『ためらわずに行き』 (使徒の働き 1017-33) 2024.2.11.

<はじめに>聖書には奇跡や不思議な出来事が記されていて、その理解・納得に苦しむ人は少なくありません。世の中にも不思議なこと、不可解なことがあります。すべてに説明がつき、それに納得できればいいのですが、そうではないことも多々あります。どう受け留めればいいのでしょうか。

Ⅰ 不思議な導き(17-23)

①今の幻はどういうこと(11-18)

ペテロは、3度繰り返された幻(11-16)を見た後、どんな反応をしていますか(17,19)
幻を示された神は、なぜ彼に説明もされず、分かりにくい幻を見せられたのでしょう。
この幻で、神がペテロに伝えたいことは何でしょうか。

②声が聞こえる(19-20)

ペテロが幻について思い巡らしている頃、コルネリウスから遣わされた3人がペテロの居場所を捜し当て、声を掛けます(17-18)。そのとき、ペテロに「ためらわず(何の差別もせず)に彼らと一緒に行きなさい。わたしが彼らを遣わしたのです」と語ったのは誰ですか。

③迎え入れるペテロ(21-23)

ペテロは降りて行き、3人の使者と応対の後、彼らを迎え入れて、翌日には一緒にカイサリアに向けて出発します。律法では禁じられている異邦人との交際にペテロが踏み切った(28)のには、幾つかの要因がありました。それらを見つけて列挙してください。

Ⅱ 不思議を突き合わせる(24-33)

①ペテロを迎えるコルネリウス(24-26)

カイサリアではコルネリウスがペテロを待っていました。どんな人たちと一緒に待っていましたか。ペテロを迎えてコルネリウスは足元にひれ伏し拝みます。そのとき、ペテロは自分のことを何と言っていますか。

②ためらうことなく来た(28-29)

コルネリウスの家に入ったペテロは、そこに集まっている多くの人たちを前にして、ここに来た訳を話します。この時点で、彼は先に見た幻の意味を分かっているようです。説明もなく、どうして彼はそれを理解したのでしょう。しかし、まだわからないことも残っています。

③今、伺おうとして(30-33)

今度はコルネリウスが4日前に御使いが現れた経験をペテロに話します(30-333-6)。御使いは、あとはペテロを招いて聞くようにと言われます。こんな面倒なことをせず、なぜ御使いから直接すべてのことを知らせようとはされなかったのでしょう。

Ⅲ 不思議がつながる

①分からないから…

最初から全貌を明らかに示されているなら、迷うことはありません。が、素直に受け取るとも限りません。まして目に見えない神が導き、働かれるなど、大方の人は思い至りません。分からない中で、人は考え、思い巡らし、自分が見えていないことを探ろうとします。

②見つける旅

コルネリウスは御使いを、ペテロは幻を見ました。場所・時間・内容もバラバラで不明瞭ですが、繋がりもあります。それを手繰って進むうちに、新たに見えて来るものがあります。神はミステリーですが、丹念に探る者は神と真理を発見します(箴言8:17,エレ29:13)

③サインとタイミングをとらえて

神は目に見えませんが、各所にその足跡、声、証拠を残しておられます。一見不思議で不可解に思える中にも、しっかりとした計画をもって私たちを導かれます。一つ一つそれを拾い集め、その導きに従ううちに、私たちも神の計画をだんだん理解できます。

<おわりに> 分からないこと、不安な時こそ、信頼できる存在が傍にいるかどうかは重要です。神は不思議な御方ですが、私たちが信頼をもって近づくとき、その信頼に応えてくださる頼りになる御方です。あなたを導かれる神は、自ら見つけられることを待っておられます。(H.M.)

礼拝メッセージ2月11日
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『二つの幻』 (使徒の働き 101-16) 2024.2.4.

<はじめに> 私たちが生きる世界は基本的に法則・ルールに従って粛々と進んでいきます。しかし、時に不思議なことが起こり得ます。この世界には神がおられ、超自然的なこともされますが、神は人にできることを肩代わりなさいません。人が果たす分と神が主導する分を弁える必要があります

Ⅰ 幻に現れた御使い(1-6)

①神を敬うコルネリウス(1-5)

ある日の午後3時頃、コルネリウスは幻の中で神の使いを見ます。彼はカイザリア在住のローマ軍イタリア隊百人隊長であり、敬虔で知られ、家族挙げて神を恐れ敬う人物でした。幻の中で御使いは彼の名を呼んだ後、2つのことを告げています。何と何ですか(4-6)

②神の御前に覚えられています(4)

彼はローマ人でありながらユダヤ教に心酔し、できる限りのことをしていました。具体的にどんなことをしていましたか。御使いはそれらが「神の前に上って、覚えられている」と告げます。いけにえの煙が立ち上り、神に届いて受け入れられる絵と重なります(レビ2:2)

③さあ今、招きなさい(5-6)

御使いはコルネリウスになすべきことも告げています。ヤッファに人を遣わし、使徒ペテロを招くようにと。ユダヤ人は律法により異邦人と同席しません。なのに、あえてペテロを招くのは何のためでしょうか。ユダヤ人と律法を良く知る彼は、この促しをどう思ったでしょう。

Ⅱ 天降る入れ物の幻(7-16)

①ヤッファに使者を遣わす(7-8)

御使いが立ち去ると、コルネリウスはすぐに3人を呼んでヤッファに送り出します。その3人に敬虔な兵士を加えたのはなぜでしょうか。コルネリウスは幻で語られたことを説明して、彼らを送り出します。カイザリアとヤッファは60㎞足らずです。何時間ほどかかるでしょう。

②ペテロが見た幻(9-15)

翌日正午ごろ、ペテロは屋上で祈るうちに幻を見ます。天から降った入れ物には地上のあらゆる獣や鳥がいて、ペテロにこれを食するよう声がします。ペテロは何と答えましたか。答えの理由は何ですか。それに対して、もう一度声が聞こえます。何と言っていますか。

3度繰り返される中で(16)

「あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥」は天から地上に降りて来て、また天に上げられます。これにはどういう意味があるのでしょうか。この光景とやりとりが3度繰り返されて、ペテロはどんなことを考えたでしょうか。

Ⅲ 神が描くこの世界で

①祈りのうちに

コルネリウスもペテロも祈りのうちに幻を見、語らっています。定まった祈りの習慣は大切です。いつ、どのように祈っていますか。祈りは人から神に願うとともに、神からの語り掛けと新しい気づきを祈る人にもたらします。そのような経験をされたことがあるでしょうか。

②幻で語る神

神は祈っている人に具体的に語られます。それは一見不思議で、無理難題と思われるかもしれません。人が「できません」と言うのは、大方「やったことがありません」か「したくありません」です。それは私には本当にできないことなのでしょうか。

③主導権は神に

まずコルネリウスに現れた神は、彼が応答すると、次にペテロに働き掛けています。これらは今はまだそれぞれでつながっていませんが、やがて一つとなって神の計画が実現していきます。神の導きと語り掛けに、時を置かずに従順に応じる者を通して実現します。

<おわりに> 私たちはそれぞれの生活の中で、自分に与えられた役割を日々生きています。それが神と結びつき、計画の実現のために用いられるように日々祈りましょう。そして、神の導きと語り掛けに素直に聞き従う者でありたいと願います。全てを導かれる神に期待して。(H.M.)

礼拝メッセージ2月4日
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『光があるうちに』 (ヨハネの福音書 1234-43) 2024.1.21.

<はじめに> 時は無限、永遠に続くと思われていますが、これも神の創造物で限りあるもので、それを私たちに託されていると聖書から私は学んでいます。時を支配される神は、物事のタイミング・機会を知り、それを私たちにも知らせようとしておられます。イエスもここで時を告げておられます。

Ⅰ 光があるうちに

①イエスは光

イエス自ら「わたしは世の光です」(8:12)と称し、ヨハネもイエスを人の光と証ししています(1:4-9,3:19-21)。世を照らし、人にいのちを与え、道を示すイエスは人々の間に歩まれ、人々はそれに照らされ、その祝福を享受してきました。

②光があるうちに

イエスが世におられるのは、いつまでもではなく、その終わりが近づいていると語られます。3536節どちらにも「光があるうちに」とありますが、同じことを言っているのでしょうか。違うところはありませんか。勧める光への向き合い方も「歩きなさい」と「信じなさい」です。

③光の子どもとなる

子どもは親から生まれ、家族の一員であり、幼くても親の性質を継ぐ似た者です。イエスの光に照らされ、反射するだけの者はイエスが消え去れば闇に戻ります。しかし光の子は、イエスに照らされて光にふさわしく変えられ、光を放つ者です(エペソ5:8,Ⅰテサ5:5)

Ⅱ 限りある時

①正常化バイアス

常識や前例にとらわれて、自分にとって都合の悪い情報を無視したり過小評価する、認知の特性のことです。前例がない、自分は大丈夫、まだ何とかなると考えて、対処を避ける傾向が私たちにはあります。34節の群衆のことばにもそれは見られます。

②もうしばらく

イエスは自分の時が来たことを察知して、群衆に緊迫感をもって決断を迫ります。光が照り輝く昼間も、時が進むとやがて闇夜が迫り来ます。イエスの光に照らされて歩き、光を信じる機会は、いつまでも与えられてはいません。信じるチャンスには限りがあります。

③機会がある間に

私たちを取り囲む状況と主イエスのことばを重ね見るとき、「これまで」が「これからも続く」とは思えません。しかし、機会は「もうしばらく」残されています。このしばらくの間に、私たちがイエスを信じ、光にふさわしい人として整えられることを、イエスは強く願っています。

<おわりに> イエスが「もうしばらく」と言われるところに私たちは差し掛かっています。そのことに不安を抱き心を騒がせてはなりません。イエスは私たちに平安を与え、希望の光を示されています。「自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい」(36)と。(H.M.)

礼拝メッセージ2024年1月21日
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『今、わたしの心は』 (ヨハネの福音書 1227-36) 2024.1.14.

<はじめに> 年頭から相次ぐニュースに私たちの心は揺さぶられています。このタイミングで?どうして?どうなるの?という疑問が去来します。神を信じる者ならどんなときにも泰然自若で、心騒ぐことなどはない、と言えるでしょうか。この箇所で、イエスも「心が騒ぐ」(27)と言われています。

Ⅰ この時に至った(27-28)

①今、この時に(27)

ギリシア人の申し出(21)を契機に、イエスは神の計画が実現する時を察知されます(23)。自身の死によってすべての人が罪から救われて永遠のいのちに至る道が開かれる時です(24-25)。しかし、イエスの心は騒いでいます。二つの願いが交錯しているからです。

②二つの願い

自身の死から逃れたい、という人として自然な願いと、それさえ甘受して神の計画に沿い、神の栄光を現したいという願いです。ゲッセマネの祈りと同じです(マタイ26:39)。イエスはこれまで同様、神の計画を選び取ります。天からの声もそれに応答します(28)

③時を受け取る(27)

イエスは「このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ」(27)と自らを傾けられます。私たちの存在と時の流れは、全て神の計画の中にあります(31:15)。私たちはそこに目を向け、時と状況を支配されている神に信頼しているでしょうか(577,インマヌエル565-2)

Ⅱ 上げられるとき(30-34)

①十字架での死(31-32)

31節でイエスは重ねて「今」を意識されています。それは自ら「地上から上げられるとき」(32)で、すべての人を自分のもとに引き寄せることに繋がる、と告げます。「上げられる」は本書の3:14,8:28,12:32,34に出て来て、いずれもイエスの十字架上での死を表します。

②二重の意味

律法は「木にかけられた者は神にのろわれた者」(申命21:23)と言い、イエスに期待する群衆は、その言葉に戸惑います(34)。イエスは罪ののろいを一身に背負われるために、十字架に上げられます(33)。しかし、神はイエスを高く上げられたのです(ピリピ2:9)

③不思議な道(詩篇118:22-23)

強い力をもって支配者を追い出し、占領されている人々を解放するさまは、この世に満ちています。しかし、神は御子イエスのいのちを代償に解放する計画です。これがイエスの心さえ揺さぶり(27)、人々には理解し難いこと(34)ですが、神のみ可能な栄光の道です。

Ⅲ 心騒ぐときに

①心騒ぐイエス(2711:3313:21)

ヨハネの福音書にはイエスが心を騒がせている記述が27節と11:3313:21にもあります。その場面・背景を見て、何にイエスの心が騒いでいるのか、イエスの思いを探ってみてください。そのイエスが14:1,27では、弟子たちに「心を騒がせるな」と命じています。

②人となられた神

神の子・救い主なら、どんなときにも泰然自若であるべきでしょうか。しかし、現にイエスは「心が騒ぐ」と言われています。この御方は神でありながら、私たちと同じ肉体と感情・感覚を持つ人間です。ですから、動揺する私たちに同情できる御方です(へブル4:15)

③心を騒がせるな(14:127)

イエスの葛藤は、自身の十字架での死によって、人を罪から救う神の計画が実現する故です。この葛藤を越えて神の栄光へと進まれたイエスを信じること(14:1)で、私たちにも平安が与えられます(14:27)。自分に負えない不可解も、主に信頼して委ねる道があります。

<おわりに> すべてに説明と納得を伴う道を求めるなら、私たちの心は騒ぎ、落ち着きません。しかしイエスは神の時と計画に沿う生き方を私たちに示しておられます。そして、イエスを信じ委ねる者を平安で包まれます。神には方法があり、道を造られ、私たちを導かれます。(H.M.)

礼拝メッセージ-2024年1月14日
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『時が来ました』 (ヨハネの福音書 1220-26) 202.1.7.

<はじめに> 暦が改まり、心も新たに踏み出そうと決意を新たにする時です。そこに吹く風は追い風でしょうか、向い風でしょうか。鳥は飛び立つために風を見ていると聞きます。私たちは何を見ているでしょう。イエスはこの箇所で「時が来ました」と言われます。何を見てそう言われたのでしょう。

Ⅰ イエスにお目にかかりたい(20-22)

①祭りの群衆

この祭りは過越の祭り(1)で、場所はエルサレム(12)です。イエスは大勢の群衆に歓迎されて入京されました(12-19)。その礼拝者の中には改宗者のギリシア人も数名いました(20)。彼らはピリポにイエスへの面会を願い、ピリポはアンデレとともにイエスに取り次ぎます。

②なぜそこにいるのか

祭りの群衆と言っても、その心は個々様々です。律法の義務だから、毎年の恒例行事として集う者は少なくないでしょう。イエスの奇跡を見て興奮して、あるいは奇跡を見たいと思ってついて来た者もいたでしょう。私たちは今日どうして礼拝に集っているのでしょう。

③イエスに会うために

自分とは違う何かに魅力や輝きを感じて、人は接近します。ギリシア人巡礼者は、イエスに会うことを願いました。イエスと語らい、問い掛けて聞き、その心と生き方をより深く知り、自らを神のみこころと計画にふさわしく整えるために、私たちもイエスに近づくのです。

Ⅱ 栄光を受ける時(23-24)

①一粒の麦

ピリポたちの取り次ぎにイエスは答えたでしょうか。なぜイエスはここで「時が来ました」と言われたのでしょう。そして「一粒の麦」で知られる句(24)を語られます。それはイエス自身がこれから間もなくこのエルサレムで遂げようとされている十字架と復活を暗示しています。

②二種類の「時」

暦・時刻など定まった時の流れに沿って、私たちは生活しています。客観的で万人共通の「時」です。イエスが「時が来ました」(24)と言われたのはそれではなく、タイミング・機会を示す主観的な「時」です。イエスはこの「時」を意識されています(2:48:2013:1)

③「時」に気付く

ギリシア人がイエスに面会を願ったことが、イエスにとって「時」に気付く引き金でした。ユダヤ人だけでなくすべての人々がイエスと出会い、神に近づくためにイエスは遣わされたのです。その実現は十字架と復活です。いよいよその時が来たことを察知されました。

Ⅲ わたしについて来なさい(25-26)

①いのちの不可思議(24-25)

いのちは何よりも大切なものです。いのちは各自のものですが、自分のために確保するだけでなく、次に繋ぐために用いるものです。一粒の麦の例はそれを見事に表しています。また、この世でのいのちの限界を認める先に、永遠のいのちを見出すことができます。

②イエスの生き方(24)

イエスは自ら一粒の麦になる時が来ていることを自覚されています。すべての人の罪を一身に担って十字架に架かられる道です。自分のいのちをそれに投じることは重たい決意と覚悟を伴います。しかし彼の死によって、多くの人に永遠のいのちがもたらされます。

③わたしに仕えるなら(26)

イエスを取り巻き近づく人は大勢います。イエスに仕えたい、と思う人もいるでしょう。イエスは自分の周囲を見渡して「わたしについて来なさい」と言われます。自分中心ではなく、自分と自分の大切なものをイエス中心にして生きる決意と覚悟が私たちにあるでしょうか。

<おわりに> いのちに関わる重大な決断だからこそ、慎重に確実にしたくなります。しかし、私たちは時の流れに抗うこともできない限りある者です。ならば、いのちの不可思議を熟知しておられ、その機会を的確に掴んで歩まれるイエスに信頼し、仕えようではありませんか。(H.M.)

礼拝メッセージ-2024年1月7日
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『あなたに神の恵みを』 (サムエル記第二 91-13) 2023.12.31.

<はじめに> 1年の締め括りの日です。様々な出来事と思いが去来する中には、しっくり納得いくことばかりではなく、「なぜ」「どうして」ということも多々あります。それは心配・不安ばかりとは限りません。私たちが思い描くよりも、遥かに超えたこともあり得ます。

Ⅰ ダビデとメフィボシェテ

①イスラエル王国とダビデ

イスラエル王国初代の王サウルの息子ヨナタンとダビデは無二の親友で(Ⅰサム18:1-4)、娘ミカルの婿です。サウルは台頭するダビデを恐れて殺そうとしますが、サウルとヨナタンは隣国ペリシテとの戦いで戦死し、やがて王国はダビデを王と迎えます。

②王家の末裔・メフィボシェテ

ヨナタン戦死の報を受けて逃げる際、乳母が抱えていた5歳のメフィボシェテを落として以来、両足が不自由となります(Ⅱサム4:4)。サウル王家とダビデとの王権争いの中、彼は、ヨルダン川東岸のロ・デバルのマキルの許に身を置き、人知れず生活しています。

③まだだれかいないか(13)

王国の安定のために、前王朝を根絶やしにするのが常です。ダビデ王の言葉(1)は周囲に粛清を予感させます。王の前に引き出されるサウル家のしもべツィバも(2)、メフィボシェテも(6)「あなた様のしもべです」と名乗るのは、ダビデへの恐れと恭順を示すためです。

Ⅱ 恵みを施したい

①ヨナタンのゆえに(1,7)

ダビデがサウル家の生き残りを探したのは、親友ヨナタンとの誓い(Ⅰサム20:15)を思い起こし、それを果たすためです。ダビデは主の御名によって誓ったこと(Ⅰサム20:42)に真実をもって尽くしたいと願い(1)、「神の恵みを施したい」(3)と神を引き合いに出したのです。

②死んだ犬のような私(8)

メフィボシェテは敵であった前王朝の末裔、しかも不自由な身です。対抗するつもりなど皆無だから隠遁していたのですが、王からの召還に覚悟して出かけます。彼が自分を「死んだ犬のような私」(8)と評した言葉に、どんな思いが込められていたでしょうか。

③王の食卓で

彼の予想に反し、ダビデ王は彼に厚遇を与え、敵意ではなく好意と愛顧を示します。祖父サウルの所領を彼に返し、ツィバ一家に彼を支え労するよう命じ、メフィボシェテはエルサレムに住み、王の息子とともに王の食卓に侍るようになります。

Ⅲ 神の恵みにあずかる

①敵であった者(ロマ5:10)、死んだ者に(エペソ2:4-5)

私たちもかつては、神を認めず自分勝手に生き、神に敵対して生きていました。それは、神の御前には罪と背きの中に死んでいたのです(ロマ5:10)。しかし、あわれみと愛に富む神は、イエス・キリストの十字架のゆえに、恵みによって救われたのです(エペソ2:4-5)

②神から招かれて(マタイ9:13、ヨハネ10:3、黙示3:20)

ダビデがメフィボシェテを召したから、彼は王の前に進み出られました。神はイエスを罪人を招くためにこの世に遣わされ(マタイ9:13)、一人ひとりをその名を呼んで連れ出そうとされています(ヨハネ10:3)。イエスの呼び掛けは今も続いています(黙示3:20)

③神の家族の一員へと(ヨハネ1:12)

王の食卓に連なるのは、王家の一員・王子と同列の扱いです。神の恵みの招きを信じ受け入れた私たちも神の子となる特権が与えられ、神の家族に加えられます(ヨハネ1:12)。食卓は黙食ではなく、養いとともに交わり・語らいがあります。それを味わってますか。

<おわりに> 「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた」(ヨハネ1:16)のです。人間側からすれば驚きと不思議でしかありませんが、神が予め計画され、実行された御計画に過ぎません。これからも神の恵みを信頼し期待しましょう。(H.M.)

礼拝メッセージ-2023年12月31日
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『地の上で平和が』 (ルカの福音書 28-16) 2023.12.24.

<はじめに> これほど盛大にクリスマスを祝うのはなぜなのでしょう。歴史上の偉大な人物だから、イエス・キリストの誕生も祝うのでしょうか。それにしても別格の扱いです。時代を越え、世界中が祝うのですから。それだけの理由があることをぜひ知っていただきたいと願います。

Ⅰ クリスマスの事実

①救い主の誕生(6-11)

ヒーローは大方成人として華々しく現れます。しかし救い主は嬰児の姿で現れ、みすぼらしい飼葉桶に寝かされ、だれもそれに気づいていません。それを知らされたのは、ベツレヘムの野にいた羊飼いたちで、突然の御使いの出現と告知によったのです。

②御使いの告知(10-12)

見知らぬ嬰児があなたがたのために生まれた救い主だ、と言われても、ピンときません。しかし、救い主が与えられることは、神が古から約束され、預言者たちが繰り返し述べて来たことで、彼らユダヤ人も切望していました。この夜がその実現の喜びのときです。

③天の軍勢の賛美(13-14)

約束を果たされた神への賛歌と、それを受け取る地に住む人々への祝福を賛美します。「みこころにかなう人々に」とはどんな人なのでしょう。神から認められる立派な人、正しく完全無欠の人だとすれば、だれがそれにふさわしいのでしょう。

Ⅱ It came upon the midnight clear (天なる神には・教会福音90)

①人類の現実の絵(英語2-4節)

人類はより良く正しくあろうと願いつつも、現実には真逆へと落ち込み、そこから抜け出せず、苦しみ疲れ果て、それでもなお過ちと混乱を繰り返しています。だからこそ、いつの世も人は、この現実から救い出してくれる救い主の到来を切望しています。

②天を突き破り(英語2-4節、902-3節)

神はきよく正しい方で、罪・過ちには厳しく向き合われます。ならば人が苦しむのは因果応報、自業自得です。しかし、神はあわれみに富んでいる御方でもあります。ですから、天を突き破り、神の側から悩み苦しむ人に救い主を送られると約束し、実行されました。

③御使いの歌を聞いて(英語5節、904節)

御使いは神の使者として、この救い主の誕生を普通の羊飼いに伝えます。彼らはこれを聞いて確かめに出掛け(16)、捜し当て(17)、話のとおりだと知って神を賛美します(20)。神の計画の実現は本当だ、と肯いて受け取り、賛美する人こそ、みこころにかなう人です。

<おわりに>対等、当然が声高に叫ばれるこの人の世に、神はクリスマスに御子イエスを送り、天を押し曲げて救うあわれみを示されています。天の軍勢は挙って、人への神のあわれみに驚き、賛美しています。心を開いて神のあわれみを受け取る人にクリスマスは訪れます。 (H.M.)

 

天なる神には (教会福音90番・インマヌエル403)

 

1 「天なる神には 御栄えあれ  地に住む人には 安きあれ」と

       御使い挙りて ほむる歌は  静かに更け行く 夜に響けり

 

2 今なお御使い 翼を伸べ  疲れしこの世を 覆い守り

       悲しむ都に 悩む鄙に  慰め与うる 歌を歌う       (鄙=田舎、ひなびた所、取るに足りない)

 

3 重荷を負いつつ 世の旅路を  悩める人々 頭を上げ

       栄えあるこの日を たたえ歌う  楽しき歌声 聞きて憩え

 

4 御使いの歌う 安き来たり  久しく聖徒の 待ちし国に

       主イェスを平和の君とあがめ  あまねく世の民 高く歌わん

礼拝メッセージ-2023年12月24日
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讃美歌歌詞-天なる神には
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『あなたの部屋がある』 (ルカの福音書 21-7) 2023.12.17.

<はじめに>「宿屋には彼らのいる場所がなかった」(7)―喜ばしく明るいクリスマスには似つかわしくない、対照的な記述でしょうか。この事実に心動かされて作られた賛美歌を取り上げます。

Ⅰ 賛美の背景と内容

①場所がなかった

為政者の勅令で全住民は故郷への大移動を強いられ、ベツレヘムにも人が押し寄せ、宿は満杯状態です。場所取りは早い者勝ち、力ある者優先で、見知らぬ弱者への配慮と援助を示す人など稀です。その最中、救い主イエスは誕生し、飼葉桶に寝かされます。

Low in a manger(教会福音73

救い主イエスは創造主・君主なのによそ者(Stranger)扱いされ、天使と飼葉桶が彼を迎えたことに驚き悲しみます。この御方はそれをも甘受する嬰児として現れました。「私」もこの御方をよそ者扱いせず、愛し迎え入れ、この方も「私」の居場所を整えてくださいます。

Thou didst leave Thy throne(教会福音101、別訳インマヌエル405416)

飼葉桶に眠る救い主は、その生涯でも不遇な扱いを受けながらも、謙虚に歩まれます。人々は彼を嘲り、十字架の死へと追いやります。しかし、彼は死に打ち勝ち、勝利者としてやがて来られます。そのとき、「あなたのための部屋がある」と私を呼んでくださいます。

Ⅱ 救い主イエスは…

①身を低くして来られた

イエスは本来神の御子で(ピリピ2:6)、創造主・主権者(ヨハネ1:310)、栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方です(黙示4:11)。しかし、人を救うためにしもべの姿を取り、人として現れました(ピリピ2:7、へブル2:14-15)。飼葉桶に眠る御子の姿は謙卑の極致です。

②この世と人々から拒絶された

世の人々はこの救い主の到来(誕生)に無知で(ヨハネ1:10)、無視します(イザヤ53:2)。やがてこの方が成長し、救い主として活動しても受け入れず(ルカ9:58、ヨハネ1:11)、むしろ拒絶し(イザヤ53:3)、処刑される際も自業自得だと思っていました(イザヤ53:4)

③受け入れる者を求めている

それでもなお、この方は救い主として、今も私たちに呼び掛けています(黙示3:20)。彼のことばを聞いて、自分の救い主であると信じ、受け入れた者には永遠のいのちを与えると約束されます(ヨハネ1:12)

④信じる者とともに住む

イエスを信じる者のうちに神がとどまり、その人も神のうちにとどまっています(Ⅰヨハネ4:15)。イエスはご自分を信じる者のために場所を用意してくださり、迎えるためにこの世に再び来られます(ヨハネ14:2-3)。その声に応じる者を喜び迎えるためです(マタイ25:21)

<おわりに> この2つの賛美は共に「救い主よ、私の心に来てください」という、応答の祈りで締め括られています。イエスは謙遜な御方で、飼葉桶でも進んで身を横たえられました。ですから、たとえどんなにみすぼらしく、弱く乏しくても、この方は喜んで来てくださいます。(H.M.)

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讃美歌歌詞-「私のため栄え捨て」
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『主の恵みの年を告げる』 (ルカの福音書 416-22) 2023.12.10.

<はじめに> 「もろびとこぞりて」はクリスマスソングの代表の一つ、1番はほぼ歌える方が多いでしょう。しかし、その歌詞は意味不明で、「シュハキマセリ」を呪文と思っている人もあると聞きます。文語調で古語を交えた歌詞が理解を困難にしているようですが、認知度は高い不思議な曲です。

Ⅰ 二つの詩とメロディ

①インマヌエル讃美歌の2

インマヌエル讃美歌には「諸人こぞりて」(406)と「民みな喜べ」(407)が収録されています。原詩は"Hark the glad sound!"(406) "Joy to the world"(407)と異なり、曲はほぼ同じです。しかし一般では、「諸人こぞりて」を"Joy to the world"として多く紹介されています。

②詩と曲の組み合わせ

賛美歌は詩と曲(TUNE)各々に名が付けられ、同詩を別曲で歌われることがあります。「諸人こぞりて」の曲名ANTIOCHですが、"Hark the glad sound!"はイ讃29のメロディ:曲名RICHMOND(CHESTERFIELD)BRISTOLでも歌われます。(讃美歌の巻末索引参照)

Ⅱ 歌詞の内容

"Hark the glad sound!"

長く約束された救い主がこの世に来られる時、彼によって成し遂げられる束縛からの解放、開眼と照明、癒しと回復が描かれ、この御方を迎えるために、すべての人は心に王座を整えて、賛美をもって迎えるように招きます。

"Joy to the world"

救い主が来られるとき、自然界も人々も喜び歌い出します。救い主が治められるとき、もはや罪や悲しみ、呪いは消え失せて、神の義と愛による祝福が地をおおうからです。この救い主が来られるにあたり、すべての人に迎える用意をするようにと呼び掛けます。

③背後にある聖句

平和の君なる(イザヤ9:6)救い主がこの世に来られる(ヨハネ1:9)とき、イザヤ61:1-2の預言が実現します。イエスはナザレの会堂でこの箇所を読み上げて、その成就を宣言されました(ルカ4:17-21)"Joy to the world"は詩篇98の主の再臨をも意識しています。

Ⅲ このことばが実現した(ルカ4:16-22)

①救い主が遣わされた(18-19)

救い主は良い知らせ(福音)の実現のために遣わされました。その対象は、貧しい人、捕らわれた人、目の見えない人、虐げられている人です。救いは心霊的な面に止まらず、社会での実際面にまで及びます。キリストとその弟子たちは今もそのために働いています。

②主の恵みの年(19)

イエスが救い主として来られたクリスマスは「主の恵みの年」の到来です。しかし、ルカ4:18-19とイザヤ61:1-2を比べると、「われらの神の復讐の日」が外されています。イザヤの預言は、クリスマスとともに、やがて再び来られるイエスの来臨も指しているからです。

③「今日、この聖書のことばが実現しました」(21)

クリスマスに救い主イエスは誕生され、私たちの間で、私たちと同じように生活されました。その生涯の終わりに、私たちの罪の贖いのために十字架と復活をくぐられました。永遠の神は時空を超えて働かれ、ご自分のことばと計画を確実に実現されます。

<おわりに> 神の世界においては、古の預言は後の実現と表裏一体で不可分です。神のことばは必ず実現します。だから、すべての人は救い主を喜び祝い、私たちの心と生活の中にこの御方のために王座を整えて、喜び迎えようではありませんか。(H.M.)

礼拝メッセージ-2023年12月10日
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讃美歌歌詞-「諸人こぞりて」
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『時が満ちて』 (ガラテヤ人への手紙 41-7) 2023.12.3.

<はじめに> 12月を迎え、アドヴェント(待降節)に入りました。今年はクリスマス讃美歌のいくつかを取り上げて、味わいたいと願っています。今日は”Hark! The Herald Angels Sing”「天には栄え」です。チャールズ・ウェスレー作詞、メンデルスゾーン作曲です。

Ⅰ 歌詞の直訳

①聞け!御使い達が歌う宣告を   「新しく生まれた王に栄光があるように 
地の上に平安と慈恵があるように   神と罪人が元の親しい関係に戻った!」 
喜びに満ちた万の国民は立ち上がり   天上の凱歌に加わろう
御使いの軍勢が宣言する凱歌とともに   「キリストはベツレヘムにお生まれになった」
聞け!御使いたちが歌う宣告を   「新たにお生まれの王に栄光を!」

②キリスト いと高き天であがめられる方  キリスト 永遠の主  この方が満を持して来られた
処女の胎に宿る人の子として 肉体をまとわれても 神格が現れる  受肉された神性をほめたたえよ
自ら人となって人の世に住まわれる   イエス 私たちのインマヌエル
聞け!御使いたちが歌う宣告を 「新たにお生まれの王に栄光を!」

③ようこそ! 天から来られた平和の君!   ようこそ! 義の太陽!
この御方は光といのちをすべての者にもたらし 主の翼に癒されて 再び生かされる
穏やかな彼は 自分の栄光を捨てて 人がもう死なずに済むために 地上の人々を引き上げるために
私たちが生まれかわるために生まれた
聞け!御使いたちが歌う宣告を 「新たにお生まれの王に栄光を!」

Ⅱ 関連ある聖句

1

ベツレヘムの野にいた羊飼いに御使いが現れ、あなたがたのために王なる救い主が誕生されたと宣言し(ルカ2:9-12)、続いて現れた天の軍勢による賛美(ルカ2:14-15)を聞いた人々もこれに加わるようにと招きます(ゼカリヤ9:9-10)

2

この王なる救い主の誕生は、古からの神の約束が今実現したことでした(ガラテヤ4:4)。この方は処女マリアの胎に聖霊によって宿られ(ルカ1:30-33)、肉体をもって現れて(ピリピ2:7)、私たちの間に住まわれ(ヨハネ1:14)、インマヌエルと呼ばれます(マタイ1:23)

3

この御方は、平和の君と呼ばれ(イザヤ9:6)、義の太陽・癒しの翼(マラキ4:2)と預言されています。彼は神の栄光を手放し、ご自分を空しくされ(ピリピ2:6-7)、それによって誰も滅びることなく永遠のいのちを持ち(ヨハネ3:16)、新しく生まれ変われます(ヨハネ3:3,7)

Ⅲ 「定めたまいし救いの時」

①古からの神の計画(ガラテヤ4:4-5)

元来、人間は神との関係に生きるように神に造られました。しかし人は自己義と自分勝手に進み、神との関係は断たれます。それでも神は人との関係修復と和解に動かれます。律法の下にある者を贖い出すために、ご自分の御子を彼らの中に遣わそうとされます。

②計画の実現(4:4)

この関係修復と和解の計画が実現されたのがクリスマスです。神は御子イエスを人として人の世に送られ、彼らの自分勝手な罪を彼に負わせます。そして彼を受け入れる者には神の子となる特権(養子縁組)を与え、永遠のいのちを与えられます。だから祝うのです。

③賛美への呼び掛け

賛美は神に同意し、参与する意志表示です。神との関係を築き直し、神が用意された約束を受け取る相続人になり、このさんびに加わるよう、御使いは今も呼び掛けています。

<おわりに> クリスマスは喜び楽しむ時です。漠然と雰囲気に身をゆだねるだけでなく、この天の御使いからのアナウンス・メッセージを、自分のものとして受け取り、このさんびを心から歌えるようになっていただきたいと心から願います。(H.M.)

礼拝メッセージ-2023年12月3日
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讃美歌歌詞-「神には栄え」
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『主の道を用意せよ』 (イザヤ書 401-11) 2023.11.26.

<はじめに> クリスマスまで一カ月となり、各所に飾り付けがされて、雰囲気も高まって来ました。大切で楽しみなことを待ち望む時間は素敵です。やがて来る新しい展開に心は高鳴ります。それが、自分にとってとても意味のある喜ばしいことなら、なおさらでしょう。

Ⅰ 神の語りかけ(1-26-8)

①慰めよ、慰めよ、わたしの民を(1-2)

私たちが神に目を向けるときは、祈り願うとき、自分を省みる機会ではないでしょうか。その時の神の表情はどうでしょうか。本書1-39章で神は人に厳粛に向き合われています。その神が「慰めよ、慰めよ、わたしの民を」とやさしく語りかけ、呼びかけています。

②慰めの中身(2)

咎・罪は各人の心と生活の中に見出される、神が示し備えられた道からの逸脱です。神は聖く正しい方ですから、これらに厳粛に対処されます。しかし、ここでは「その」結果である苦役は終わり、咎は償われ、罪に代えて子としての立場に回復される、と語られます。

③・・・ている、と(26-8)

厳粛な神が突然変わって、緩くなったのでしょうか。むしろ、神の厳粛さの前に、肉なる者・人は移ろいやすく、空しさが際立ちます(6-8)。そのことを熟知される神は、なおも人を愛される神です。だから人を引き上げるために、もう回復は実現している、と語られます。

Ⅱ 叫ぶ者の声がする(3-11)

①良い知らせを伝える者

この神からの慰めのメッセージは、神の前に沈み、打ちひしがれる者にとって一大ニュースです。この良い知らせを受けた者は、神の代言者、預言者です。彼は広く伝えるために、高い山・町々で、力の限り声を上げ、叫びます。「見よ、あなたがたの神を」(9)と。

②主の道を用意せよ(3-5)

荒野・荒れ地は、起伏が激しく人手つかずの地です。そこに真っ直ぐな大路を設けるよう、代言者は叫びます。この預言の成就として御子イエスの誕生に先立ち、バプテスマのヨハネが現れ、「主の道を用意せよ」と呼びかけました(マルコ1:1-4)

③統治者、主人、牧者(9-11)

「見よ、あなたがたの神を」(9)と叫ぶ声は3枚の絵を示します。神は力ある統治者、それは私たちの最終責任者で、漏らすことなくすべてを報いる有能な主人です。また、羊の群れを飼い、個々に必要最適なケアを与え、優しく導く羊飼いです。

Ⅲ この知らせの受信者へ

①声を聞け

語り掛ける神と、神の使信を伝える叫ぶ者の声は、聞き手あってのものです。それは慰めと赦し・回復を神の側で既に用意してある、という良い知らせです。先入観や慣れで聞き流して、良い知らせを見過ごしにしないようにと、今もこの叫ぶ声は響いています。

②神を見よ(5,9,10)

霊なる神を見よ、とは矛盾と思われます。しかし、神は様々な方法で、今もご自身を現されます。御子イエスの誕生と生涯はその最たるものです。また、神を見た人たちの証言もあります。あなたは、神がどんな方だと見ていますか。どうしてそうだと言われるのですか。

③真っ直ぐにせよ(3)

荒野は、至難ゆえに放置・放棄した荒れすさみ、ねじ曲がって受け取る私たちの心の姿です。私たちの神・主が、慰めと赦し・救いを携えて既に来られています。クリスマスはそれを喜び祝う時です。素直にこの方を我が神として迎えようではありませんか。

<おわりに> 「見よ、あなたがたの神を」との呼びかけは、今年のクリスマスにも響いています。私はそれにどう答えましょうか。神はただ厳しくさばかれる方ではありません。真っ直ぐ向き合う者を赦し受け留めてくださいます。「あなたこそ私の神です」と素直に申し上げましょう。(H.M.)

礼拝メッセージ-2023年11月26日
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『父の心、子の心』 (ルカの福音書 1525-32) 2023.11.12.

<はじめに> 自分の親兄弟をどのように呼んでいますか。それはいつも一緒でしょうか。状況によって使い分けがありますか。肉親の呼び方一つにも微妙な人間関係が滲み出て来ます。この物語はたとえ話で、父は神、息子たちは人を表し、その相互関係を描いています。

Ⅰ 兄息子の心(25-30)

①キレる兄(25-28)

兄は家業の農場で長年の間、父のもとで働いていました。しかし、この日畑から帰って来ると家から演舞の音が聞こえます。長年行方不明だった弟が無事帰って来たので、父が越えた子牛を屠って祝っているとしもべから聞いて、兄は怒り、家に入ろうともしません。

②「お父さんは甘い!」(29-30)

好き勝手をして財産を使い果たしてようやく帰って来た弟に、父が厳しく咎めもせず、喜び迎えて肥えた子牛まで屠る姿に、兄の不満と怒りは爆発します。父のもとで言いつけを守りながら長年忠実に働いて来た自分にこそ、労いと報いを父は示すべきだ、とです。

③兄の本音

兄が父の戒めを守り、父から与えられた仕事をするのは、全て父から愛、恩顧、信頼を受け取る手段だからです。兄息子の姿は、律法を守り、善行を行えば、神から報いを受けられる、と考える人の代表です。そのとおりに神が報いないなら、その人は怒り反発します。

Ⅱ 弟息子の心(12-21)

①計算高い弟(12-14)

やがて家業は兄が継ぎ、父の財産の自分への分け前は兄の半分です。家に残るよりも、さっさと分け前をもらってこの家を離れて、自由気ままに生きた方がいいと、弟は考え行動に移しました。財産が予想以上に早く無くなり、そこに飢饉が来ることは計算外でしたが。

②「それなのに私はここで…」(15-21)

遠い国では頼れる人はほとんどいません。やっと知縁で得た仕事でも、自分の扱いは豚以下です。そこで彼は、父のもとを離れたことが間違いであったと気づき、父のもとへ帰る決断を行動に移します。息子としてではなく、雇い人としてでも受け入れてもらいたいと。

③弟息子の本音

当初、弟は父を財産目当ての金づるで、もらえるものを得たならば、もはや用はないとして遠く離れます。利用価値がある間のみの関係です。しかし、実は恵まれた環境であったと後で気づき、そこに置いてもらうために、今度は自分を利用してもらおうと差し出します。

Ⅲ 父の心は神の心(22-2430-34)

①惜しみなく与える

父は、弟に生前分与を拒まず与え、帰って来た弟を着飾らせて肥えた子牛を屠り、兄には「私のものは全部お前のものだ」(31)と言います。私たちに要求を突き付けて、私たちから奪うのが神だ、と思っている人がありますが、聖書は正反対の絵を示しています。

②惜しみなく赦す

遠い国に旅立った弟の浅はかさと失敗を予想した父は、帰って来る彼を待ち、遠くに見つけます。忠実に働きつつも不満を内に秘めていた兄の怒りも受け止めようと出て来て宥めます。父は、その父を誤解していた二人をなおも赦し、関係修復を望んでいます。

③惜しみなく喜ぶ

父の本音は、一つひとつのことを感謝し、ともに喜ぶお互いの関係を保つことです。それが一時的に崩れたとしても、修復して進もうと、あきらめずに向き合われます。紆余曲折がありながらも、乗り越えて一つとなって喜ぶことは、全部思い通りに行く喜びにまさります。

<おわりに>あなたが共感できるのは、兄、弟、父の何れでしょうか。二人の息子の前に父は進み出て語り掛けています。父のことばと姿は神そのものです。この物語を通して、自分の心を見つめるとともに、神の本当の心を知り、受け入れて、ともに喜ぶ者となれますように。 (H.M.)

礼拝メッセージ-11月12日
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『イエスと生きる』 (使徒の働き 932-43) 2023.11.5.

<はじめに> イエスは「いつもあなたがたととともにいます」と約束されて(マタイ28:18-20)から、天に上げられ、弟子たちには見えなくなりました(1:9)。イエスはどのようにして私たちとともにおられるのでしょう。それをどんな時に実感できるでしょうか。

Ⅰ ペテロの奇跡

①ペテロの足取り

使徒ペテロはサマリアからエルサレムへの帰途、サマリヤ地方を巡り福音を伝えます(8:25)。彼はその後も各地の離散信者を巡回安問します(32)。リダ(32)、ヤッファ(36)は地中海沿岸平野にある町です(巻末地図12「使徒たちによる初期の宣教」参照・E-1,2付近)

②リダの町で(32-35)

リダの町に来たペテロは8年間中風で臥せっているアイネアと出会い、イエス・キリストの御名によって彼を癒やし、直ちに立ち上がらせます。リダ近辺の住民がこの出来事を見て、主に立ち返り、その評判は周辺の町々にも伝わりました。

③ヤッファの町で(36-43)

数々の善行と施しをしていたタビタ(ドルカス)という女弟子が病気で亡くなります。悲しむ弟子たちは、リダにいるペテロの許に使者を送り、彼を招きます。ペテロは皆を外に出し、「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開けて起き上がり、大勢が主を信じます。

Ⅱ 奇跡の源流

①似通った情景

この二つの奇跡を読むと、似た別の物語が想起されます。リダのアイネアの癒しは、同じ中風からの癒し(マルコ2:1-12)やベテスダ池で病臥する男の癒し(ヨハネ5:1-9)を、またタビタの蘇生は会堂司の娘の蘇り(マルコ5:21-43)、ラザロの蘇り(ヨハネ11)です。

②イエスの模範

似た物語はいずれもイエスが行われたもので、その傍らにはペテロも居ました。イエス昇天後、ペテロは美しの門で生来足の不自由な人を立ち上がらせます(3:1-10)。ペテロによる奇跡は、イエスの御名の力によるもので、イエスの範に倣ったものでした。

③イエスの約束

マルコ16:15-20で昇天前のイエスは弟子たちに約束されました。主は信じる者とともにおられ、ともに働き、証拠としての奇跡でみことばは確かであると証しされます。このペテロによる奇跡もその証左です。今も主は生きておられ、信じる者とともに働かれています。

Ⅲ イエスと生きる

①イエスを知る

ペテロはイエスの弟子として教えを受け、ともに過ごし働き、イエスの思い・願い・価値観を吸収しました。聖書を読むことで、私たちもイエスに触れ、語らい、教えられ、日々の歩みの中にイエスの足跡を見つけながら、イエスとともに生きることへとつながります。

②イエスのわざを行う

私たちがイエスから教えられ語られたことを、イエスに信頼して行うとき、主もともに働いてくださいます。それは私たちを通してなされたイエスの御業です。ですから主イエスを誇り、イエスを指さし、その栄光と誉れはすべて主に返し、私を用いてくださる主に感謝します。

③より大きなわざを行う

主イエスはヨハネ14:12-14でもう一つ約束をくださっています。より大きなわざを行うことと、イエスの名による求めへの応答です。この奇跡後、ペテロはヤッファにかなりの期間滞在し(43)10章以降でイエスの御名を異邦人へと伝え行く門戸を開くことへと繋がります。

<おわりに> 「使徒の働き」には、イエスの姿と活動はほぼ表立っていません。しかし、イエスを信じる使徒たちや信者の歩みと活動の中に、よみがえられて今も生きておられるイエスを見出すことができます。イエスを信じて今を生きる私たちも、主の同行と臨在を実感できます。(H.M.)

礼拝メッセージ-2023年11月5日
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『新たに立ち上がる』 (使徒の働き 919-31) 2023.10.22.

<はじめに> これまでの歩みの中で、「あれが私の一大転機だった」という経験があるでしょうか。どうして、今までの自分から新しい自分へと変わったのでしょう。サウロが経験した回心も正しくそのようなものでした。サウロの何が今までとは全く変わったのでしょうか。

Ⅰ 変貌した迫害者サウロ(19-26)

①変貌に戸惑う周囲

イエスの名に対して徹底して反対して、聖徒たちを迫害していたサウロ(26:9-11)が、バプテスマを受けると(18)、直ちに諸会堂で「この方こそ神の子です」と宣べ伝え始めます。これを聞いたユダヤ人はうろたえて彼の殺害を謀り、主の弟子たちは彼を恐れ疑います。

②サウロに何があったのか

天からの光と声に触れ、目が見えず飲食もできない3日間(9)で、彼の理解は一転します。a)自分が敵対していたイエスは生ける神・主で、b)イエスと聖徒たちは一体(エペソ1:23)c)イエスこそ神が遣わしたキリスト(救い主)で、d)イエスを信じるだけで罪は赦される、と。

③目から鱗(18、Ⅰコリント3:14-18)

新しいイエス理解は、サウロにとって正しく目から鱗でした。今も心に覆いが掛かっている者も、その人が主に立ち返るなら、心の覆いはキリストによって取り除かれます。その人は主の栄光を反映して、主と同じ姿へと変えられていきます。これは御霊なる主の働きです。

Ⅱ 新たに立ち上がるサウロ

①整理と黙想の時(19-22、ガラテヤ1:17)

心と理解が一変すると、その生き方も変貌します。目が開かれたサウロは「直ちに…宣べ伝え始めた」(20)とありますが、ガラテヤ1:17で「すぐにアラビアに出て行き」と彼は述べています。発見した真理を整理し、従前の理解を改め、どう生きるべきかを探る期間でした。

②陰謀と協力の中で(23-30)

かつての理解と行動への深い反省が、赦され生かされている感謝とともに、サウロを新しい使命に駆り立てます。かつての仲間であったユダヤ人たちは、裏切者サウロを闇に葬ろうと謀り、付け狙います。しかし、彼を理解し協力する者も与えられて、窮地を脱します。

③こうして教会は(31)

6:7に続く教会進展報告です。迫害者サウロの回心は主の御業です。この知らせに、各地の教会と聖徒たちは主を恐れつつ平安を得ます。そして聖霊に励まされて、いよいよイエスの福音を証しし、信者が増える要因となりました。

Ⅲ イムマヌエル綜合伝道団の始まり

①獄中でのヴィジョンから

この教団は1945年設立です。創設者・蔦田二雄師はそれ以前から牧師職にあり、目覚ましく主の働きを繰り広げていました。しかし太平洋戦争中のキリスト教弾圧により約2年間投獄され、その中で主からヴィジョンを受け取り、釈放後の働きを思い巡らしていました。

②深い反省と決意に基いて

この弾圧・迫害は時代と社会が教会に与えた暴挙です。同時にこの苦難には神が教会に反省を促す意味合いがあると蔦田師は受け取ります。教会が罪の赦しときよめを説くにふさわしく真の聖化と一致に導き、二度と繰り返さない決意をもって、再起を待ち望みます。

③私たちの生きる道

獄中でのヴィジョンと反省に基づき、終戦後、蔦田師は従来の教会・活動に復帰・再開するのではなく、無からの新出発に踏み出します。聖書が示す神とともなる歩みを各個人が真摯に取り組み、熱く祈り、果敢に福音宣教に励むことこそ、この群れの生きる道です。

<おわりに> サウロの目を開かれて新しく造り変えられたのも、蔦田師を獄中に導き、深い熟慮反省を通してこの群れを興されたのも、主です。その主が私たちに今何を語り示されているでしょう。主は私をも新しく造り変えようと、今も関わり働いておられます。(H.M.)

礼拝メッセージ-2023年10月22日
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『彼は祈っています』 (使徒の働き 910-19) 2023.10.15.

<はじめに> 天からの光とイエスの声を受けたサウロは、目が見えず、飲食もせずに3日間を過ごします。彼の許に、主は一人の弟子アナニアを遣わそうとされます。アナニアは戸惑いを正直に主に告げつつも、最終的には赴き、サウロを新たにして立ち上がらせる役割を果たします。

Ⅰ 幻の中で(10-16)

①弟子アナニア

彼はエルサレムからの逃避者ではなく、元々ダマスコに住み、律法に従う敬虔な人で、そこに住むすべてのユダヤ人に評判の良い人(22:12)でした。サウロがエルサレムで迫害し、ダマスコにまで迫害の手を伸ばそうとしていることも、彼は聞いていました(13-14)

②主からの幻(10-16)

そのアナニアに主は幻の中でサウロを訪ねるよう命じます。彼もこの訪問を幻で見たからと(11-12)。主からの幻は漠然としたものではありません。必要なことを具体的に示し(11)、相手にも働き掛け(12)、主が何をしようとされているのかを明らかにされています(15-16)

③幻に向き合う

アナニアは主の命令への戸惑いを正直に主に告げています。主はそれにどう返されたでしょう。彼が納得できる説明や説得があったでしょうか。主は、「彼は祈っています」(11)と相手の状況を伝え、主の計画とその人が果たすべき役割(15-16)を明白に示されます。

Ⅱ 祈るところに働く

①祈る人

主の敵が主に祈る姿こそ、サウロの心の変化を表す絵です。彼は何を祈ったのでしょう。主は彼を、ご自身の名を運ぶ器として選び、御名のために苦しむことも示すと言われます。主はご自分を信じ祈る者に、主とともに重荷・痛みも担う覚悟も問われます。

②主は示される

主イエスは、サウロ・アナニアそれぞれに幻の中で語られます。幻は絵(ヴィジョン)です。示される御方がどなたかをはっきりさせ、ご計画とその人が為すべき役割を告げられます。祈り、主と語らう者に、主ははっきりと示されます。主との交わりは相互通行です。

同じ主が一つのことを(17-19)

サウロとアナニア双方に見せられた幻は一つです。それに従って動き、手を置いて祈るとき、それぞれに示されたことが主によって結び合わされ、主の御計画と導きを確認できます。そしてお互いが同じ主に仕える神の家族・兄弟姉妹であることを実感できます。

<おわりに> 自分の問題課題・必要を神に訴えて解決していただくという面に、祈りの焦点が注がれやすいのではないでしょうか。むしろ祈りは神との交わり・語らいで、神が私に与えられる役割を示される機会です。この交わりの世界へと進み行きましょう。(H.M.)

礼拝メッセージ-2023年10月15日
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『自分に語り掛ける声』 (使徒の働き 91-9) 2023.10.8.

<はじめに> 驚くべき出来事や奇跡的な助けを得られた信仰者の体験談に、かつて憧れていたことを思い起こします。そして、そのような出来事も経験もない自分を大したことのない者のように思っていました。劇的な迫害者サウロの回心は、私にとって遠く掛け離れたものなのでしょうか。

Ⅰ 天からの光と声(1-9)

①息巻くサウロ(1-2)

ステパノの殺害を発端に、サウロはイエスを信じる者たちを捕え、逃れようとした者たちはエルサレムから諸地方に逃げ出します(8:1-3)。息巻く彼は、エルサレムから離散した者たちさえ見過ごさずに捕えようと、大祭司から権限を受けてダマスコへと北に向かいます。

②突然の光と声に(3-9)

サウロがダマスコに近づいたとき、突然天からの光に照らされて彼は倒れ、「サウロ、サウロ、なぜ…」と語り掛ける声を聞き、同行者たちも戸惑います。彼らは視力を失ったサウロの手を引いてダマスコ市街に入り、彼は三日間、目が見えず、飲食もできずにいました。

③天的な干渉

この天からの光と声のように、世にも不思議な出来事に出くわすことがあります。私たちの生きる世界には全能者である神がおられ、すべてを治め、関わっておられる証拠です。もはやサウロの憤りを止める手段は人の世にない中、神が彼に立ちはだかられたのです。

Ⅱ 彼は目が見えず

①自ら思うままに

ステパノ殺害から始まる一連の迫害は、サウロが見聞きし、考え、主導したものです。自らの意志と判断の礎は、これまで彼が受けて来た教育と研鑽です(22:2-3)。彼はモーセの律法を厳格に守り行い、誰よりも神に対して熱心な者だと自負していました(ガラ1:14)

②目が閉ざされるとき

視覚から得る情報は多大で、それに基づき私たちは判断・行動しています。しかし、先行きが見通せない状況に追い込まれると、私たちは途方に暮れ、誰か支え導いてくれることを切望します。自ら見えないなら、より周囲に頼らざるを得なくなります。

③見えない者が見えるように

天からの光は神の栄光の輝きです。その輝きに人は圧倒され、自ら見える、と自負することも無力と化します。しかし、それは自分の光に頼ることから離れ、自分に語り掛ける声に耳を傾けるきっかけともなります。ヨハネ939-41でイエスもこの逆説を語られています。

Ⅲ 自分に語り掛ける声

①サウロに語り掛ける声(4-5)

声の主はサウロを名で呼び、「なぜわたしを迫害するのか」と問われます。迫害は信者に向けてでしたから、「どなたですか」と問い直します。その声が主であるイエスだと分かると、彼は愕然とします。自分は神のためにして来たことが、実は神に敵対していたからです。

②責めるのではなく、気付かせるため(6)

熱心さと無知から、大いなる過ちと罪を犯していた彼をイエスは責め立て咎めることなく、むしろここから立ち上がり、なすべきことがあると告げられます。この経験が、罪が赦され、新しく造り変えられるイエスの福音を彼が力強く宣べ伝える確信と根拠となりました。

③信仰は聞くことから始まる(ロマ10:17)

著しい天からの光と声は私たちに与えられなくても、日々心に語り掛ける御声が響いています。聖書を読み聞くときに、祈りと思い巡らしのうちに、主は繁く語られています。それに耳を傾け、主と語らい交わり、主の御声に従う者のうちに、信仰は育まれます。

<おわりに> サウロが主であるイエスの御声に耳を傾け、信頼するようになるために、神は格別な計らいで彼を扱われました。しかし、彼のような天的干渉を私たちも望むべきではありません。日々あらゆる方法で語られる主に耳を傾け、聞き従う者を、主は喜ばれます。(H.M.)

礼拝メッセージ-2023年10月8日
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『父のところへ』 (ルカの福音書 1511-24) 2023.10.1.

<はじめに> イエスが創作された父と弟息子の物語です。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」(24)の父のことばは、この二人の物語の要約です。

Ⅰ 思うがままの日々

①ターニングポイント(17-19)

この弟息子の生き方の転向点です。彼は「天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です」(18)と気づきました。彼が自覚した罪とは、いったい何でしょう。どんな悪いことをしたと気づいたのでしょうか。

②彼がして来たこと(12-16)

財産の生前贈与(12)、親元からの独立(13)自体が悪いではありません。財を使うこと自体は誰もがすることですが、彼は賢明に使ったようではありません(13)。使い果たした後で、運悪く飢饉に遭い、食にも事欠き(14)、何とか仕事を見つけて生きようとしました(15-16)

③自分の思い通りに

飢饉に遭うまでの彼の歩みは、自分が望むままに順調に進んで行ったように見えます。その時、彼は自分を成功者と思い込んでいたのかもしれません。しかし、飢饉とその後の苦境で一転します。ここまでの歩みの中で、彼は失ったものとその大きさに気付きました。

Ⅱ 反省の日々と決断

①彼は我に返って(17)

思い通りに進むとき、結果オーライで自分を過大評価したり、勘違いしがちです。苦境に直面すると、私たちは自省に追い込まれます。弟息子にとって飢饉とその後の苦境は辛い日々でしたが、自分は何者なのかと問い直す機会でもありました。

②彼が気づいたこと(17)

かつて父の許で、雇い人さえ何不自由なく豊かに過ごしていた姿を彼は思い起こしました。しかし今、息子である自分は飢え死にしそうなほど追い込まれています。この失敗と転落の原因が、自分が父の許から身も心も遠く離れた故だと認めざるを得ませんでした。

③一大決断(18-20)

かつて自らすべてを断ち切るように出て来た父の許へ帰ろうと決めます。自分が罪を犯した赦されざる者である以上、元通り息子として、とはとても言えません。一人の雇い人として受け入れてもらえたならば、と淡い期待にすがる思いで、長い家路をたどり行きます。

Ⅲ 思いもよらない展開

①父は彼を見つけ(20

遠くに息子と思われる姿を見つけた父は、かわいそうに思って駆け寄り、彼を抱きかかえます。弟息子が家を出て以来、父はその方向を眺め、今日こそ帰って来るのでは、と待っていたのでしょう。出迎える父の姿は、息子にとって驚きと戸惑いだったでしょう。

②ところが父親は(21-24

息子は旅立ち前に決意した告白を父に告げますが、父はそれを遮り、子たる証しの品々で彼を装わせ、祝宴を命じます。出て行った時とは全く異なる、心砕かれてへりくだった変えられた息子を心から喜び、その喜びを家中で祝っています。

③この物語のメッセージ

これはイエスが創作した物語で、神と人とのことを思い描いて語られました。a)この物語から、罪とはどんなものだと捉えますか。 b)人が罪・過ちから立ち直るために、何が必要でしょうか。 c)誰が罪を赦すのですか。それを信じますか。 

<おわりに>私たちは関係に生きるもの、関係が崩れるところに罪は見出され、それは死を意味します。しかしイエスは私たちの罪の身代わりに十字架で死に、三日目によみがえられました。それは、神は罪人を赦そうと待ち構えておられる希望であり、保証です。 (H.M.)

礼拝メッセージ-2023年10月1日
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『あなたはわかりますか』 (使徒の働き 826-40) 2023.9.24.

<はじめに> 出会いとは不思議なものです。お互いに意図したわけではなく、それぞれの動線がたまたまそこで交わったことから、その後の関わりが生まれることは珍しいことではありません。この箇所の二人もそうです。しかし、その出会いは単なる偶然ではなかったと聖書は言います。

Ⅰ エチオピアの宦官

①この人についてわかること(27-28)

彼はエチオピア人で、女王カンダケの全財産を管理する側近高官でした。異邦人ながらユダヤ教の唯一の神と高貴な道徳に惹かれる彼は、礼拝のためエルサレムに出向いた帰途、手に入れたギリシア語訳のイザヤ書の巻物を馬車の中で音読していました。

②この人がわからないこと(31-34)

彼が読んでいたのはイザヤ書53章です。ここで預言者が記す「彼」とは誰のことなのか、わかりませんでした。おそらくエルサレムで教師・学者に尋ねても明解な回答を得られなかったのでしょう。しかし、神が立てたこの「彼」とその役割に、読者は強く惹かれました。

③「わからない」から始まる

何がわかって何がわからないのかをはっきりさせることは理解への一歩です。聖書も神の計画・みこころも、わからないと言う方は少なくありません。すべてを理解し納得できなくても、信頼し、期待して向き合う中で、だんだん見えて来て、わかることがあります。

Ⅱ ピリポ

①唐突な命令(2629)

サマリヤでの働きが順調だったピリポ(5-13)に、主の使いは唐突にガザに下る道に向かうよう命じます(26)。ピリポの心中はどうだったでしょう。そこは人気のない荒野で、遠くに走る馬車を彼が認めた時、御霊は彼に接近するよう促します(29)

②不思議な展開(30-40)

ピリポが馬車に近づくと何か朗読するのが聞こえます。それがイザヤ53章であるとわかり、「読んでいることがわかりますか」と声を掛けます。真摯な質問(34)が返されて、この聖句からピリポはイエスの福音を彼に伝え、宦官にバプテスマを授けるに至ります(35-38)

③イエスの福音

神に背き離れた人間を救うために、神は自ら救い主を人の世に送られました。人として生まれ、人の罪を負って十字架で死なれ、三日目によみがえらえたイエスです。イザヤ53章は救い主の受難の預言です。宦官はこれを理解し、自分のためと受け取ったのです。

Ⅲ 神の導き

①主の使い、御霊、聖書、主の霊

名称は異なりますが、神なる主が人に働き掛けるために様々な方法を用いておられます。表層の現象の背後で、見えざる神は計画をもって一つ一つを導かれます。この世界に神は今も確かにおられ、働いておられます。この方をご存じで、信頼していますか。

②「わかる」と「信じる」

どちらが先行すると思いますか。理解と納得は信じる大前提です。理解と納得は相手の言動に対してか、それとも相手の人格との交わりから得たものでしょうか。すべてがわからずとも、この方のされること、言われることは確かだから、信頼し従うという関係もあります。

③「なるほど」の神

神のことばとみこころは着実に確実に実現します(イザヤ55:10-11、マタイ5:18)。ピリポも宦官もここでそのことを実感しました。そして、これからも神は導かれます。だから、状況は変わるとも、彼らはすべてが解明されなくても、落ち着いて次に進み行きます。

<おわりに> 神の働きと導きを神秘的にし過ぎてはいけません。むしろ、関係を積み重ねることによって自然にわかり、期待・信頼できる類のものです。信頼して従うほどに、それがよく分かるようになって来ます。あなたはそれがわかってきていますか。(H.M.)

礼拝メッセージ-2023年9月24日
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『神の賜物を手に』 (使徒の働き 84-25) 2023.9.17.

<はじめに> 最近は「自分へのプレゼント」をする人がいると聞きます。しかし、思いもよらないプレゼント、贈り物をいただくと、また違った感動と喜びがあります。それを贈ってくださった方の思いや意図を考えたりするからです。神様も私たちに賜物を与えてくださっています。

Ⅰ 神から受けたもの(4-8)

①神の著しい御業

この箇所で、神がピリポやサマリヤの人々に与えた物事を見つけて列挙してください。
みことばの福音(4)、キリスト(5)、しるし(6)、汚れた霊が出て行く、病人の癒し(7)、喜び(8)、神の国とイエス・キリストの名、バプテスマ(12)、しるしと大いなる奇跡(13)、聖霊(15)

②散らされた人たち(4-5)

サマリヤでの目覚ましい神の御業は、何をきっかけに起こったのでしょう。ステパノへの石打ち刑から始まった教会への迫害で、信者たちが生き延びるためエルサレムから各地へ離散を強いられました。キリストを信じるが故に、彼らは多くを失いました。(ヨブ1:21)

③信仰で受け取る

神が与えてくださるものを、人が選り好みしていいのでしょうか。与えられたものをしっかり受け取るのも、神への信仰です(ピリピ1:29)。具体的にどんなことを信じているのでしょう。(ヨハネ13:7、ロマ8:28、Ⅰコリント10:13、へブル12:11、イザヤ55:8-11…も参考にして)

Ⅱ サマリヤでの出来事(6-17)

①しるしと大いなる奇跡(6-713)

不思議なかたちで願いが叶えられ、求めが満たされるとき、人はそこに働く神を見ます。ピリポの働きに人々は関心を抱き(6)、またシモンの魔術にも人々は「神の力だ」と感じています(9)。両者は見かけはほぼ同じです。見分けるにはどうしたらよいのでしょう。

②大きな喜びとバプテスマ(812)

ピリポを通してのしるしと奇跡は、キリストを宣べ伝えるためのものでした(5)。それはサマリヤの人々の心に大きな喜びをもたらします(8)。人々はしるしと奇跡をきっかけに、神の国をもたらすイエス・キリストを信じ受け入れて、バプテスマを受けました(12)

③聖霊を受ける(12-17)

サマリヤの噂を聞いたエルサレムの使徒たちは、確認と励ましのためにペテロとヨハネを遣わします。二人は彼らが聖霊を受けるよう、手を置き祈りました(14-17)。聖霊はキリストを常に指し示し(ヨハネ15:26)、彼らといつもともにおられ、教え導かれます(ヨハネ14:16)

Ⅲ 神の賜物に対して

①魔術師シモン(9-19)

元々シモンは魔術で人々を驚かせ、「自分は偉大な者だ」と話しています(9)。そんな彼もバプテスマを受けました(13)。彼はペテロとヨハネが手を置いた人々が聖霊を受けるのを見て、二人に金を差し出し「その権威を私にも下さい」と願い出ます(18-19)

②ペテロの叱責(20-24)

神の賜物を金で手に入れることはできません(20-21)。それは神と対等な取引をしようとすること、神の御前に自分は価値あるものとする思い上がりです。この行為の背後にある心(2123)をペテロは責め、悔い改めるように強く訴え(22)、シモンも祈りを乞います(24)

③「私にも」と「私には」

イエスを信じる者に与えられる聖霊は共通ですが、その表れである賜物には違いがあります。主の御心を知り、それに歩むために「私にも聖霊をください」と求めることは大切です。しかし、御霊の賜物は御心のままに分け与えられ、私たちは遜って受け取るべきです。

<おわりに> 「主を用いず、主のために我は絶えず用いらる」(インマヌエル343)は、神の賜物への基本です。神様が私たちに下さっている素晴らしい賜物を感謝して受け取っているでしょうか。与えられているものを「無い」と言ったり、見過ごしにしてはもったいないことです。 (H.M.)

礼拝メッセージ-2023年9月17日
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『救いのカンセイ』 (ルカの福音書 158-10) 2023.9.10.

<はじめに> 落とし物をしたことがありますか。どんなものを無くして、その後どうしましたか。見つけ出せた時、どんな思いに満たされましたか。ここでは女の人が銀貨を失くしています。ギリシア銀貨の1ドラグマは、ローマ銀貨の1デナリに相当し、当時の労働者一日分の労賃の相場です。

Ⅰ 失くしたら

①どこかにある(8)

銀貨は世間に数多く流通していますが、この10枚の銀貨は彼女のものです。そのうちの1枚を無くしたのです。銀貨が消えたのではなく、どこかにあるのでしょうが、持ち主の女性の手元にはなく、使えない状況です。

②銀貨に表されたもの(10)

イエスがこれを語った真意が10節に言い表されています。そこで人を銀貨に例えていると分かります。人間は、神がご自分との関係に生きるように造られた存在だと聖書は告げます。私たちは神のもの、神と結び付くことで、存在価値と意味を発揮できるのです。

③罪人(10)

10節で人間は一人の罪人として描かれます。持ち主から離れ、存在価値と意味が事実上無い状態にある銀貨は、その絵です。極悪人・犯罪人だけが罪人ではありません。見かけにかかわらす、造り主である神から離れ、本来の目的が果たせない状態こそ罪です。

Ⅱ 見つけるまで

10枚のうちの1(8)

この女性が失くした銀貨1枚を懸命に捜すのはなぜでしょう。銀貨そのものの価値を忘れ去ることができないからです。また、どうも10枚揃わないと困るようにも見えます。ならば、この10枚の銀貨は、女性にとってどんなものだったと想像できるでしょうか。

②一人の罪人(10)

イエスは神から離れている罪人の存在と、その人が持っている本来の価値と意味を取り戻したいと切望しておられます。その人一人が神の許に立ち返るまで、神の御計画は未完成です。その一人のために、イエスは今も語り続け、働いておられます。

③明かりをつけ(8)

女性が執拗に丹念に捜す姿も描かれています。銀貨は家の中に必ずある、との確信からの行動です。神は失われた人を捜すために、人の光なるキリストを世に送り(ヨハネ1:4-5,98:12)、人間社会の隙間にも行き巡るべく住まわせました(ヨハネ1:14)

Ⅲ 見つけたら

①真価が輝く(9)

失くした1枚が見つかることで、10枚が揃い、その価値と目的が果たせるようになります。持ち主の女性は喜びと安堵に満たされます。神から離れた人間が悔い改めて神に立ち返るとき、その存在と真価も輝き、そのような人々が勢ぞろいすると救いが完成されます。

②一緒に喜んでください(9-10)

教会は神に立ち返った人たちの集まりです。先に立ち返った者は、あとに続く者が起こされ、皆が勢ぞろいするのを期待し、祈り働きます(Ⅰテモテ2:1-4)。神の思いと計画の実現のために働く者が神の御使いで、それが進展するとき、神と一緒に大いに喜びます。

<おわりに> 「失くしたら」も「見つけたら」も仮定法で、読者を探り、問い掛けています。私と、私の造り主・所有者なる神との関係はどうなっているでしょう。見失っていても、神はどうされますか。神に見つけられた喜びは誰のものですか。私はその喜びを感じているでしょうか。(H.M.)

礼拝メッセージ-2023年9月10日
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『その日、教会に…』 (使徒の働き 751-84) 2023.9.3.

<はじめに> 読む者には心傷む記述が続く箇所です。神がおられるのに、どうしてうまく事を運んでくださらないのか、と苛立ち落ち込むことはないでしょうか。それでもなお、神を信じるとはどういうことなのでしょうか。神はそれにどう答えられるのでしょうか。

Ⅰ 耳をおおう人々(7:54-58)

①はらわたが煮え返る思い(54-58)

聖書に基づくステパノの論述に、議員たちは真っ向から反論できず、自分たちがいつも聖霊に逆らい(51)、律法を守らなかった(53)と言われて逆上します。ステパノが神の右に立つイエスを見た(56)との言葉を神への冒涜とし、町の外で彼を石打ちにします。

②なぜ怒ったのか

不意に真実を突き付けられると、人はどんな反応をするでしょう。怒りは強い否認の表れです。律法も預言者は、いつも彼らの立場と考え方・生き方の根拠であり、擁護するものとして見ていました。しかしステパノは、彼らに厳しい非難の言葉を浴びせたのです。

③聖書との向き合い方

彼らの姿は、聖書に親しむ者が自分の欲する言葉だけを求めることに警告を促します(Ⅱテモテ4:2-4)。聖書を読む者に、聖霊は語り掛け、気付かせようと働かれます。たとえ痛く厳しい言葉でも、それをへりくだって聞き従おうとする姿勢があるでしょうか。

Ⅱ 怒りが引き裂く(7:58-8:3)

①ステパノの殺害(7:58-8:1)

怒り猛る中でも彼らは律法に準拠します。神を冒瀆する者は石打ち刑(レビ24:14-16)で、宿営の外で行われ(レビ24:23)、証人たちから石を投げつけます(申命記17:7)。証人たちの上着を預かり、処刑に賛成していた者として、サウロ(のちの使徒パウロ)が登場します。

②ステパノの叫び(7:59-60)

石に打たれながらステパノは主を呼びます。自らの霊を御手に委ね、自らを迫害する者の罪の赦しを求める叫びの後、彼は息を引き取ります。十字架上の主イエスの祈り(ルカ23:46,34)が思い起こされます。処刑する者たちにも強い衝撃があったに違いありません。

③裂かれる教会(8:1-4)

ステパノ処刑を端に、使徒たち以外はみな、突然エルサレムから諸地方へ追い出されます。この激動の中、悲しみつつステパノを葬った人たちがいました。市内に潜む者たちも次々捕えられ、教会は崩れたかに見えますが、彼らは行く先々でも福音を伝え歩きます。

Ⅲ 苦難と神のみこころ

①神のみこころはどこに

ステパノらの登用で福音はさらに広まりましたが、片や迫害の起因ともなりました。教会は波風荒ぶる中、したたかに進んでいます。問題の相次ぐ中、聖徒たちは神のみこころをどこに見出していたのでしょう。私たちは神のみこころをどのように知ればいいのでしょう。

②殉教者の血は教会の種(教父テルトゥリアヌス)

ステパノの殺害とそれを起因にする迫害は教会と聖徒たちを苦しめ悩ませました。しかし彼の生き様は主イエスを思い起こさせ、復活の主を信じ、福音に生きる道を証しします。散らされた聖徒たちも、彼の生き方に倣い、困難な中にも福音に生きようとしています。

③主の通り道(詩篇68:24文語訳)

聖徒たちがユダヤ・サマリヤの諸地方に散らされたことで、福音はエルサレムからユダヤ全体へと広がります(1:8)。迫害者サウロの登場は、後の回心への序章です。禍中では困惑することも、後で分かる神の御計画があるのではないでしょうか(ヨハネ13:7)

<おわりに> 万事自分の思い通りになることは稀です。むしろ困難と逆風に悩まされることの方が多いでしょう。しかし、その中にも主がともにおられ、聖徒たちを導き追い立ててでも、ご自身の御計画を着実に実現されて行きます。主の進み行かれる道に私たちも続きましょう。(H.M.)

礼拝メッセージ-2023年9月3日
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『そのとおりなのか』 (使徒の働き 68-72節、51-53) 2023.8.27.

<はじめに> 突然、問われたり責められたりする場面に立たされるとき、心中は穏やかではありません。しかし、主イエスはそのような時への備えと約束を与えてくださっています(ルカ12:11-12)。本書の記者ルカは、前段で選ばれた7人の筆頭であるステパノの姿に焦点を向けています。

Ⅰ 論破と逮捕

①リベルテン会堂にて(6:8-10)

地中海沿岸の各地に奴隷となって散らされたユダヤ人が解放・帰還して、エルサレムでリベルテン(解放奴隷)の会堂に集っていました。ギリシア語に通じ、知恵と御霊によって語るステパノがイエスこそメシア(キリスト)と論じることに、彼らは対抗できません。

②偽りと扇動(6:11-13)

正攻法で対抗できない彼らは、言いがかりを浴びせてステパノを捕らえて最高法院へ連行します。人々をそそのかし、偽りの証人を立て、民衆と指導者を扇動して、奇襲逮捕して最高法院に立たせる手法と関わる面々は、主イエスの十字架の時とほぼ同じです。

③そのとおりなのか(6:14-7:1)

「ナザレ人イエスは、この聖なる所を壊し、モーセが私たちに伝えた慣習を変える」とのステパノの主張が、聖なる所と律法に反するのか、が訴えです。大祭司(カヤパ?)は「そのとおりなのか」と彼に問い、彼の長い答弁が始まります。彼の顔は神の栄光で輝きます。

Ⅱ イスラエルの歩みを振り返る(7:2-47)

①アブラハムと族長たち(2-16)

神がユダヤ人の父祖アブラハムにメソポタミアで現れ、約束の地へ導かれます。そこを所有するのは彼の子孫が他国の地で寄留者・奴隷となった後だと約束されます。ヨセフが兄たちにエジプトに売られ、飢饉をきっかけに父ヤコブ一族もエジプトに寄留します。

②モーセ(17-35)

神は幼子モーセを救い出し、彼はエジプト王宮で成長します。40歳の時、同胞を救おうとする彼の志は同胞から拒まれて、荒野へ逃亡・寄留します。80歳の時、燃える炎の中に神の御声を聞き、アブラハムへの約束(6-7)の実現のために再び遣わされます。

③イスラエル民族(35-47)

モーセはイスラエルに生ける神のことばを語り、神の約束の地へ彼らを導こうとしますが、民は拒み、神は背く民を偶像に仕えるに任せます(42-43=アモス5:25)。なおも神はモーセにより幕屋を、ダビデ・ソロモンにより神殿を建て、神礼拝の場を与え、今に至ります。

Ⅲ 歩みから導き出されること(7:48-53)

①神の御住まいはどこに(48-50)

イザヤ66:1-2を引用して、ステパノは神の宮の建物に固執することは神のみこころと合致しないと明示します。イスラエルの歴史には、神は異国にも現れ、語り、働かれている事実を列挙できます。会堂以外なら、私たちはどこに神を見出し、どこで神と語らいますか。

②いつも逆らっている(51-52)

モーセはイスラエルを「うなじを堅くする民」(32:9)「無割礼の心」(レビ26:41)と称し、エレミヤは「耳に割礼がない」(6:10)と断じます。イスラエルの歴史で神への反逆と反抗が繰り返され、預言者たちを拒み、今やその子孫が正しい方イエスを拒み、殺したのです。

③人の心に潜むもの(53)

ステパノの論述は聖書と歴史に基づいていて、聞く者たちも肯定するほかありません。しかし理解がそれにふさわしい応答と行動に繋がらない矛盾を人は抱えています。一体それは何でしょう。ここまで聞いて、人はその矛盾と過ちを素直に認めるでしょうか。

<おわりに> 「いつも」(51)は聖霊に逆らう人だけでなく、それでもなお働き掛ける聖霊にもかかっています。ここに神の忍耐とあわれみがあります。神に語られ、御声を聞けるチャンスが与えられている間に、その声に従う者に、神のあわれみと救いが届きます。(H.M.)

礼拝メッセージ-2023年8月27日
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『これ、どうする?』 (使徒の働き 61-7) 2023.8.20.

<はじめに> 教会には問題がない、あってはならないでしょうか? 教会も人の集まりですから、様々な問題が起こり得ます。苦情を聞かされ、問題を指摘されるのは、誰でも嫌で避けたいでしょうが、宝の山ととらえる人もいます。これらにどう向き合い、対処するかを学ぶチャンスにもなります。

Ⅰ 苦情の実像(1-2)

①寄せられた苦情(1-2)

教会内のやもめへの毎日の配給で不公平が生じている、という声が、12使徒たちの耳に届きます(1)。配給は使徒たちが担っていたようです。そこに彼らが抱えていたもう一つの悩みがありました。それは何ですか。使徒たちはそれをどこに持って行ったでしょう(2)

②原因はどこに(1-2)

言葉の違いから来るコミュニケーション不足が考えられます。また、弟子の数が増えたことも大きな要因です。初発の時にはうまく回っていても、働きが拡大すると同じようには進みません。働き手の容量を超えて、不本意ながら全体に手が届かなくなったのでしょう。

③問題の背景

教会内での献金と配給は、イエスを信じた人たちが心と思いを一つにした表れとしての自発的な愛のわざです(4:32-35)。アナニアとサッピラの一件(5:1-11)で、人々は献げる心を探られ、より注意深く取り組んだでしょう。それでも苦情が出る事態になったのです。

Ⅱ 解決に向けて(2-6)

①いろいろな対処の中から(2-3)

不平等だから、担当者が足りないから、もう配給は止めよう、とすることもできます。むしろ責任者を立て、人を増やし、通訳も入れ、漏れのないようにチケット制にするなど・・・。しかし、使徒たちは御霊と知恵に満ちた評判の良い人たちを選任することを提案しました。

②選考基準(3)

この提案を教会全体に呼び掛ける前に、使徒たちは対処を話し合ったはずです。そこで、実務経験からどんな人に任せれば良いか、祈りつつ選考基準を吟味したことでしょう。この基準から、使徒たちが配給の働きをどうとらえて、何を大切にしていたとわかりますか。

③承認と選任(5-6)

この提案を教会全体が喜んで受け入れ、提案に沿う7人を選出します。名前からギリシア系のユダヤ人と見られます。使徒たちは彼らに按手し、神の祝福と権限委譲を祈ります。私たちは神と教会の働きのために、どういうやり方で、どういう人を選んでいるでしょうか。

Ⅲ 本質を大切に

①最優先すべきこと(24)

食事をともにし、貧しい人を助けることは大切ですが、それ以上に大切なことがあります。使徒たちは、神のことばが後回しにしている現状こそ問題の根本だと気づきます。優先順位が狂って来ると、各所から異音・違和感が生じるのは、教会も人の世も同じです。

②神に聞き、神と語らう(5-6)

みことばを通して神から語り掛けを聞くこと、祈りによって神と語らい、自分の心中にあることを神に知っていただき、神の教導と助けを仰ぐことは、イエスを信じる者にとって生命線です。イエスとつながる人のうちに、信仰と忍耐、愛とあわれみが豊かに湧き出て来ます。

③神と人をつなぐ(7)

神と自分をつなげる幸い・素晴らしさを味わっている人は、周囲にもそれを分かち流すことが自然とできてきます。この一件を越えて、神のことばが広まり、神と人を仲介する祭司たちが続々と信仰に入ったのは、自分たちの職責の具現を見抜いたからでしょう。

<おわりに> 問題の如何に拘わらず、その中で神と私たちの関係を探り整えようと、聖霊は教会と信仰者に今も働き、ささやき、行くべき道を照らし、その道へと私たちを導かれます。人の世も教会も問題に悩まされますが、それを用いて練り聖め、整えられて行きます。 (H.M.)

礼拝メッセージ-2023年8月20日
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『よく気をつけなさい』 (使徒の働き 533-42) 2023.8.13.

<はじめに>最高法院に集まった者たちは、使徒たちの弁明を聞いて怒り狂い、殺意をたぎらせます(33)。自分たちの権威と面子を踏みにじり、イエス殺害の責任を負わせたからです(28)。しかし、彼らの殺意に待ったがかかります。律法の教師ガマリエルが議場に再考を促したのです(34)

Ⅰ ガマリエルの提案(35-39)

①二つの実例(36-37)

使徒たちを議場から出させてから、ガマリエルは議員たちに、テウダとユダがそれぞれ起こした蜂起が、首謀者も追随者も雲散霧消した顛末を思い起こさせました。

②手を引き、静観せよ(38-39)

苛立つ余り、自ら手を下そうとせず、むしろ使徒たちの動きがどのように推移するかを静観するようにと彼は勧めます。この根底には、この世の中と歴史を司り、そこに働かれる神がおられる、という歴史観があります。私たちはどう考えて生活しているでしょうか。

③二つの可能性(38-39)

もしその計画・行動が人間から出たものなら、やがて自滅するでしょう。しかし、もしそれが神から出たものなら、それを滅ぼすことはできず、むしろこちらが神に敵対する者になりかねない危険もはらんでいます。だから、よく気をつけなさい(35)、と彼は警告したのです。

Ⅱ 提案を受けて(40-42)

①議員たち(39-40)

ガマリエルの提案に従い、議場に使徒たち呼び入れて、鞭で打ち、重ねてイエスの名によって語ることを禁じてから、釈放しました。彼らが鞭打ちしてから釈放したのは、自分たちは間違っていない、と自負していたからではないでしょうか。

②使徒たち(41)

使徒たちは脅しの鞭を与えられました(Ⅱコリント11:24、申命記25:3)。イエスが受けた鞭はそれ以上で、死刑囚への見せしめでした。彼らは、痛み苦しみ辱められる中で喜びも感じています。主イエスをより近く感じ、慰めと希望を受け取ったからです。

③なおも宣べ伝える(42)

イエスの名で語るな、と三度禁じられ、これだけ傷めつけられたにもかかわらず、彼らはなおも語り続けます。使徒たちは、人に従うよりも神に従う、と宣言したとおりです。議員たちと使徒たち、どちらに神は目を留めて、支持加担されるでしょう。

Ⅲ 自分を探る

①秘密の出所(33-39)

使徒たちを追い出しての会話が、なぜ本書に記録されているのでしょう。ガマリエルの門下生の一人、サウロ(のちの使徒パウロ)が出所の可能性大です(22:3)。本書の記者ルカは、単なるスクープ・暴露として記録したのでしょうか。

②歴史は語る

ルカが本書を書いたのは、この出来事から約30年後です。そのときイエスを信じる者たちはどうなっていたでしょう。ガマリエルの提案と照らし合わせるなら、イエスの福音は人間から出たものでしょうか、それとも神から出たものでしょうか。なぜそう言えるのですか。

③今も聖書は語る

ガマリエルの提案は大変穏健で賢明です。それは箴言16:1-33:5-7を思い起こさせます。私たちは、自分を優先して神様さえ押しのけてしまってはいないでしょうか。一歩引いて神様に信頼し、自分の大切なものを御手に委ねるとき、神様はそれを確立されます。

<おわりに> 神を味方につけ、神側に着くことが最善であるということは、誰でも直感できます。ならば、その神に自分の計画・行動・願望を話し、相談し、その指導に従うことに具体的に進むべきです。それを阻むのが、神よりも自分が正しいとすることです。その誤解と過ちから救うためにイエスは来られ、呼び掛け、手を差し伸べておられます。(H.M.)

礼拝メッセージ-2023年8月13日
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『より大きな喜び』 (ルカの福音書 151-7) 2023.8.6.

<はじめに> いつもいるものが見つからない、ということがあるでしょうか。ならば、それを探して見つけ出した時の安堵と喜びも分かるでしょう。イエスが語られた短い物語にも描かれています。

Ⅰ 羊が100

①自分のもの(4)

羊を持っている人は、毎日羊を野に連れ出し、養い育てます。自分の群が全部が揃っているかを折々に確認するでしょう。数が合わないなら、行方不明になったはずです。自分のものを見失ったら、捜し歩きます。持ち主が失くしたものを捜すのはどうしてですか。

②かわりはいない(4)

見失ったのは100匹のうちの1匹です。99匹がいるから良し、とできるでしょうか。数字は抽象化させます。部外者には羊はどれも一緒に見えますが、飼い主はそれぞれの個性・特徴を把握しています。いなくなった1匹のかわりはどこにもいません。

③たとえられているもの

これはたとえ話です。物語に例えられた真意があります。聖書では、羊を人、飼い主を神にしばしば例えています(詩篇23篇、ヨハネ10章など)。そうすると、このたとえ話から、神は人をどう見ているでしょう。また、人が落ち着いていられるのはどんなところでしょう。

Ⅱ いなくなった1

①はぐれた羊(4)

羊はどうして群れと羊飼いから離れてしまったのでしょう。はぐれてしまったことに気付いたのはどの辺りでしょう。羊と羊飼いの距離はどう変化しましたか。群れに戻るためにその羊は何ができるでしょう。

②見つかるまで捜す(4)

羊飼いもはぐれた1匹に気付き、その名を呼びますが現れません。そこで、彼は捜し歩きに出掛けます。その1匹を見つけるまであきらめません。この羊飼いの姿勢は、神と共通です。神の呼び掛けに答えがないその人を捜すため、イエスをこの世に送られました。

③見つけたら(5-6)

ようやく羊飼いははぐれた1匹を見つけ出します。喜んで羊を肩に担いで連れ帰り、友人や近所の人たちと、羊を取り戻した喜びを分かち合います。見つけた喜びを大勢で共に喜ぶ情景を、イエスは天にある大きな喜び(7)だと言われます。

Ⅲ 天にある喜び

①たとえ話の背景(1-3)

この話をイエスは誰にされたでしょう。「そこで」(3)から、1-2節が語る発端であったと分かります。パリサイ人・律法学者はこの文句を何度も言っています。罪人を受け入れる者もその仲間で同等だ、と彼らは主張し、イエスを軽蔑していました。

②天にある喜び(7)

それは一人の罪人が悔い改めることで沸き起こります。悔い改める必要のない99人の正しい人は喜ばしい存在ですが、そこにもう一人加わることに神様の関心はより向けられています。罪を犯さないことは幸いですが、罪から離れて立ち返ることはもっと幸いです。

③一緒に喜んでください(6)

悔い改める必要のない人とは、どんな人でしょう。その人には、罪を赦され、神との関係を結び直した喜びが分かるでしょうか。この天にある喜びを分かち合えるのが教会です。皆、神に見出され、立ち返った経験者の集まりだからです。

<おわりに> 教会はきよい人の集まりだと思われがちですが、神に立ち返った元罪人の集まりです。喜びと安らぎへと導かれる羊飼いなる神様の声を聞き、道を外れたときにも連れ戻してくださるイエスを呼べる関係を日々刻々保つとき、この喜びが湧き上がります。(H.M.)

礼拝メッセージ-2023年8月6日
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『主の憐れみと恵み』 (Ⅰテモテ1:12-17) 2023.7.30  M.M.M.

 

序) 先日、S姉とK兄が、好きな賛美の話をしておられるのを聞いた。

インマヌエル讃美歌510番 「あなうれしわが身の」 (折り返し)

   ♪歌わでやあるべき 救われし身の幸 称えでやあるべき 御救いのかしこさ

   (原詩) This is My Story, This is My Song, Praising My Saviour All the Day Long

インマヌエル讃美歌511番 「罪とがを赦され」

   ♪ 罪とがを赦され 神の子となりたる 我が魂の喜び 比べ得るものなし

あれ?私、王子教会で救いの証ししたことあったっけ? したいな!

    今回は、私のストーリーを分かち合いたい

 

Ⅰ.牧師の子供として

    祈り、聖書、賛美は朝飯前   ②10歳の苦しみ   ③救いの恵み

 

Ⅱ.放蕩娘時代

    この世へのあこがれ   ②ふた心の苦しみ   ③立ち返りと召命

15   「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、

  そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

16   しかし、私はあわれみを受けました。それはキリスト・イエスがこの上ない寛容をまず

  私に示し、私をご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。

 

Ⅲ.主に仕える者とされて

    楽しい、嬉しい開拓   ②牧師としての苦しみ   ③辿り着いた安息と喜び

 

結) 12節、私は、私を強くしてくださる、私たちの主キリスト・イエスに感謝しています。
キリストは私を忠実なものと認めて、この務めに任命してくださったからです。

真実でないのに誠実な者として、主に仕えるために任じてくださった。

              ただただ、「主の憐れみと恵み」以外にはない。

インマヌエル讃美歌653番 「真実全き心もて」

  ♪ 真実 全き心もて いのちの君に仕え イエスを高き則として 雄々しく戦わばや

礼拝メッセージ-2023年7月30日
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『人の思い、神の思い』 (使徒の働き 512-32) 2023.7.23.

<はじめに> 私たちは、白黒板挟みの中で、難しい舵取りを迫られることがあります。そのとき、しっかり自分の立場と意見を伝えることはたやすいことではありません。教会と使徒たちには、擁護者のいない中、厳しい状況にあって、何を大切にして一つ一つ選び取って行ったのでしょう。

Ⅰ 人の反応(12-18)

①使徒たちと信者(12)

使徒たちは、イエス復活の証拠としての奇跡を、人々の間で数々行っていました。4:30の祈りの結果です。ソロモンの回廊は、信者たちが集まる場所となっていました。そこでかつて何が起こりましたか(3:11)。彼らは、何に心を一つにしていたのでしょうか。

②周囲の人たち(13-16)

遠巻きに尊敬のまなざしを向ける人もあれば、主を信じ、仲間に加わる者も増えて行きました。やがて病人や汚れた霊に苦しむ人々を連れて近傍の町々から大勢集まるようになります。自分の立場や考え、抱える必要や期待によって、距離感と対応が変わります。

③サドカイ派の者たち(17-18)

サドカイ派は大祭司を中心とする裕福な指導者層の多くを占めていました。奇跡、御使い、復活と来世を彼らは信じていません。彼らは、使徒たちに語ることを禁じたのに、なおも語り、人々の尊敬と関心を集めているのを妬んで、使徒たちを捕え、留置場に送りました。

Ⅱ 神の思いと人の企み(19-28)

①主の使い(19-20)

その夜、主の使いが牢の戸を開けて、彼らを連れ出し、「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばをすべて語りなさい」と告げます。使徒たちはこれを聞いて、どうしましたか(21)。神の思いと、世間の考えや自分の思いが食い違う時、私たちはどうするでしょう。

②大祭司たちの思い(21-27)

大祭司一派は、捕らえた使徒たちを、翌日最高法院で裁く段取りでした。ところが、牢に使徒たちの姿は無く、彼らが宮で教えていることが分かり、直ちに再び捕らえて、最高法院に連れ出します。彼らは、使徒たちのことでなぜ当惑していたのでしょう(24)

③訴えのことば(28)

大祭司が使徒たちに言い聞かせたかったことは何でしょう。「われわれが命じたことを破り、われわれにイエスの血の責任を負わせようとしている」。自分が中心であり、自分は悪くない、間違っているのはお前たちだ、と言わんばかりです。神はどこにいるのでしょう。

Ⅲ 使徒たちのことば(29-32)

①神に従うべき(29)

使徒たちは4:19を決断として改めて表明します。大祭司は自らの立場と権威で迫りますが、神不在の人のことばです。彼らは、人よりも遥かに優る神に従う道を歩んでいました。神の名を語る大祭司に、これを否定することばはありません。

②神は赦す御方(30-31)

大祭司は、イエスの血の責任をわれわれに負わせようとしている、と逃げ腰です。しかし使徒たちは、イエスを十字架につけて殺した罪を赦すために、神はイエスを死からよみがえらせて天に上げられた、と告げます。だから悔い改めて、神に立ち返るよう促しています。

③二人の証人(32)

使徒たちは、イエスの復活の証人であるとともに、イエスによって罪を赦された証人です。神は、このイエスの福音に従う者に聖霊を与えて、ご自身も証言されています。「二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証される」(マタイ18:16)とおりです。

<おわりに> 人は常に自分は正しく、自分の意のままに物事を理解・解釈し、そのとおりになることを望む者です。神の目から見れば、人は過ち易く、偏り見る罪深い者です。しかし、神はイエスを救い主、信仰の導き手として私たちに与えられました。誰に従い歩みますか。(H.M.)

礼拝メッセージ-2023年7月23日
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『大きな恵み・大きな恐れ』 (使徒の働き 432-511) 2023.7.16.

<はじめに> イエスの復活を力強く証しする使徒たちによって、イエスを信じる人たちが次々起こされて、教会は数的にも質的にも充実してきました。しかし、その最中に厳粛な出来事が起こります。神は愛の神なのに、こんなことが起こるのはなぜでしょうか。

Ⅰ 初代教会の様子(4:32-37)

①共有と分与(4:32-35)

持ち物・財産を教会に差し出す人もあれば、必要や乏しさを素直に明かす人もいました。自発的な心と思いを一つにして、共有していた(32)からで、その結果、お互いが満たされていました(34)。その人たちの心と思いを具体的に言い表すと、どんなものでしょうか。

②大きな力(4:33)

使徒たちは、民の指導者たちからイエスの名によって教え語ることを禁じられていましたが(18)、むしろ大胆に語らせてくださいと祈りました(29)33節でその祈りが答えられたのです。使徒たちは、恐れ・不安を大胆に乗り越えて、イエスの復活を明確に証ししました。

③大きな恵み(4:33)

彼らはよみがえられたイエスを身近に感じて、日々生活していました。罪を悔い改めて新しく生まれ変わり、キリストに従い価値観と生き方が大きく変わっていきます。神の不思議な御業を体験し、喜びと感謝が心に湧き、それが具体的な共有となって表されました。

Ⅱ 献げる二者(4:36-5:11)

①バルナバ(4:36-37)

バルナバが、所有の土地を売り、その代金を差し出しました。この行動は彼が最初ではなかったようです。慰め(励まし)の子と呼ばれる彼らしいエピソードです。やがて彼は教会内で一目置かれる存在となり、使徒パウロの登用にも関わります(11:25-26)

②アナニアとサッピラ(5:1-11)

アナニア・サッピラ夫妻も、所有の土地を売り、その代金を差し出しました。その動機は何でしょう。二人が代金の一部を自分のもとに残したのはどうしてでしょうか。妻は何のために3時間後に現れたのでしょう。二人どう言っていたら、死なずに済んだでしょうか。

③大きな誤解

神は献げ物を強制されていません。自分のために手元に一部を残すことも問題ありません。むしろ問題は、二人が心を合わせて偽ったこと、正直に真実を述べる機会を逸したことです。偽りを言っても、神には分からないと思っていたのではないでしょうか。

Ⅲ 大きな恐れ(5:11)

①神を侮ってはいけない

嘘は人は騙せても神を欺くことはできません。この方はすべてをご存じだからです。なのに、偽って騙せると思い込むことは高慢で、神はこれに厳しく向き合われます。アダムとエバ(創世記2:17,3:11)、アカン(ヨシュア7:1)に及んだ厳粛な結果と同じです。

②安全地帯にはいない

彼らもイエスを信じた者でした。その彼らの心を奪い、偽らせたのはサタンだ、とペテロは指摘します。サタンは今も信仰者の足元をすくおうと付け狙っています。聖霊に満たされていても、サタンの誘惑・攻撃や人間的な欲望から解放されたのではありません。

③聖霊は教えてくださる

クリスチャンらしさ、聖さを装おうと、無理をしてはいないでしょうか。誰かの真似をしていても、神はその心・動機まですべてご存じです。私たちは神と心と思いを一つにするために、聖霊が与えられ、この方に聞き従うようにと招かれています。

<おわりに> 教会と信仰者は、外からの攻撃だけでなく、一人ひとりの心に仕掛けて来る試みる者とのせめぎ合いの中に生きています。しかし、主イエスはサタンのわざを壊し、その策略から私たちを守ろうと聖霊を与えられました。この御方を軽んじてはなりません。(H.M.)

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『主よ、今、ご覧になって』 (使徒の働き 4章13-31) 2023.7.9.

<はじめに> 神を信じる者には、すべてのことがうまく運ぶなら、こんなに楽なことはありません。しかし、現実には神を信じる者にも悩ましいことが巡って来ることがあり、神を信じるが故の苦しみもあります。そのようなとき、私たちは神に祈ります。何と祈ればよいのでしょうか。

Ⅰ 実生活の中で起こること

①目覚ましい働き(3-4:12)

ペテロとヨハネは主イエスの御名によって奇跡を行い、人々にイエスの復活を大胆に証しし、大勢が神をあがめ、イエスを信じました。民の指導者たちの前でも、二人は聖霊に満たされて、イエスこそ救い主(キリスト)であると大胆に証しします(5-12)

②理不尽な命令(13-22)

民の指導者たちは二人を逮捕拘留し、翌日尋問した後、協議して、今後イエスの名によって語ってはならない、と二人に厳命し、脅したうえで釈放しました。主を信頼して、善い業をなし、人々に福音を宣べ伝え、成果を出す者に、なぜこんなことが起こるのでしょう。

③信仰者の葛藤

神に従い、福音を証しし、精一杯信仰の道をたどる者が、いつでも誰もが納得できる結果と報いを受けられるならどんなに良いでしょうか。神を信じ歩む者に理不尽が襲い掛かるとき、信仰者の心は穏やかではいられません。そんなとき、私たちはどうするでしょうか。

Ⅱ 神に持って行く

①仲間と分かち合う(23)

二人には同信の仲間がいて、一連の出来事も言い渡されたことばも、残らず伝えました。驚き・感謝・恐れ・痛みなど心のすべてを、ことばにする作業は大変ですが大切です。また、思いをありのままに打ち明けられる友、親身に聞いてくれる友が私たちに必要です。

②心合わせ祈る(24)

打ち明け話を聞くうちに、自分では力不足を感じることがあります。そんな時こそ、ともに聞いておられる神に目を上げて、心合わせて祈るのです。神は、ご自身に期待して、心を開いて祈ることを待っておられます。マタイ18:19で主も約束されます。

③主よ、ご覧ください(29)

見て、聞いて、知って、御手の中にこれらすべてを握り、主が主導権を持って関わってくださるように、と祈ります。私にとって難しいとか無理だとか言って思い悩むうちは、まだ自分で問題を握っているからです。さっさと手放して、主の御手に託すのが最善です。

Ⅲ 神の視点で見る

①神とこの世(24-28)

神なる主は天地万物の創造者・支配者です(24)。しかし、詩篇2篇にあるように(25-26)、人はおごり高ぶり、主に立ち向かおうと企み動くものです。イエスの十字架もその成就です(27-28)。人の反抗も神の御手の中にあって、御意は崩れることなく着実に実現します。

②神の計画の推進(29-30)

人に従うより、神に従うことを宣言した彼らは、神の御前で改めてしもべとなる決意を表します。しもべの務めは、みことばを大胆に語ることと、みことばに伴うしるしを行うことです(マルコ16:20)。イエスがよみがえり、罪の赦しを与える救い主だと証しするためです。

③神の応答(31)

彼らが祈り終えると、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出します。彼らの祈りを聞き届けて神が働かれるのを、彼らはこれからも実感していきます。取り囲む状況は変わっていませんが、神への信頼は増し、事々に祈り、主を身近に感じて歩みます。

<おわりに> 私たちの現実生活には、悩ましい理不尽な課題が山積していても、それらはすべて主なる神の御支配の中にあります。その主にすべてを打ち明け、持ち行く仲間・友として、私たち教会は結び合わされています。祈るところに神は臨み、祈る者を引き上げられます(H.M.)

礼拝メッセージ-2023年7月9日
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『イエスは招く』 (マルコの福音書 213-17) 2023.7.2.

<はじめに>「この教会は、いい人たちばかりです」という声を聞いたことがあります。それを聞いてどう思いますか。いい人でなければ、教会に行けないのでしょうか。教会の中心はイエス・キリストです。イエスの周りに集まって来る人たちとは、どんな人たちでしょう。

Ⅰ 食卓を巡って

①イエスについて行く人々(13-14)

イエスが湖のほとりへ出かけると、彼の教えを聞こうと大勢の群衆が集まって来ます。この群衆の中には、どんな人たちがいたでしょう。道すがら、イエスは収税所に座っているレビを招きます。「わたしについて来なさい」は、イエスの弟子になりなさい、の意です。

②二つに分かれる人々(15-16)

イエスに従ったレビは、イエスと弟子たちを自宅に招き食事を振舞います。そこには同業の取税人や罪人も同席していました。イエスについて来た群衆は、食卓に着く者と着かない者に分かれます。そして、着かない者は「なぜ、あの人は…?」と弟子に質問します。

③「なぜ?」に潜む思い

パリサイとは「汚れから自らを分け隔てる」の意です。律法学者は取税人を売国奴として毛嫌いし、律法を順守しない人を罪人扱いし、彼らと一線を画していました。そのような人たちと一緒に食事をしないことから、彼らが何を大事にし、恐れていたのか垣間見えます。

Ⅱ イエスは来られた

①関わらない人たちの思い(16)

怪しい汚れた人たちとは接触しない、関わらない、交わらないのは、自分を清く保とうとしてです。罪・汚れは接触感染すると言わんばかりです。イエスに関心を向けていた彼らとしては、イエスがそのような人たちと関わりを持つことが理解できません。

②イエスの理解(17)

彼らが弟子に尋ねる声を聞きつけて、イエスが自分を医者に例えて答えます(17)。イエスが取税人・罪人と関わるのは、彼らの行いと考えを是認・同意しているからではありません。むしろ、彼らを神の前に健全な心と生き方へと変えて、正しい人にするためです。

③招くために来たのは

患者と向き合う人たちは自ら罹患しないよう人一倍注意を払いながら、病人と病気に向き合います。思い悩む人と関わり、その人を正しい人に造り変えるために、イエスは私たちの生活の現場に来られ、一緒にいて、私と向き合ってくださいます(イ367-3)。

Ⅲ イエスは招く

①招かれる者の手本(15-16)

レビがイエスを食事に招待したのは、自分を弟子に招き、加えてくださったからでしょう。イエスとレビの間には招き招かれる交流があります。イエスもレビも相手の招きに快く応じています。私たちが招待を受けているのに、いろいろと考え悩むのはどうしてでしょう。

②わたしを呼べ(17)

病人は治ろうとして医者にかかります。自分で治せるなら不要です。罪汚れを抱えて、良くなりたいと思っている人に、「自分で頑張れ」とイエスは言われません。「わたしを呼べ」(エレミヤ33:3)と神は呼び掛け、イエスをその人のそばに遣わされています。

③イエスを必要とする

日々の生活の中で、私たちは自力で何とかしようと頑張っていますが、自分ではどうすることもできない事も多々あります。そのとき、私たちは神を、救い主イエスを呼び求めるでしょうか。必要とされている人・場面にイエスは関わりたい、関わろうとしておられます。

<おわりに> これらのことから、教会はイエスを必要としている人たちの集まりだとも言えます(ひむなる120)。イエスはご自分を求める人たちに答えられます。あなたは、イエスを必要としていますか(イ146-1)。(H.M.)

礼拝メッセージ-2023年7月2日
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