創2:1-3)です。十戒でこの日を聖なる日とされ、一切の仕事を禁じられました(出20:8-11、申5:12-15)。神が休まれたように、私たちも休むためです。彼が床を取り上げて運んだことは、これに抵触すると彼らは激怒したのです。
③安息日の主(マルコ2:27-28、ルカ13:15-16)
イエスが安息日にこのようなことをされたのは一度ではありません。ルカ13:15-16にイエスの安息日理解が示されています。長年の病から解放されることは、御心に適っています。安息日は人のために設けられ、人を祝福し、生かすためのものです。
Ⅱ あなたは良くなった(14)
①見なさい
イエスは癒された彼を宮の中で再び見つけて、声を掛けられました。神が何をしてくださったのかを「見なさい」とイエスは言われます。先に会った時は病臥して不平をつぶやいていましたが、今は自由に歩き、宮に入り、神をたたえる一員と変えられています。
②もっと悪いこと?
「罪」と聞いてどんなことを思い浮かべますか。「もっと悪いこと」でイエスは脅しておられるのでしょうか。すべての病・不幸と罪を短絡的に結び付ける人は、神が罰を与える恐ろしい方と思い描くでしょう。本当に神はそのような方なのでしょうか。
③もう罪を犯してはなりません
イエスのことばは未来志向です(参照9:3)。彼が病から解放され、良くなったのは、再び罪を犯すためではなく、回復されたいのちに相応しい歩みをするためです(ロマ6:4)。安息日は神が人を生かし祝福し、人はその神を愛し、信頼を表す機会です。
Ⅲ わたしも働いている(17)
①わたしの父は働いている
安息日を破るイエスを責めるユダヤ人たちにイエスが答えたことばです。神は創造のわざを完成されて休まれましたが、人の罪によって壊されました(創3章)。直ちに神は救済と修復に動かれ、それは今なお続いています。御子イエスを遣わされたのはそのためです。
②わたしと父はひとつ(10:30)
だからイエスは安息日に人を癒し、生かすことを繰り返されました。安息日に為すべき神の御心だからです。ユダヤ人がこの日イエスに殺意を抱いたのとは対照的です。イエスと父なる神は思いもわざも一つです。しかし、彼らにはイエスも自分と同じに見えました。
③きよい者へと育てるため
神聖は俗と区別され、教えられなければなりません。これを混同することが罪です。そのために安息日が設けられました。そこから父なる神のように考え、思い、物事を見、事を行うことを人に体得させるためです。そして、神と同じきよい心を持つ者へと育てられます。
<おわりに> 私たちの内に神の御像を映すために、父なる神もイエスも絶え間なく働いてくださっています。「主よ。どうぞ私にあなたの思いを教え、あなたとともに歩む者としてください。」(H.M.)
『互いに』 (エペソ1章3~14節、4章25~32節) 2021.8.1.
前回は、創世記から「神と人」との関係をみた
今朝は、エペソ書から「人と人」との関係を見る
Ⅰ 神のご計画、目的(1:3~14)
①私たちを神の子とするため(5)
世界の基が置かれる創造の前から、
神の家族の一員として迎える計画だった
②キリストにあって全てのものが1つになる(和解)(10)
時がついに満ちて、神さまは計画を実行!
歴史の中でこの時が待たれていた
③父なる神がほめたたえられる(神の栄光)(3、6,12,14)
すべてのことが、このため
Ⅱ 個人的に神さまがして下さったこと(1:3~14)
①愛してくださった(5)
神の私たちへの愛は最初からあった
②罪を赦してくださった(7)
御子の血、十字架による神の豊かな恵みによる贖罪
③祝福してくださった(3、10、13、14)
健康や経済の祝福以上の霊的祝福 「天にあるものすべての」
Ⅲ 私がすること(4:25~32)
神様がしてくださった事をわたしたちがお互いにする
①互いに愛し合う(25~32)
互いを1つのからだの一部分だとして真実な関係を築く
②互いに赦し合う(31、32)
キリストが私たちを赦してくださったように、互いに赦し合う
③祝福し合う(28、29)
言葉で人の徳を養い恵みを与える。具体的に行動に表す
<おわりに>
神さまは、私たちを愛し、罪を赦し、祝福してくださっている
私たちも、共同体として、互いに愛し合い、赦し合い、祝福し合いましょう!
そのことによって、神が現わされる(M.M.M)
『良くなりたいか』 (ヨハネの福音書 5章1-9節) 2021.7.25.
<はじめに> ことばが人の心に届き、人を動かし、予想外の展開に至ることもあれば、空しく響き、ことばが踏みにじられることもあります。文字にすれば同じことばでも、その効果に雲泥の差があるのはなぜでしょう。この箇所でイエスはたった二言発しただけです。しかしその結果は絶大です。
Ⅰ 近づくイエス(1-6)
①祭りの傍らで(1-4)
何の祭りかは分かりませんが、巡礼者の一人としてイエスもエルサレムに上られました。
華やかで歓喜に満ちた祭りの喧騒の傍らに、治癒困難な病を抱える大勢がいます。
この病人たちは、なぜベテスダの池の周囲にいたのでしょうか(脚注3-4節)。
②ベテスダの池(2-4)
神殿の北側、羊の門の近いベテスダ池は、南北2つの池を5つの回廊が囲み、大勢の病人たちはそこに横になって、癒されるために千載一遇の機会を待ち望んでいました。ベテスダは「神のあわれみの家」の意、その名で呼ばれるようになったのはなぜでしょう。
③そこに…イエスは (5-6)
そこにイエスは現れ、一人の人に目を留められます。池のほとりで横たわるその人の風采はどうで、そこからどんなことがわかったでしょう。イエスは見て、知って、語り掛けます。それは、今を生きる私たちにも同じです。
Ⅱ 語り掛けるイエス(6-9)
①「良くなりたいか」(6)
苦しみ悩む人にどう声掛けしたらよいかと、私たちはことばを探します。イエスは彼に「良くなりたいか」と声を掛けます。問われた人はどう思ったでしょう。当然わかりきっていることを、イエスはあえて尋ねたのはなぜでしょう。声を掛けられると、人はその方を向きます。
②病人の答え(7)
38年間の彼の葛藤がことばに溢れています。何度か水が動くのを、癒される人を見たのでしょう。しかし、助け手がないから、競争に負けたから、彼は今もここにいるのです。切々と訴える彼のことばから、彼が何を願い、何に期待していると読み取ることができますか。
③「起きて床を取り上げて、歩きなさい」(8-9)
このことばは彼が癒されて後に掛けられたのではありません。普通なら「無理です」と答えそうなものです。しかしすぐに彼は治って、床を取り上げて歩き出しました。このことから、イエスとはどういう方だと分かりますか。イエスのことばが彼に何をもたらしたのでしょう。
Ⅲ イエスのことば
①すぐそばにある
世間も彼も、この池で起こる奇跡に神のあわれみを見ようとしました。しかし、神は自由な方です。彼の傍らにイエスが立ち、声を掛け、癒されました。イエスはあわれみを示すために神が遣わされました。イエスのことばで、彼は池の水面からイエスに向き直ります。
②方法と目的
彼は長年の病から癒されることを切望していました。そのために池のほとりに来て、水の動くのを待ち、真っ先に入ろうとし、助けが与えられることを願っていました。方法が目的へと次第にすり替わることはよくあることです。イエスのことばは、それに気付かせるものです。
③ことばの力
イエスの御業は型どおりではありません。ここでは彼は癒しを求めてもおらず、イエスは手を置いて祈ってもいません。ただ彼を思い、一方的に命令されました。彼には何もできないからです。そのことばを聞いて、彼はその通りにしたのです。そこに信仰が見られます。
<おわりに> ことばはその人そのもの、その心・思いが滲み出ます。ことばのやり取りを通して、人格と人格、心と心がふれあい出会います。私たちはイエスのことばに触れるとき、イエスと出会います。イエスのことばに振り向き、耳を傾け、そのことばに身を委ねていますか。(H.M.)
『聖書の中にいのちがある』 (ヨハネの福音書 5章39-40節) 2021.7.18.
<はじめに> 39節はイエス・キリストの言葉です。「聖書を調べなさい。というのは、あなたがたは聖書の中に永遠のいのちがあると思っているからです。その聖書は、わたしについて証ししているものです。」とも訳されます。聖書に何を期待して、あなたは聖書を手に取っているでしょうか。
Ⅰ 永遠のいのちがある(39)
①二つのいのち
「いのち」を身体の生命と捉えることは容易です。それは有限、死によって終わるものです。ならば「永遠のいのち」とは、どんなものでしょうか。永遠のいのちなど存在しない、と言う人もいますが、あると思う人もあります。あなたは、あなたの周囲の人は、どちらですか。
②終わりのないいのち
「あなたがた」(39)はユダヤ人です(18-19)。永遠のいのちには、不死不滅、神秘的、霊的、宗教的なイメージがあります。ユダヤ人だけでなく、古今東西の人間の営みの中にそれは見出され、意識され、大切に扱われています。
③いのちの実証
私たちはいのちの表れからその有無や状態・状況を確認できますが、いのちの実像をとらえてはいません。永遠のいのちには始まりがありますが、終わりはありません。いつ始まるのでしょう。死後でしょうか。それとも生きている今でしょうか。
Ⅱ 聖書の中に(39)
①有力証拠がある
不明を確実にするには、有力な証拠が必要です。永遠のいのちを死後からのものとするなら、生きている人は未経験です。経験した死者の証言は聞けません。しかし、永遠のいのちについて証言するものがあります。永遠の神ご自身とその言葉である聖書です。
②聖書とは
聖書は生ける神のことばで、神が霊感を与えた人々に記させました。その代表格がモーセで、ユダヤ人にとっては、モーセが民族の父祖に残した神の律法こそ聖書のコアです。彼らはそこに永遠のいのちが隠されていると捉えていました。
③律法と永遠のいのち(マタイ19:16-22)
イエスの許に来た青年とのやり取りに、当時ユダヤ人が抱いていた理解が表れています。「いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい」とイエスも言われますが、話はなお続きます。青年は真剣に取り組んでもまだ確信できず、最後は悲しみながら去って行きます。
Ⅲ 聖書が証す「わたし」(39-40)
①聖書を調べなさい
聖書を持ち、読むその先のことです。厳密に分析・整理・論評する研究者になることでしょうか。まず聖書に何が書かれているのか、その物語・内容を知ることです。そして、そこに一貫しているテーマ、メッセージを汲み出し、自分の心と生活に適用することです。
②いのちに触れる
永遠のいのちが何か、どこから、どうしたら与えられ、それが人に何をもたらすのか、詳細な情報を得ても、それが永遠のいのちの実体ではありません。いのちはそれを持ち、生きることで実感できます。聖書はいのちを生きる実在を通して明らかにされます。
③わたしのもとへ(40)
先を歩んだ著名人の語録集を大切に反芻して生きる人がいます。聖書全体はイエス・キリストを指し示すと言われます。その情報・知識を得て、満足してはなりません。私たちと共に歩まれ、語り掛けられるイエスに日々お会いすることで、永遠のいのちを実感します。
<おわりに> 永遠のいのちは死後の永遠の世界へのパスポートだけではありません。「御子を信じる者は(今既に)永遠のいのちを持つ」(3:16)のです。それはイエス・キリストの人格と生涯に満ち満ちており、この御方を深く知り、交わり、根ざす者に注がれます(15:4-5)。(H.M.)
『神はそれを良き計らいに』 (創世記 50章15-21節) 2021.7.11.
<はじめに> 他人から迷惑・損失を掛けられたり、悪意・謀略にはめられたり、人の世には悲劇・悲惨が多くあります。そのような場面を私たちはどのように受け留め、消化し、乗り越えていますか。聖書の登場人物の物語から私たちは学ぶことができます。今日は創世記のヨセフを取り上げます。
Ⅰ ヨセフと兄弟の物語
①夢見る少年(37章)
族長ヤコブは最愛の妻ラケルの忘れ形見ヨセフに寵愛を注ぎました。ヨセフの生意気な態度と夢の話に、異母兄10人は彼を妬み憎みます。その後、荒野で牧す兄たちを訪ねたヨセフを彼らは隊商に売り、ヨセフはエジプト王の侍従長に売られ、仕えます(17歳)。
②一人エジプトで(39-41章)
ヨセフは主人の信頼を得ますが、主人の妻の誘惑を拒み、投獄されます。そこに王の側近も投獄され、ヨセフは彼らの夢を解き明かします。2年後、エジプト王が見た夢の解き明かしにヨセフが召し出され、王は彼を首相に任じて、国の運営を任せます(30歳)。
③エジプトでの再会(42-47章)
王の夢は7年の豊作、続く7年の大飢饉を示し、ヨセフは来たる飢饉に備えます。ヤコブ一族も飢饉に見舞われ、食糧調達に息子たちをエジプトに送ります。その応対を通じて兄たちの心の変化を知ったヨセフは正体を明かし、父一族をエジプトに迎えます(39歳)。
Ⅱ 悪しきはかりごとの中で
①40年目の安らぎ(15-21)
父ヤコブ亡き後、兄たちは過去の悪行にヨセフが仕返しを企てる不安に駆られ、父の言葉を添えてヨセフに赦しを乞います(15-18)。ヨセフが彼らに優しく語り掛け、安心させます(19-21)。長らく悪に悩み苦しんだ者すべてがこう言えるわけではありません(56歳)。
②悪意と悪行
兄たちは父に寵愛されるヨセフを妬み、彼の言動に苛立ち憎み、それはやがて殺意へと膨らみます。殺害は踏みとどまりましたが、冷酷に扱い、放逐し、生きているとは思っていません(ヤコブ1:15)。しかし、彼らはこれらのことは忘れ去ることはできません(42:21-22)。
③翻弄された人生
ヨセフは突然家族から引き離されて、一人異国で不自由な立場に置かれ、誤解・忘却・理不尽の中を歩みました。兄たちの悪意・悪行がなければ、受けずに済んだ事ばかりです。恨み、仕返しもできたでしょう。しかし、彼はそうしませんでした(45:5-8)。
Ⅲ 神が主語の証し(19-21)
①神がともにおられる(39:2-6、20-23)
患難・試練の中で、ヨセフは共におられる神に目を向けていました。抗えない荒波に呑み込まれる時にも、神は見捨てず、見放されません。すべてをご存じで、ご自分を信頼する者を覚え、その計画を着実に進められます。そう見えないときにも、神を信じていますか。
②神は変えられる(45:5-8)
人の悪意・悪行さえ、神の足元、御手の中にあり、それを用いて御意を実現されるから、信頼すべき偉大な御方なのです。この力強い御方に触れるなら、目の前で起きていることに一喜一憂することはありません。身近なところで働かれる神を見つけていますか。
③神は先を進む(45:5-8)
憎い弟を無き者にする計画が、彼ら自身を生かす布石になりました。背きと罪に気付いたとき、神のように断罪してはなりません。神はいのちの源、生かす御方です。その罪を赦し贖い、聖めて用い、栄光を現すのが、神の定石です。赦される道は先備えされています。
<おわりに> 人の世には様々な思惑と計画がうごめき、せめぎ合い、悩ませます。しかし、神はそれらの上におられ、人の悪さえ善に変えて、御意を実現される力ある方です。ヨセフや聖徒たち、イエス・キリストの生涯のように、私たちの歩みにもそれを見出せますように。(H.M.)
『頭とかかと』 (創世記 3章8-24節) 2021.7.4.
<はじめに> 善悪の知識の実を食べた二人の目は開かれました(7)。同時に、今までと違う状況が広がります。それは彼らだけに留まらず、私たち至るまですべての人に影響を及ぼしています。
Ⅰ 目が開かれて
①自分を知る(7、10)
人のありのままの姿は、神が造られた祝福そのものでした。しかし目が開かれた彼らにはそれを恥じ入り、直視できません(7)。彼らはどんな思い・考えを抱いたでしょう。それが善悪の知識とどういうつながりだったでしょうか。
②自分を隠す(10)
恥じ入る彼らは身を覆い隠します(7、8)。何から隠れたのですか。以前はどうしていたでしょう。「裸であるのを恐れて」(10)と隠れた理由を述べています。何を恐れていたのでしょう。私たちが物事を隠すとき、どんな思いが根底にあるでしょう。
③自分を守る(12-13)
人が何をしたのかを神は察知し、問い掛け、応答を求めます。神の問い掛けに人は正直に応答しているでしょうか。彼らが本当に言いたいことを、代弁してみてください。同じ言葉をあなたも言ったことはありますか。
Ⅱ 神の宣告
①蛇に対して(14-15)
神はこの出来事の当事者に宣告を下されます。善悪の判断は神の領分だからです。蛇にはのろいと敵意を与えます。神の創造の計画を覆そうと企て、まんまと成し遂げた神に敵対する者を、神は徹底的に対峙し、やがて彼の頭は打ち砕かれると宣告されます。
②女に対して(16)
本来神によって祝福された出産(1:28)が、女性にとって苦痛を伴うものとなりました。また、本来男と女は対等であり、お互いを補い助け合う関係でしたが、そこに支配・従属関係が入り込みます。今に至るまで私たちを悩ませている課題です。
③人に対して(17-19)
本来、神が造られた園の木から思いのまま食べられた(2:16-17)のに、生きる労苦(17-18)とその結末としての死(19)が決定づけられました。神よりも妻の声に聞き従った代償です。一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、全人類に及びました(ロマ5:12)
Ⅲ 神のあわれみ
①神は呼び掛けられる(9)
人の背信行為を全知の神が気付いていないはずはありません。しかし、あえて常の如く彼らに呼びかけられます。神は人を見限り、諦めてはいないからです。神の御声は、私たちにどのようにして届いているでしょうか。御声が聞いたなら、応えなければなりません。
②神は戦われる(15)
人を惑わし神に背かせた者は欺く者(Ⅱコリント2:11)です。神が創造された世界を罪によって破壊した敵対する者に、神は立ち向かわれます。確かに世界は変わりましたが、やがて女から生まれる者が、彼の頭を打ち砕くと約束されます。御子イエスがその御方です。
③神は覆われる(20-21)
妻に「生きる」の意の名をつけたのは、どんな思いからでしょう。神は彼らのために、いちじくの葉に替えて皮の衣を着せられ、裸を覆われました。そのために血が流されました。これは罪を犯した人への神からのメッセージです(ロマ5:8)。
<おわりに>神とその確かな言葉を疑い背くのは、今に至るまで続き、同時にその結果と影響が人の世界に今もなお及んでいます。しかし、神は負かされてはいません。諦めてもいません。あの日に宣告されたあわれみと救いを携えて、呼びかけられています。(H.M.)
『本当に言われたの?』 (創世記 3章1-10節) 2021.6.27.
<はじめに> 「壊れた印刷機」と評されるほどの情報社会で、言葉が氾濫しています。しかもその内容、真偽、意図、目的もさまざまです。その中から信頼すべき言葉を見出すために、また間違った情報に振り回されないために、私たちは何に注意・注目すればいいのでしょうか。
Ⅰ 神に造られた人(1-2章)
①神のかたちとして(1:26-27)
神はご自身に似た者として、人を造られました。他の被造物・生き物とは大きく異なります。人間らしさは「神のかたち」にあります。いのちの息を神が吹き込まれたからです(2:7)。霊的存在で人格を有し、意志・理性を働かせて道徳的な判断ができるよう造られました。
②ことばを交わす(2:18-23)
神は人に「あなたは…」と語られます(2:16)。神は人と語らい、ことばを交わし、人格的な交わりを持つことを望まれて人を造られました。人も交わり・語らいの中に喜びを見出し、助け・励ましを得ます。その相手にと、神は男と女を造られました。
③神は何と言われたか(2:16-17)
神である主は…園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた(2:9)。神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
Ⅱ 人と蛇(3:1-10)
①蛇が話す(1)
蛇は、神が造られた生き物、人が支配するもの(1:28)の一つに過ぎません。それが人に話し掛け、誘惑します。賢さと語る言葉に、蛇の背後にいる霊的な存在、サタンが隠れています。彼は神のことばを改ざんして人に問い掛けます(3:1)。どう変えられているでしょう。
②蛇がだます(2-6)
女の応答は神の命令とどこが違いますか。蛇は女に「決して死にません」と断言します。神よりも蛇のことばに女が惹かれたのはなぜでしょう。女は蛇のことばを、何によって確かめようとしたでしょうか。確かめる方法は他にあったでしょうか。
③実を取って食べたので(7-10)
善悪の知識の木の実を食べた二人に、どんな変化がありましたか。その変化に彼らはどう対応しましたか。神は「必ず死ぬ」と言われましたが、彼らは死にましたか。神のことばが本当ならば、この変化の中に、神が言われた死があるはずです。
Ⅲ 目が開かれて
①ことばを確かめる
言葉が真実かどうかは、誰が何を言ったのかを戻って確かめることは基本です。それを自分の主観で判断したことで誘惑に陥りました。また、言葉の主を個人的にどれだけ知っているかも大切です。発言者がどういう人かを知るほどに、ことばの真意が見えて来ます。
②善悪を知る
5節で蛇は、神は本当のことを隠している、人も神のようになれるはず、と言います。これは神の創造の意図を曲げています。善悪の判断を完全にできるのは誰でしょう。人間にできるでしょうか。目が開かれたとしても、神のようにではありませんでした。
③「必ず死ぬ」とは
蛇の言うとおり、肉体的には彼らは死にませんでしたが、神への愛と信頼は恐れに変わり、目は開かれましたが、神に造られた自分を恥じ、互いの違いを受け入れられなくなりました。もはや神を愛し信頼することができず、自分本位になったのです。
<おわりに>今も人々は信頼すべき言葉を求めてうごめいています。神のもとに戻ることは人からはできなくなりました。しかし、神はなおも人を愛しておられ「あなたはどこにいるのか」と呼びかけられ、救いの御手を差し伸べておられます。それは8節以降に記されています。(H.M.)
『招かれているのに』 (ルカの福音書 14章15-24節) 2021.6.20.
<はじめに> 招待券をいただいたなら、どうされますか。行くか行かないかは、何によって決めますか。気が進まない中でも招待に答えたことで、意外に素晴らしい経験をすることもあります。イエスは招くために神から遣わされました(5:31-32)。
Ⅰ 食事の席で(1-15)
①招かれたイエス(1,12)
イエスは食事をするために、パリサイ派の指導者の家に招き入られました(1,12)。
パリサイ派は律法厳守を旨とし、これまでイエスとは何度も意見が対立していました。
なのに、どうしてこの人はイエスを招き、イエスもこの人の招きを受けられたのでしょう。
②招き、招かれ(7-14)
イエスは、7-11節で招かれた人が席次を選ぶ様子から、高慢の愚と謙遜の徳を説きます。12-14節では、招待者からのお返しを期待しない幸いを示されます。その人は、「義人の復活のときに、お返しを受けるのです」。いつ、誰から、どんなお返しを受けるのでしょう。
③これを聞いて(15)
「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と客の一人がイエスに言います。
彼がこう言ったのは、イエスの話を聞いていたからです。その人はどんな人でしょうか(3)。イエスの話のどこを受けて、こう言ったのでしょう。だれに向けて言った言葉でしょうか。
Ⅱ 盛大な宴会(16-24)
①前もって招かれた人たち(16-20)
15節を受けてイエスは盛大な宴会のたとえを話されました。事前に招かれていた人たちに、主人はしもべを遣わし「さあ、おいでください」と招きますが、彼らはみな断ります(24)。「断る」は口実を設けることです。その背後にある彼らの考え・思いは何でしょう。
②急に招かれた人たち(21-22)
宴会の席数は事前招待客数程度でしょうか。急に断られたから、他の人を招いたのでしょうか。しもべが「お命じになったとおりに」(24)したのは、21節で主人に報告する前です。ならば、主人は元々貧しい人、からだの不自由な人も招くつもりだったのです。
③無理に招かれた人たち(23)
それでもなお席が余っています。「無理に」は強いて(文語訳)願って、説得してで、力ずくではありません。街道は町外れの道、垣根は農園にあります。遠くにいる人、先に断った人、関心を示さなかった人にも再三招き入れるように、主人はしもべに命じます。
Ⅲ 神の国で食事をする人
①食する幸い
食事に招かれるのは親愛の表れで名誉なことです。高名な人からの招待はなおさらです。「神の国で食事をする」とは、神に愛され、信頼され、認められた証しです。どんな人がそれに与れるとイエスは言っているでしょう。15節の客はどう考えていたでしょう。
②招かれている
順序・方法は違っても、みな宴会に招かれています。イエスは主人に神を重ねています。招待に応じることが、その祝福に与る条件です。神からの招きは、順序立てて、さまざま方法ですべての人に掛けられています。それを聞いていますか。どう応じていますか。
③用意はできている
17節は神の国の招きに通じます。主イエスの十字架と復活は、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つため(ヨハネ3:16)の整えで、完了しています。「さあ、おいでください」の声に応じて、あとは各々が出向くだけです。
<おわりに>本来、人に必須なものの多くは無代価で提供されています。自分が労せず犠牲を払わずに用意されたものを、安易に断り、無駄にしてはいないでしょうか。神は招待に応じる者で家が満ちるまで招きます。その一席は私のため、あなたのために用意されています。(H.M.)
『いのちを持つため』 (ヨハネの福音書 3章11-21節) 2021.6.13.
<はじめに> 10節以降、黙り込む教師ニコデモにイエスが語られた箇所です。それが15節までか、21節までか、意見は分かれます。「生まれなければ…」(3,5,7)と語られたことは、「永遠のいのち」(15,16)と言い換えられています。いのちに関わることは、常に最優先の必須事項です。
Ⅰ 人の子の証し(11-15)
①地上のこと(11-12)
二人の会談なのに、「わたしたち」「あなたがた」(11,12)には誰が加わっているのでしょう。イエスは霊的・人格的刷新を語られ、聖書にもその体験・見聞の証言が数々あります。
しかしニコデモはあり得ないこと(9)と受け入れませんでした。
それは彼だけではありません。
②天上のこと(12-13)
12節後半はイエスの嘆きですが、なおも語り続けられるのはなぜでしょう。
天は神の領域支配で、そこに至った人はいません。
「しかし、天から下ってきた者、人の子は別です」と言われます。それは誰のことでしょう。そのような者がいるなら、証言を受け入れますか。
③上げられる人の子(14-15)
14節は民数記21:4-9の故事を引用して、モーセが上げた蛇と人の子を重ね合わせます。「蛇を仰ぎ見ると生きた」ように、人の子を信じる者はみな、永遠のいのちを持つのです。人の子が天から下るとは、また上げられるとは、具体的にどういうことなのでしょうか。
Ⅱ ヨハネの証し(16-21)
①神は…愛された(16-17)
世は人間とその世界です。神はこれを愛されました。
愛が神の本質・性質です。
神の愛はどう表されましたか。その目的は何ですか(消極的と積極的があります)。
その目的を人が享受するためにどうすればよいのでしょうか。
「愛された」と過去形なのはどうしてでしょう。
②人々が…愛した(18-20)
神の愛は「光が世に来ている」と現在形です。
それは人々の愛の歪みを投影します(19)。
自分の行いが悪く、明らかにされる光を憎み、拒絶し、そのまま闇に留まります。
さばきとは、彼の言うとおりに、為すがままに放置されることです。
モーセの故事にも見られます。
③真理を行う者(21)
揺るがない神の愛を、神が望まれるように受け入れることが真理です。
自分の心と生活を神の愛の光に照らされ探られることへと進み出る者を、
神は滅ぼされず、むしろ神とともに生きる永遠のいのちを与えられます
(生まれる=be born:受動態)。
<おわりに> いのちは交わり・活動・成長と直結します。神の前に生き、人らしく愛に生きるためにイエスが語られる天から与えられる永遠のいのちは必須です。
神は御霊によって人にいのちを吹き入れようと、御子イエスを遣わされました。
十字架は信じ見上げるしるしです。(H.M.)
『風は思いのままに』 (ヨハネの福音書 3章1-10節) 2021.6.6.
<はじめに> 目に見えない事柄、霊的なことを人に教えることは、そう簡単ではありません。ヨハネの福音書は、具体的な出来事に続いて、イエスがそこから霊的な真理を教え、解き明かそうとされています。この箇所もその一つです。ニコデモがイエスを訪ねたことから物語は始まります。
Ⅰ 夜の訪問者(1-5)
①ニコデモという人(1-2)
この箇所から、ニコデモという人物についてどんなことが分かりますか。
イエスを訪ねたのは彼一人でした。どうして夜に訪ねたのでしょう。
②「先生。…知っています」(2)
彼は最高の誉め言葉をイエスに伝えました。その教えは神由来で、しるし(御業)は神の臨在の表れだと認めたのです。そう見ている人は彼一人だけでしょうか。
③イエスの応対(3、5)
ニコデモの「…知っています」に対して、イエスはどう答えられたでしょう。
3・5節のイエスの答えで繰り返されている言葉を見つけてください。
Ⅱ あなたに言います(3-10)
①神の国(3、5)
ニコデモに、イエスは神の国を見、入る鍵を示されます。イエスはどうして神の国について語り始めたのでしょうか。ニコデモはイエスに教えとみわざに神の表れを見て興奮気味です。しかし、イエスは彼に神の国、神の領域に目が開かれることを望まれます。
②生まれる(3-8)
神の国を見るには、新しく生まれる必要がある(3)、と聞いてニコデモは常識的に返します(4)。イエスはさらに、水と御霊によって生まれる、と言い換え(5)、肉(体)的ではなく霊的な誕生だと説かれます(6)。
③厳しい言葉(9-10)
しかし、ニコデモは「どうして…」(9)と問い直します。イエスは答え(10)は厳しい言葉です。それは神に目を向けたニコデモに、イスラエルの教師として奮起と覚醒を促す期待の裏返しとも取れます。これは同時に、この箇所に触れ、同じ疑問を抱く者への励ましです。
Ⅲ 御霊によって生まれた者
①神の王国(kingdom)
神の国は王国で、王は神です。神の国の祝福に与るのは国民、その国で生まれ、そこに生きる者です。神はその民のいのちを育む方です。その国民は、王なる神の民として生まれ、神との関係に生きることが求められます。
②どうやって生まれる(4)
ニコデモは自分で神の国を見たかのように語りましたが、イエスは神から生まれる経験を問われます。水と御霊(5)は、悔い改めとイエスによる新生です。「新しく」は上から、即ち肉体の命とは別の、御霊によって与えられるいのちを宿す経験がその始まりです。
③風は思いのままに(8)
目に見えない神と霊の世界があることにニコデモは気づきました。それは音で風に気付いたのと似ています。しかし、風がどこからどこへ吹いて行くのかは分かりません。霊の世界は王国の主権者・神の領域で、人が知性によって論理的に解明・解説してはいません。
<おわりに> うまく説明できなくても、それを体験していることで分かる世界があります。いのちの分野の多くはそうであり、霊的な世界は正にそうです。風(霊)は思いのままに吹き、神の御心と御業を実現します。神よ、私に霊(息)を吹き込んでくださいと祈ろうではありませんか(H.M.)
『「礼拝」って何?』 (創世記1:26-27、ルカ10:38-42) 2021.5.30. (M.M.M.)
<はじめに>昨年6月2日に王子教会の牧師館に引っ越してちょうど丸1年、コロナ禍中の着任となり、お互いにとって異例のスタートでした。ネガティブな状況での制限のある礼拝、教会活動が1年以上たった今も余儀なくされています。そして、この状況は何時まで続くのか見当もつきません。今朝は王子教会での初めての礼拝メッセージ、「礼拝」とは何か?を共に御言葉に聞きましょう。
Ⅰ. 礼拝の本質=神様との「関係」(創世記1:26-27)
1. 人間の創造(26)
神は仰せられた。『さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう』
2. 創造主は「われわれ」(26)
ヘブル語「エロヒム」複数形、伝道者の書「あなたの創造者」=ボレイカ=創造者たち
「われわれ」=父なる神・子なる神である主イエスキリスト・聖霊なる神
完璧な関係、麗しい交わり、完全な一致があった。「三位一体」
3. 神のかたち、神に似せて(27)
27節には「(神が)創造される」が3回も繰り返されている。
かたち、似せて=神様にはボディとしての形はない。霊的な存在、いのち
「エロヒムの神」の間にあった完璧な関係を人と持ちたいと願われた。
私たちは、神様が持っておられる霊的な性質=「愛」と「聖さ」=を頂いた。
Ⅱ. 礼拝のありかた(ルカ10:38-42)
1. マリヤの礼拝(39)
「主の足元」:理想の礼拝の姿、主も喜び、推奨している。
主の顔を慕い仰ぎ見、主の声を聴く。他の者、声は見えない、聞こえない。
マリヤの礼拝のあり方は、理想的であり、模範的、それは本当に素晴らしいし、
イエスご自身がおっしゃる通り「ただ1つの必要なこと、良い方」
2. マルタの礼拝(38、40)
一般的にマルタの言動は「ダメな例」として取り上げられる。
「イエスを迎え入れた」(38)「いろいろなもてなしのために心が落ち着かず」(40)
行動でイエス様への愛を表す。それがマルタなりの礼拝のあり方だった。
ギリシャ語での「礼拝」は「公共奉仕」という意味の言葉が使われている。
3. 私たちの礼拝
このコロナ禍で家庭での礼拝では専念し、集中するには戦いがある。
<終りに>
・ 『礼拝』は、「主の招きに応じて」「主の体であり、主にある共同体の家としての教会」に、
それぞれの「生活から時と場所を聖別して集まり」「礼拝を受けるにふさわしい主」に
「霊とまことをもって」「主にある家族と共に」「主への賞賛と賛美を捧げる」こと
・ 神によって霊的な存在として造られ、御子イエス様によって救われ、
聖霊によって主を賛美し、礼拝するものとされた者にとっての喜び、祝福
・ そして、それを共同体として主にある家族と共に礼拝を捧げ、御言葉と祝福を受け取り、
共に分かち合える事は最高の喜び、祝福
・ しかし、今は共同体として同じ場所で礼拝を捧げることが困難な時
・ マルタとマリヤの礼拝は彼女たちの家。そこにマルタはイエス様を喜び勇んでお迎えし、
マリヤは自分の家にイエス様のために場所を整え、その最前列、主の足元に座った。
・ 私たちも、家庭においての礼拝にマルタのように主を歓迎し、
マリヤのように主の足元に座り、その御言葉に霊をもって聞き入り、主の臨在を感じ、
主との豊かな交わりをの中にある祝福を、それぞれの場所で、共に味わっていきましょう!
『約束はすべての人々に』(使徒の働き 2章14-24,32-39節) 2021.5.23.
<はじめに>今がどんな時か、これからどうなるかを知ることは至難です。「新しい段階(フェーズ)に入った」と言われる転機があります。使徒の働き2章に描かれているペンテコステの出来事は世界と歴史の片隅の出来事ですが、大きな変向点です。
Ⅰ 五旬節の日に
①50日目の祭日(申命記16:9-12)
大麦の刈り入れ開始から7週間で大麦の収穫が終わり、小麦の収穫へと移る「初穂の日」(民数28:26)です。かつてエジプトでの奴隷から解放されたことを覚えつつ、収穫を神に感謝し、家族だけでなくレビ人、奴隷、寄留者、孤児、やもめとともに喜び楽しむ時です。
②五旬節の出来事(2:1-4)
イエス昇天後、弟子たちはエルサレムに留まり、イエスから聞いた父の約束である聖霊を待ち望んでいました。五旬節の朝、天から突然激しい風の如き響き、炎のような舌が現れて彼らの上にとどまり、聖霊に満たされ、他国の言葉でおのおの話し始めました。
③出来事への反応(2:5-15)
エルサレムには、地中海沿岸諸国からユダヤ教徒が住まっていました。物音を聞いて彼らも集まり、自国の言葉で神の大きなみわざを語る弟子たちに驚き当惑します。「新しいぶどう酒に酔った」と嘲りの声に、ペテロと11弟子が立って群衆に語り掛けました。
Ⅱ 約束の実現
①預言の成就(16-21)
ペテロはヨエルの預言を引用し、神は「すべての人にわたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する」と語られたことが、今ここに成就したと語ります。やがて来る「主の大いなる輝かしい日」を前に、主の名を呼ぶ者はみな救われる「終わりの日」の始まりだと語ります。
②イエスの十字架(22-23)
ナザレ人イエスの力あるわざ・不思議なしるしは、聴衆も周知していました。しかしユダヤ教徒はローマの権力を使ってイエスを十字架につけて殺したのです。しかしこれらは、「神が定めた計画と神の予知によって」予め預言されていたことの成就でした。
③イエスの復活と(24,32-33)
「しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました」。人の行為を神が覆されたのです。その神の御計画と御意を人に教えさとし(ヨハネ14:26)、真理に導き入れる(16:13)ために、預言で約束された聖霊が注がれました。弟子たちはその初穂です。
Ⅲ 約束はなお続く
①一つが終わり、一つが始まる(36)
人々は神の御子イエスを十字架で殺し、人の罪は最高潮に達しました。しかし神はイエスをよみがえらせ、人をその罪から救うキリストとされました。罪が死を収穫した後に、永遠のいのちの収穫が始まったのです(ロマ6:23)。人の罪さえ、神は救いの引き金とされます。
②神の先備え(37-38)
ペテロは自分の罪に気付いた人々に、悔い改めとイエス・キリストの名によるバプテスマ(洗い)を勧めます。人が悔い改める前に、神は救い主を先備えされました。どうしてなのでしょう。そうする者に聖霊が注がれ、神の御計画と御意へと導かれます。
③主が召される人への約束(39)
「召す」は権威者の召喚です。応じる者には栄誉、拒む者には死です。世の権力者と神は異なりますが、召しへの応答で明暗は明白です。主は、あらゆる国民に救いへと招かれます。ユダヤ人の罪の刈り取りが、全人類への救いの刈り入れの幕開けとなりました。
<おわりに> 主からの救いの招きは、すべての人をご自身へと招かれる収穫の時の始まりを告げるとともに、終わりの日が近いことも覚えなければなりません。収穫の時は限られています。「しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる」(21)の声に応じるのは、今です。(H.M.)
『判決の谷』 (ヨエル書 3章1-21節) 2021.5.16.
<はじめに> 物語がどんな終わり方を迎えるのかは、とても興味深いことです。今の状況と過去の出来事が今後どのように展開し、どう終結させるのかは、脚本家の真骨頂です。「主の日」は聖書が描くこの世界の結末の描写で、私たちはやがて来るその日をそこから垣間見ることができます。
Ⅰ 預言者ヨエルが描くもの
①ヨエルの時代の出来事(1-2章)
預言者ヨエルの時代に起こったイナゴ・バッタによる災禍と荒廃(1:1-2:11)は、イスラエルの民が主に立ち返る祈りへと向かわせます。主はそれに答えて救いと回復を与え(2:12-25)、彼らは主がともにおられることを知り(2:26-27)、主の霊を注がれる(2:28-29)と約束されました。
②やがて来る主の日(3章)
2章までで一応の終結が描かれ、当事者は安堵を得るでしょう。しかしヨエルは3章を記しています。彼らが経験した災禍と回復は、後に来る主の日の予表・しるしだと描かれています。この箇所には地名が列挙されて、イスラエルを囲む当時の諸国が出て来ます。
③地図を片手に
ツロとシドン、ペリシテ(4)は地中海沿岸、エジプトとエドム(19)は南方の隣接国です。ギリシア(6)、シェバ(8・サウジアラビア辺り)は当時の東西の遠国です。3章には3つの鍵括弧で主のことばが記されていて、イスラエルを含む諸国に及ぶ主の日を告げ知らせます。
Ⅱ 主のことば
①略奪と離散(1-8)
イスラエルの富と神殿の財宝は国々が略奪し、民は諸国に売り渡されて離散、その地は彼らで分割占有します。イスラエルの歴史を俯瞰しているかのような描写です。しかし、主は彼らを回復し、敵対する者の頭上に報復とさばきを下されるのが主の日です。
②周辺諸国への挑戦(9-12)
その日に向けて、周辺諸国はエルサレムに集められます。「聖戦を布告せよ」は諸国が主に逆らい立つ義憤の表れです。その動きにヨエルは主の軍勢の加勢を呼び求めます(11)。ヨシャファテの谷(2,12)はエルサレムとオリーブ山の間のキデロンの谷と見られます。
③主はシオンに住む(17-21)
第3の主のことばはイスラエルに向けてです。彼らを虐げた諸国は、その暴虐と血の報いとして荒れ廃れます(19)。ユダとエレサレムの山や丘は水が流れ、豊穣の地となり、人々が住みつき(18,20)、エルサレムが主が住まわれる聖なる所となります(17,21)。
Ⅲ ヨエルのメッセージ
①主は回復させる(1)
イスラエルは主を遠ざけ背いていたので、主は彼らに災禍を送られ、ご自身に立ち返るように促されます(2:12)。真実に応じ、悔い改める者をあわれみ(2:13-14)、主の御名を呼び求める者を救い(2:32)、回復させる御方です。主は背く者をねたむほど愛されます(2:18)。
②主は裁かれる(1-2,14)
主の民が回復されるその日、その時、そこに主に敵対する者も集められ、その場を判決の谷(14)として主が裁きの座に着かれます(2,12)。ヨシャファテは「主は裁かれる」の意です。主が人の行状の報いをその頭上に返されることを、厳粛に受け留めねばなりません。
③主を知るようになる(17)
「主を知る」は預言者が多用する表現です。知識や受け売りの情報ではなく、個人的な神体験です。主は今も生きておられ、全てを治め導かれる御方で、私たちとともに住まわれる、インマヌエルの主です。聖霊が注がれ、内に住まわれることがその成就です。
<おわりに>パウロが奥義と語った内住のキリスト(コロサイ1:27)の実現を、ヨエルは遥かに望み見ました。これは私たちにはペンテコステで実現しています。同時に主の日が近いことを知り、自ら身を慎み、あわれみの主を呼び求めるように証しする務めが委ねられています。(H.M.)
『わたしのもとに帰れ』 (ヨエル書 2章12-32節) 2021.5.9.
<はじめに> 雨雲の上にも太陽が輝いていることは誰も否定しないでしょう。しかし、眼前に広がる現象・状況には注目しても、その先・背後にあるものを洞察できない人は珍しくありません。ヨエルは主からメッセージを預かり、人々にそれを伝えるために立てられた預言者の一人でした。
Ⅰ 主の日が来る(1-11)
①雲と暗黒の日
イナゴ類の襲来を軍隊の侵攻に例えて描いています(1-11)。未曽有の災禍は豊饒の園を荒野に変え、地は震え、天体の輝きも隠し、人の防御・抵抗も乗り越えて圧倒的な威力で蹂躙します。諸国の民はもだえ苦しみ、その先の死の恐怖に震えおののきます。
②主の日は近い
この災禍の描写は主の日の予表・しるしです。主の審判は確実に訪れます。人はそれに抵抗できません。今、目の当たりに見る災禍に優るとも劣らない、前代未聞の厳粛な時が、すべての人に訪れます。だれがこの日に耐えられるだろう(11)、と預言者は叫びます。
③先頭に立つ主(11)
1節の号令は主の声です(11)。その声に災禍をもたらす軍勢は一気呵成に襲い掛かります。私たちが直面する苦難・試練の背後に、主が確かにおられます。来たるべき主の日を前に、主は私たちに真剣に向き合い、大切なことを示そうと先頭に立たれます。
Ⅱ しかし、今でも(12-17)
①「わたしのもとに帰れ」(12-14)
災禍をもたらされた主は、民に呼び掛けます。預言者はその言葉を継いで、主の豊かなあわれみと恵みを指し示します。「心を引き裂け」は現状を悲しむだけでなく、主に対する真剣な悔い改めの告白です。その促しに応じる真摯な者を主は思い直してくださいます。
②シオンでの角笛(15-16)
災禍の侵攻の角笛(1)は、同時に主の民へのきよめの集会の招集の角笛(15)です。断食は真に必須なものに心を向ける営みです。年代・性別・立場を越えて、あわれんでくださる主にすがり求める者を集め、共に主に近づき祈ることは、状況打開のカギです。
③祈りを導く預言者(17、ロマ8:26)
非常時にどう祈っていいのか、執り成す祭司さえ分からなくなっていたのでしょう。預言者は彼らの祈りを導きます。弟子が祈りを教えてください、と言ったとき、主は「こう祈りなさい」と主の祈りを導かれました。状況に適った祈りの言葉を蓄えているでしょうか。
Ⅲ 主の日に続く物語(18-32)
①主は答えられた(18-24)
主はご自分に属するものをねたむほど愛し、深くあわれまれます。神の不朽の品性です。主は彼らの祈りに応えて、災いを遠ざけ(20)、雨を降らせて(23)地は再び産物を生じ(19,22)、人々を労働と収穫の喜びで満たされます(24)。主の大いなる御業です(21)。
②主を知る(25-27)
災禍を与えた主が「あなたがたに償う」とは、どういうことでしょう。そこから主とはどういう御方と分かるでしょうか。主による生活の回復で満足してはなりません。あわれんでくださった主の名をほめたたえ、すべてにまさる神、主がともにおられることを心に刻むのです。
③わたしの霊を注ぐ(28-32)
老若男女すべての人に、主はわたしの霊を注がれます。これはペンテコステ(使徒2章)で実現する預言です。霊を注ぐとはどういうことで、注がれた私たちはどうなるのでしょう。夢・幻は、儚い不確かな人由来のものではなく、神である主が見せてくださるものです。
<おわりに> 主の日の二面性を主を知る者は弁えています。主の大いなる恐るべき日(31)にも、主の御名を呼び求める者はみな救われます。そして厳粛な主のさばきと報いが進む中にも、主が呼び出す者(32)を主は残されます。私がその一人になれますように。(H.M.)
『主に叫び求めよ』 (ヨエル書 1章1-20節) 2021.5.2.
<はじめに> 連休を迎えましたが、昨年に続きステイホームを求められています。この時期をどう過ごそうかと苦心しています。我慢には限界がありますが、忍耐はその先に進むことができます。明確な目的と目標があるからです。私たちは何にそれを見出しているのでしょう。
Ⅰ 未曽有の危機(1-7、17-20)
①預言者ヨエルの書(1)
ヨエルは「主は神である」の意味です。旧約に同名異人が13人いる一般的な名前です。この預言者ヨエルは、ペトエルの子である以外は不明です。王名が無く、周辺国の記述等から、紀元前830年頃、南ユダ王国ヨアシュ王幼少期と見る学者が多いようです。
②イナゴ・バッタの大発生(2-7)
本書の背景にはイナゴ類大発生による食害がありました。昨春にもアフリカから東南アジアで起こっています。強大・膨大な軍勢に匹敵する威力で襲いかかり(6)、4度の波状被害が描かれ(4)、その結果、作物も草木も食い尽くされて、国土は荒れ廃れました(7)。
③焼き尽くされた牧場(17-20)
干乾びた大地に残った種を蒔いても生長せず、穀物蔵は空しく放置されました(17)。家畜たちが食む牧場も無くなり、さまよい滅んでゆきます(18)。枯れた大地を野火がなめ尽くし(19)、水の流れも涸れて、野の獣さえもあえぐほどの窮乏に見舞われました(20)。
Ⅱ 喜びが消え去った(8-16)
①喪に服す民(8-12)
畑は無残な姿になり(10)、野のすべての木々が枯れました(12)。何とか立て直して、翌年新芽が出る見込みさえ断たれるほどです。農夫は収穫が無くなり(11)、飲む者の口から酒は断たれ(5)、主の宮への献げ物も断たれ、祭司たちも喪に服す他なくなりました(9)。
②喜びが消え去った(12、16)
働ける場がある、労苦の先に収穫がある、収穫の実を食する、収穫の感謝を共に喜び、神に感謝する、さまざまな困難課題の中でも次を期待できる。これらは生きる喜びと楽しみです。今やこれらは人の子らから取り去られ、雲散霧消となりました。
③主の日は近い(15、マタイ21:43-44)
思いもよらない破壊と苦難の現状を、預言者は近づく主の日と重ね合わせて見ています。公正な支配者であり審判者である神なる主がこの地に臨まれる時、主は地に報いと裁きをもたらされます。その日は高ぶる者には破壊の日、へりくだる者には救いの日です。
Ⅲ 主に向かって叫び求めよ(13-14、19)
①祭司たちへ(13)
預言者は同じ神に仕える祭司たちにまず呼び掛けます。歓喜と祝福は剥ぎ取られました。粗布をまとう真摯な悲嘆を表す先陣としてです。献げ物が退けられたとは、主が拒絶されたのでしょうか。主に感謝して献げる収穫も主の恵みで、それが差し止められたのです。
②すべての者へ(14)
食物が断たれること(16)と断食とは何が違うのでしょう。祭司たちを通して全国民を集め、心一つにして神なる主に叫び求めるように命じます。主の御前で心を溶かされて、心と生活の中に潜む罪汚れ、反抗・怠慢と不服従の灰汁を取り除き、きよくされるためです。
③預言者の役割(19)
預言者ヨエル自身が、口火を切って主を呼び求めています。これが預言者の役割です。今も神なる主は、ご自分の民・祭司・預言者にまず呼び掛けられます。地の上には絶望しか見えないとき、主に叫び求めるのはここからしか始まりません。
<おわりに> ヨエル書はペンテコステの日のペテロの説教で引用されています(使徒2:16-21)。今月23日のペンテコステに向けて、この預言者ヨエルのことばは、私たちに真摯な反省吟味から来る悔い改めと、主のあわれみと救い・きよめを叫び求めるようにと促しています。(H.M.)
『わたしに従いなさい』 (ヨハネの福音書 21章15-25節) 2021.4.25.
<はじめに> 「ガリラヤに行くように…そこでわたしに会えます」(マタイ28:10)のとおり、弟子たちは漁をしている最中にイエスに声を掛けられ、出会います(21:1-14)。主イエスとお会いする場面は、こちらの意図した時・場面とは限りません。イエスは普段の生活の中に近づき、語り掛けられます。
Ⅰ イエスの問い掛け(15-17)
①「あなたはわたしを愛していますか」
食後、イエスはペテロを連れ出して(20)語り掛けられます。なぜそうされたのでしょう。イエスがペテロを愛しておられることが前提の問い掛けです。それを感じられる場面を見つけてください。ストレートな問い掛けですが、どのことばに強調点があると思いますか。
②3度問われた
イエスは同じような問い掛けを3度繰り返されています。3度問われたことがペテロの心を痛めたのはどうしてでしょう。3度繰り返すことで呼び覚まされる出来事がイエスとペテロの間にあったからです。マタイ26:31-35とルカ22:54-62を読んでください。
③「愛している」の意味
日本語では同じ「愛していますか」でも、1・2回目と3回目では違う語がつかわれています。アガパオ―は神的愛・無償の愛、フィレオーは友愛・相互愛です。どうしてイエスは3度目は用語を変えて問われたのでしょう。
Ⅱ ペテロの答え(15-17)
①はっきりとは答えられない
「愛しています」とペテロは答えられませんでした。愛していないわけではありませんが、愛している者らしい歩みができていなかったことも事実です。心の思いと行いとが分離していたからです。このようなことは私たちにも起こり得ることです。
②「主よ、ご存知です」
「愛しています」ではなく「愛していることは、あなたがご存じです」とペテロは答えました。どう違うのでしょう。ペテロが「あなたはすべてをご存知です」(17)の言葉に込めたのは、良く誇らしい自分だけでなく、失敗して恥じ入る自分の姿も含めたすべてです。
③主の前に進み出る
主と向き合うとき、私たちは自分の色んな面が見えて来ます。主の御顔の光のなせる業です。その光に示されたとおりに告白するとき、主はその罪を赦し、きよめてくださいます。Ⅰヨハネ1:7,9を読んでください。
Ⅲ 愛の発露
①わたしの羊を牧しなさい
牧するとは支配せずに放牧しながら世話をすることです。これまでのペテロは常に他の弟子たちに先んじようとしていました。主を愛するなら、主が愛された人々を支配するのではなく、それぞれを尊重しながら関わり、共に成長することができます。
②わたしに従いなさい(18-19)
良い牧者について、主はヨハネ10章に語られています。雇われた者は羊を置き去りにして逃げます。かつてのペテロもそうでした。しかし主は十字架を忍び、その後によみがえらえれました。その良い牧者の足跡に倣うようにと、招かれます(Ⅰペテロ2:21-25)。
③あなたは、わたしに従いなさい(20-22)
ペテロは後ろからついて来る弟子が気になりました。でも、それは彼とは無関係です。大切なのは主との個人的な関係です。
<おわりに> かつて失敗したペテロを立て直すために、主はこの時を用いられました。同じ主が私たちにも語り掛けられます。「あなたはわたしを愛していますか」と。(H.M.)
『夜明けごろ、イエスは…』 (ヨハネの福音書 21章1-14節) 2021.4.18.
<はじめに>
復活の舞台はエルサレムでしたが、ガリラヤにおいてもイエスが弟子たちに現れています。
Ⅰ 岸辺に立たれた(1-4)
①ティベリア湖畔(1-2)
ティベリア湖はガリラヤ湖の別称です。イエスは復活後に「わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます」(マタイ28:10)と言われ、それで弟子たちもガリラヤに向かいました。2節の7名はみなガリラヤ出身、うち4名は漁師です。
②「私は漁に行く」(3)
ペテロがなぜこう言ったのでしょう。「人間を取る漁師にしてあげよう」(マタイ4:19)と招かれた主はよみがえられたとは言えど、常に共にはおられません。これからを考えるとき、彼にできることは漁しか思い当たらなかったのでしょう。しかし、何も獲れませんでした。
③夜明けごろ(4)
いつからイエスは湖畔におられたのでしょう。岸辺に立つ前に何かしておられたのでしょうか(9)。イエスは弟子たちがこの辺りに来ると分かっておられたようです。弟子たちはイエスに気づいていません。しかし、イエスは弟子たちを見つめておられました。
Ⅱ 呼び掛けられた(5-8)
①「食べる魚がありませんね」(5-6)
岸から声がかかりました。朝方まで漁をしていたからです。「舟の右側に網を打ちなさい」との声に彼らは素直に従うと、おびただしい魚がかかり、網を引き上げられません。望外の大漁に彼らは何を思っていたでしょう。
②「主だ」(7)
この状況に似た出来事がかつてありました(ルカ5:1-11)。そこにもいた一人がペテロに「主だ」と叫びます。ペテロは上着をまとい、湖に飛び込んだのはどうしてでしょう。岸辺に立って、呼び掛けられた方が、主イエスだと気づいたのです。
③主に気付くとき
生活の中で、主がおられ、働いておられることに、私たちは気づくことがあるでしょうか。主とともに歩む中で経験してきたことも主は用いられ、私たちが主に目を向けるように呼び掛けられます。私たちの信仰が飛躍する瞬間です。
Ⅲ 招かれた(8-14)
①「何匹か持って来なさい」(8-11)
大漁の網を引いて舟も岸に戻りました。弟子たちは、主からどんな言葉を掛けられると思っていたでしょう。主は彼らの獲物も持って来るように言われ、網を引き上げると153匹の大魚が満ちていました。主は彼らの獲物を大切に扱われます。
②「さあ、朝の食事をしなさい」(12-14)
そこには炭火がおこされ、魚とパンもありました。誰が用意したものでしょう。夜通し働いた弟子たちに、主はまず食事を勧めます。パンと魚を分かち与えられる主の姿もかつて見た情景です(6:11他)。弟子たちは食しながら、何を考えていたでしょう。
③あえて尋ねはしなかった
目の前におられる方が主イエスであることを、弟子たちは十分わかっていました。人々は復活の真偽を論じますが、私たちは信じています。主はよみがえられて今も生きておられると確信するのはどうしてですか。どんな出来事でそれを実感できましたか。
<おわりに> よみがえられた主は、今も生きておられ、私たちをご覧になり、呼び掛け、御許に招かれています。主の姿を、御手の業を、その御声を、私たちの生活の中で見つけ、見続けるのが、信じる私たちです。(H.M.)
『イエスだと分かった』 (ルカの福音書 24章13-35節) 2021.4.11.
<はじめに> イエスは、よみがえったその日の午後、エルサレムから西へ約11㎞のエマオ村へと向かう二人の弟子に現れた物語です。近ごろエルサレムで起こった(18)ナザレ人イエスのこと(19)をイエス自身と語らっているのに、彼らはイエスだとは気づいていません。
Ⅰ イエスが分からない(13-24)
①姿が分からない(16)
二人はイエスの姿・声を知っていたはずです。しかし、イエスが近づいて声を掛けられて、語らう相手がイエスだとはわかりません。「目はさえぎられ」とありますが、何が彼らの目を覆っていたのでしょうか。いずれにしても、彼らはイエスを見ても分からなかったのです。
②十字架が分からない(18-21)
二人はイエスの弟子(13)としてイエスに期待・信頼していました(21)。「行いにもことばにも力のある預言者」によって、彼らは生ける神を実感していました。そのイエスが「それなのに…十字架に」つけられて殺されるとは、理解・納得し難い結末でした。
③復活が分からない(21-24)
二人の混乱はそれで終わりません。殺され葬られたイエスの遺体が墓に見当たらないと仲間が知らせ、しかも御使いが現れて「イエスは生きておられる」と告げたと報告を受けます。他の仲間も墓に遺体がないことを確認し、彼らは困惑を抱えながら歩いていました。
Ⅱ 聖書を開いて(25-29)
①イエスの予告(25-26)
彼らはイエスを預言者だと言います(19)。そのイエスは、自らの十字架と復活について予告していました(9:22,44,13:33,17:25,18:33)。しかし彼らはそのすべてを信じられません。ここから、心が「愚か」「鈍い」とはどういうことだと言えるでしょうか。
②聖書全体に書いてある(27)
「モーセやすべての預言者」は旧約聖書で、イエスを指し示しています(ヨハネ5:39,46)。脚注には多くの箇所が挙げられています。主の十字架と復活は、数々の物語に予表として描かれ、律法の本質、聖徒たちの賛美と礼拝の対象であり、預言のテーマです。
③もっと知りたい(28-29)
イエスの聖書の解き明かしから、神のご計画と御業に二人の目は開かれて行きます。もっと聞きたい、語らいたいと思い、イエスに懇願します。起こり来る出来事の背後に働かれる神様が見えてくると、今まで見えていた景色も変わって見える経験があるでしょうか。
Ⅲ 目が開かれて(30-35)
①パンを裂いて(30-31)
夕食の席でイエスはパンを取って祈り、裂いて彼らに渡されたその時、二人はそれがイエスだと分かります。何が気付くきっかけだったのでしょう。彼らが信頼し期待していたイエス、十字架で殺されたイエスが、確かに今生きておられることを確信した瞬間です。
②姿が見えなくなった(31-35)
イエスだと分かった途端、その姿が見えなくなりました。再び分からなくなったでしょうか。彼らはすぐにエルサレムに戻り、仲間たちにイエスがよみがえられ、確かにお会いしたこと、今も生きておられると証しします。見えずとも信じる者と変えられました(ヨハネ20:29)。
③心が燃やされる(32)
聖書が開かれる時、そこによみがえられて今も生きておられるイエスに出会えます。私たちが歩む道に、主イエス自ら近づき、ともに行き、語らい、この世界を統べ治められる神がおられ、私たちを愛し、支え、導いてくださることを示され、心は燃やされます。
<おわりに> 現実生活の中で、多くの人は「神は見えない。だからいない」と言います。私たちもその波に呑まれそうになります。聖書を通して、また主を信じる仲間を通して、生ける神、よみがえりの主にお会いでき、お互いの信仰が励まされますように。(H.M.)
『そこで会えます』 (マタイの福音書 28章1-10節) 2021.4.4.
<はじめに> 今日はイースター、主イエスのよみがえりの日です。十字架で死なれたイエスがこの日の明け方によみがえられました。死人がよみがえるとはなかなか受け入れ難いことですが、ここまで明言されているのは、よみがえったイエスに会った人たちがいるからです。
Ⅰ よみがえったイエスに会う
①エルサレムで
墓を訪ねた女たち(1-10)、女たちから知らせを受けたペテロとヨハネ(ヨハネ20:1-10)、園に佇むマグダラのマリア(ヨハネ20:11-18)、エマオへの道を下る2弟子(ルカ24:13-35)、部屋に閉じこもる弟子たちには2度にわたって(ヨハネ20:19-25)イエスは現れました。
②ガリラヤで
イエスは弟子たちにガリラヤでの再会を告げられ(7,10)、弟子たちも向かいます。ガリラヤ湖畔での突然の再会(ヨハネ21:1-14)、ペテロへの問い掛け(ヨハネ21:15-23)、山での再会と大宣教命令(28:16-20)を通して、彼らはイエスが復活されたことを確信します。
③もしイエスが…
よみがえったイエスは、群衆や十字架につけた宗教指導者やローマ兵にはその姿を現されていません。現れたなら彼らは信じたでしょうか。イエスはご自分の復活をまず弟子や親しい者たちに示し、その信仰を建て上げようとされています。
Ⅱ 前から言っておられたとおり(6)
①十字架前の予告(26:31-32)
イエスは、幾度も十字架での死と復活を予告され、更にガリラヤに向かわれることまでも明言されています。その時の弟子たちには、イエスの言葉は到底理解できませんでした。自分たちのことで精一杯だったからです。
②ゼカリヤの預言(ゼカリヤ13:7-9)
弟子たちが十字架を前につまづき、散り散りになることも、イエスはゼカリヤの預言を引用して予告されました。引用された預言には続きがあります。そこには試練の後に彼らが主を呼び求め、「これはわたしの民」「主は私の神」と信仰と交わりの回復が記されています。
③ガリラヤへ行きます(26:32)
復活のイエスは、このゼカリヤの預言を意識されて、「ガリラヤに行く」と語られました。主を見失い、途方に暮れる弟子たちをもう一度御許に呼び寄せ、彼らの信仰を立て直すためです。
Ⅲ 弟子たちに伝えなさい(7,10)
①イエスが現れて
エルサレムで復活の主が現れたのは、いずれも突然・一方的な主からのアプローチです。「数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示」すためでした(使徒1:3)。しかし、それでもなお疑う者や信じない者もいました。
②ガリラヤで会えます
十字架前の予告(26:32)、御使い(7)と主のことば(10)で、ガリラヤでの再会が約束されています。それを聞いた弟子たちが信じるなら、ガリラヤに急行するはずです。見て信じることも幸いです。イエスのことばを信じることはそれ以上に幸いです(ヨハネ20:29)。
③あなたがたより先に
主は私たちよりも先を進まれています。前もって語られることが理解できなくても、心に留めて手放さないで置きたいものです。後になってそれが思い起こされ、主がなさろうとすることが見えて来る時が来ます。そして、主のことばが真実であるとの確信に至ります。
<おわりに> 復活の主は、弟子たちにみことばを信じる信仰を確かにしようとされています。今も主の姿は見えなくとも、みことばを信じる者は主とお会いし、主の御声を聞くことができます。その経験がよみがえられた主が今も生きておられる証しです。 (H.M.)