『反対と協力の中で』 (使徒の働き 18章1-17節) 2024.9.22.
<はじめに> コリントはアカイア地方を代表する軍都・交易都市です。女神アフロディーテの神殿があり、退廃的な空気にも満ちていました。パウロはアテネを去って、この町に一人で入り、1年半ほど滞在して神のことばを伝えます(11)。そこで彼はいろいろな人々や出来事と出会います。
Ⅰ 反対者たちの動き
①罵るユダヤ人たち(4-6)
パウロは、ここでもまずユダヤ人から伝道します。安息日ごとに会堂で彼らと論じ、イエスがキリスト(救い主)であることを証ししますが、ユダヤ人たちはこれに反抗し、パウロを口汚く罵ります。どんなことばだったのでしょう(マタイ27:20-25)。
②頭上に降りかかれ(6)
血はいのちで(申命12:23)、その責任はいのちの源なる神が問われます。発したことばを神はその人に返されると、パウロは厳粛に伝えます。そして、彼自身は異邦人伝道へ向かうと宣言します。しかし、それがさらにユダヤ人の妬みと怒りを助長します。
③訴えるユダヤ人(12-17)
ユダヤ人は機を伺い、一斉にパウロに反抗して、彼を地方総督ガリオに突き出し訴えます。何と訴えていますか(13)。しかしガリオはその訴えに取り合おうともせず、彼らを法廷から追い出します。その理由を14-15節に彼は述べています。
Ⅱ パウロへの追い風
①ローマ帝国の態度(14-15)
総督は領内の治安維持に関心があり、宗教論争には関与しないと表明します。クラウディウス帝がローマから全ユダヤ人を退去させた(2)のも、キリスト信者へのユダヤ人の反発による治安悪化を避けるためと思われます。この判例は両者にとって、どうなのでしょう。
②協力者たち(1-5)
同信のアキラとプリスキラとは同業者でもあり、一人この町に踏み入ったパウロを支え励まします。べレアからシラスとテモテが合流することで、パウロは宣教に専念できました。二人が携えて来たピリピの教会からの支援も、それを後押ししました(ピリピ4:15)。
③宣教の実たち(7-8)
ユダヤ人会堂を出たパウロは、神を敬うティティオ・ユストの家に移ります。会堂司クリスポとその家族はじめ、多くのコリント人も信じ、バプテスマを受けます。宣教は着実に実を結んで、この町にも信じる者たちが増えつつありました。
Ⅲ 反対と協力の中で
①はざまで揺れる心(9)
逆風と追い風がぶつかる中、パウロは思い悩んでいたようです。行く先々でユダヤ人からの反抗に遭い、信仰者を守るためにその地を離れざるを得なかった彼は、コリントでもそうなりはしないか、信じたばかりの人たちをどう支えるかなど、あれこれ考えたことでしょう。
②主は語られる(9-10)
主は幻を通してパウロを激励されます。その中で避けるべきこと、果たすべきことを再確認させて、その根拠と保証を示されます。目に見える現状や現象を通して、私たちは神の御心を探りがちです。あらゆる方法で語られる主のことばと御心を受け取ることが大切です。
③腰を据えて(11)
パウロはこれまでと異なり、1年半コリントに留まり、神のことばを伝えます。ユダヤ人の訴えを総督が却下したことは、ローマ帝国が福音宣教を禁じなかった証拠です。このことは、彼が今後ユダヤ人の反対と向き合う際の指針と希望になったのではないでしょうか。
<おわりに> 反対や課題に遭遇すると、私たちは意気消沈し、神の御心ではないと思い、逆に順風満帆だと、これこそ御心だと思いがちではないでしょうか。パウロもその間で揺れ動いています。彼が恐れと心配から立ち上がれたのは、主の語り掛けを聞いたからです。主は今も私たちに様々な方法で語られます。主の御声を受け取る訓練も与えてくださいます。(H.M.)
『知らざる神に』 (使徒の働き 17章16-34節) 2024.9.15.
<はじめに> 私たちが住むこの町の中には、神々が祭られている所が数多くあります。それらを見てどう思いますか。その只中に、神の福音に生きる教会とクリスチャンがいます。アテネの町はこれに似た状況でした。そこに踏み入ったパウロがどのように人々に福音を伝えようとしたのでしょう。
Ⅰ アテネの人々に(16-21)
①町に入って(16-18)
ベレヤから一人アテネに渡ったパウロが町を巡るうちに、心に憤りを感じます。何に対してですか(16)。彼は会堂(17)で、広場(17)で、アレオパゴスの評議会(19、22)で、そこにいる人たちに語り、論じ合います。パウロはそこで彼らに何を宣べ伝えていましたか(18)。
②人々の反応(18-21)
パウロの話を聞いたアテネの哲学者たちの反応には、どんなものがありましたか(18-20)。それはパウロが宣べ伝えているイエスの福音について興味を抱き、もっと知りたい、教わりたい、と思ったからなのでしょうか。
③今に続くおしゃべり
おしゃべり(18)は巷にあふれ、人々は新しいことを話したり聞いたりして日々過ごしている(21)とあります。現代も同じかそれ以上です。エピクロス派は「人生の目的は幸福・精神的快楽」と、ストア派は「万物の中に神が宿る(汎神論)」と考えます。今も根強い考え方です。
Ⅱ アレオパゴスに立って(22-31)
①知られていない神に(22-25)
興味を抱く哲学者たちに連れられて、パウロはアレオパゴスに立ち、語ります。彼は、町を巡る中で見つけた祭壇(23)から、彼らの宗教心に注目します(22)。彼らが知らずに拝んでいる神は万物を創造され、宮も人の奉仕も不要な御方で、人のいのちの源だと語ります。
②神を求めさせるために(26-29)
人類の起源と歴史、諸民族の成り立ちを考えるとき、今多くの人はどう捉えているでしょう。パウロは、一人の人を創造した神にたどり着くと語ります。その神は今も人々の近くで生き、働いておられます。この偉大な神を、人が考え出し、被造物で形に表すべきでしょうか。
③悔い改めへ進むように(30-31)
人の思索で気ままに神を思い描き、形ある像にする無知を、神は忍耐をもって見過ごしておられました。しかし今や、神はそれを悔い改めるように、すべての人に命じられています。そのために一人の人を立てて人の罪の身代わりとし、死者の中からよみがえらせました。
Ⅲ 聞いた人たちは(32-34)
①いずれまた聞こう(32)
死者の復活をパウロが語ると、聴衆から失笑が漏れ、その場を立ち去る者も出ます。なぜなのでしょう。死から復活させる神は、彼らには理解し難く、受け入れ難いからです。彼らは神を求めるようであっても、実のところ自分自身がすべての決裁者、神同然でした。
②神の自己紹介
自然界の成り立ちや歴史の流れ、人に備わる良心を通して神を知ることができます(一般啓示:ロマ1:18-20)。しかし、神は自らご自身とその思いを人に伝えておられます(特殊啓示)(ヨハネ14:8-9)。その方法には、どんなものがあるでしょう(ヨハネ14:8-9、5:39)。
③ある人々は信仰に入った(33-34)
語り終えてアレオバゴスを出たパウロの心境はどうだったでしょう。べレアの人々(11)のような応答と結果は見られませんが、パウロのことばに聞き従い、信仰に入った者もいました。神の語り掛けに耳を傾け、それを受け取ることは、一人ひとりが取り組むことです。
<おわりに> 私たちの周囲には、まだキリストと福音を知らない、聞いたことのない人が大勢います。人はいつでも自分本位で、神のことばを聞くなど、眼中にないかもしれません。しかし、その素晴らしさを知る私たちが、機会を見つけ、知恵を用いて、証しすることで、彼らが神に導かれることにつながります。内に生きておられるキリストがともに働いてくださいます。(H.M.)
『恐れずに信じる』 (マルコの福音書 5章21-25節、34-43節) 2024.9.8.
<はじめに> 気軽に「信じる」「信じられない」など、会話に出てきます。信じる、とはどういうことなのでしょう。信じることが揺らぐこともあります。その時、どうすればいいのでしょう。会堂司ヤイロとイエスを巡るこの物語を通して、一緒に考えてみましょう。
Ⅰ イエスのもとへ(21-24)
①会堂司ヤイロ(21-23)
湖の向こう岸に渡ったイエスの周りには、大勢の群衆が詰めかけていました。そこに会堂司ヤイロがやって来て願います。彼は、誰の病気のことでイエスにどうして欲しいと言っていますか。その病状はどの程度ですか。彼の真剣さがどんなところに見られるでしょう。
②きっかけは?
人がイエスに近づき、何か求めるには、きっかけがあります。ヤイロの懇願のきっかけは何だと思いますか。ルカ7:11-18の出来事を噂で聞いたからかもしれません(7:17)。私たちがイエスに近づき求めるきっかけは何だったでしょう。
③イエスと自分を結び付ける
イエスを信じる一歩は、届いたイエスに関する情報・知識と、自分が抱える課題・必要を結び付けることです。このイエスなら何とかできる、と期待を持って近づき、それを言い表すことから、信仰は動き始めます(ロマ10:17)。イエスはそれに応じてくださる方です(24)。
Ⅱ 恐れと戸惑いの中で(35-39)
①二つのことば(35-36)
ヤイロ宅に向かう途中、イエスが病気の女性と関わっている時、家から娘の死が知らされます。父親の心境はどうだったでしょう。そこで彼に二つの意見が寄せられ、選択が迫られます。その二つのことばは、誰の、どんなことばですか。あなたなら、どうしますか。
②眠っているのです(37-39)
イエスはそのことばを無視して、3人の弟子だけを伴ってヤイロの家に向かわれます。どうしてそうしたのでしょう。彼らが家に着くと、泣き悲しむ人たちにイエスは「その子は死んだのではありません。眠っているのです」と言われます。それはどういう意味なのでしょう。
③信じる者を支えるイエス
病気の癒しは願っても、死んでしまったならイエスでも無理だ、と人々は言わんばかりです。本当にそうなのでしょうか。しかしイエスはヤイロに「恐れないで、ただ信じていなさい」(36)と言われます。信じながらも揺れ動く者に、イエスは語り掛け、支えます。
Ⅲ 力あることばで(40-43)
①「起きなさい」(40-43)
イエスはあざ笑う人々を皆、外に出して、両親と3弟子だけを連れて娘の許に向かいます。そして娘の手を取り「タリタ・クム」と呼びかけると、娘は起き上がり、歩き始めます。イエスはこのことを誰にも知らせないように厳命し、両親には娘に食事を与えるよう言われます。
②呼び覚ますイエス
イエスは死人に呼び掛け、甦らせています(ルカ7:14、ヨハネ11:43)。イエスのことばには死人さえ応じます。死は人には抗えない絶望ですが、イエスのことばは死の力にも打ち勝ちます。ですから、イエスは死を眠りと同じように言われます(エペソ5:14)。
③イエスをとらえる
イエスはヤイロの切なる願いを聞き、それを叶えられました。イエスだけがこれに応じることができる御方です。恐れと絶望が押し寄せるとき、私たちが信じるイエスがいかなる方かを問われます。その時、人のことばではなく、イエスのことばを聞く必要があります。
<おわりに> イエスを信じて歩む者も、現実問題の中で恐れを抱き、立ちすくむことがあります。そこにも主がおられ、私たちに「恐れないで、ただ信じていなさい」と語られます。私たちがその声を聞き、それにすがりながら進ませていただくとき、主は必ず働いてくださいます。(H.M.)
『聖書に基づいて』 (使徒の働き 17章1-15節) 2024.9.1.
<はじめに> 教会では事あるごとに聖書を開き、クリスチャンはみことばを大切にします。『聖書は神のことば』だからです。それは私たちの理解と生活にどのように表れてくるのでしょうか。パウロ一行が訪れた二つの町、テサロニケとベレヤでの出来事から、このことを考えてみましょう。
Ⅰ 物語の振り返り
①パウロ一行の足取り
この箇所でのパウロ一行の足取りをたどってみましょう。パウロと一緒にいたのは誰で、各地にとどまったのは誰でしょう。ピリピ「私たち(16:16・17)」→テサロニケ「パウロとシラス(1)」、→ベレヤ「パウロとシラス(10)」「シラスとテモテ(14・15)」→アテネ「パウロ(15)」
②テサロニケにて(1-9)
一行はいつものようにユダヤ人会堂に入り、聖書に基づいてキリストを宣べ伝えます。どんな人たちが受け入れ(4)、また反対しましたか(5)。反対者がヤソンの家を襲ったのはなぜですか。反対者は役人に何と訴え、それに役人たちは動揺したのはどうしてでしょう。
③ベレヤにて(10-15)
パウロとシラスは夜のうちにベレヤに送り出されて、そこでもユダヤ人会堂に入って語り、多くの人たちが信じます。彼らはどんな人たちだと描かれていますか(11-12)。そこでも騒ぎを引き起こしたのは誰ですか(13)。それで、兄弟たちはパウロをアテネに送り出します。
Ⅱ テサロニケにて
①聖書に基づいて
ユダヤ人はキリスト(救い主)を待ち望んでいました。パウロは、聖書がキリストの受苦と復活を預言していることを論証して、「私があなたがたに宣べ伝えている、このイエスこそキリストです」と伝えます。旧約聖書のどこを示したのでしょう(ルカ24:26,46注、ヨハネ20:9注)。
②ねたみに駆られ
彼が語ることに従った人たちだけではありません。「ねたみに駆られ」(5)た人たちもいた、と聖書は記します。ねたみとは、相手に対する思いが熱心であるが故に、相手の気持ちが他へ向くことを許さない感情です。彼らのねたみは具体的にどういうものでしょう。
③別の王がいる?(7)
聖書のことばは磁石のようです。説明に納得して従う者もあれば、ねたみに駆られ反発する人もいます。神が語られることを受け取るか、神よりも自分の思い・考えに従って生きるかです。神のことばは私たちの心と生き方を探られます。「別の王がいるのでは」(7)と。
Ⅲ ベレヤにて
①テサロニケの人たちと異なる(11-12)
パウロたちはベレヤでもユダヤ人にみことばを語りますが、応答と結果はテサロニケとは異なり、彼らの内の多くの人たちが信じます(11-12)。彼らが「素直で」「非常に熱心にみことばを受け入れ」「毎日聖書を調べた」からだ、と聖書は記しています。
②賢明な聞き手
彼らは聞いたことを鵜呑みしたのでしょうか。「はたしてそのとおりかどうか」(11)自分でも聖書を調べ、確かめて、納得したから受け入れたのです。時に、今までの理解を書き換える必要もあったでしょう。彼らは神とみことばに従うことに熱心だったから、そうしたのです。
③神に対して熱心に素直に
私たちはどうして聖書を読み、みことばに触れるのでしょう。神は聖書を通して私たちにみこころを示し、それに歩むようにと語り掛けておられます。それがはっきりと分かったなら、、今までの自分を手放して、聖書が語ることを選び取る熱心さと素直さが求められます。
<おわりに> イエスをキリストと信じるとは、今まで自分本位・自分中心に考え、生きて来たところから、私たちを造り、愛し、今も関わり、導き、語り掛けておられる神こそ私の王であり救い主、助け主を信頼し、そのことばに従って歩むことです。あなたの王は誰ですか?(H.M.)
『導かれた先で』 (使徒の働き 16章10-40節) 2024.8.25.
<はじめに> 「導かれた」と感じたことがありますか。それを実感したのはどうしてでしょうか。一人のマケドニア人が「私たちを助けてください」と願う幻(9)から、パウロ一行は神が自分たちをマケドニアに導いておられると確信して(10)、トロアスからエーゲ海を渡り、ヨーロッパへと踏み入ります(11)。
Ⅰ 最初の出会い(11-15)
①植民都市ピリピ(11-13)
ローマ帝国は占領地域を治める拠点として植民都市を設け、ピリピもその一つです。その町に入った「私たち」パウロ一行が川岸に赴いたのはなぜでしょう。何を探していたのですか。これまで訪問した町でパウロたちは、安息日にどこに向かっていましたか。
②紫布の商人リディア(13-15)
川岸に集まって来た女たちにパウロたちは語り掛けます。その一人、リディアの心を主が開き、パウロが語る福音に心を留めます。彼女はどんな人だと聖書は言っていますか。彼女は家族共々バプテスマを受けたとき、一行を迎え入れたいと申し出ます。
③順調に進む中で
ピリピでの宣教の初発でのリディアとの出会いは、パウロたちにとって喜びと確信を強めたでしょう。物事が順調に、あるいは願った以上にうまく進むときがあります。そのとき、私たちはそれをどう受けとめているでしょう。神の導きなら、必ずうまく行くのでしょうか。
Ⅱ 悩ましい出会い(16-24)
①若い女奴隷(16-18)
祈り場に向かう一行に、毎日若い女が付きまとい、叫び立てます。彼女はどんな人物ですか。困惑したパウロはその霊に、彼女から出て行くようにと命じ、その通りになります。彼女はパウロたちが伝えていることをどう理解していますか。それを自分も求めていますか。
②主人たちの怒り(19-24)
彼女の主人たちは、パウロとシラスを捕らえて、町の長官たちに突き出します。主人たちはなぜそうしたのですか。彼らの長官たちへの訴えにそれが表れているでしょうか。長官たちは二人を何度もむちで打たせた後、投獄します。
③予期せぬ方向へ
パウロ一行が付きまとい叫ぶ彼女に困り果てたのは何故でしょう。彼女から霊を追い出したのは、彼女のためというよりは、福音宣教の支障となったからです。しかしこれが予期せぬ方向へと彼らを追いやります。投獄されたパウロとシラスの心境はいかばかりでしょう。
Ⅲ 思わぬ出会い(25-40)
①看守とその家族(25-34)
その夜、二人は祈り、讃美します。どんな祈りと讃美をしていたのでしょう。その最中、大地震が起こります。看守はなぜ自害しようとしたのでしょう。それをパウロが大声で止めます。二人に救いを求めた看守は主のことばを聞き、家族挙げてバプテスマを受けます。
②神を信じるとは
自分の願いや計画が実現するために神を信じ・祈り、その通りになったなら感謝・賛美する人は多くいます。私たちもそうなのでしょうか。看守が求めた救いとは、具体的にどうなることでしょうか。主イエスを信じる者に与えられる救いを、あなたはどう理解していますか。
③ピリピを去る前に(35-40)
翌朝、警吏を通して釈放通知を聞いた二人は異議を申し立てます。何のためでしょうか。それを聞いて慌てて長官たちは出向き、二人をなだめます。何を長官たちは恐れたのでしょう。牢を出た二人はリディアの家に行き、兄弟たちに会って励ました後、町を出ます。
<おわりに> パウロたちは起こり来るすべての事の中に神が全能の力をもって関わってくださることを期待しています。うまく行くことも、予期せぬことも、すべて神の御手の中にあると信じます。救われるために何かをするのでなく、先回りして神に期待するのです。(H.M.)
『願望と選択』 (使徒の働き 15章36節-16章10節) 2024.8.18.
<はじめに>人はそれぞれ願い・考え・計画を抱き、その実現に向けて進もうとします。聖書には、「人の心には多くの思いがある。しかし、主の計画こそが実現する」(箴言19:21)とあります。今日の聖書箇所から、さまざまな思いを抱える人が、どのようにして神の計画に収れんするかを見ます。
Ⅰ 激しい議論を経て(15:36-41)
①再び宣教旅行へ(36-41)
先の宣教旅行で訪ねた町々の再訪をパウロが提案します。バルナバも賛同し、いとこのマルコ・ヨハネを同伴しようとしますが、パウロはこれに反対し、結果、バルナバはマルコと船出してキプロスを再訪し、パウロはシラスと陸路シリア、キリキアに向かいます。
②真意を探る質問
パウロが町々を再訪しようと持ちかけた目的は何ですか(36,41,16:4)。この旅行にバルナバがマルコを連れて行こうとしたのは何故でしょう。そのことにパウロが反対したのはどうしてだと思いますか。その結果、両者は別行動を取りますが、けんか別れしたのでしょうか。
③道は違っても
宣教チームは2組に分かれたことで、その目的も変わってしまったでしょうか。二手に分かれることで、プラスになることはないでしょうか。意見が対立することは、クリスチャンでも当然あります。そのとき、どちらが正しいのかを決する他に道はないのでしょうか。
Ⅱ 再訪とテモテ(16:1-5)
①ガラテヤ地方を再訪する(1-5)
パウロ一行は故郷キリキアを経由して、デルベ、リステラ、イコニオンの諸教会を再訪します。エルサレムの使徒・長老たちからの手紙(15:23-29)を伝え、彼らの信仰も強められます。途中リステラで、パウロは青年テモテを旅行に伴うために割礼を受けさせます。
②割礼を必要か
15章のエルサレム会議で、異邦人で救われた者への割礼について確認されたことはどんなことでしたか。ギリシア人の父、ユダヤ人の母を持つテモテに割礼を受けさせたのは、彼の救いのためではありません。ならば、どんな理由・目的があったからでしょうか。
③パウロの意図
エルサレム会議は割礼を全面否定していません。割礼を受ける・受けないではなく、キリストによって新しく生まれ変わることこそ大事です(ガラテヤ6:15)。パウロはこの地域でかつてユダヤ人から迫害に遭いましたから、宣教の妨げの種を取り除こうとしたのでしょう。
Ⅲ 計画と導き(16:6-10)
①意外な道のり(6-10)
一行はアジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられ、またビティニアに進むこともイエスの御霊が許されず、やがてトロアスに至り、そこでパウロは幻を見ます。どんな幻でしたか。この幻を通して「私たち」(10)は何を確信したと言っていますか。
②禁止と幻
「聖霊に禁じられ」(6)「イエスの御霊が許されない」(7)とは、実際にはどういうことがあったのでしょうか。直接御霊の声を聞いたのか、誰かのことばの中にそれを感じたのか、状況から察したのでしょうか。彼らが先に幻を見ていたなら、同じように受け取れたでしょうか。
③導かれる神を知る
自分の思い通りになることを支援・支持してくださる神なら、受け入れやすいでしょう。しかし、神は私たちより遥かに偉大で、その道と思いは崇高で(イザヤ55:9)、それをさまざまな方法で人に告げられます。それらを理解し受け留められるよう、神は鍛えてくださいます。
<おわりに> 自分の考え・計画の実現のために、人は神を求めがちです。そこに人の高ぶりと罪が見え隠れします。それらも一旦神の御手に委ねて、神の御心と計画に目を留め、神が私たちに願っておられることを受け取ることこそ、神を信じる醍醐味ではないでしょうか。 (H.M.)
『何の差別もつけず』 (使徒の働き 15章1-35節) 2024.8.11.
<はじめに> クリスチャン・教会と言っても、皆同じではありません。それぞれがユニークな存在ですが、外してはならない共通点もあります。初期の教会でも人数の増加とともに多種多様な人々が集い、それをきっかけに混乱が生じました。それを教会と信者はどう対処したのでしょう。
Ⅰ 割礼を受けなければ
①割礼とは (創世記17:9-14、出エジプト12:48-49、ヨシュア5:2-9)
ユダヤ人の父祖アブラハムが99歳の時に、局部の包皮を切り取ることをもって、神との契約関係にある者のしるしとしたことが始まりです。モーセによる出エジプト前、またにヨシュアに率いられて約束の地カナンに入った際に、すべてのイスラエル人に施されました。
②教会の構成の変化
キリストも初期のクリスチャンの大半もユダヤ人ですから、割礼を受けています。やがて福音宣教の進展で、異邦人クリスチャンが増えて来ました。彼らはイエスを信じる者には皆、イエスの名によってバプテスマを授けましたが、異邦人に割礼を施してはいません。
③論争・対立の発端(1-2)
ユダヤ教に改宗する異邦人には、モーセの律法に従って割礼を施します。この流れで、割礼を重んじるクリスチャンから、「割礼を受けなければ救われない」(1)と主張する者が表れます。これがアンティオキアで論争・対立となり、エルサレムで協議することになります。
Ⅱ エルサレム会議(3-21)
①報告と異議(3-5)
アンティオキアからパウロ・バルナバ以下数名がエルサレムへ、この問題を使徒たち・長老たちと話し合うために派遣され、彼らは神が異邦人に働かれたすべてを報告します。それを聞いたパリサイ派出身の信者が「異邦人にも割礼を施すべき」と主張します。
②ペテロの見解(6-11)
使徒・長老がこの両者とともに「割礼の是非」について協議します。多くの論争の後、ペテロは「神がユダヤ人と同様に異邦人も恵みと信仰によって救われた。自分たちも律法によって救われたのではないのに、異邦人に割礼を強要すべきではない」と語ります。
③ヤコブの見解(12-21)
ペテロ(14:シメオン)、バルナバとパウロに続き、主イエスの兄弟ヤコブが預言者のことば(アモス9:11-12)を引用して、異邦人回心者を悩ますな、と語ります。そして彼らには、ユダヤ人クリスチャンにつまづきを与えないよう注意点を書き送ることを提案します。
Ⅲ 何の差別もつけず
①喜びの通達(22-35)
使徒・長老たちはアンティオキア教会宛の手紙(23-29)を、パウロとバルナバとともにユダ・シラスに託します。聖霊と教会は回心者に割礼を強要しないことを改めて認めます。この通達を受けた教会は喜びます。イエスを信じる者に喜びがあるかは、大切な指標です。
②私ではなく、神に
自分が受け継いできたこと、良かったことを、私たちはつい、他の人にも勧め、当てはめようとします。私たちはそれらを神の御前に置いて、神が何と言われるかを探れるでしょうか。この論争の中で、教会はそのことを改めて確認し、神が望まれることを選び取りました。
③すべての人が神に
ここで教会は、律法や割礼を排除・否定してはいません。それらを大切にしている人たちも尊重しています。白黒はっきりさせたい人にとっては、あいまいに映るかもしれませんが、すべての人が罪を離れて神に立ち返ることこそ、神が切に願っておられることです。
<おわりに> 分断と対立を世界に持ち込むのは、人の常です。しかし神は救い主イエスを世に送り、ご自身を信じる者を分け隔てなく受け入れ、救われます。(H.M.)
『神にゆだねて』 (使徒の働き 14章19-28節) 2024.8.4.
<はじめに> 13章でアンテオケから出発したパウロとバルナバの伝道の旅も終盤です。伝道の成果が見られるとともに、反対も起こりました。神の導きを信じて踏み出したのなら、すべてが上手く進むのでしょうか。好事悪事が入り混じる現実生活において、信仰を持つ意味とは何でしょうか。
Ⅰ 伝える者たちの生き方
①執拗な反対者(19-20)
ピシディアのアンテオケとイコニオンから来たユダヤ人たちがリステラに来て、群衆を抱き込んでパウロを石打ちにし、町の外に引きずり出します。一命をとりとめたパウロは、再び町に入って行ったのは何故でしょう。その翌日パウロとバルナバはデルベに向かいます。
②デルベから引き返して(21-27)
デルベでも福音を伝えて、その結実を見ます。その後、二人は反対者に遭った町々へと辿った道を引き返します。彼らにはある目的がありました。行く先々で二人はどんなことをしていますか。それらを終えて、二人は送り出されたアンティオキアに戻り、報告します。
③神の召しに生きる
自分の身を守り、穏やかに過ごすためならば、先の二人の行動はありえないでしょう。しかし、福音を広く伝えるために、神は二人を召されました(13:2)。ですから、福音を受け入れ、信仰に立つ者たちを励まし支え、信仰を育むことを願って、二人は行動したのです。
Ⅱ 信仰にとどまる
①神の国を目指して(22)
聖書は、この世界はイエスが治めておられる、と言います(マタイ28:18)。しかし、それを実感しているでしょうか。現実には別ものがその座にいると思っていないでしょうか。神の国に入るとは、イエスを信じる者がこの事実に目が開かれ、そのように生きることです。
②苦しみを通して知る(22)
「イエスを信じれば、すべてうまくいく」と福音は言いません。むしろ苦しみを通されることも多々あります。イエスを信じる者が苦しみに会うと、神に祈り、助けを求めます。そこで人知を超えた応答を見るとき、人の思いを越えて働かれる神がおられることを実感します。
③教会の大切さ(23)
教会を組織や建物、集会と捉えがちですが、主にその名を呼ばれた者たちの集まりです。その信仰の応答は各個人ですが、応じた者たちが孤独・孤立すれば、やがて霧散します。教会ごとに長老を選んだのは支配するためではなく、信仰者を結び合わせるためです。
Ⅲ 主に委ねて
①一番確実な手(23)
二人は断食して祈った後、教会を主に委ねてその地を去ります。委ねることに、投げやりで消極的なイメージを持っていないでしょうか。自分は手放しても、全能の神の御手に託すのです。自分にできないこと、わからないことも、確実に託せる神を信じるからです。
②自らも委ねられて(26)
未知未踏の異邦人伝道に教会が二人を送り出した時、遣わされる者も送り出す側も、神の恵みと御守りにただ期待する他ありませんでした。無事に帰還した彼らを、教会は歓迎し、異邦人にも信仰の門を開かれた報告に接し、共にこれを推進された神を賛美します。
③神はともに働き(27)
パウロとバルナバが遣わされたことで異邦人伝道は実現しました。それはまた、二人とともに働かれた神の恵みの御業です。信仰の人は、目に見える事柄の背後に働いておられる神を見出し、これからもこの方に期待します(へブル11:1,6)。
<おわりに> 主イエスを信じたからとて、自分の願い通りになるとは限りません。しかし、イエスは私たちを愛し、私たちが思うより願うよりさらに優ることを必ず実現してくださいます。目先の現象に左右されず、私たちを愛し支えてくださるイエスに心をしっかりと結び付けましょう。(H.M.)
『ふさわしい信仰』 (使徒の働き 14章1-20節) 2024.7.28.
<はじめに> 一口に「神を信じる」と言っても、その中身をよく確認・吟味しなければ、同じかどうかはわかりません。神とはどんな方で、どうして私は神を信じるのでしょうか。パウロとバルナバは小アジア(現トルコ)地方の町々を巡りながら、神に心を向ける人たちにそのことを問い掛けます。
Ⅰ イコニオンの町でも(1-7)
①証しを続ける(1,3)
イコニオンでも、パウロとバルナバはまずユダヤ人会堂に入って福音を大胆に証しします。主は彼らにしるしと不思議を行わせ、その結果、ここでもユダヤ人・ギリシア人を問わず、大勢が主を信じます。主も二人もユダヤ人への伝道をあきらめてはいません(13:46)。
②反対も続く(1-7)
ピシディアのアンティオキアで起こった福音へのユダヤ人の反対は、イコニオンでも起こります(2,4-5)。ユダヤ人は異邦人を扇動して、福音と信者に悪意を抱かせ、やがて彼らは一体となって二人を辱めようと企てますが、二人はそれを察知して町から逃れます(6-7)。
③それでも宣教を続ける(3,6-7)
福音が証しされ、受け入れられると、新しいことが始まります(Ⅱコリント5:17)。在来を好む人々にはそれは脅威に映り、悪意と反対が起こります。それでも(3)証しし続ける大胆・忍耐とともに、信仰者を守り支えるためなら柔軟に動く(6)両面を二人は持っています。
Ⅱ リステラの町で(8-20)
①「まっすぐに立ちなさい」(8-10)
二人はリステラでも福音を伝えます。パウロの話に聞いていた生まれつき足の不自由な人に、大声で「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言うと、彼は飛び上がり、歩き出します。聖書にはこれに似た奇跡があります。どんなことがあったか、思い起こせるでしょうか。
②騒然とする町(11-18)
この奇跡を見て、町中が二人にいけにえを献げようと大騒ぎになり、二人は群衆に叫び、何とか思いとどまらせます。群衆は二人を何者だと思ったのでしょう。それは何故ですか。この群衆のような考えと行動は昔だけで、今はありえないことなのでしょうか。
③神様とはどんな方か
群衆は二人を神々と崇めようとします。神に関する彼らの知識・理解はどこから来ているのでしょう。人はこの世界を見て、それぞれ勝手に神を思い描いて来ましたが、神ご自身の証しほど確かな情報はありません。神は人にご自身を真っ当に知ってもらいたいのです。
Ⅲ 生ける神に立ち返るように
①過ぎ去った時代のこと(16-17)
神は、人々がそれぞれ自分が良いと思う道を歩むままに任せられた時代がありました。その間も、神は森羅万象とその結果で人々を喜ばせ、満たして来られ、ご自身とその恵みを証しされてきました。しかし残念ながらそれらから、人は神に正しく向き合えませんでした。
②今は恵みのとき(Ⅱコリント6:1-2)
それで神は、御子イエス・キリストを人として世に送り、御子を通してご自身とそのご計画を人々に示されました。神は私たちとともにおられ、今も生きておられ、求める者に答えてくださる御方です。これが福音です。生来足の不自由な人もこの福音を聞いたのです。
③ふさわしい信仰とは(13-14)
癒されるにふさわしい信仰とはどんな信仰でしょう。彼の信仰をパウロは見抜いています。何から察知したのでしょう。彼はパウロの話すことに耳を傾けています。その姿勢に真剣な期待が表れ、パウロも注目しました。信仰はその人の生き方・行動に表れてきます。
<おわりに> 私たちは神とはどんな御方なのかを、どうやって知りましたか。聖書は神のことば、神ご自身による自己紹介の書で、その生き様と考えはイエス・キリストに凝縮されています。この生ける神がおられることに気づき、立ち返るようにと、今も呼び掛けておられます。(H.M.)
『天の故郷に憧れて』 (へブル人への手紙 11章13-16節) 2024.7.21.
― 三森春生先生 追憶礼拝 ―
<はじめに> 一週間前の14日朝に天に召された三森春生先生の葬送の一週間を経て、今日の礼拝は、一人ひとりの思い出、感謝などを分かち合わせていただく追憶礼拝として持っています。
Ⅰ 晩年の歩み
①奉仕の締め括り
一昨年9月の江水姉・芝亭姉の納骨式に参列していただいた時には、まだまだお元気でした。その後、体調に変化が表れ、昨年4月には69年奉仕された神学院図書館司書も退任されました。また、同じ4月には母方の従姉の納骨式の司式も務められました。
②礼拝参加
昨年2月に礼拝に来られた際には、94歳の誕生祝いをともにしました。会堂での礼拝参加は昨年6月が最後でしたが、その後も配信で毎回参加されて、召天直前の7/7も同じようにされていました。しかし、次に主日には天の礼拝に加わられることになりました。
③最後の一週間
7/9に坂戸中央病院に緊急入院されて、その知らせを受けられたご家族が相次いで訪ねられました。牧師も翌10日に伺い、祈りのときを持ちました。先生は最初は手振りで何かを伝えようとされたのですが理解できず、やがて絞り出すように話されました。
Ⅱ 故郷に憧れて
①三森先生の故郷
春生先生自身は東京・小石川生まれですが、お父様は山梨県勝沼が出身地です。昨年6月に長野・小諸の実弟・邦夫先生ご家族とともに故郷を訪問されたことを喜んでおられました。これが故郷などへの最後の訪問になるだろうとも感じておられたようです。
②クリスチャンの憧れの地へ
三森先生は、聖地旅行がまだ珍しいころから聖書の舞台の各地を訪ね、また毎回テーマを立てて研修旅行を引率されました。それを語る先生の顔は輝いていました。現地に自分で立って見たことで、聖書が描いていることがよりリアルに分かったからでしょう。
③天の故郷に憧れて(13)
信仰者も含む全ての人に死は訪れます。だから、皆同じと言えるのでしょうか。地上で手に入れることができない、はるか遠くにある約束のものを聖書は示しています。家族の故郷や聖地・バイブルランドよりももっと良い故郷を、三森先生は慕い求めておられました。
Ⅲ 神は用意された
①地上では旅人・寄留者(13)
地上生涯で自己実現し、何かを成し遂げ、その成果が後代に残ることは誉れでしょう。しかし、地上に私たちが永遠に留まることは許されていません。人生を旅と例えるなら、私たちは放浪者、あるいは漂流している者なのでしょうか。その目的地はあるのでしょうか。
②帰る故郷がある(14-16)
私たちはこの地上に生まれ、地上で生きています。そこに愛情と執着を持つのは当然ですが、永遠に留まることはできません。やがて「人の子らよ、帰れ」(詩篇90:3)と神が呼ばれます。呼び寄せる神は、地上にまさる故郷・都をすでに用意されています(ヨハネ14:2)。
③信仰の人として(13,16)
神の呼び掛けは、私たちが生まれてから絶えることなく響いています。それを聞き、我が事として応え、その声に従って歩む人が「信仰の人」(13)と言えるでしょう。その信仰を見て、神は彼らの神と呼ばれることを拒まれず、約束どおり天の故郷を用意されたのです。
<おわりに>あなたが慕い求める、帰るべき自分の故郷はどこだと思って、今を生きているでしょう。自分で考え、想像し、決める必要はありません。神が用意されているのです。その御声を聞き、しっかりと信仰と期待をもって応答し、神が備えられた故郷を目指して、今日も歩ませていただこうではありませんか。やがて神の御前で私たちは再び会うことができるのです。(H.M.)
『ともに励ましを受け』 (ローマ人への手紙 1章11-15節) 2024.7.14.
<はじめに> 本日は、韓国・ドンタン・ドンサン教会から奉仕チームをお迎えしての日韓交流礼拝です。お互いは普段生活する地域・文化も話す言葉も異なりますが、同じ主イエス・キリストに救われた者たちが一つとなれることを体験できるこの機会を与えていただき感謝します。
Ⅰ 福音を伝えたい(15)
①温かい思いから
今回、韓国から奉仕チームの皆さんは、何のためにわざわざ日本まで来てくださったのでしょうか。福音を伝えたい、日本の教会を励ましたい、と伺っています。その温かい思いを、今回私たちの教会は感謝してお受けしました。
②顔を合わせ、心を合わせ
この一堂に会して主を礼拝する機会は、立派な韓国の教会から小さな日本の教会への励ましだけでしょうか。実際に現地を訪問することで、初めて感じ取れることがあります。パウロも、何とかローマを訪ねて、そこに住む人々に会いたいと切望していました(11)。
③パウロの切なる願い(15)
パウロは、ローマの人々にも会って「福音を伝えたい」(15)からです。彼はローマ訪問のために何度も計画を立てましたが実現せず、訪問の代わりにこの手紙を書いたのです。その冒頭でパウロは、お互いが顔と心を合わせる交わりはとても有益だ、と言っています。
Ⅱ 顔を合わせることで(11-13)
①強くしたい(11)
まず、私(パウロ)からあなたがたに御霊の賜物を分け与えて、強くしたい、と11節にあります。伝える側が持っているものを分け与えたいと思う心は、相手を愛し、祝福し、分け与えたもので励まし、成長を促し、イエス・キリストにあって力強く歩んでもらいたいからです。
②ともに励ましを受けたい(12)
それ以上にパウロが願うのは、お互いの信仰によって、双方が励ましを受けることです。お互いに与えらえた御霊の賜物は異なりますが、同じイエス・キリストに出会い、信じ従って歩む姿に直接触れることで得られる気づきと語り掛けが、次の一歩を踏み出させます。
③いくらかの実を得たい(13)
実とは、キリストから受けたいのちの集約であり、発露です。いのちは成長・拡大し、次の新しいいのちを生み出します。パウロは福音を伝えて、各地で主にあって生かされる人々を生み出してきました。同じいのちの結実をローマでも見たい、と彼は夢見ています。
Ⅲ 熱い思いの源(14-15)
①出会えるすべての人に(14)
パウロはローマにだけ福音を伝えたかったのではありません。「ギリシア人にも未開の人にも」「知識のある人にも知識のない人にも」と言います。自分でさえ救われたのだから、すべての人に何とかイエス・キリストの福音を伝えて、受け取ってもらいたいと願っています。
②伝えるのは難しい?
福音を伝えるのは、特別な学びと訓練をした人がすることだと思ってはいませんか。確かに福音を伝えることは難しく、なかなかうまく伝えられず、伝えてもすぐに実を結ぶとは限りません。それでも何とか福音を伝えたい、とのパウロの熱意はどこから来るのでしょう。
③負い目のある者(14)
パウロは自ら「負い目ある者」と言います。負い目は借りで、その返済は最優先事項です。彼は神に逆らい、教会を迫害しましたが、その罪を赦され、生かされています。その神の愛とあわれみを受けた自分を見本として、彼に続く者が起こされることを切望しています。
<おわりに> 私たちが受け取っている福音がもたらすいのちと祝福は、とても大きく、驚くべきものです。自分の罪の結果、死ぬべきこの私をも、イエス・キリストはご自分のいのちを差し出して救ってくださいました。この喜びと感謝を証しするため、私たちも励まし合いたいのです。(H.M.)
『後の者が先に』 (使徒の働き 13章42-52節) 2024.7.7.
<はじめに> 山に降る雨水は、峰を境にして流れ行く先が全く異なってしまいます。その境界となる峰を分水嶺と呼びます。ピシディアのアンティオキアのユダヤ人会堂でパウロの奨励(16-41)を聞いた人たちが大きく二つに分かれていきました。何が彼らを大きく分け隔てたのでしょう。
Ⅰ 分かれる反応
①また聞きたい、もっと聞きたい(42-44)
会堂を出るパウロとバルナバに、人々は次の安息日にも話してほしいと頼みます(42)。また、彼らについて行き、さらに語り合う人たちもいました(43)。次の安息日には、ほぼ町中の人々が主のことばを聞くために集まった(44)のは、どうしてでしょうか。
②ののしる声も(45)
この群衆を見て、快く思わない者たちもいました。どんな人たちですか。彼らはパウロが語ることに真っ向から反対し、口汚くののしります。それは「ねたみに燃え」たから、と聖書は記します。彼らのねたみは、具体的にどういうものだったのでしょうか。
③入る人、追い出す人(46-52)
パウロは、拒絶する人たちと決別して、異邦人に向かうと宣言します(46)。これを聞いて異邦人は喜び、神を賛美し、信仰に入り(48)、この地方全体に主のことばは広まります(49)。しかしユダヤ人は二人を迫害して、その地方から追い出してしまいます(50)。
Ⅱ 福音は分水嶺
①パウロが語る福音(38-39)
彼らの反応が割れたのは、パウロの奨励を聞いたからです。その結論は38-39節です。
a)神は、救い主イエスを通して罪の赦しを与えられる b)神は、イエスを信じる者をみな、義と認められる c)モーセの律法を守り行うことでは、神に義と認められることができない。
②集まって来た人々(42-44)
会堂には異邦人、改宗者がいました。神に義と認めてもらうために、これまで彼らは厳しいモーセの律法に自らをあてはめようと努力してきました。しかし、イエスを信じるだけで十分と聞いた人々が、驚きと期待を抱いて集まり、また周囲にもそれを伝えたのでしょう。
③ねたみに燃える人々(45)
ユダヤ人は神からモーセの律法を授かった特別の民と自負し、それに迎合する異邦人も受け入れてきました。パウロが語る救い主イエスの福音は、このユダヤ人の誇りと特権を無にし、異邦人と同列とします。その熱心と特権意識がねたみとなって燃え上がりました。
Ⅲ 神の恵みにとどまる(43)
①後の者が先に(46、マタイ19:30-20:16)
二人はユダヤ人同胞の立場と誇りを熟知していたので、「神のことばは、まずあなたがたに…」(46)と語り、そのように行動して来ました(16)。が、ここで二人は異邦人伝道に向かう、と宣言します。「後の者が先になり、先の者が後になる」のイエスのことばのとおりです。
②定められていた者(48)とふさわしくない者(46)
神の絶対主権で、その人が信じるか信じないかが予め決定しているのではありません。イエスを信じる者はみな救われると、神は定められています。それに従うも、拒むも、各人の意志と選択です。神が与える救いと祝福に与ってほしいと、今も切に願っておられます。
③赦された者として生きる
神の前に堂々と立てる者などいるでしょうか。聖く正しい神と対等に向き合える人はいません。皆、罪を犯しているからです。しかし、イエス・キリストを信じる者は義と認められます(ロマ3:23-24)。主によって罪を赦された者という自覚は、神の恵みにとどまらせる秘訣です。
<おわりに> 自分の立場と正しさを主張するあまり、自らを神の恵み、神が与える永遠のいのちにふさわしくない者と名乗り出る危険と失敗は、常に私たちにもあります。神の御前に進み出て、私が何者なのか、そんな私を赦してくださる救い主イエスを見つめ続けましょう。(H.M.)
『確かで真実な約束』 (使徒の働き 13章13-41節) 2024.6.30.
<はじめに> 「福音」はGospelの訳語で、Good news(良い知らせ)の意です。あなたにとって良い知らせとは何でしょうか。パウロとバルナバはイエス・キリストの福音をより多くの人に伝えるために旅に出かけました。ピシディアのアンティオキアの会堂での説教がこの箇所に記録されています。
Ⅰ 会堂での礼拝
①安息日に会堂で(14)
安息日は金曜日没~土曜日没で、日常から離れて神を礼拝するために集中するのが習わしでした。各地に離散したユダヤ人は、その地域ごとに会堂を設けて集まって礼拝していました。会堂司は長老から選ばれ、礼拝と建物の管理を輪番で担います。
②聖書朗読と奨励(15)
律法(モーセ五書)と預言書(ヨシュア・士師・サムエル・列王、イザヤ・エレミヤ・エゼキエル・12預言書)からの朗読の後、会堂司は教師にその朗読箇所の解説と奨励を依頼します。パウロも教師の資格を有していましたから、それに応じて語ったのが16-41節です。
③会堂に集う人々(16,26)
「イスラエル人」「アブラハムの子孫」が指す生まれながらのユダヤ人や改宗した異邦人と、「神を恐れる方々」と呼ばれる神を敬う異邦人が、会堂に集っていました。会堂に集まる人たちを手掛かりにその地で福音を宣べ伝えるのが、パウロとバルナバの宣教戦略でした。
Ⅱ パウロの説教(16-41)
①イスラエルの物語(17-25)
神は父祖アブラハムを選び、その子孫イスラエルをエジプトから連れ出してカナンの地へ導かれます。その後、民の求めにより神は王を立て、ダビデ王の子孫から救い主イエスを送られます。そのイエスに先立ち、ヨハネは悔い改めのバプテスマを民に宣べ伝えます。
②イエスの物語(26-37)
エルサレム住民と指導者はイエスを救い主と認めず、彼の殺害へと動いて、皮肉にも預言を成就します。しかし神はイエスを死者の中からよみがえらせ、その証人も多くいます。神は救い主イエスの出現(33)と復活(35)を予告し、その実現の約束を果たされます(34)。
③この救いのことば(38-41)
モーセの律法を通してでなく、イエスの死と復活によって、神は罪の赦しの道を実現されました。救い主イエスを信じる者はみな義と認められるのです(39)。預言者のことば(41=ハバクク1:5)は、神が語り、実現されたことを信じない者への警告だ、とパウロは訴えます。
Ⅲ 確かで真実な約束
①神は約束を実現される
「わたしの望むこと」とは何で、それを「すべて成し遂げる」(22)者とは誰なのでしょう。人が神とともに生きるようになることを切望する神が、罪の赦しのために救い主イエスを送られた、とパウロは語ります。この方を人々は殺し、しかし神は彼をよみがえらせました。
②「~だから」でなく「~だけど」
神はイエスを死者の中からよみがえらせ、「ダビデへの確かで真実な約束を、あなたがたに与え」(34)ておられます。これこそ福音です。因果応報ではありません。この神の確かで真実な約束を聞く一人ひとりが信じて、自分のものとすることを神は切望しておられます。
③真実なことば(Ⅱテモテ2:11-13)
私たちが、キリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きるようになる。耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる。キリストを否むなら、キリストもまた、私たちを否まれる。私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。
<おわりに> 神は徹底的に人に向き合い、何とか関係を修復し、人が神とともに歩むようにと願っておられます。それが救い主イエスに凝縮されています。この神の真実な約束が提供されている内に、信じ受け取られますよう、心から勧めます。(H.M.)
『悲しみを越えて』 (Ⅱコリント7章10節) (2024.6.23)
*今年の年会で王子教会協力牧師としての任命を受け、今朝は最初の当務となった。実は礼拝当務とはいえ、愛兄姉へのメッセージはない。ただパウロは自分を「見せ物」(Ⅱコリント4:9)と言ったが、僕も愛兄姉に見せ物として提示したいと思っている。
Ⅰ、主は与え
①家内とともに60余年
*嗣子は、1957年、短大在学中であったために伝法教会に預けられた。その時僕は献身者としていた。翌年神学院へ同時に入学、1963年結婚、館山教会から二人での伝道生活が始まった。不思議な導きで嗣子は神が与えてくださった妻であった。
②2人2脚の伝道生涯
*自分では2人3脚の伝道生涯と思っていたが、今思うとそうではない。2人2脚であった。家内がいての伝道生涯であったと実感している。9回の転任でその教会で、家内の引力で教会は温かい雰囲気で僕らは伝道生涯を送ってこられたと思っている。
③第二の人生を夢見ながら
*2023年引退を勧められたが、生涯現役の意志を伝え、浦和、今年は王子の任命をいただいた。僕としては「わたしに従え」との主のみ声をいただき、第二の人生として家内とともに田舎での新しい形の伝道を夢見ていた。しかしこれは浅はかな夢にすぎなかった
Ⅱ、主は取られる
①突然の入院
*2023年5月23日、家内は脳梗塞で倒れ入院、最初の3か月は回復の兆しの中にあった。医療制度の都合上、介護院に移り悪化、再度病院に移ったが、もう言語での交流は不可能となっていた。今年3月、看取りを覚悟の上、住居を市原市に移し退院となった。
②自宅看護の日々
*市原市瀬又では長女も同居してくれ、充実した訪問介護を受けながら、それでも食べれば回復するとの希望を抱きながら、介護したが、本人ははっきりと天を見つめ、僕らに不必要なことはするなと言わんばかりであった。4月20日夜11時過ぎ、天に帰った。
③残された者
*僕は「残され」(マタイ24:40-41)た者となった。今まで生きていて僕の心に存在していた人がいなくなった。心にぽっかりと穴が開いた。「おお主よ」と天を仰ぐ日々となった。それでも生きていかなければならない。主も「生きよ」と絶えず語り続けて下さっている。
Ⅲ、導きを求めて
①悔い改め
*あまりにも罪深い、不足だらけの自分があった。僕は一人では伝道者としては生きてこれなかった。にもかかわらず、主は「生きよ」と語り続けておられる。家内あっての僕であった。それでも生きていかなければならないとしたら、導きを求めていくしかない。
②白紙の状態
*今心は真っ白である。23年に描いた夢は形としては今もある。しかし、一人となってはどうしようもない。一昨年、「あなたはわたしに従え」(ヨハネ21:22)と言われたのはただの幻であったのか。真に主の声であったなら、僕は再度の導きを待たなければならない。
③ただ主を仰ぎながら
*今朝は礼拝メッセージとしては何もない。ただ主は僕を通して聖書の神は生きておられること、復活の主は今も生きておられ、導かれる方であることを見物としたいと思っておられるのではないか。もしそうなら、主と愛兄姉の前に僕をさらし者にしようと思う。
<結論>*1953年、未信者の家庭の中から救い出され、1957年召命を受け、一人では半人前以下であったために妻を与えて下さり、3つの開拓で教会を立て上げ、妻を取り上げられて失意の中にいる者を、神は使うと言ってくださる。こんなことを神は21世紀の世にもなそうとしておられる。これは大いなる見物である。見てほしい。(A.S.S.)
『主は恵み深い』 (使徒の働き 12章25節-13章5節、13節) 2024.6.16.
<はじめに> 「名は体を表す」と言います。お互いの名前も、名付けられた方の思いが込められていて、その名にふさわしく生きるようにとの祈りが背後にあるでしょう。表題の意味を持つヘブル名は「ヨハネ」、ギリシャ名では「マルコ」と名付けられた人物の足取りに、今日は目を留めます。
Ⅰ マルコの青年期
①母マリア(使徒12:12)
マルコの母マリアはエルサレムの信者で、大勢が彼女の家に集い、祈るのも常だったようです。主の最後の晩餐や、ペンテコステ前の祈り会もそこで持たれた、と想像もあります。幼少期から青年期のマルコが、多くのイエスの目撃証人に接する機会もあったでしょう。
②イエスの目撃者(マルコ14:51-52)
イエスが逮捕された後を追ったある青年が、自ら捕らえられそうになって、亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げ出しています。この青年こそマルコではないか、と見る人は少なくありません。とすれば、その頃から母マリアも彼も、イエスと親しくしていたと考えられます。
③伝道旅行の助手として(使徒12:25-13:5)
マルコとバルナバはいとこ(コロサイ4:10)です。バルナバはサウロ(パウロ)と救援物資をエルサレムに届け、マルコを伴ってアンティオキアに戻ります。二人は伝道旅行にも助手としてマルコを連れて行きますが、彼は途中ペルゲからエルサレムに帰ってしまいます。
Ⅱ マルコの紆余曲折
①第1次伝道旅行(使徒13:5,13)
二人がマルコをエルサレムから連れ出し、さらに伝道旅行に伴ったのはどうしてでしょうか。
マルコもそれに同意したはずなのに、途中で帰ったのは何故だと思われますか。宣教活動の厳しい現実を見て、また人間関係、自分の覚悟の甘さなどかもしれません。
②第2次伝道旅行(使徒15:36-41)
第2次伝道旅行にバルナバが再度マルコを同伴することに、パウロは反対しています。
そこから、パウロとバルナバが大切にしていたことは、それぞれどんなことでしょうか。
結果的に、二人はそれぞれ別の同伴者を選び、宣教チームは2つに分かれます。
③その後のマルコ(コロサイ4:10、ピレモン24,Ⅱテモテ4:11、Ⅰペテロ5:13)
後にマルコがペテロやパウロの傍にいたことが伺えます。パウロは彼を「役に立つ」とも評しています。伝承ではマルコはペテロの通訳者となり、ペテロの証言を基に「マルコの福音書」を記したと考えられ、それが他の福音書の基礎資料となったと思われます。
Ⅲ 主は恵み深い
①個性を組み合わせて
マルコは「すぐに」行動するタイプだったのかもしれません。それが時に浅はかさや見当違いを引き起こすこともあったでしょう。人はそれぞれ特徴・個性を持っています。神は各自に分かち与え、時間と手間をかけて育て整え、組み合わせて用いられます。
②人は変われる
宣教チームから脱落・帰還したマルコへのパウロの評価は厳しいものでしたが、晩年には親密な信頼を寄せています。マルコの変化・成長をパウロは認めたのでしょう。私たちの他人を見る目、自分を見る目はどうでしょうか。神は人を新しく生まれ変わらせる方です。
③苦い経験さえも
マルコが挫折を経ても、なお主につながり続けたのには、バルナバやペテロの関与があったでしょう。パウロとマルコの関係も修復されています。失敗や挫折は無いに越したことはありませんが、神はそれらも乗り越えさせる方です。あきらめてはもったいないのです。
<おわりに> 宣教チームでも人間関係で波が生じています。しかし、彼らが主イエスと向き合い続け、主が彼らを結び合わされたことに希望があるのではないでしょうか。私たちを導き、生まれ変わらせ、育て整えることを通して、恵み深い主をさらに知れるならば幸いです。(H.M.)
『だれがさわったのか』 (マルコの福音書 5章21-34節) 2024.6.9.
<はじめに> 「私は神を信じます」とおっしゃる方は、皆クリスチャンでしょうか。「信じる」に含まれている中身をよく確認しないと、実は似て異なることがありがちです。クリスチャンはイエスを信じています。それは、どういうことなのでしょうか。この一人の女性の物語から読み取っていきます。
Ⅰ イエスとの出会い(21-28)
①大人気のイエス(21-24)
イエスに群がる人々は、1:28,32-34,37,45、2:1-2,13、3:7-10,20、4:1にも見られます。
どんな人たちが、何を目的に集まって来ていますか。どうしてイエスの人気が高まったのでしょう。イエスに接した人たちが口々に言い広め、それを聞いた人たちが集まりました。
②病に悩む女性(25-28)
この女性は何歳くらいでしょうか。12年間病を患い、治療のために財産を使い果たしたにもかかわらず、ひどい目にあい、良くなるどころか悪くなるばかりでした。そんな彼女の耳にもイエスの噂が伝わり、彼女は意を決して、群衆に紛れて、イエスに近づこうとします。
③イエスに期待する
彼女は、多くの人の病を癒されたイエスがこの町に来られたと聞き、自分も救われたいと願います。救い主イエスは私たちの生きる世界に来られ、今も生きて働いておられます。その方が私をも救い出してくださると期待することから、彼女の物語は動き始めます。
Ⅱ イエスへの接近(27-30)
①後ろから衣に(27)
彼女がイエスに近づこうとしても、群衆が行く手を阻みます。たとえイエスに近づき、直接願えたなら、周囲に病のことも伝わります。出血ある者は町への出入りを禁じる律法(レビ15:25-33)もあります。それで、彼女はそっと後ろからイエスの衣に手を伸ばしました。
②衣にでも触れれば(28-29)
「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」とは、一見独りよがりな思い込みに見えます。しかし、これが彼女の今できる精一杯であり、イエスへの期待と信頼を表す方法でした。そうしたとき、すぐに病が癒されたと彼女は実感します。
③イエスに触れる(29-30)
自分が抱えている問題とイエスをつなげる接点は、人それぞれです。彼女にとってはイエスの衣に触れることでした。彼女もイエスに直接頼んだわけでもなく、イエスも何もしておられません。しかし、イエスと私をつなぐ信仰を通してイエスの力が流れ出て働きます。
Ⅲ イエスと生きる(30-34)
①だれがさわったのか(30-32)
イエスの力を引き出す接触は、単なる身体的接触とは別物で、イエスにはそれがわかります。それでイエスはその人を探し始めます。どうしてイエスはその人を突き止めようとしているのでしょう。
②誰にも知られずに(33)
彼女は病が癒されたことをしばらく黙っていたのはなぜでしょう。探し続けるイエスの姿に、彼女はとうとう名乗り出て、イエスの前にひれ伏して真実を告げます。ひそかにイエスに触れ、病が癒されて静かにそこを去ろうとしていた彼女のもくろみは崩れ去りました。
③イエスとつながる(34)
イエスに触れて、その力により救われるのは素晴らしいことです。しかし、イエスはその人と顔を合わせた継続的な交わりを切望されています。イエスを信じつつ秘かに生きるのではなく、これからもイエスとともに感謝して生きるようにと、励まし送り出されます。
<おわりに> イエスを信じる信仰は、ただ何かを理解しただけではなく、その人らしい生き方に現れてきます。イエスを信じることで何かをしていただけることも幸いですが、そのイエスとともに生きることはもっと幸いです。イエスは信じる人を見つめ、その力を表してくださいます。(H.M.)
『主の御手が今…』 (使徒の働き 13章4-12節) 2024.6.2.
<はじめに> 本物と偽物が混在し、見分けるのが一層困難になってきています。それは目に見えない霊的な世界においても同じです。それでも本物はやはり本物です。真偽を見分ける審美眼はどうすれば身につくでしょうか。
Ⅰ 聖霊に送り出されて
①与えられた任務(1-3)
主イエスはサウロに、これから携わる働きを回心時に明示されています(9:15)。いよいよそのために彼らを送り出すようにと、聖霊がアンティオキアの教師・預言者たちを促します。彼らはバルナバとサウロに手を置いて祈り、送り出します。
②キプロスへ(4-6)
聖霊によって送り出された彼らがキプロスに向かったのは、バルナバの出身地でもあり、アンティオキアから近かったことも一因でしょう。人の考え・計画をも聖霊は用いられます。まずユダヤ人の諸会堂に入り、神のことばを宣べ伝えるのが、彼らの宣教方針でした。
③神のことばを聞きたい(7)
当時、在外ユダヤ人は10家族程度で会堂を設け、礼拝をささげていました。キプロス島内にも複数の会堂があったと見られます。二人が神のことばを語っていることが、やがて地方総督セルギウス・パウルスにも届き、彼も二人から神のことばを聞くことを切望します。
Ⅱ 暗闇にいる者
①総督と魔術師(6-8)
総督のもとにいた魔術師バルイエス(別名エリマ)が、二人に反対して総督を信仰から遠ざけようとしたのは、どうしてでしょうか。二人の登場で、彼は何を危惧していたのでしょう。彼もユダヤ人で、魔術が禁忌(申命18:10)であることを知っていたはずです。
②偽預言者(6、Ⅱコリント11:13-15)
聖書は彼を偽預言者だと明かします。偽物は本物に似ている別物で、本物の価値を奪う者の作品です。偽物は本物がなければ成り立たない影のような存在です。彼は神のことばを偽り語り、聞く人々の信頼を神から自分へと奪い取ろうと躍起になっていました。
③偽者の実態(10)
彼の実態をサウロは聖霊によって明白にします(10)。悪魔は神に敵対し、あわよくば神に成り代わろうとする者です。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいる諸々の悪霊に対するものです」(エペソ6:12)。
Ⅲ 闇から光へ
①聖霊によって(9-10)
このような世界で、私たちは日々生き、戦っています。どうすれば偽物がはびこる世界で真実を見いだせるでしょうか。神は光(Ⅰヨハネ1:5)で、聖霊はご自分を信頼する者に真偽を明らかに示し、誤りに気づかせ、真理に導かれます(ヨハネ15:26,16:8,13)。
②主の御手が上にある(11-12)
偽る者は闇の中に留まります。主の御手が彼に臨み、光なき闇を体感させ、戒められます。それを見た総督は主の教えに驚き、イエスを信じます。主のまっすぐな道を曲げようとするバルイエスの謀略さえも、結果的に総督が信仰に導かれる道具となりました(ヨハネ1:4-5)
③サウロ(パウロ)の使命(使徒26:18)
わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうして私を信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続に与るためである。
<おわりに> 「光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」(ヨハネ12:35-36) (H.M.)
『わたしのために』 (使徒の働き 12章24節-13章5節) 2024.5.26.
<はじめに> 私たちは今、礼拝をささげています。改めて「礼拝とは何か」と問われたら、何と答えるでしょう。この箇所にも、礼拝している人たちがいます(2)。そこから、見いだせることは何でしょうか
Ⅰ 神が語られるとき
①聖霊が言われた(1-2)
アンティオキア教会には預言者・教師と言われる人たちがいました。ここでは5人の名が挙げられています。さまざまな背景・経歴を持つ人たちが一つとなって、イエスを礼拝し、断食をしています。その時、聖霊が彼らに一つのことを告げられます(2)。
②私たちから神へ
私たちの間で「礼拝を守る」という言い方が聞かれますが、「礼拝をささげる」がよりふさわしいように感じます。神に向かって賛美し、祈り、私たちが神に近づき、あがめ、仕えるひとときです。断食も神に真剣に向き合う姿勢の表れです。
③神から私たちへ
私たちが神に働きかける以前に、神が私たちに語り掛け、働きかけてくださっていることを忘れてはなりません。聖霊なる神は、あらゆる方法で私たちに語り掛けておられます。その語り掛けを聞き、受け取り、応答するのが礼拝です。
Ⅱ わたしのために
①わたしが召した働き(2)
その働きは具体的には書かれていませんが、彼らには分かっていました。主イエスがかつて使徒たちに約束を告げられ(1:8)、サウロには回心の時に示されていたことです(9:15)。これらは彼らの間で分かち合われ、共有され、大切に心にとめられていたのでしょう。
②聖別して(2)
これまでバルナバとサウロは、アンティオキア教会を初期から教導し、12:25にあるエルサレム教会への支援(11:27-30)実務に携わった人物です。しかし聖霊は、二人を聖別するように、と言われます。聖別とは、神のために選び分かち、専念させる、との意です。
③聖霊が語られる
どのように聖霊が語られるのでしょう。神は事をなさる前に一人一人に予めみことばを示し、やがてそれを実現しようと動き出されます。その時、先にみことばを聞いていた人にその語り掛けを思い起こさせ、彼らが真実に応答し、神とともに働くことを期待しておられます。
Ⅲ 聖霊に遣わされて
①二人を送り出した(3)
アンティオキア教会の教師・預言者たちは改めて断食と祈りをもって、神の語り掛けを確認します。そして、バルナバとサウロに手を置いて神の計画のために聖別し、祈りをもって送り出します。
②聖霊に送り出され(4)
教会が二人を送り出したのを、聖書は「聖霊によって送り出され」と記します。教会と私たちは神のご計画を聞き、それを受け取り、参加協力するのです。礼拝は、神が語られ、なさろうとすることをそれぞれが受け取るときです。
<おわりに> 12章まで教会と信者は、時代の流れと主の不思議な導きで進んで来ました。この箇所で、教会は主導権が聖霊にあることを改めて確認します。神からの語り掛けを受け取り、神と教会(人)が一つとなって、神の計画が着実に実現していきます。(H.M.)
『教会の誕生』 (使徒の働き 2章37-47節) 2024.5.19.ペンテコステ聖日
<はじめに> 2章は使徒たちに聖霊が降ったペンテコステの一日の物語が綴られています。この日、教会が誕生しました。教会はどのように生まれたのでしょうか。生まれたての教会には、どのような特徴がみられたでしょうか。それらを、今の私たちと教会も帯びているでしょうか。
Ⅰ 教会の土台
①人々は心を刺され(37)
五旬節(1)にエルサレムに来ていた人たちは、50日前の過越の祭りにも大方集っていて、イエスの十字架刑にも立ち会ってでしょう。その当時には感じなかった心の痛みを、ペテロの説教(14-36)を聞くうちに人々は感じて、「どうしたらよいでしょうか」と声を上げます。
②誤りに気づく(ヨハネ16:7-11)
今更ながら、彼らはどんなことに気づいたのでしょう。「わたしは…助け主を遣わします。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます」(ヨハネ16:7-11)から、彼らに誤りを気づかせのは、誰だとわかりますか。
③約束が与えられている(38-41、ヨハネ16:13-14)
罪と誤りに気づいた人々に、ペテロは悔い改めを迫り、その証しとしてバプテスマを受けるように勧めます。神は罪を赦し、聖霊を与えると、古の預言者を通して約束されています(イザヤ44:3、54:13、57:19、ヨエル2:32)。この約束を受け入れることが教会の土台です。
Ⅱ 教会の特徴
①教会の誕生(41-42)
その日、自分の罪を認め、悔い改めて、バプテスマを受ける決断をした者はおよそ3000人で、主の弟子の仲間に加えられ、教会が誕生します。「いつも」(42)はその決断と信仰が継続した営みに現れていることを示します。彼らがどんなことを心掛けていたでしょう。
②主にある仲間ととして(42-47)
彼らは、使徒たちから教えを受け、神を賛美し、交わり祈ります。「パンを裂き」(42,46)は主の十字架を覚える聖餐をともにして、感謝と信仰を更新しています。仲間として互いに励まし支え合う関係は、周囲にも好感を与え、さらに加わる者が起こされています。
③一つとなって
「一つ」(44,46,47)が彼らの特徴です。彼らが一つになれたのはなぜですか。何が彼らを一つにする中心だったでしょう。彼らは画一的なメンバーばかりではありません。様々な違いを持ちつつ、互いを思いやり、新しく加わる者も巻き込んで、一つになって進みます。
<おわりに> 聖霊の主導でイエスを信じ従う者たちの集まりである教会が誕生しました。建物や組織ではなく、人の願望や意欲でできたのでもありません。教会は神のいのちの発露です。聖霊に導かれて、神が遣わされた救い主イエス・キリストを信じる人たちが教会です。(H.M.)
『御霊が語らせるままに』 (使徒の働き 2章1-13節) 2024.5.5.
<はじめに> 「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます」(1:8)とイエスは使徒たちに約束されました。それが実現したのが今日の箇所です。彼らはどんな力を受けたでしょうか。それは彼らが期待していたものと同じでしたか。私たちは神にどんなものを求めているでしょう。
Ⅰ 導きに従う力(1-13)
①聖霊に満たされたとき(1-13)
天来の暴風が吹くような響きと、炎のような分かれた舌が、聖霊降臨に伴って起こりました。聖霊が下ると、生粋のユダヤ人であった彼らが、他国の多様な言語で神のみわざを語り始め、五旬節の祭りでエルサレムに集まっている諸国の人もそれに驚き怪しみます。
②使徒たちの期待(1:6、8)
イエスは復活後、「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられている」(マタイ28:18)と言われます。その権威をもってこの世と時代を支配され、祖国イスラエルの再興の実現を彼らは期待しますが、イエスは彼らに聖霊降臨の約束を与えます。
③御霊が語らせるままに(4)
他国の言葉で語る彼ら自身が、何語で何を話しているのか分かっていたでしょうか。彼らは主の証人となるべく、父の約束を祈って待っていました(1:8、14)。この不思議は聖霊主導で実現し、彼らは理解を越えた聖霊の導きに従う力と自由を与えられたのです。
Ⅱ 神の計画を知る力(14-36)
①ペテロの説教
使徒ペテロは聖書3か所を引用しています。他国の言葉で神のみわざを語ること(17-21節➡ヨエル2:28-32)、イエス・キリストの死と復活(25-28節➡詩篇16:8-11)、神の右に上げられたイエス(34-35節➡詩篇110:1)が、すべて聖書の預言の成就・実現だと語ります。
②かつてのペテロ
弟子としてイエスと共に過ごす間、ペテロとイエスの理解には折々に齟齬が見られます。主イエスに対する彼の愛と熱心さから出た言動も、イエスが受け留めている神の計画とはかけ離れたものでした(マタイ16:21-23、26:31-35)。
③真理の御霊が来ると
ペテロのこの二つの姿の間にあるのが聖霊降臨です。イエスはこのことをヨハネ16:12-16で予告されています。御霊に満たされる(4)とは、この助け主を全面的に受け入れることです。私たちも聖霊に満たされると、聖書を通して神のご計画を知り、自らも関われます。
Ⅲ キリストを証しする力(14-36)
①神が証しされる(22-24、32-33)
イエスが行われた力あるわざ、不思議としるしを通して、神はこの御方がキリストであると証しされました。それでも人々はイエスを受け入れず、十字架につけて殺しました。しかし神は、このイエスを死者の中からよみがえらせ、神の右に上げられ、聖霊を注がれました。
②イエスがわからない
主イエスの数々の御業を見てきた使徒たちでさえ、イエスがどういう方なのかはわからず(ルカ8:25)、十字架を前に主を見捨てて逃げ出し(マタイ26:56)、イエスがよみがえられた日も戸を閉じて部屋に潜んでいます(ヨハネ20:19)。主を証しするどころではありません。
③使徒たちも証しする(32、36)
その彼らが、「神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」と大胆に証ししています。この理解はどこから与えられたのでしょう。イエスがヨハネ15:26-27で約束された助け主・真理の御霊が彼らのところに来られたからです。
<おわりに> 使徒たちを主の証人へと劇的に変えたのは、イエスが約束された聖霊に彼らが満たされたからです。神は、この聖霊を私たちにも与えようと約束されています。自分には力がない、乏しい、と思うなら、使徒たちのように主の約束を信じて、祈り求めましょう。 (H.M.)
『祈るうちに』 (使徒の働き 1章12-26節) 2024.4.28.
<はじめに> 〇×クイズのように、物事を白黒でとらえようとする傾向がないでしょうか。そうであれば、わかりやすいかもしれませんが、現実はそれほど単純ではなく、悩ましいものです。現実生活の中で、私たちはどのように一歩一歩道を選び進めばよいのでしょう。
Ⅰ 約束を待つ(12-14)
①残された弟子たち(4-11)
天に上げられた主イエスを見送った使徒たちの姿が9-11節に描かれています。4-8節の主の言葉は、これから使徒たちがどう歩むかの指針です。またおいでになる主(11)を待つ彼らは、何度もその言葉を思い返して、真意を探り、実現に心を向けていたでしょう。
②エルサレムに留まる(12-14,4)
「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」(4)に従って、彼らはオリーブ山からエルサレムに帰り、滞在している屋上の部屋に上がります。11使徒とともに、イエスに従う女たち、イエスの母や兄弟たちがそこにはいました。
③心を一つにして祈る(14)
彼らは待つ間、何度も約束を思い巡らし、互いに話し合ったでしょう。彼らはこれまでなかなか一つにまとまることができませんでした。しかし、主の約束の実現に期待する思いによって、彼らはやがて心を一つにしてともに祈るようになります(マタイ18:19-20)。
Ⅱ 欠員の補充(15-26)
①ユダ離反による欠員(15-22)
イエス逮捕の手引きしたユダの最期を彼らも知っていました。ペテロはそれが聖書のことばの成就で(16-20)、彼の使徒職を継ぐ者を立てることを訴えます。主の宣教の始まりから昇天まで行動を共にし、イエスの復活の証人である人物がふさわしいと提案します(22)。
②欠員補充の祈り(23-26)
ペテロの提案を受けて、彼らはヨセフ(バルサバ、ユストとも呼ばれる)とマッティアを候補に選びます。そしてこの二人から一人を示してくださるよう祈ったのち、くじを引く(箴言16:33)とマッティアに当たり、彼を使徒に加えます。
③分かれる評価
この欠員補充を聖書が記録しているから、と肯定的に見る人もあれば、9章で使徒パウロが復活の主と出会い、回心して使徒とされたのが神のみこころによる選任で、このマッティア選出は人間的な対応に過ぎない、と見る人もあります。あなたはどう思いますか。
Ⅲ 祈るうちに変えられる
①人は間違い、迷う者
かつて主の弟子であった使徒たちは、主導権争いをして仲違いを繰り返していました。ペテロは勇み足で何度も失敗しています。聖書は彼らの現実を淡々と描いています。そんな不完全で失敗の多い者さえ、主は弟子として受け入れ、導き、育てようとされています。
②人の考えと神のみこころ
人は見聞きしたことから考え、判断して、将来の道を探ろうとしますが、確かなことはわかりません。その時、人は永遠を知る神に目を上げて祈りたくなるのではないでしょうか。わからないから神に祈り、助けと導きを求める者を、神は退けられるでしょうか。
③主導権は神に
祈りに向かう人も、大きく二つに分かれます。自分の考え、思い、願望を神に告げて、実現してもらおうとするか、自分には不明・不可能であるが故に、神に主導権を任せようとするか、です。祈り始めが前者のようであっても、祈るうちに後者へと変えられて行きます。
<おわりに> この記事はあくまでも約束の聖霊が使徒たちに降る前の出来事です。この時点で彼らが精一杯考え、祈り、取り組んだ事実を、神はどうご覧になっているでしょう。彼らは、まだまだこれから成長し、変貌していく過程を踏み出したに過ぎません。神は主導権をもって祈る者を導き、育ててくださる御方です。私たちも同じように育てていただいているのです。(H.M.)
『証人となる』 (使徒の働き 1章1-14節) 2024.4.21.
<はじめに>イエス・キリストは、キリスト教の教祖、紀元1世紀ごろの偉人として知られています。キリスト教会は、そんな昔の人を忘れないように、と伝えているのでしょうか。この箇所でイエスは使徒たちに「わたしの証人となります」と言われます。どんなことの証人になるのでしょう。
Ⅰ イエスについて
①この箇所の記述
イエスは「行い始め、また教え始められ」(1)、「苦しみを受けた後」「ご自分が生きていることを使徒たちに示され」、「40日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られ」(3)、「使徒たちが見ている間に上げられ」「雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくな」(9)りました。
②死んでも生きる?
人の生涯は、生まれて、成長とともに活動し、やがて死をもって閉じられます。しかし、イエスの生涯は十字架で苦しみ、死んだ後でなお生きていると聖書は記しています。数多くの確かな証拠と複数の目撃者があり(3)、天に上り、またおいでになる(11)と言います。
③イエスは今も生きておられる
イエスは過去の偉人・聖人ではなく、今も生きておられる神の子・キリスト(救い主)です。私たちとともに今を生き、ともに語らい、この世に働いておられます。このことを個人的に体験して証しするのが、クリスチャンと教会にイエスから委ねられた役割です(8)。
Ⅱ 神の国のこと(3-8)
①イエスのテーマ
神の国はイエスの宣教当初からの一貫したテーマです(マルコ1:15)。よみがえられたイエスに会った使徒たちは、神の国のことを聞いて、いよいよイスラエルのために国の再興が具体化すると思ったのでしょう。しかし、イエスの神の国はイスラエルに留まりません(8)。
②神の国の到来
神の国は地上国家と異なり、神の支配が及ぶ領域です(ルカ17:20-21、ロマ14:17)。使徒たちはその到来の時(6)に注目しますが、イエスは時は父(なる神)に属すると言われます。むしろ、この地上での神の国の拡がりに注目され、使徒たちにその役割を委ねます(8)。
③父の約束
役割を果たすために、父なる神の約束をイエスは再述されます。聖霊が与えられることです(2,5,8)。この約束を彼らが待ち望み、実現するとき、力が与えられ、イエスの証人となります。どんな力を受けるとイエスは言っていますか。
Ⅲ わたしの証人となる
①イエスから聞いたこと
ヨハネ14:16
ヨハネ14:26
ヨハネ15:26
②イエスを知る
イエスは天に上げられて目には見えなくなりますが、いなくなったのではありません。聖霊は見えずとも確かにおられるイエスを実感させます。また、イエスがされたこと、語られたことを思い起こさせ、理解・洞察し、それを実行する力を与えてくださいます。
③イエスと一体となる
証人は、それが本当だと周囲に頷かせる役割です。そのためには証言する相手と事実と不一致がなく一体になる必要があります。聖霊は、イエスと深く結びつけて、証人として整えてくださるのです。
<おわりに> 冒頭には「イエスが行い始め、教え始められた」(1)とあります。イエスは天に上げられましたが、その教えと働きは今も証人たちによって続けられています。私たちもイエスが今も生きておられ、私たちとともに歩まれる証人と、聖霊によってなれるのです。(H.M.)
『無駄ではない』 (コリント人への手紙 第一 15章50-58節) 2024.4.14.
<はじめに> 無駄―いやな言葉です。今まで積み重ねてきたものすべてが無に帰する経験は、辛く悲しいものです。今日の聖書の箇所はそれを力強く否定し、「自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っている」と促します(58)。その確信はどこから来て、どうすれば持てるのでしょう。
Ⅰ イエス・キリストによる勝利
①復活がテーマ(15章全体)
「ですから」は、イエス・キリストによる勝利を指し(57)、死に対する勝利のことです(54-55)。本章は復活の章と称され、イエス・キリストが十字架の死の後に復活された事実と、やがての日に私たちもイエス・キリストによって復活に与ることが詳しく解き明かされています。
②キリスト復活は事実(1-20)
キリストの十字架での死と復活は歴史の中で起こった事実であり、復活の主と会う経験が、福音の中心です。復活を否定する声は今なお止みませんが、イースターの朝の空の墓が立ちはだかります。聖書はキリストの復活を預言し、神はそれを確かに実現されました。
③信じる私たちもよみがえる(20-57)
キリストの復活は、彼を信じる者が死んだ後によみがえる先駆け、初穂でもあります。世の終わりと復活の順序の関係(20-28)、復活に相応しい生活(29-34)、復活のからだに変えられる奥義(35-57)が、キリストを信じる者たちにも、やがての日に確かに約束されています。
Ⅱ 死のとげのトリック
①朽ちるべき、死ぬべきもの(53-54)
死はこの世で強大な力を誇っています。死から免れることはできず、形あるもの、息とし生けるもの全てが死によって無に帰します。この死の現実と力の前に、人は精一杯抗おうとしたり、できるだけ見ないようにしたり、諦めて現世を刹那的に生きたりします。
②死のとげは罪、罪の力は律法(56)
生きる者にとって、罪はとげのように突き刺さり、死を恐れさせます。いのちの存在とその歩みの事実が、一つの罪によってすべて無に帰するからです。罪は律法・戒めに背いた者に罪悪感と厳粛な刑罰を意識させます。巧妙な手口に私たちははまっています。
③イエス・キリストによる勝利(54-57)
イエス・キリストの復活は、罪が赦され、死ぬべき者が再びいのちを得る道を歩むための突破口です。罪は罰せられるべきものですが、赦されるものだと宣言され、死のとげは抜き取られました。「死は勝利に呑み込まれた」と凱歌が実現したのです。
Ⅲ キリストの勝利に生きる(58)
①愛する兄弟たち
パウロは十字架で死に、よみがえられた主イエス・キリストを信じる者を「愛する兄弟たち」と呼びます。主イエスが打ち建てられた死と罪への完全な勝利を信じ、それが私のためであったと受け取る者に、パウロは希望に満ちた現実生活への指針を示します。
②堅く立って
人生には労苦が伴います。しかし復活の主を信じる者には、神の国(50)が今より永遠に約束されています。それを相続するために、朽ちない、死なない復活のからだにやがて変えられます。その日まで、この希望の約束にしっかり立ち続けるのです。
③主のわざに満ちあふれる
主のわざが、伝道・宣教に直接携わることだけを指しているのではありません。神との関係に生き、神が私たちに語り掛け、託されたことすべてが含まれます。日々の生活の中で、主と語らい交わり、自分に与えられた役割を果たすとき、主はそれを用いてくださいます。
<おわりに> 死からの復活、神の国を将来だけに限定してはもったいないと、パウロは語ります。私たちは今日も明日もよみがえられた主と向き合いながら、進ませていただきましょう。(H.M.)
『イエスだと分かった』 (ルカの福音書 24章13-35節) 2024.4.7.
<はじめに> 何か分からないことがあると、どうしますか。今ならすぐにネット検索するでしょうか。それで大方の情報を得られたとしても、すべてが分かるわけではありません。イエス・キリストとはどんな方なのでしょうか。それを私たちはどのように知って行けばよいのでしょうか。
Ⅰ イエスが分からない
①エマオへと下る道で(13-18)
イエスが復活した午後、語りながらエマオへ下る二人の弟子にイエスは近づき、ともに歩きますが、二人の目はさえぎられてイエスとは分かりません。イエスが彼らの会話について尋ねると、二人は暗い顔をして立ち止まります。どうして暗い顔をしていたのでしょう。
②見聞きし、考えたこと(19-24)
イエスの問い掛けに二人は話し始めます。イエスこそ救い主だと期待して追従して来た彼らにとって、イエスの十字架刑は残念極まりありません。さらに今朝、仲間たちからイエスは生きておられ、現に墓は空であったと聞いて、さらにその困惑は深まっていました。
③イエスだと分かる (25-31)
エマオに近づいたころ、さらに先に進もうとするイエスを二人は強いて引き止めたのはどうしてでしょう。イエスが彼らの勧めに応じて家に入り、食卓でパンを裂き渡されたとき、二人の目は開かれてイエスだと分かりますが、イエスの姿は見えなくなりました。
Ⅱ イエスが分かるまで
①目はさえぎられて(13-19)
イエスを良く知る二人がイエスに気付かなかったのはなぜでしょう。何が彼らの目を遮ったのでしょう。イエスから「わたしがよみがえったイエスだよ」と知らせなかったのでしょう。イエスは彼らに近づき、尋ねられたのはなぜでしょう。本当に知らなかったのでしょうか。
②聖書を解き明かす(25-27)
彼らの話を聞いて、イエスは二人のどんなことを嘆いておられますか。なおもイエスは彼らに、ご自分について聖書から解き明かされます。イエスは聖書をどういうものだと見ておられるでしょう。日本では聖書をどういうものだと思われているでしょう。
③目が開かれて(28-31)
二人がイエスだと分かったのは、食卓でイエスがパンを裂いて彼らに渡されたとき、目が開かれたからです。どうして目が開かれたのでしょうか。同時にイエスの姿は見えなくなりますが、二人は再び分からなくなっていません。何が二人を支えたのでしょう。
Ⅲ イエスが分かるとは
①現象から
彼らはイエスとともに生活し、起こり来る出来事をつぶさに見ていました。また、イエスへの期待と信頼も抱いていました。しかし、彼らの理解と納得に収まらない十字架や復活には困惑しています。現象・出来事から私たちがイエスを理解することには限界があります。
②聖書から(32)
聖書は神の計画全体を示し、その中心であるイエスについて語っています(ヨハネ5:39)。二人はイエスが聖書を解き明かしてくださる間、心が燃えていた、と言っています。聖書を通して、この世界は神がすべてを治められ、救い主イエスが生きておられると知り得ます。
③イエスとの出会いから(33-35)
二人は聖書を解き明かされて、イエスが分かったのではありません。聖書が記す通りに、イエスがよみがえられて、この私とともに生きて歩まれ、語らい、導いてくださる御方を信じ、現実に体感する瞬間があります。イエスの姿は見えなくても、その存在を信じるのです。
<おわりに> 聖書を読み、学び、その理解を積み重ねるだけで、イエスが分かるとは限りません。この御方と現実生活の中で出会い、向き合い、祈り、語り語られ、期待し、信頼し、従うことで、イエスが生きておられることを実感できます。私たちはそのようにイエスを知っているでしょうか。(H.M.)
『そこで会えます』 (マタイの福音書 28章1-10節) 2024.3.31.
<はじめに> 今日はイースター、イエスの復活を祝う日です。死んだ人がよみがえるなど、信じがたいことでしょう。聖書はそれをどのように伝えているでしょうか。納得できる詳細な説明と証拠があるから、私たちクリスチャンは復活の事実を受け入れているのでしょうか。
Ⅰ イエスを捜して
①墓を見に行く(1)
イエスは十字架につけられて死に、その遺体は墓に葬られました。その様子を女たちは見ていました(27:61)。安息日を越えた週の初めの日の明け方、彼女たちは再び墓を訪ねます。何のために彼女たちは墓を見に行ったのでしょう。
②地震・御使い・転がる石(2-7)
聖書はイエスがよみがえった様子を描いていません。地震・御使い・転がる石などはイエスが墓から出てくるために起こったのでしょうか。番兵たちは御使いを見て震え上がり、御使いは女たちにイエスの復活を告げ、墓の中を見るよう促し、大切な伝言を託します。
③イエスが現れて(8-10)
彼女たちは御使いのことばに納得して墓から去ったのでしょうか。彼女たちが弟子たちの所へ急いでいるそのとき、イエスが現れ、声を掛けます。何と言われましたか。ご自分が復活したことを弟子たちに知らせなさい、と言っておられますか。
Ⅱ 信じるに至る道
①関心を持つ
イエスの墓を見る番兵と女たちとの眼差しは同じでしょうか。女たちはイエスに期待・信頼を持っていましたが、番兵はそうではありません。自分にはすべてを理解・納得できなくても、イエスのことばと存在に一目を置いて、そこに関心を持って聞くことから始まります。
②証言を聞く
女たちがイエスの復活を知ったのは御使いからで、女たちから弟子たちへと続きます。また、イエス自身が自らの復活を予告され(16:21、20:19)、その後のことまで言及されています(26:32)。私たちが信じるために、多くの証言が備えられていることを知っていますか。
③イエスと出会う
受け入れ難い戸惑い恐れの中、大いに喜び、走り急ぐ女たちの心と頭の中は複雑です。理解に苦しみつつも、イエスのことばを思い起こし、御使いの証言と空の墓の事実から、イエスの復活を肯こうとしています。そのとき、彼女たちはイエスと出会い、拝しました。
Ⅲ 証言を確かめる
①前もって語られている
イエスは自身の復活を予め告げています(16:21、20:19、26:32)。そして、御使いはそれを思い起こさせています(6)。大切なことを神は前もって告げ、何度も繰り返して、私たちに伝えようとされています。私たちはそれを聞いて心に留めているでしょうか。
②ガリラヤに行くように(7,10→26:32)
御使いもイエスも「ガリラヤに行くように。そこで会えます」と言います。ガリラヤは弟子たちとイエスが出会った原点です。そこに回帰し、そこから新たに始めようとされたからです。彼らはイエスを見捨てましたが、イエスの復活はその彼らに罪・失敗を乗り越えさせます。
③本当だと確信する
女たちはイエスに会い、御使いが言ったことが本当だと確信します。イエスがよみがえり、今も生きておられると、あなたは信じますか。どうしてそう信じているのでしょう。復活されたイエスと出会うとは、物理的な出会いではなく、霊的な出会いと交わり、語らいです。
<おわりに> イエスはよみがえられ、今も生きておられる、と聖書は記し、信仰者たちも「イエスは生きておられる」と証しします。証言を聞いて、それを確かめ、よみがえられて生きておられるイエスと出会ったからです。その証人に私もあなたも加われますように。(H.M.)
『裸の救い主』 (ルカの福音書 23章32-43節) 2024.3.24.
<はじめに> 今日からの一週間は主イエスが十字架へと向かわれる受難週です。イエスが十字架で死んでよみがえられたことによって、私たちに罪の赦しと救いの道が開かれました。そのイエスと、私たちはどのように向き合い、イエスとはどんな方だと捉えているのでしょう。
Ⅰ どくろの丘で(32-39)
①十字架につけられるイエス(32-34)
死刑宣告を受けたイエスは他の二人の犯罪人とともにどくろと呼ばれる場所(ラテン語はカルバリ)で十字架につけられます。ローマ兵士(36、34:彼ら)が処刑を執行し、イエスは着ている衣をはがされて十字架に釘付けられ、その衣は兵士がくじを引いて分けます。
②十字架を眺める人々(35-39)
この光景を民衆は遠巻きに眺めています。彼らは過越の祭りに集う巡礼者です。また、議員たちはイエスをあざ笑います。22:66から、その構成メンバーがわかります。兵士たちもイエスを嘲り、十字架に架けられた犯罪人の一人も、ののしりの言葉を浴びせます。
Ⅱ 衣をはがされて
①それぞれの装い
兵士は軍服や鎧・兜を身に着け、祭司たちは聖なる装束をまとい、律法学者や長老たちも一目でそれとわかる服を着け、民衆も祭りにふさわしい装いだったでしょう。しかし、処刑される犯罪人は、囚人服もはがされて十字架に架けられて、衆目にさらされています。
②服装で人を見る
服装は身体を覆い装うだけでなく、その立場・所属・職能ごとに定められ、一目でそれとわかり、時には権威を示すアイコンにもなります。かたや、イエスは何もまとわず、十字架に釘付けられます。私たちは、この光景の中でイエスをどういう方だと見るでしょう。
③素の自分を見せる
私たちは裸を恥ずかしいと思い、何かに身を隠します(創世記3:10)。自分を何かで覆い隠し、装って生きることに慣れていますが、本当の自分の姿を認めているでしょうか。十字架に架かる裸のイエスを前に、人々は上から目線で自分は間違っていないと思っています。
Ⅲ ことばに表された真実
①「まず自分を救え」(35,37,39)
辛らつな言葉が何度もイエスに浴びせられます。誰が発したものでしょう。神の子、キリスト(救い主)、ユダヤ人の王なら、その権威と力を自分を救うことで示せ、と挑発します。しかし、イエスはそうしませんでした。なぜなのでしょう。できなかったのでしょうか。
②「父よ。彼らをお赦しください」(34)
立場・権威・力を帯びる者は、命じ、さばき、足元にひれ伏させることに用いがちです。けれどもイエスは、彼らの罪過ちを赦すために執り成し、自分を傷つけ嘲る者たちのために祈られました。罪に定めるのと赦すのでは、どちらが大変でしょうか。
③「私を思い出してください」(40-42)
この祈りを聞いていたもう一人の犯罪人は、イエスに罪の赦しとあわれみを求めて声を掛けます。自分は悪業の当然の報いとして刑を受けているが、イエスは何も悪いことはしていないのに罰せられています。この方を救い主と信頼して、すがる思いを言い表します。
<おわりに> イエスは彼に「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と宣言されます。イエスが言われたことは必ず実現する、権威と力に満ちたことばです。ありのままでイエスに近づくとき、イエスは私たちを救いの歓声で包み込んでくださいます。 (H.M.)
『いのち三様』 (使徒の働き 12章1-23節) 2024.3.17.
<はじめに> 祈る姿は人の世で普遍的なものです。どうして人は祈るのでしょう。どうなれば祈りが聞かれたと分かるのでしょう。ある人は、祈りが聞かれたのは偶然だと言います。あるいは自己満足なのでしょうか。それとも、祈ることは何よりも大切で、確かな手立てだと思いますか。
Ⅰ 三者三様の生き様
①ヘロデ王(1-4,19-23)
ヘロデ・アグリッパ一世はヘロデ大王(マタイ2章)の孫です。彼の行動とその動機、感情の動きが描かれています(1-4,19-22)。そこから、どんな人物だと分かりますか。使徒ヤコブに続いてペテロも処刑しようとした彼は、その後どうなりましたか(23)。
②ヤコブ(1-2)
ヨハネの兄弟で12使徒の一人です。17節のヤコブは主イエスの兄弟で、別人物です。ヘロデ王に捕らえられて剣で切り殺された彼は、使徒の中で最初の殉教者になりました。ペテロのために祈った教会(5,12)は、ヤコブ捕縛のときには祈らなかったのでしょうか。
③ペテロ(3-17)
ユダヤ人がヤコブ殺害に歓心を示したので、ヘロデ王はペテロも捕らえ、過越の祭り後に公開処刑を計画します。厳重な監視下にいたペテロでしたが、御使いによって牢屋から引き出されます。彼が幻と思えたこと、現実と思えることは、それぞれどういうことでしたか。
Ⅱ 祈る者への問い掛け
①祈りは聞かれなかったのか(2)
使徒ヤコブが捕らえられた時にも、教会は彼のために祈ったと思われます。しかし、残念ながらヤコブは殺されました。神はその祈りを聞かれなかったのでしょうか。答えられない祈りは信仰者を苦しめ悩ませます。祈りに関する本にはこのテーマの章があるほどです。
②熱心な祈りは聞かれるのか(5)
ヤコブの死は教会に危機感と切実さをもたらし、熱心に祈る姿へと導きます。熱心な祈りとはどんなものでしょうか。その熱心さと頑張りに、神は動かされる方なのでしょうか。としたなら、熱心な祈りで神を動かせる人が、立派な信仰者・祈り手となります。本当でしょうか。
③祈りの答えを受け取れるのか(13-16)
救出されたペテロが祈る人々を訪ねたとき、ペテロの声を聞いたロダはなぜ門を開けなかったのでしょう。また家の中にいる人々はロダの報告をどう受け取りましたか。彼らはペテロのために祈っていた人たちです。なのに、なぜ彼を直ぐに迎え入れなかったのでしょう。
Ⅲ 神に祈る者
①どのように祈ればいいのか(マタイ6:7-8)
注文者の意向を伝えるために事細かく指定・指示するのが一般的です。しかし、相手を信頼して「お任せ」という方法もあります。問題課題へ神に関わってもらうためには、詳しく状況説明をして、方法・容態・タイミングも指示しなければならないのでしょうか。
②見えざる神を見る(へブル11:27)
この物語には主の使いも登場しています(7-10,23)。御使いは神の働きを担う使者に過ぎません。その姿と働きはすべての人に明らかでしょうか。それに気づいたのは誰ですか。「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです」(マタイ5:8)とあります。
③神にお任せする(Ⅰペテロ4:23、5:6-7)
神が描く世界を人はどう見ているでしょうか。ヤコブは処刑され、ヘロデ王も突然死にますが、二人とも同じ結末だと言えますか。ヤコブもペテロも同じ使徒なのに結末は違います。善にして善を行われる神を信頼して、その御手に自分と課題をお任せできるでしょうか。
<おわりに> 平等が画一とするなら、この物語で神は明らかに不公平・不平等です。しかし、神は一人ひとりを大切に扱い、スペシャルな計画を持って導かれるユニークで自由な御方です。私たちはそのような偉大で力ある御方に祈っているのです。信頼を表し続けましょう。(H.M.)
『ことばの力』 (ルカの福音書 7章1-10節) 2024.3.10.
<はじめに> 人が神様に心を向ける場面の一つに、切なる願いを聞き届けてもらいたい時があります。そのために人はどうすれば良いのでしょう。何か資格があるのでしょうか。人の願いに神が答えてくださる信仰を持つ人とはどういう人でしょうか。この物語はマタイ8:5-13にも記されています。
Ⅰ 切なる願い(1-5)
①助けを求めて(1-3)
百人隊長は、当時ユダヤを支配していたローマ帝国の百人の兵卒を率いる軍人です。彼が重用する一人のしもべが瀕死の病に陥り、イエスに助けを求めます。しかしこの物語で彼は直接イエスと対面せず、使者を送っています。どうしてそうしたのでしょう。
②願いの伝え方
切なる願いがある時、人は何とかしようと、あらゆる手段を使います。ユダヤを支配するローマ帝国軍人という社会的な地位と権力がある百人隊長ですから、この願いをイエスに伝える際、別の言い方や方法もあったと思われます。どんな言い方が考えられるでしょう。
③資格のある人(3-5)
百人隊長がイエスの許に送ったユダヤ人長老たちは、熱心に彼の願いを伝えるとともに、「この人は…資格のある人です」と彼らの意見を付け加えています。その理由は5節です。イエスに願いを聞き届けてもらう資格を、彼らはどう捉えていたでしょう。
Ⅱ 資格はありません(6-8)
①再び使者を通して(6-8)
イエスは長老たちと一緒に百人隊長の家へと向かわれます。彼らが近くに来たとき、百人隊長は友人たちを送り、「あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありません。ただ、おことばを下さい。そうしてしもべを癒してください」と伝言を託します。
②ひとりの人間として
百人隊長がイエスを自分の家に迎え入れる資格がないと言うのは、ユダヤ人は異邦人の家に入ってはならないとの律法(参考:使徒10:28)を知っていたからです。社会的立場や持っている権力・業績などに頼ることなく、一介の人間としてイエスに向き合っています。
③イエスと向き合う
私たちが神・イエスと向き合おうとするとき、資格の有無に目を向けてはいないでしょうか。それを意識するのは人ですが、イエスは資格にこだわっていません。それ以上にイエスが注目されているのが信仰です(9)。イエスは百人隊長の信仰に驚き、称賛されています。
Ⅲ ただおことばを下さい(7-10)
①イエスも驚くほどの信仰(7-9)
しもべが癒されるために百人隊長は、イエスのことばをいただければ十分だと伝えます。彼の姿勢にイエスは、「これほどの信仰を見たことがない」と驚かれます。その信仰はどういうものですか。百人隊長はこのような信仰をどうして持っていたのでしょう。
②ことばは力(9-10)
彼は軍隊の中で、権威あることばが発せられるとその通りになる、と熟知していたからです。「ただおことばを下さい」と言った彼は、イエスがどんな方だと捉えていたでしょう。私たちは彼と同じように言えるでしょうか。ことば以外に何かを求めることはないでしょうか。
③権威の下に立つ(Ⅰペテロ5:6-7)
百人隊長はイエスのことばの権威を認め、その下に自らを置きました。神を信じると言うなら、神のことばを重んじ、全面的に信頼しましょう。事あるごとに聖書のことばを祈り求めましょう。与えられたみことばで十分です、と信仰を表し続けましょう。
<おわりに> 「これほどの信仰」を見出せたのが、ユダヤ人ではなく異邦人であったことは、この信仰が出自や経歴・立場に関わらず、どんな人でも持ち得るものだと語っています。神のことばが働くと力あると信じていますか。ならば、神の御手の下に立つと言い表しましょう。(H.M.)
『見えざる御方を見て』 (使徒の働き 11章19-30節) 2024.3.3.
<はじめに> 日々の生活の中で、神に気付くことがありますか。目に映る世界の中に神は生きて働いておられると本当に信じていますか。19節は8:4からの続きを意識させます。その間、ピリポの伝道(8章)、迫害者サウロの回心(9章)、異邦人コルネリウス一家の回心(10章-11:18)がありました。
Ⅰ 主の御手がともにある(19-21)
①ギリシア人にも伝えた(19-20)
エルサレムの教会の迫害のために散らされて行ったユダヤ人信者たちは、同胞のユダヤ人にだけ福音を伝えます。ところが、アンティオキアでギリシア語を話す人たちにも主イエスの福音を語る人たちが出てきました。その人たちは、どういう人たちでしたか。
②福音が広がるきっかけ(20-21)
彼らがギリシア語を話す人たちに福音を語った理由・きっかけにどんなことがあるでしょう。彼らから福音を聞いたギリシア人たちが大勢起こされたのは、どうしてですか。彼らは特別な伝道方法をしたでしょうか。記者は「主の御手が彼らとともにあったので」と記します。
③主の御手(21)
主はご自身の計画実現のために働かれます。その働きを「主の御手」と聖書は表します。それは大きく力強く、不思議・奇蹟を通じてもあれば、何気ない人の営みの中に主は豊かな導きと関わりをもって働かれることもあります。人がそれに気づくのは、ほぼ後からです。
Ⅱ 神の恵みを見て(22-26)
①バルナバの派遣(22-24)
アンティオキアでギリシア人が主に立ち返ったという知らせを聞いたエルサレム教会は、バルナバを遣わします。何のために彼は遣わされたのでしょうか。バルナバは「慰めの子」という意味の俗称です(4:36)。彼がどんな人か、わかることを挙げてください。
②神の御業の実現(23)
アンティオキアでは従来とは違う新しい事が始まっていました。バルナバはそこに神の恵みを見て喜んでいます。ユダヤ人だけでなくギリシア人も主を信じていることに、先に確認した神の御業の実現(18)を見たからです(エペソ2:5,8-9)。
③キリスト者と呼ばれる(24-26)
バルナバは彼らにどんなことを伝えましたか。バルナバを通してさらに大勢が主に導かれ、さらにタルソからサウロを連れて来て、丸1年彼らを教えます。そして彼らは「キリスト者」と呼ばれるようになります。彼らがキリストにつく者と自他ともに認める証しです。
Ⅲ 預言と救援(27-30)
①預言のことば(27-28)
神は人に語られます。神のことばを預かる人が預言者です。時に神は将来のことを具体的に示されます。アンティオキアに来た預言者一団の一人、アガボに示された大飢饉のこともそうでした。やがてそれはクラウディウス帝(AD41-54)の治世中に起こります。
②聞いて行う人たち
神のことばを聞かされたのは、神のために、神とともに働くためです。アンティオキア教会はユダヤ被災地にいる兄弟たちに救援物資を送ろうと動き、それをバルナバとサウロに託して各地の長老に届けます。
③見えない方を見る
これらの一連の出来事の中に、信者たちは見えざる神を見ています。これこそ信仰です。肉眼で見える現象の背後に、力強く働き、信じる者を導き、何を大切にしなければならないかを教えてくださる神を私たちも信仰をもって見出し、従いましょう(へブル11:1)。
<おわりに> 8:4~11:18の出来事がなければ、アンティオキアでの出来事も、素直に受け取り、神の恵みを見て喜ぶことはできなかったでしょう。神は時と出来事を支配し、ここに至るまでの布石とされています。私たちはこの偉大な生ける神を信じているのです。(H.M.)
『非難から賛美へ』 (使徒の働き 11章1-18節) 2024.2.25.
<はじめに> 自分は納得していることを、他の人から批判・非難を受けることがあります。そのとき私たちの心は決して穏やかではありません。その人たちにどのように向き合い、対処すればいいのでしょうか。異邦人の救いを目の当たりにしたペテロにも、非難のことばが浴びせられました(3)。
Ⅰ 沸き起こる非難(1‐3)
①非難する人
非難する人たちは、割礼を受けているユダヤ主義キリスト者です。彼らは、ペテロが異邦人の家に入って食事をともにしたことや、彼らが神のことばを受け入れたのを目撃していません。伝え聞いたことから、その問題と思われる事実だけを切り取って見ます。
②非難の内容
使徒たちとユダヤにいる兄弟たちが耳にしたことは何でしたか(1)。それに対して、その中の割礼を受けている者たちが問題視したことは何でしたか(3)。非難する者が、受けた報告から非難すべき問題点を見つけるに至るまでには、どんな論理展開があったでしょう。
③一緒に食事をする
主イエスも同じような非難をパリサイ人・律法学者から受けています(ルカ15:2)。食事をともにすれば相手と同化すると、ユダヤ人は伝統的にとらえていました。とすれば、非難する者たちは、自分たちと異邦人との関係をどのように見ていたでしょう。
Ⅱ 説明するペテロ(4-7)
①異邦人の家に行ったわけ(4-12)
物事には流れがあり、結果には理由があります。ペテロはそれを順序立てて説明します。4-15節は10章の要約です。ペテロは律法と伝統から「できません」と拒みますが、天からの声、3回の幻、その後の使者の訪問と御霊の促しで、異邦人の家へ向かうに至ります。
②そこで見たこと(13-16)
相手にも御使いが現れて、ペテロを招き聞くように促しがあったことを知ります。そこでペテロがイエスの福音を語り始めると、彼らの上にも聖霊が下ります。そのとき、ペテロは主イエスのことば(1:5)を思い起こし、かつてペテロたちが経験したのと同じだと確信します。
③ペテロの確信(17)
この一連の出来事を主導されたのは人ではなく神です。当初はペテロ自身も拒み、戸惑いましたが、主の声と促しに従ううちに、全て神がなさっていることだと納得しました。神の御前にはユダヤ人も異邦人も等しく、主イエス・キリストはすべての人の救い主である、と。
Ⅲ 沈黙から賛美へ(18)
①証しの力
その人の経験を誰も頭ごなしに否定できません。理解・納得はできなくても「そうなんですね」と受け入れることから始まります。自分と同じ問題・悩みを抱えている人が「私も変えられた」と語ることばには力があり、耳を傾けたくなります。
②沈黙の中で(18)
ペテロの説明と証しを聞いて、非難する者たちは黙ります。どうして黙ったのでしょうか。ペテロはその時どうしていたでしょう。時に沈黙は雄弁に優ります。「私のたましいは黙って ただ神を待ち望む」(詩62:1)とは、具体的にどうすることなのか、思い巡らしてください。
③喜びの賛美(18)
非難する者もペテロもともに、神が自分たちにも異邦人にも救いを与えるみわざを認め、それを喜び賛美します。賛美は神への賛同の表明で、神とともに喜ぶことです。ルカ15章でも描かれているとおりです。
<おわりに> 当初は神のなさることを知らず、人を見て疑念を抱き、批判・非難することもあるでしょう。その中に神が働いておられることを見出すために、神は今も証し人を立てておられます。やがて神の御業を受けとめて、ともに賛美できるように、今も神は働かれています。(H.M.)
『神の計画を見る』 (使徒の働き 10章34-48節) 2024.2.18.
<はじめに> 10章の物語も3回目、御使いや幻という不思議な出来事から始まるストーリーも、それらにつながりがあることがわかって来ました。今日の箇所で、神が導かれた御計画の全貌がいよいよ見えて来ます。それは大方、今は分からなくても、後で分かるようになるものです(ヨハネ13:7)。
Ⅰ 物語の振り返り
①分かったこと(34-36)
ペテロが「これではっきり分かりました」と言っているその内容とは、どういうことですか。
②伝えたこと(37-43)
ペテロはコルネリウスたちにナザレのイエスについて語り聞かせます。ペテロは、自分たちはイエスの証人だと言っています。イエスのどんなことについての証人であると言っていますか(大きく2つあります)。
③起こったこと(44-48)
ペテロの話がまだ終わらないうちに、コルネリウスはじめそこに集まっている人たちにどんなことが起こりましたか。その出来事を見た人たちの反応はどうでしたか。ペテロも同じ反応をしていますか。
Ⅱ イエスを証しする(36-43)
①イエスの福音(36-38)
コルネリウスは主が命じられたすべてのことを伺おうと、ペテロを招きました(33)。すでに彼の祈りと施しは神の御前に覚えられている(4)ことで不十分なのでしょうか。ペテロは彼らにイエスの福音を語り聞かせました。イエスを信じることが福音の中心です。
②イエスの死と復活(38-41)
イエスは、数々の良いわざをもって神から遣わされた救い主であることを示し、ペテロたちもその証人です。そのイエスを人々は十字架で殺しますが、神はこの方をよみがえらせ、神が選ばれた者たちに現れます。ペテロたちもイエスの死と復活の証人として語ります。
③イエスがもたらす救い(42-43)
証人は、イエスと聞く人々をつなげる役割です。神はイエスを、生きている者と死んだ者のさばき主と定められました。このイエスを信じる者は誰でも罪を赦し、信じない者の罪はそのまま残ります(マルコ16:16,ヨハネ20:23)。預言者も証しするとおりです(イザヤ53章)。
Ⅲ すべての人の主
①聖霊が下る(44-46)
ヤッファからペテロに同行した兄弟たちはユダヤ人で、かつて自分たちが経験したのと同じように、異邦人のコルネリウスたちにも聖霊が下ったことは、彼らに驚きでした。どうして自分たちの場合と同じだと分かったのでしょうか(使徒2:1-4、4:31)。
②ペテロの確信(47-48)
彼らに聖霊が下るのを目の当たりにしたペテロは、導かれる生ける神を実感しています。だから彼らにバプテスマを授けました。神にはユダヤ人も異邦人も区別なく、イエス・キリストはすべての人の主であり、自分たちはこの神に従うべきと確信したからです。
③罪を赦す福音
悪と罪を犯した者のために、イエスはその罪の身代わりに十字架で死なれました。また、自分を正しいと自負する者によって、イエスは十字架の死に渡されました。しかし、神はイエスをよみがえらせ、その名を信じる者の罪を赦すと宣言されています。
<おわりに> 神はどんな人も分け隔てなく愛し、受け入れる御方です。ただ一点、神が遣わされたイエス・キリストの死と復活が私のためであったと信じることを求めておられます。私にとってイエスとはどんな方ですか。神が差し伸べてくださる手を握りますか、拒みますか。(H.M.)
『ためらわずに行き』 (使徒の働き 10章17-33節) 2024.2.11.
<はじめに>聖書には奇跡や不思議な出来事が記されていて、その理解・納得に苦しむ人は少なくありません。世の中にも不思議なこと、不可解なことがあります。すべてに説明がつき、それに納得できればいいのですが、そうではないことも多々あります。どう受け留めればいいのでしょうか。
Ⅰ 不思議な導き(17-23)
①今の幻はどういうこと(11-18)
ペテロは、3度繰り返された幻(11-16)を見た後、どんな反応をしていますか(17,19)。
幻を示された神は、なぜ彼に説明もされず、分かりにくい幻を見せられたのでしょう。
この幻で、神がペテロに伝えたいことは何でしょうか。
②声が聞こえる(19-20)
ペテロが幻について思い巡らしている頃、コルネリウスから遣わされた3人がペテロの居場所を捜し当て、声を掛けます(17-18)。そのとき、ペテロに「ためらわず(何の差別もせず)に彼らと一緒に行きなさい。わたしが彼らを遣わしたのです」と語ったのは誰ですか。
③迎え入れるペテロ(21-23)
ペテロは降りて行き、3人の使者と応対の後、彼らを迎え入れて、翌日には一緒にカイサリアに向けて出発します。律法では禁じられている異邦人との交際にペテロが踏み切った(28)のには、幾つかの要因がありました。それらを見つけて列挙してください。
Ⅱ 不思議を突き合わせる(24-33)
①ペテロを迎えるコルネリウス(24-26)
カイサリアではコルネリウスがペテロを待っていました。どんな人たちと一緒に待っていましたか。ペテロを迎えてコルネリウスは足元にひれ伏し拝みます。そのとき、ペテロは自分のことを何と言っていますか。
②ためらうことなく来た(28-29)
コルネリウスの家に入ったペテロは、そこに集まっている多くの人たちを前にして、ここに来た訳を話します。この時点で、彼は先に見た幻の意味を分かっているようです。説明もなく、どうして彼はそれを理解したのでしょう。しかし、まだわからないことも残っています。
③今、伺おうとして(30-33)
今度はコルネリウスが4日前に御使いが現れた経験をペテロに話します(30-33➡3-6)。御使いは、あとはペテロを招いて聞くようにと言われます。こんな面倒なことをせず、なぜ御使いから直接すべてのことを知らせようとはされなかったのでしょう。
Ⅲ 不思議がつながる
①分からないから…
最初から全貌を明らかに示されているなら、迷うことはありません。が、素直に受け取るとも限りません。まして目に見えない神が導き、働かれるなど、大方の人は思い至りません。分からない中で、人は考え、思い巡らし、自分が見えていないことを探ろうとします。
②見つける旅
コルネリウスは御使いを、ペテロは幻を見ました。場所・時間・内容もバラバラで不明瞭ですが、繋がりもあります。それを手繰って進むうちに、新たに見えて来るものがあります。神はミステリーですが、丹念に探る者は神と真理を発見します(箴言8:17,エレ29:13)。
③サインとタイミングをとらえて
神は目に見えませんが、各所にその足跡、声、証拠を残しておられます。一見不思議で不可解に思える中にも、しっかりとした計画をもって私たちを導かれます。一つ一つそれを拾い集め、その導きに従ううちに、私たちも神の計画をだんだん理解できます。
<おわりに> 分からないこと、不安な時こそ、信頼できる存在が傍にいるかどうかは重要です。神は不思議な御方ですが、私たちが信頼をもって近づくとき、その信頼に応えてくださる頼りになる御方です。あなたを導かれる神は、自ら見つけられることを待っておられます。(H.M.)
『二つの幻』 (使徒の働き 10章1-16節) 2024.2.4.
<はじめに> 私たちが生きる世界は基本的に法則・ルールに従って粛々と進んでいきます。しかし、時に不思議なことが起こり得ます。この世界には神がおられ、超自然的なこともされますが、神は人にできることを肩代わりなさいません。人が果たす分と神が主導する分を弁える必要があります
Ⅰ 幻に現れた御使い(1-6)
①神を敬うコルネリウス(1-5)
ある日の午後3時頃、コルネリウスは幻の中で神の使いを見ます。彼はカイザリア在住のローマ軍イタリア隊百人隊長であり、敬虔で知られ、家族挙げて神を恐れ敬う人物でした。幻の中で御使いは彼の名を呼んだ後、2つのことを告げています。何と何ですか(4-6)。
②神の御前に覚えられています(4)
彼はローマ人でありながらユダヤ教に心酔し、できる限りのことをしていました。具体的にどんなことをしていましたか。御使いはそれらが「神の前に上って、覚えられている」と告げます。いけにえの煙が立ち上り、神に届いて受け入れられる絵と重なります(レビ2:2)。
③さあ今、招きなさい(5-6)
御使いはコルネリウスになすべきことも告げています。ヤッファに人を遣わし、使徒ペテロを招くようにと。ユダヤ人は律法により異邦人と同席しません。なのに、あえてペテロを招くのは何のためでしょうか。ユダヤ人と律法を良く知る彼は、この促しをどう思ったでしょう。
Ⅱ 天降る入れ物の幻(7-16)
①ヤッファに使者を遣わす(7-8)
御使いが立ち去ると、コルネリウスはすぐに3人を呼んでヤッファに送り出します。その3人に敬虔な兵士を加えたのはなぜでしょうか。コルネリウスは幻で語られたことを説明して、彼らを送り出します。カイザリアとヤッファは60㎞足らずです。何時間ほどかかるでしょう。
②ペテロが見た幻(9-15)
翌日正午ごろ、ペテロは屋上で祈るうちに幻を見ます。天から降った入れ物には地上のあらゆる獣や鳥がいて、ペテロにこれを食するよう声がします。ペテロは何と答えましたか。答えの理由は何ですか。それに対して、もう一度声が聞こえます。何と言っていますか。
③3度繰り返される中で(16)
「あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥」は天から地上に降りて来て、また天に上げられます。これにはどういう意味があるのでしょうか。この光景とやりとりが3度繰り返されて、ペテロはどんなことを考えたでしょうか。
Ⅲ 神が描くこの世界で
①祈りのうちに
コルネリウスもペテロも祈りのうちに幻を見、語らっています。定まった祈りの習慣は大切です。いつ、どのように祈っていますか。祈りは人から神に願うとともに、神からの語り掛けと新しい気づきを祈る人にもたらします。そのような経験をされたことがあるでしょうか。
②幻で語る神
神は祈っている人に具体的に語られます。それは一見不思議で、無理難題と思われるかもしれません。人が「できません」と言うのは、大方「やったことがありません」か「したくありません」です。それは私には本当にできないことなのでしょうか。
③主導権は神に
まずコルネリウスに現れた神は、彼が応答すると、次にペテロに働き掛けています。これらは今はまだそれぞれでつながっていませんが、やがて一つとなって神の計画が実現していきます。神の導きと語り掛けに、時を置かずに従順に応じる者を通して実現します。
<おわりに> 私たちはそれぞれの生活の中で、自分に与えられた役割を日々生きています。それが神と結びつき、計画の実現のために用いられるように日々祈りましょう。そして、神の導きと語り掛けに素直に聞き従う者でありたいと願います。全てを導かれる神に期待して。(H.M.)
『光があるうちに』 (ヨハネの福音書 12章34-43節) 2024.1.21.
<はじめに> 時は無限、永遠に続くと思われていますが、これも神の創造物で限りあるもので、それを私たちに託されていると聖書から私は学んでいます。時を支配される神は、物事のタイミング・機会を知り、それを私たちにも知らせようとしておられます。イエスもここで時を告げておられます。
Ⅰ 光があるうちに
①イエスは光
イエス自ら「わたしは世の光です」(8:12)と称し、ヨハネもイエスを人の光と証ししています(1:4-9,3:19-21)。世を照らし、人にいのちを与え、道を示すイエスは人々の間に歩まれ、人々はそれに照らされ、その祝福を享受してきました。
②光があるうちに
イエスが世におられるのは、いつまでもではなく、その終わりが近づいていると語られます。35・36節どちらにも「光があるうちに」とありますが、同じことを言っているのでしょうか。違うところはありませんか。勧める光への向き合い方も「歩きなさい」と「信じなさい」です。
③光の子どもとなる
子どもは親から生まれ、家族の一員であり、幼くても親の性質を継ぐ似た者です。イエスの光に照らされ、反射するだけの者はイエスが消え去れば闇に戻ります。しかし光の子は、イエスに照らされて光にふさわしく変えられ、光を放つ者です(エペソ5:8,Ⅰテサ5:5)。
Ⅱ 限りある時
①正常化バイアス
常識や前例にとらわれて、自分にとって都合の悪い情報を無視したり過小評価する、認知の特性のことです。前例がない、自分は大丈夫、まだ何とかなると考えて、対処を避ける傾向が私たちにはあります。34節の群衆のことばにもそれは見られます。
②もうしばらく
イエスは自分の時が来たことを察知して、群衆に緊迫感をもって決断を迫ります。光が照り輝く昼間も、時が進むとやがて闇夜が迫り来ます。イエスの光に照らされて歩き、光を信じる機会は、いつまでも与えられてはいません。信じるチャンスには限りがあります。
③機会がある間に
私たちを取り囲む状況と主イエスのことばを重ね見るとき、「これまで」が「これからも続く」とは思えません。しかし、機会は「もうしばらく」残されています。このしばらくの間に、私たちがイエスを信じ、光にふさわしい人として整えられることを、イエスは強く願っています。
<おわりに> イエスが「もうしばらく」と言われるところに私たちは差し掛かっています。そのことに不安を抱き心を騒がせてはなりません。イエスは私たちに平安を与え、希望の光を示されています。「自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい」(36)と。(H.M.)
『今、わたしの心は』 (ヨハネの福音書 12章27-36節) 2024.1.14.
<はじめに> 年頭から相次ぐニュースに私たちの心は揺さぶられています。このタイミングで?どうして?どうなるの?という疑問が去来します。神を信じる者ならどんなときにも泰然自若で、心騒ぐことなどはない、と言えるでしょうか。この箇所で、イエスも「心が騒ぐ」(27)と言われています。
Ⅰ この時に至った(27-28)
①今、この時に(27)
ギリシア人の申し出(21)を契機に、イエスは神の計画が実現する時を察知されます(23)。自身の死によってすべての人が罪から救われて永遠のいのちに至る道が開かれる時です(24-25)。しかし、イエスの心は騒いでいます。二つの願いが交錯しているからです。
②二つの願い
自身の死から逃れたい、という人として自然な願いと、それさえ甘受して神の計画に沿い、神の栄光を現したいという願いです。ゲッセマネの祈りと同じです(マタイ26:39)。イエスはこれまで同様、神の計画を選び取ります。天からの声もそれに応答します(28)。
③時を受け取る(27)
イエスは「このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ」(27)と自らを傾けられます。私たちの存在と時の流れは、全て神の計画の中にあります(詩31:15)。私たちはそこに目を向け、時と状況を支配されている神に信頼しているでしょうか(詩57:7,インマヌエル565-2節)。
Ⅱ 上げられるとき(30-34)
①十字架での死(31-32)
31節でイエスは重ねて「今」を意識されています。それは自ら「地上から上げられるとき」(32)で、すべての人を自分のもとに引き寄せることに繋がる、と告げます。「上げられる」は本書の3:14,8:28,12:32,34に出て来て、いずれもイエスの十字架上での死を表します。
②二重の意味
律法は「木にかけられた者は神にのろわれた者」(申命21:23)と言い、イエスに期待する群衆は、その言葉に戸惑います(34)。イエスは罪ののろいを一身に背負われるために、十字架に上げられます(33)。しかし、神はイエスを高く上げられたのです(ピリピ2:9)。
③不思議な道(詩篇118:22-23)
強い力をもって支配者を追い出し、占領されている人々を解放するさまは、この世に満ちています。しかし、神は御子イエスのいのちを代償に解放する計画です。これがイエスの心さえ揺さぶり(27)、人々には理解し難いこと(34)ですが、神のみ可能な栄光の道です。
Ⅲ 心騒ぐときに
①心騒ぐイエス(27、11:33、13:21)
ヨハネの福音書にはイエスが心を騒がせている記述が27節と11:33、13:21にもあります。その場面・背景を見て、何にイエスの心が騒いでいるのか、イエスの思いを探ってみてください。そのイエスが14:1,27では、弟子たちに「心を騒がせるな」と命じています。
②人となられた神
神の子・救い主なら、どんなときにも泰然自若であるべきでしょうか。しかし、現にイエスは「心が騒ぐ」と言われています。この御方は神でありながら、私たちと同じ肉体と感情・感覚を持つ人間です。ですから、動揺する私たちに同情できる御方です(へブル4:15)。
③心を騒がせるな(14:1,27)
イエスの葛藤は、自身の十字架での死によって、人を罪から救う神の計画が実現する故です。この葛藤を越えて神の栄光へと進まれたイエスを信じること(14:1)で、私たちにも平安が与えられます(14:27)。自分に負えない不可解も、主に信頼して委ねる道があります。
<おわりに> すべてに説明と納得を伴う道を求めるなら、私たちの心は騒ぎ、落ち着きません。しかしイエスは神の時と計画に沿う生き方を私たちに示しておられます。そして、イエスを信じ委ねる者を平安で包まれます。神には方法があり、道を造られ、私たちを導かれます。(H.M.)
『時が来ました』 (ヨハネの福音書 12章20-26節) 202.1.7.
<はじめに> 暦が改まり、心も新たに踏み出そうと決意を新たにする時です。そこに吹く風は追い風でしょうか、向い風でしょうか。鳥は飛び立つために風を見ていると聞きます。私たちは何を見ているでしょう。イエスはこの箇所で「時が来ました」と言われます。何を見てそう言われたのでしょう。
Ⅰ イエスにお目にかかりたい(20-22)
①祭りの群衆
この祭りは過越の祭り(1)で、場所はエルサレム(12)です。イエスは大勢の群衆に歓迎されて入京されました(12-19)。その礼拝者の中には改宗者のギリシア人も数名いました(20)。彼らはピリポにイエスへの面会を願い、ピリポはアンデレとともにイエスに取り次ぎます。
②なぜそこにいるのか
祭りの群衆と言っても、その心は個々様々です。律法の義務だから、毎年の恒例行事として集う者は少なくないでしょう。イエスの奇跡を見て興奮して、あるいは奇跡を見たいと思ってついて来た者もいたでしょう。私たちは今日どうして礼拝に集っているのでしょう。
③イエスに会うために
自分とは違う何かに魅力や輝きを感じて、人は接近します。ギリシア人巡礼者は、イエスに会うことを願いました。イエスと語らい、問い掛けて聞き、その心と生き方をより深く知り、自らを神のみこころと計画にふさわしく整えるために、私たちもイエスに近づくのです。
Ⅱ 栄光を受ける時(23-24)
①一粒の麦
ピリポたちの取り次ぎにイエスは答えたでしょうか。なぜイエスはここで「時が来ました」と言われたのでしょう。そして「一粒の麦」で知られる句(24)を語られます。それはイエス自身がこれから間もなくこのエルサレムで遂げようとされている十字架と復活を暗示しています。
②二種類の「時」
暦・時刻など定まった時の流れに沿って、私たちは生活しています。客観的で万人共通の「時」です。イエスが「時が来ました」(24)と言われたのはそれではなく、タイミング・機会を示す主観的な「時」です。イエスはこの「時」を意識されています(2:4、8:20、13:1)。
③「時」に気付く
ギリシア人がイエスに面会を願ったことが、イエスにとって「時」に気付く引き金でした。ユダヤ人だけでなくすべての人々がイエスと出会い、神に近づくためにイエスは遣わされたのです。その実現は十字架と復活です。いよいよその時が来たことを察知されました。
Ⅲ わたしについて来なさい(25-26)
①いのちの不可思議(24-25)
いのちは何よりも大切なものです。いのちは各自のものですが、自分のために確保するだけでなく、次に繋ぐために用いるものです。一粒の麦の例はそれを見事に表しています。また、この世でのいのちの限界を認める先に、永遠のいのちを見出すことができます。
②イエスの生き方(24)
イエスは自ら一粒の麦になる時が来ていることを自覚されています。すべての人の罪を一身に担って十字架に架かられる道です。自分のいのちをそれに投じることは重たい決意と覚悟を伴います。しかし彼の死によって、多くの人に永遠のいのちがもたらされます。
③わたしに仕えるなら(26)
イエスを取り巻き近づく人は大勢います。イエスに仕えたい、と思う人もいるでしょう。イエスは自分の周囲を見渡して「わたしについて来なさい」と言われます。自分中心ではなく、自分と自分の大切なものをイエス中心にして生きる決意と覚悟が私たちにあるでしょうか。
<おわりに> いのちに関わる重大な決断だからこそ、慎重に確実にしたくなります。しかし、私たちは時の流れに抗うこともできない限りある者です。ならば、いのちの不可思議を熟知しておられ、その機会を的確に掴んで歩まれるイエスに信頼し、仕えようではありませんか。(H.M.)
『あなたに神の恵みを』 (サムエル記第二 9章1-13節) 2023.12.31.
<はじめに> 1年の締め括りの日です。様々な出来事と思いが去来する中には、しっくり納得いくことばかりではなく、「なぜ」「どうして」ということも多々あります。それは心配・不安ばかりとは限りません。私たちが思い描くよりも、遥かに超えたこともあり得ます。
Ⅰ ダビデとメフィボシェテ
①イスラエル王国とダビデ
イスラエル王国初代の王サウルの息子ヨナタンとダビデは無二の親友で(Ⅰサム18:1-4)、娘ミカルの婿です。サウルは台頭するダビデを恐れて殺そうとしますが、サウルとヨナタンは隣国ペリシテとの戦いで戦死し、やがて王国はダビデを王と迎えます。
②王家の末裔・メフィボシェテ
ヨナタン戦死の報を受けて逃げる際、乳母が抱えていた5歳のメフィボシェテを落として以来、両足が不自由となります(Ⅱサム4:4)。サウル王家とダビデとの王権争いの中、彼は、ヨルダン川東岸のロ・デバルのマキルの許に身を置き、人知れず生活しています。
③まだだれかいないか(1、3)
王国の安定のために、前王朝を根絶やしにするのが常です。ダビデ王の言葉(1)は周囲に粛清を予感させます。王の前に引き出されるサウル家のしもべツィバも(2)、メフィボシェテも(6)「あなた様のしもべです」と名乗るのは、ダビデへの恐れと恭順を示すためです。
Ⅱ 恵みを施したい
①ヨナタンのゆえに(1,7)
ダビデがサウル家の生き残りを探したのは、親友ヨナタンとの誓い(Ⅰサム20:15)を思い起こし、それを果たすためです。ダビデは主の御名によって誓ったこと(Ⅰサム20:42)に真実をもって尽くしたいと願い(1)、「神の恵みを施したい」(3)と神を引き合いに出したのです。
②死んだ犬のような私(8)
メフィボシェテは敵であった前王朝の末裔、しかも不自由な身です。対抗するつもりなど皆無だから隠遁していたのですが、王からの召還に覚悟して出かけます。彼が自分を「死んだ犬のような私」(8)と評した言葉に、どんな思いが込められていたでしょうか。
③王の食卓で
彼の予想に反し、ダビデ王は彼に厚遇を与え、敵意ではなく好意と愛顧を示します。祖父サウルの所領を彼に返し、ツィバ一家に彼を支え労するよう命じ、メフィボシェテはエルサレムに住み、王の息子とともに王の食卓に侍るようになります。
Ⅲ 神の恵みにあずかる
①敵であった者(ロマ5:10)、死んだ者に(エペソ2:4-5)
私たちもかつては、神を認めず自分勝手に生き、神に敵対して生きていました。それは、神の御前には罪と背きの中に死んでいたのです(ロマ5:10)。しかし、あわれみと愛に富む神は、イエス・キリストの十字架のゆえに、恵みによって救われたのです(エペソ2:4-5)。
②神から招かれて(マタイ9:13、ヨハネ10:3、黙示3:20)
ダビデがメフィボシェテを召したから、彼は王の前に進み出られました。神はイエスを罪人を招くためにこの世に遣わされ(マタイ9:13)、一人ひとりをその名を呼んで連れ出そうとされています(ヨハネ10:3)。イエスの呼び掛けは今も続いています(黙示3:20)。
③神の家族の一員へと(ヨハネ1:12)
王の食卓に連なるのは、王家の一員・王子と同列の扱いです。神の恵みの招きを信じ受け入れた私たちも神の子となる特権が与えられ、神の家族に加えられます(ヨハネ1:12)。食卓は黙食ではなく、養いとともに交わり・語らいがあります。それを味わってますか。
<おわりに> 「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた」(ヨハネ1:16)のです。人間側からすれば驚きと不思議でしかありませんが、神が予め計画され、実行された御計画に過ぎません。これからも神の恵みを信頼し期待しましょう。(H.M.)
『地の上で平和が』 (ルカの福音書 2章8-16節) 2023.12.24.
<はじめに> これほど盛大にクリスマスを祝うのはなぜなのでしょう。歴史上の偉大な人物だから、イエス・キリストの誕生も祝うのでしょうか。それにしても別格の扱いです。時代を越え、世界中が祝うのですから。それだけの理由があることをぜひ知っていただきたいと願います。
Ⅰ クリスマスの事実
①救い主の誕生(6-11)
ヒーローは大方成人として華々しく現れます。しかし救い主は嬰児の姿で現れ、みすぼらしい飼葉桶に寝かされ、だれもそれに気づいていません。それを知らされたのは、ベツレヘムの野にいた羊飼いたちで、突然の御使いの出現と告知によったのです。
②御使いの告知(10-12)
見知らぬ嬰児があなたがたのために生まれた救い主だ、と言われても、ピンときません。しかし、救い主が与えられることは、神が古から約束され、預言者たちが繰り返し述べて来たことで、彼らユダヤ人も切望していました。この夜がその実現の喜びのときです。
③天の軍勢の賛美(13-14)
約束を果たされた神への賛歌と、それを受け取る地に住む人々への祝福を賛美します。「みこころにかなう人々に」とはどんな人なのでしょう。神から認められる立派な人、正しく完全無欠の人だとすれば、だれがそれにふさわしいのでしょう。
Ⅱ It came upon the midnight clear (天なる神には・教会福音90)
①人類の現実の絵(英語2-4節)
人類はより良く正しくあろうと願いつつも、現実には真逆へと落ち込み、そこから抜け出せず、苦しみ疲れ果て、それでもなお過ちと混乱を繰り返しています。だからこそ、いつの世も人は、この現実から救い出してくれる救い主の到来を切望しています。
②天を突き破り(英語2-4節、90番2-3節)
神はきよく正しい方で、罪・過ちには厳しく向き合われます。ならば人が苦しむのは因果応報、自業自得です。しかし、神はあわれみに富んでいる御方でもあります。ですから、天を突き破り、神の側から悩み苦しむ人に救い主を送られると約束し、実行されました。
③御使いの歌を聞いて(英語5節、90番4節)
御使いは神の使者として、この救い主の誕生を普通の羊飼いに伝えます。彼らはこれを聞いて確かめに出掛け(16)、捜し当て(17)、話のとおりだと知って神を賛美します(20)。神の計画の実現は本当だ、と肯いて受け取り、賛美する人こそ、みこころにかなう人です。
<おわりに>対等、当然が声高に叫ばれるこの人の世に、神はクリスマスに御子イエスを送り、天を押し曲げて救うあわれみを示されています。天の軍勢は挙って、人への神のあわれみに驚き、賛美しています。心を開いて神のあわれみを受け取る人にクリスマスは訪れます。 (H.M.)
天なる神には (教会福音90番・インマヌエル403番)
1 「天なる神には 御栄えあれ 地に住む人には 安きあれ」と
御使い挙りて ほむる歌は 静かに更け行く 夜に響けり
2 今なお御使い 翼を伸べ 疲れしこの世を 覆い守り
悲しむ都に 悩む鄙に 慰め与うる 歌を歌う (鄙=田舎、ひなびた所、取るに足りない)
3 重荷を負いつつ 世の旅路を 悩める人々 頭を上げ
栄えあるこの日を たたえ歌う 楽しき歌声 聞きて憩え
4 御使いの歌う 安き来たり 久しく聖徒の 待ちし国に
主イェスを平和の君とあがめ あまねく世の民 高く歌わん
『あなたの部屋がある』 (ルカの福音書 2章1-7節) 2023.12.17.
<はじめに>「宿屋には彼らのいる場所がなかった」(7)―喜ばしく明るいクリスマスには似つかわしくない、対照的な記述でしょうか。この事実に心動かされて作られた賛美歌を取り上げます。
Ⅰ 賛美の背景と内容
①場所がなかった
為政者の勅令で全住民は故郷への大移動を強いられ、ベツレヘムにも人が押し寄せ、宿は満杯状態です。場所取りは早い者勝ち、力ある者優先で、見知らぬ弱者への配慮と援助を示す人など稀です。その最中、救い主イエスは誕生し、飼葉桶に寝かされます。
②Low in a manger(教会福音73)
救い主イエスは創造主・君主なのによそ者(Stranger)扱いされ、天使と飼葉桶が彼を迎えたことに驚き悲しみます。この御方はそれをも甘受する嬰児として現れました。「私」もこの御方をよそ者扱いせず、愛し迎え入れ、この方も「私」の居場所を整えてくださいます。
③Thou didst leave Thy throne(教会福音101、別訳インマヌエル405・416)
飼葉桶に眠る救い主は、その生涯でも不遇な扱いを受けながらも、謙虚に歩まれます。人々は彼を嘲り、十字架の死へと追いやります。しかし、彼は死に打ち勝ち、勝利者としてやがて来られます。そのとき、「あなたのための部屋がある」と私を呼んでくださいます。
Ⅱ 救い主イエスは…
①身を低くして来られた
イエスは本来神の御子で(ピリピ2:6)、創造主・主権者(ヨハネ1:3,10)、栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方です(黙示4:11)。しかし、人を救うためにしもべの姿を取り、人として現れました(ピリピ2:7、へブル2:14-15)。飼葉桶に眠る御子の姿は謙卑の極致です。
②この世と人々から拒絶された
世の人々はこの救い主の到来(誕生)に無知で(ヨハネ1:10)、無視します(イザヤ53:2)。やがてこの方が成長し、救い主として活動しても受け入れず(ルカ9:58、ヨハネ1:11)、むしろ拒絶し(イザヤ53:3)、処刑される際も自業自得だと思っていました(イザヤ53:4)。
③受け入れる者を求めている
それでもなお、この方は救い主として、今も私たちに呼び掛けています(黙示3:20)。彼のことばを聞いて、自分の救い主であると信じ、受け入れた者には永遠のいのちを与えると約束されます(ヨハネ1:12)。
④信じる者とともに住む
イエスを信じる者のうちに神がとどまり、その人も神のうちにとどまっています(Ⅰヨハネ4:15)。イエスはご自分を信じる者のために場所を用意してくださり、迎えるためにこの世に再び来られます(ヨハネ14:2-3)。その声に応じる者を喜び迎えるためです(マタイ25:21)。
<おわりに> この2つの賛美は共に「救い主よ、私の心に来てください」という、応答の祈りで締め括られています。イエスは謙遜な御方で、飼葉桶でも進んで身を横たえられました。ですから、たとえどんなにみすぼらしく、弱く乏しくても、この方は喜んで来てくださいます。(H.M.)
『主の恵みの年を告げる』 (ルカの福音書 4章16-22節) 2023.12.10.
<はじめに> 「もろびとこぞりて」はクリスマスソングの代表の一つ、1番はほぼ歌える方が多いでしょう。しかし、その歌詞は意味不明で、「シュハキマセリ」を呪文と思っている人もあると聞きます。文語調で古語を交えた歌詞が理解を困難にしているようですが、認知度は高い不思議な曲です。
Ⅰ 二つの詩とメロディ
①インマヌエル讃美歌の2曲
インマヌエル讃美歌には「諸人こぞりて」(406)と「民みな喜べ」(407)が収録されています。原詩は"Hark the glad sound!"(406) "Joy to the world"(407)と異なり、曲はほぼ同じです。しかし一般では、「諸人こぞりて」を"Joy to the world"として多く紹介されています。
②詩と曲の組み合わせ
賛美歌は詩と曲(TUNE)各々に名が付けられ、同詩を別曲で歌われることがあります。「諸人こぞりて」の曲名ANTIOCHですが、"Hark the glad sound!"はイ讃29のメロディ:曲名RICHMOND(CHESTERFIELD)やBRISTOLでも歌われます。(讃美歌の巻末索引参照)。
Ⅱ 歌詞の内容
①"Hark the glad sound!"
長く約束された救い主がこの世に来られる時、彼によって成し遂げられる束縛からの解放、開眼と照明、癒しと回復が描かれ、この御方を迎えるために、すべての人は心に王座を整えて、賛美をもって迎えるように招きます。
②"Joy to the world"
救い主が来られるとき、自然界も人々も喜び歌い出します。救い主が治められるとき、もはや罪や悲しみ、呪いは消え失せて、神の義と愛による祝福が地をおおうからです。この救い主が来られるにあたり、すべての人に迎える用意をするようにと呼び掛けます。
③背後にある聖句
平和の君なる(イザヤ9:6)救い主がこの世に来られる(ヨハネ1:9)とき、イザヤ61:1-2の預言が実現します。イエスはナザレの会堂でこの箇所を読み上げて、その成就を宣言されました(ルカ4:17-21)。"Joy to the world"は詩篇98の主の再臨をも意識しています。
Ⅲ このことばが実現した(ルカ4:16-22)
①救い主が遣わされた(18-19)
救い主は良い知らせ(福音)の実現のために遣わされました。その対象は、貧しい人、捕らわれた人、目の見えない人、虐げられている人です。救いは心霊的な面に止まらず、社会での実際面にまで及びます。キリストとその弟子たちは今もそのために働いています。
②主の恵みの年(19)
イエスが救い主として来られたクリスマスは「主の恵みの年」の到来です。しかし、ルカ4:18-19とイザヤ61:1-2を比べると、「われらの神の復讐の日」が外されています。イザヤの預言は、クリスマスとともに、やがて再び来られるイエスの来臨も指しているからです。
③「今日、この聖書のことばが実現しました」(21)
クリスマスに救い主イエスは誕生され、私たちの間で、私たちと同じように生活されました。その生涯の終わりに、私たちの罪の贖いのために十字架と復活をくぐられました。永遠の神は時空を超えて働かれ、ご自分のことばと計画を確実に実現されます。
<おわりに> 神の世界においては、古の預言は後の実現と表裏一体で不可分です。神のことばは必ず実現します。だから、すべての人は救い主を喜び祝い、私たちの心と生活の中にこの御方のために王座を整えて、喜び迎えようではありませんか。(H.M.)
『時が満ちて』 (ガラテヤ人への手紙 4章1-7節) 2023.12.3.
<はじめに> 12月を迎え、アドヴェント(待降節)に入りました。今年はクリスマス讃美歌のいくつかを取り上げて、味わいたいと願っています。今日は”Hark! The Herald Angels Sing”「天には栄え」です。チャールズ・ウェスレー作詞、メンデルスゾーン作曲です。
Ⅰ 歌詞の直訳
①聞け!御使い達が歌う宣告を 「新しく生まれた王に栄光があるように
地の上に平安と慈恵があるように 神と罪人が元の親しい関係に戻った!」
喜びに満ちた万の国民は立ち上がり 天上の凱歌に加わろう
御使いの軍勢が宣言する凱歌とともに
「キリストはベツレヘムにお生まれになった」
聞け!御使いたちが歌う宣告を 「新たにお生まれの王に栄光を!」
②キリスト いと高き天であがめられる方 キリスト 永遠の主 この方が満を持して来られた
処女の胎に宿る人の子として 肉体をまとわれても 神格が現れる 受肉された神性をほめたたえよ
自ら人となって人の世に住まわれる イエス 私たちのインマヌエル
聞け!御使いたちが歌う宣告を 「新たにお生まれの王に栄光を!」
③ようこそ! 天から来られた平和の君! ようこそ! 義の太陽!
この御方は光といのちをすべての者にもたらし 主の翼に癒されて 再び生かされる
穏やかな彼は 自分の栄光を捨てて
人がもう死なずに済むために 地上の人々を引き上げるために
私たちが生まれかわるために生まれた
聞け!御使いたちが歌う宣告を 「新たにお生まれの王に栄光を!」
Ⅱ 関連ある聖句
①1節
ベツレヘムの野にいた羊飼いに御使いが現れ、あなたがたのために王なる救い主が誕生されたと宣言し(ルカ2:9-12)、続いて現れた天の軍勢による賛美(ルカ2:14-15)を聞いた人々もこれに加わるようにと招きます(ゼカリヤ9:9-10)。
②2節
この王なる救い主の誕生は、古からの神の約束が今実現したことでした(ガラテヤ4:4)。この方は処女マリアの胎に聖霊によって宿られ(ルカ1:30-33)、肉体をもって現れて(ピリピ2:7)、私たちの間に住まわれ(ヨハネ1:14)、インマヌエルと呼ばれます(マタイ1:23)。
③3節
この御方は、平和の君と呼ばれ(イザヤ9:6)、義の太陽・癒しの翼(マラキ4:2)と預言されています。彼は神の栄光を手放し、ご自分を空しくされ(ピリピ2:6-7)、それによって誰も滅びることなく永遠のいのちを持ち(ヨハネ3:16)、新しく生まれ変われます(ヨハネ3:3,7)。
Ⅲ 「定めたまいし救いの時」
①古からの神の計画(ガラテヤ4:4-5)
元来、人間は神との関係に生きるように神に造られました。しかし人は自己義と自分勝手に進み、神との関係は断たれます。それでも神は人との関係修復と和解に動かれます。律法の下にある者を贖い出すために、ご自分の御子を彼らの中に遣わそうとされます。
②計画の実現(4:4)
この関係修復と和解の計画が実現されたのがクリスマスです。神は御子イエスを人として人の世に送られ、彼らの自分勝手な罪を彼に負わせます。そして彼を受け入れる者には神の子となる特権(養子縁組)を与え、永遠のいのちを与えられます。だから祝うのです。
③賛美への呼び掛け
賛美は神に同意し、参与する意志表示です。神との関係を築き直し、神が用意された約束を受け取る相続人になり、このさんびに加わるよう、御使いは今も呼び掛けています。
<おわりに> クリスマスは喜び楽しむ時です。漠然と雰囲気に身をゆだねるだけでなく、この天の御使いからのアナウンス・メッセージを、自分のものとして受け取り、このさんびを心から歌えるようになっていただきたいと心から願います。(H.M.)
『主の道を用意せよ』 (イザヤ書 40章1-11節) 2023.11.26.
<はじめに> クリスマスまで一カ月となり、各所に飾り付けがされて、雰囲気も高まって来ました。大切で楽しみなことを待ち望む時間は素敵です。やがて来る新しい展開に心は高鳴ります。それが、自分にとってとても意味のある喜ばしいことなら、なおさらでしょう。
Ⅰ 神の語りかけ(1-2、6-8)
①慰めよ、慰めよ、わたしの民を(1-2)
私たちが神に目を向けるときは、祈り願うとき、自分を省みる機会ではないでしょうか。その時の神の表情はどうでしょうか。本書1-39章で神は人に厳粛に向き合われています。その神が「慰めよ、慰めよ、わたしの民を」とやさしく語りかけ、呼びかけています。
②慰めの中身(2)
咎・罪は各人の心と生活の中に見出される、神が示し備えられた道からの逸脱です。神は聖く正しい方ですから、これらに厳粛に対処されます。しかし、ここでは「その」結果である苦役は終わり、咎は償われ、罪に代えて子としての立場に回復される、と語られます。
③・・・ている、と(2、6-8)
厳粛な神が突然変わって、緩くなったのでしょうか。むしろ、神の厳粛さの前に、肉なる者・人は移ろいやすく、空しさが際立ちます(6-8)。そのことを熟知される神は、なおも人を愛される神です。だから人を引き上げるために、もう回復は実現している、と語られます。
Ⅱ 叫ぶ者の声がする(3-11)
①良い知らせを伝える者
この神からの慰めのメッセージは、神の前に沈み、打ちひしがれる者にとって一大ニュースです。この良い知らせを受けた者は、神の代言者、預言者です。彼は広く伝えるために、高い山・町々で、力の限り声を上げ、叫びます。「見よ、あなたがたの神を」(9)と。
②主の道を用意せよ(3-5)
荒野・荒れ地は、起伏が激しく人手つかずの地です。そこに真っ直ぐな大路を設けるよう、代言者は叫びます。この預言の成就として御子イエスの誕生に先立ち、バプテスマのヨハネが現れ、「主の道を用意せよ」と呼びかけました(マルコ1:1-4)。
③統治者、主人、牧者(9-11)
「見よ、あなたがたの神を」(9)と叫ぶ声は3枚の絵を示します。神は力ある統治者、それは私たちの最終責任者で、漏らすことなくすべてを報いる有能な主人です。また、羊の群れを飼い、個々に必要最適なケアを与え、優しく導く羊飼いです。
Ⅲ この知らせの受信者へ
①声を聞け
語り掛ける神と、神の使信を伝える叫ぶ者の声は、聞き手あってのものです。それは慰めと赦し・回復を神の側で既に用意してある、という良い知らせです。先入観や慣れで聞き流して、良い知らせを見過ごしにしないようにと、今もこの叫ぶ声は響いています。
②神を見よ(5,9,10)
霊なる神を見よ、とは矛盾と思われます。しかし、神は様々な方法で、今もご自身を現されます。御子イエスの誕生と生涯はその最たるものです。また、神を見た人たちの証言もあります。あなたは、神がどんな方だと見ていますか。どうしてそうだと言われるのですか。
③真っ直ぐにせよ(3)
荒野は、至難ゆえに放置・放棄した荒れすさみ、ねじ曲がって受け取る私たちの心の姿です。私たちの神・主が、慰めと赦し・救いを携えて既に来られています。クリスマスはそれを喜び祝う時です。素直にこの方を我が神として迎えようではありませんか。
<おわりに> 「見よ、あなたがたの神を」との呼びかけは、今年のクリスマスにも響いています。私はそれにどう答えましょうか。神はただ厳しくさばかれる方ではありません。真っ直ぐ向き合う者を赦し受け留めてくださいます。「あなたこそ私の神です」と素直に申し上げましょう。(H.M.)
『父の心、子の心』 (ルカの福音書 15章25-32節) 2023.11.12.
<はじめに> 自分の親兄弟をどのように呼んでいますか。それはいつも一緒でしょうか。状況によって使い分けがありますか。肉親の呼び方一つにも微妙な人間関係が滲み出て来ます。この物語はたとえ話で、父は神、息子たちは人を表し、その相互関係を描いています。
Ⅰ 兄息子の心(25-30)
①キレる兄(25-28)
兄は家業の農場で長年の間、父のもとで働いていました。しかし、この日畑から帰って来ると家から演舞の音が聞こえます。長年行方不明だった弟が無事帰って来たので、父が越えた子牛を屠って祝っているとしもべから聞いて、兄は怒り、家に入ろうともしません。
②「お父さんは甘い!」(29-30)
好き勝手をして財産を使い果たしてようやく帰って来た弟に、父が厳しく咎めもせず、喜び迎えて肥えた子牛まで屠る姿に、兄の不満と怒りは爆発します。父のもとで言いつけを守りながら長年忠実に働いて来た自分にこそ、労いと報いを父は示すべきだ、とです。
③兄の本音
兄が父の戒めを守り、父から与えられた仕事をするのは、全て父から愛、恩顧、信頼を受け取る手段だからです。兄息子の姿は、律法を守り、善行を行えば、神から報いを受けられる、と考える人の代表です。そのとおりに神が報いないなら、その人は怒り反発します。
Ⅱ 弟息子の心(12-21)
①計算高い弟(12-14)
やがて家業は兄が継ぎ、父の財産の自分への分け前は兄の半分です。家に残るよりも、さっさと分け前をもらってこの家を離れて、自由気ままに生きた方がいいと、弟は考え行動に移しました。財産が予想以上に早く無くなり、そこに飢饉が来ることは計算外でしたが。
②「それなのに私はここで…」(15-21)
遠い国では頼れる人はほとんどいません。やっと知縁で得た仕事でも、自分の扱いは豚以下です。そこで彼は、父のもとを離れたことが間違いであったと気づき、父のもとへ帰る決断を行動に移します。息子としてではなく、雇い人としてでも受け入れてもらいたいと。
③弟息子の本音
当初、弟は父を財産目当ての金づるで、もらえるものを得たならば、もはや用はないとして遠く離れます。利用価値がある間のみの関係です。しかし、実は恵まれた環境であったと後で気づき、そこに置いてもらうために、今度は自分を利用してもらおうと差し出します。
Ⅲ 父の心は神の心(22-24、30-34)
①惜しみなく与える
父は、弟に生前分与を拒まず与え、帰って来た弟を着飾らせて肥えた子牛を屠り、兄には「私のものは全部お前のものだ」(31)と言います。私たちに要求を突き付けて、私たちから奪うのが神だ、と思っている人がありますが、聖書は正反対の絵を示しています。
②惜しみなく赦す
遠い国に旅立った弟の浅はかさと失敗を予想した父は、帰って来る彼を待ち、遠くに見つけます。忠実に働きつつも不満を内に秘めていた兄の怒りも受け止めようと出て来て宥めます。父は、その父を誤解していた二人をなおも赦し、関係修復を望んでいます。
③惜しみなく喜ぶ
父の本音は、一つひとつのことを感謝し、ともに喜ぶお互いの関係を保つことです。それが一時的に崩れたとしても、修復して進もうと、あきらめずに向き合われます。紆余曲折がありながらも、乗り越えて一つとなって喜ぶことは、全部思い通りに行く喜びにまさります。
<おわりに>あなたが共感できるのは、兄、弟、父の何れでしょうか。二人の息子の前に父は進み出て語り掛けています。父のことばと姿は神そのものです。この物語を通して、自分の心を見つめるとともに、神の本当の心を知り、受け入れて、ともに喜ぶ者となれますように。 (H.M.)
『イエスと生きる』 (使徒の働き 9章32-43節) 2023.11.5.
<はじめに> イエスは「いつもあなたがたととともにいます」と約束されて(マタイ28:18-20)から、天に上げられ、弟子たちには見えなくなりました(1:9)。イエスはどのようにして私たちとともにおられるのでしょう。それをどんな時に実感できるでしょうか。
Ⅰ ペテロの奇跡
①ペテロの足取り
使徒ペテロはサマリアからエルサレムへの帰途、サマリヤ地方を巡り福音を伝えます(8:25)。彼はその後も各地の離散信者を巡回安問します(32)。リダ(32)、ヤッファ(36)は地中海沿岸平野にある町です(巻末地図12「使徒たちによる初期の宣教」参照・E-1,2付近)。
②リダの町で(32-35)
リダの町に来たペテロは8年間中風で臥せっているアイネアと出会い、イエス・キリストの御名によって彼を癒やし、直ちに立ち上がらせます。リダ近辺の住民がこの出来事を見て、主に立ち返り、その評判は周辺の町々にも伝わりました。
③ヤッファの町で(36-43)
数々の善行と施しをしていたタビタ(ドルカス)という女弟子が病気で亡くなります。悲しむ弟子たちは、リダにいるペテロの許に使者を送り、彼を招きます。ペテロは皆を外に出し、「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開けて起き上がり、大勢が主を信じます。
Ⅱ 奇跡の源流
①似通った情景
この二つの奇跡を読むと、似た別の物語が想起されます。リダのアイネアの癒しは、同じ中風からの癒し(マルコ2:1-12)やベテスダ池で病臥する男の癒し(ヨハネ5:1-9)を、またタビタの蘇生は会堂司の娘の蘇り(マルコ5:21-43)、ラザロの蘇り(ヨハネ11章)です。
②イエスの模範
似た物語はいずれもイエスが行われたもので、その傍らにはペテロも居ました。イエス昇天後、ペテロは美しの門で生来足の不自由な人を立ち上がらせます(3:1-10)。ペテロによる奇跡は、イエスの御名の力によるもので、イエスの範に倣ったものでした。
③イエスの約束
マルコ16:15-20で昇天前のイエスは弟子たちに約束されました。主は信じる者とともにおられ、ともに働き、証拠としての奇跡でみことばは確かであると証しされます。このペテロによる奇跡もその証左です。今も主は生きておられ、信じる者とともに働かれています。
Ⅲ イエスと生きる
①イエスを知る
ペテロはイエスの弟子として教えを受け、ともに過ごし働き、イエスの思い・願い・価値観を吸収しました。聖書を読むことで、私たちもイエスに触れ、語らい、教えられ、日々の歩みの中にイエスの足跡を見つけながら、イエスとともに生きることへとつながります。
②イエスのわざを行う
私たちがイエスから教えられ語られたことを、イエスに信頼して行うとき、主もともに働いてくださいます。それは私たちを通してなされたイエスの御業です。ですから主イエスを誇り、イエスを指さし、その栄光と誉れはすべて主に返し、私を用いてくださる主に感謝します。
③より大きなわざを行う
主イエスはヨハネ14:12-14でもう一つ約束をくださっています。より大きなわざを行うことと、イエスの名による求めへの応答です。この奇跡後、ペテロはヤッファにかなりの期間滞在し(43)、10章以降でイエスの御名を異邦人へと伝え行く門戸を開くことへと繋がります。
<おわりに> 「使徒の働き」には、イエスの姿と活動はほぼ表立っていません。しかし、イエスを信じる使徒たちや信者の歩みと活動の中に、よみがえられて今も生きておられるイエスを見出すことができます。イエスを信じて今を生きる私たちも、主の同行と臨在を実感できます。(H.M.)
『新たに立ち上がる』 (使徒の働き 9章19-31節) 2023.10.22.
<はじめに> これまでの歩みの中で、「あれが私の一大転機だった」という経験があるでしょうか。どうして、今までの自分から新しい自分へと変わったのでしょう。サウロが経験した回心も正しくそのようなものでした。サウロの何が今までとは全く変わったのでしょうか。
Ⅰ 変貌した迫害者サウロ(19-26)
①変貌に戸惑う周囲
イエスの名に対して徹底して反対して、聖徒たちを迫害していたサウロ(26:9-11)が、バプテスマを受けると(18)、直ちに諸会堂で「この方こそ神の子です」と宣べ伝え始めます。これを聞いたユダヤ人はうろたえて彼の殺害を謀り、主の弟子たちは彼を恐れ疑います。
②サウロに何があったのか
天からの光と声に触れ、目が見えず飲食もできない3日間(9)で、彼の理解は一転します。a)自分が敵対していたイエスは生ける神・主で、b)イエスと聖徒たちは一体(エペソ1:23)、c)イエスこそ神が遣わしたキリスト(救い主)で、d)イエスを信じるだけで罪は赦される、と。
③目から鱗(18、Ⅰコリント3:14-18)
新しいイエス理解は、サウロにとって正しく目から鱗でした。今も心に覆いが掛かっている者も、その人が主に立ち返るなら、心の覆いはキリストによって取り除かれます。その人は主の栄光を反映して、主と同じ姿へと変えられていきます。これは御霊なる主の働きです。
Ⅱ 新たに立ち上がるサウロ
①整理と黙想の時(19-22、ガラテヤ1:17)
心と理解が一変すると、その生き方も変貌します。目が開かれたサウロは「直ちに…宣べ伝え始めた」(20)とありますが、ガラテヤ1:17で「すぐにアラビアに出て行き」と彼は述べています。発見した真理を整理し、従前の理解を改め、どう生きるべきかを探る期間でした。
②陰謀と協力の中で(23-30)
かつての理解と行動への深い反省が、赦され生かされている感謝とともに、サウロを新しい使命に駆り立てます。かつての仲間であったユダヤ人たちは、裏切者サウロを闇に葬ろうと謀り、付け狙います。しかし、彼を理解し協力する者も与えられて、窮地を脱します。
③こうして教会は(31)
6:7に続く教会進展報告です。迫害者サウロの回心は主の御業です。この知らせに、各地の教会と聖徒たちは主を恐れつつ平安を得ます。そして聖霊に励まされて、いよいよイエスの福音を証しし、信者が増える要因となりました。
Ⅲ イムマヌエル綜合伝道団の始まり
①獄中でのヴィジョンから
この教団は1945年設立です。創設者・蔦田二雄師はそれ以前から牧師職にあり、目覚ましく主の働きを繰り広げていました。しかし太平洋戦争中のキリスト教弾圧により約2年間投獄され、その中で主からヴィジョンを受け取り、釈放後の働きを思い巡らしていました。
②深い反省と決意に基いて
この弾圧・迫害は時代と社会が教会に与えた暴挙です。同時にこの苦難には神が教会に反省を促す意味合いがあると蔦田師は受け取ります。教会が罪の赦しときよめを説くにふさわしく真の聖化と一致に導き、二度と繰り返さない決意をもって、再起を待ち望みます。
③私たちの生きる道
獄中でのヴィジョンと反省に基づき、終戦後、蔦田師は従来の教会・活動に復帰・再開するのではなく、無からの新出発に踏み出します。聖書が示す神とともなる歩みを各個人が真摯に取り組み、熱く祈り、果敢に福音宣教に励むことこそ、この群れの生きる道です。
<おわりに> サウロの目を開かれて新しく造り変えられたのも、蔦田師を獄中に導き、深い熟慮反省を通してこの群れを興されたのも、主です。その主が私たちに今何を語り示されているでしょう。主は私をも新しく造り変えようと、今も関わり働いておられます。(H.M.)
『彼は祈っています』 (使徒の働き 9章10-19節) 2023.10.15.
<はじめに> 天からの光とイエスの声を受けたサウロは、目が見えず、飲食もせずに3日間を過ごします。彼の許に、主は一人の弟子アナニアを遣わそうとされます。アナニアは戸惑いを正直に主に告げつつも、最終的には赴き、サウロを新たにして立ち上がらせる役割を果たします。
Ⅰ 幻の中で(10-16)
①弟子アナニア
彼はエルサレムからの逃避者ではなく、元々ダマスコに住み、律法に従う敬虔な人で、そこに住むすべてのユダヤ人に評判の良い人(22:12)でした。サウロがエルサレムで迫害し、ダマスコにまで迫害の手を伸ばそうとしていることも、彼は聞いていました(13-14)。
②主からの幻(10-16)
そのアナニアに主は幻の中でサウロを訪ねるよう命じます。彼もこの訪問を幻で見たからと(11-12)。主からの幻は漠然としたものではありません。必要なことを具体的に示し(11)、相手にも働き掛け(12)、主が何をしようとされているのかを明らかにされています(15-16)。
③幻に向き合う
アナニアは主の命令への戸惑いを正直に主に告げています。主はそれにどう返されたでしょう。彼が納得できる説明や説得があったでしょうか。主は、「彼は祈っています」(11)と相手の状況を伝え、主の計画とその人が果たすべき役割(15-16)を明白に示されます。
Ⅱ 祈るところに働く
①祈る人
主の敵が主に祈る姿こそ、サウロの心の変化を表す絵です。彼は何を祈ったのでしょう。主は彼を、ご自身の名を運ぶ器として選び、御名のために苦しむことも示すと言われます。主はご自分を信じ祈る者に、主とともに重荷・痛みも担う覚悟も問われます。
②主は示される
主イエスは、サウロ・アナニアそれぞれに幻の中で語られます。幻は絵(ヴィジョン)です。示される御方がどなたかをはっきりさせ、ご計画とその人が為すべき役割を告げられます。祈り、主と語らう者に、主ははっきりと示されます。主との交わりは相互通行です。
③同じ主が一つのことを(17-19)
サウロとアナニア双方に見せられた幻は一つです。それに従って動き、手を置いて祈るとき、それぞれに示されたことが主によって結び合わされ、主の御計画と導きを確認できます。そしてお互いが同じ主に仕える神の家族・兄弟姉妹であることを実感できます。
<おわりに> 自分の問題課題・必要を神に訴えて解決していただくという面に、祈りの焦点が注がれやすいのではないでしょうか。むしろ祈りは神との交わり・語らいで、神が私に与えられる役割を示される機会です。この交わりの世界へと進み行きましょう。(H.M.)
『自分に語り掛ける声』 (使徒の働き 9章1-9節) 2023.10.8.
<はじめに> 驚くべき出来事や奇跡的な助けを得られた信仰者の体験談に、かつて憧れていたことを思い起こします。そして、そのような出来事も経験もない自分を大したことのない者のように思っていました。劇的な迫害者サウロの回心は、私にとって遠く掛け離れたものなのでしょうか。
Ⅰ 天からの光と声(1-9)
①息巻くサウロ(1-2)
ステパノの殺害を発端に、サウロはイエスを信じる者たちを捕え、逃れようとした者たちはエルサレムから諸地方に逃げ出します(8:1-3)。息巻く彼は、エルサレムから離散した者たちさえ見過ごさずに捕えようと、大祭司から権限を受けてダマスコへと北に向かいます。
②突然の光と声に(3-9)
サウロがダマスコに近づいたとき、突然天からの光に照らされて彼は倒れ、「サウロ、サウロ、なぜ…」と語り掛ける声を聞き、同行者たちも戸惑います。彼らは視力を失ったサウロの手を引いてダマスコ市街に入り、彼は三日間、目が見えず、飲食もできずにいました。
③天的な干渉
この天からの光と声のように、世にも不思議な出来事に出くわすことがあります。私たちの生きる世界には全能者である神がおられ、すべてを治め、関わっておられる証拠です。もはやサウロの憤りを止める手段は人の世にない中、神が彼に立ちはだかられたのです。
Ⅱ 彼は目が見えず
①自ら思うままに
ステパノ殺害から始まる一連の迫害は、サウロが見聞きし、考え、主導したものです。自らの意志と判断の礎は、これまで彼が受けて来た教育と研鑽です(22:2-3)。彼はモーセの律法を厳格に守り行い、誰よりも神に対して熱心な者だと自負していました(ガラ1:14)。
②目が閉ざされるとき
視覚から得る情報は多大で、それに基づき私たちは判断・行動しています。しかし、先行きが見通せない状況に追い込まれると、私たちは途方に暮れ、誰か支え導いてくれることを切望します。自ら見えないなら、より周囲に頼らざるを得なくなります。
③見えない者が見えるように
天からの光は神の栄光の輝きです。その輝きに人は圧倒され、自ら見える、と自負することも無力と化します。しかし、それは自分の光に頼ることから離れ、自分に語り掛ける声に耳を傾けるきっかけともなります。ヨハネ9:39-41でイエスもこの逆説を語られています。
Ⅲ 自分に語り掛ける声
①サウロに語り掛ける声(4-5)
声の主はサウロを名で呼び、「なぜわたしを迫害するのか」と問われます。迫害は信者に向けてでしたから、「どなたですか」と問い直します。その声が主であるイエスだと分かると、彼は愕然とします。自分は神のためにして来たことが、実は神に敵対していたからです。
②責めるのではなく、気付かせるため(6)
熱心さと無知から、大いなる過ちと罪を犯していた彼をイエスは責め立て咎めることなく、むしろここから立ち上がり、なすべきことがあると告げられます。この経験が、罪が赦され、新しく造り変えられるイエスの福音を彼が力強く宣べ伝える確信と根拠となりました。
③信仰は聞くことから始まる(ロマ10:17)
著しい天からの光と声は私たちに与えられなくても、日々心に語り掛ける御声が響いています。聖書を読み聞くときに、祈りと思い巡らしのうちに、主は繁く語られています。それに耳を傾け、主と語らい交わり、主の御声に従う者のうちに、信仰は育まれます。
<おわりに> サウロが主であるイエスの御声に耳を傾け、信頼するようになるために、神は格別な計らいで彼を扱われました。しかし、彼のような天的干渉を私たちも望むべきではありません。日々あらゆる方法で語られる主に耳を傾け、聞き従う者を、主は喜ばれます。(H.M.)
『父のところへ』 (ルカの福音書 15章11-24節) 2023.10.1.
<はじめに> イエスが創作された父と弟息子の物語です。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」(24)の父のことばは、この二人の物語の要約です。
Ⅰ 思うがままの日々
①ターニングポイント(17-19)
この弟息子の生き方の転向点です。彼は「天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です」(18)と気づきました。彼が自覚した罪とは、いったい何でしょう。どんな悪いことをしたと気づいたのでしょうか。
②彼がして来たこと(12-16)
財産の生前贈与(12)、親元からの独立(13)自体が悪いではありません。財を使うこと自体は誰もがすることですが、彼は賢明に使ったようではありません(13)。使い果たした後で、運悪く飢饉に遭い、食にも事欠き(14)、何とか仕事を見つけて生きようとしました(15-16)。
③自分の思い通りに
飢饉に遭うまでの彼の歩みは、自分が望むままに順調に進んで行ったように見えます。その時、彼は自分を成功者と思い込んでいたのかもしれません。しかし、飢饉とその後の苦境で一転します。ここまでの歩みの中で、彼は失ったものとその大きさに気付きました。
Ⅱ 反省の日々と決断
①彼は我に返って(17)
思い通りに進むとき、結果オーライで自分を過大評価したり、勘違いしがちです。苦境に直面すると、私たちは自省に追い込まれます。弟息子にとって飢饉とその後の苦境は辛い日々でしたが、自分は何者なのかと問い直す機会でもありました。
②彼が気づいたこと(17)
かつて父の許で、雇い人さえ何不自由なく豊かに過ごしていた姿を彼は思い起こしました。しかし今、息子である自分は飢え死にしそうなほど追い込まれています。この失敗と転落の原因が、自分が父の許から身も心も遠く離れた故だと認めざるを得ませんでした。
③一大決断(18-20)
かつて自らすべてを断ち切るように出て来た父の許へ帰ろうと決めます。自分が罪を犯した赦されざる者である以上、元通り息子として、とはとても言えません。一人の雇い人として受け入れてもらえたならば、と淡い期待にすがる思いで、長い家路をたどり行きます。
Ⅲ 思いもよらない展開
①父は彼を見つけ(20)
遠くに息子と思われる姿を見つけた父は、かわいそうに思って駆け寄り、彼を抱きかかえます。弟息子が家を出て以来、父はその方向を眺め、今日こそ帰って来るのでは、と待っていたのでしょう。出迎える父の姿は、息子にとって驚きと戸惑いだったでしょう。
②ところが父親は(21-24)
息子は旅立ち前に決意した告白を父に告げますが、父はそれを遮り、子たる証しの品々で彼を装わせ、祝宴を命じます。出て行った時とは全く異なる、心砕かれてへりくだった変えられた息子を心から喜び、その喜びを家中で祝っています。
③この物語のメッセージ
これはイエスが創作した物語で、神と人とのことを思い描いて語られました。a)この物語から、罪とはどんなものだと捉えますか。 b)人が罪・過ちから立ち直るために、何が必要でしょうか。 c)誰が罪を赦すのですか。それを信じますか。
<おわりに>私たちは関係に生きるもの、関係が崩れるところに罪は見出され、それは死を意味します。しかしイエスは私たちの罪の身代わりに十字架で死に、三日目によみがえられました。それは、神は罪人を赦そうと待ち構えておられる希望であり、保証です。 (H.M.)
『あなたはわかりますか』 (使徒の働き 8章26-40節) 2023.9.24.
<はじめに> 出会いとは不思議なものです。お互いに意図したわけではなく、それぞれの動線がたまたまそこで交わったことから、その後の関わりが生まれることは珍しいことではありません。この箇所の二人もそうです。しかし、その出会いは単なる偶然ではなかったと聖書は言います。
Ⅰ エチオピアの宦官
①この人についてわかること(27-28)
彼はエチオピア人で、女王カンダケの全財産を管理する側近高官でした。異邦人ながらユダヤ教の唯一の神と高貴な道徳に惹かれる彼は、礼拝のためエルサレムに出向いた帰途、手に入れたギリシア語訳のイザヤ書の巻物を馬車の中で音読していました。
②この人がわからないこと(31-34)
彼が読んでいたのはイザヤ書53章です。ここで預言者が記す「彼」とは誰のことなのか、わかりませんでした。おそらくエルサレムで教師・学者に尋ねても明解な回答を得られなかったのでしょう。しかし、神が立てたこの「彼」とその役割に、読者は強く惹かれました。
③「わからない」から始まる
何がわかって何がわからないのかをはっきりさせることは理解への一歩です。聖書も神の計画・みこころも、わからないと言う方は少なくありません。すべてを理解し納得できなくても、信頼し、期待して向き合う中で、だんだん見えて来て、わかることがあります。
Ⅱ ピリポ
①唐突な命令(26、29)
サマリヤでの働きが順調だったピリポ(5-13)に、主の使いは唐突にガザに下る道に向かうよう命じます(26)。ピリポの心中はどうだったでしょう。そこは人気のない荒野で、遠くに走る馬車を彼が認めた時、御霊は彼に接近するよう促します(29)。
②不思議な展開(30-40)
ピリポが馬車に近づくと何か朗読するのが聞こえます。それがイザヤ53章であるとわかり、「読んでいることがわかりますか」と声を掛けます。真摯な質問(34)が返されて、この聖句からピリポはイエスの福音を彼に伝え、宦官にバプテスマを授けるに至ります(35-38)。
③イエスの福音
神に背き離れた人間を救うために、神は自ら救い主を人の世に送られました。人として生まれ、人の罪を負って十字架で死なれ、三日目によみがえらえたイエスです。イザヤ53章は救い主の受難の預言です。宦官はこれを理解し、自分のためと受け取ったのです。
Ⅲ 神の導き
①主の使い、御霊、聖書、主の霊
名称は異なりますが、神なる主が人に働き掛けるために様々な方法を用いておられます。表層の現象の背後で、見えざる神は計画をもって一つ一つを導かれます。この世界に神は今も確かにおられ、働いておられます。この方をご存じで、信頼していますか。
②「わかる」と「信じる」
どちらが先行すると思いますか。理解と納得は信じる大前提です。理解と納得は相手の言動に対してか、それとも相手の人格との交わりから得たものでしょうか。すべてがわからずとも、この方のされること、言われることは確かだから、信頼し従うという関係もあります。
③「なるほど」の神
神のことばとみこころは着実に確実に実現します(イザヤ55:10-11、マタイ5:18)。ピリポも宦官もここでそのことを実感しました。そして、これからも神は導かれます。だから、状況は変わるとも、彼らはすべてが解明されなくても、落ち着いて次に進み行きます。
<おわりに> 神の働きと導きを神秘的にし過ぎてはいけません。むしろ、関係を積み重ねることによって自然にわかり、期待・信頼できる類のものです。信頼して従うほどに、それがよく分かるようになって来ます。あなたはそれがわかってきていますか。(H.M.)
『神の賜物を手に』 (使徒の働き 8章4-25節) 2023.9.17.
<はじめに> 最近は「自分へのプレゼント」をする人がいると聞きます。しかし、思いもよらないプレゼント、贈り物をいただくと、また違った感動と喜びがあります。それを贈ってくださった方の思いや意図を考えたりするからです。神様も私たちに賜物を与えてくださっています。
Ⅰ 神から受けたもの(4-8)
①神の著しい御業
この箇所で、神がピリポやサマリヤの人々に与えた物事を見つけて列挙してください。
みことばの福音(4)、キリスト(5)、しるし(6)、汚れた霊が出て行く、病人の癒し(7)、喜び(8)、神の国とイエス・キリストの名、バプテスマ(12)、しるしと大いなる奇跡(13)、聖霊(15)
②散らされた人たち(4-5)
サマリヤでの目覚ましい神の御業は、何をきっかけに起こったのでしょう。ステパノへの石打ち刑から始まった教会への迫害で、信者たちが生き延びるためエルサレムから各地へ離散を強いられました。キリストを信じるが故に、彼らは多くを失いました。(ヨブ1:21)。
③信仰で受け取る
神が与えてくださるものを、人が選り好みしていいのでしょうか。与えられたものをしっかり受け取るのも、神への信仰です(ピリピ1:29)。具体的にどんなことを信じているのでしょう。(ヨハネ13:7、ロマ8:28、Ⅰコリント10:13、へブル12:11、イザヤ55:8-11…も参考にして)
Ⅱ サマリヤでの出来事(6-17)
①しるしと大いなる奇跡(6-7、13)
不思議なかたちで願いが叶えられ、求めが満たされるとき、人はそこに働く神を見ます。ピリポの働きに人々は関心を抱き(6)、またシモンの魔術にも人々は「神の力だ」と感じています(9)。両者は見かけはほぼ同じです。見分けるにはどうしたらよいのでしょう。
②大きな喜びとバプテスマ(8、12)
ピリポを通してのしるしと奇跡は、キリストを宣べ伝えるためのものでした(5)。それはサマリヤの人々の心に大きな喜びをもたらします(8)。人々はしるしと奇跡をきっかけに、神の国をもたらすイエス・キリストを信じ受け入れて、バプテスマを受けました(12)。
③聖霊を受ける(12-17)
サマリヤの噂を聞いたエルサレムの使徒たちは、確認と励ましのためにペテロとヨハネを遣わします。二人は彼らが聖霊を受けるよう、手を置き祈りました(14-17)。聖霊はキリストを常に指し示し(ヨハネ15:26)、彼らといつもともにおられ、教え導かれます(ヨハネ14:16)。
Ⅲ 神の賜物に対して
①魔術師シモン(9-19)
元々シモンは魔術で人々を驚かせ、「自分は偉大な者だ」と話しています(9)。そんな彼もバプテスマを受けました(13)。彼はペテロとヨハネが手を置いた人々が聖霊を受けるのを見て、二人に金を差し出し「その権威を私にも下さい」と願い出ます(18-19)。
②ペテロの叱責(20-24)
神の賜物を金で手に入れることはできません(20-21)。それは神と対等な取引をしようとすること、神の御前に自分は価値あるものとする思い上がりです。この行為の背後にある心(21、23)をペテロは責め、悔い改めるように強く訴え(22)、シモンも祈りを乞います(24)。
③「私にも」と「私には」
イエスを信じる者に与えられる聖霊は共通ですが、その表れである賜物には違いがあります。主の御心を知り、それに歩むために「私にも聖霊をください」と求めることは大切です。しかし、御霊の賜物は御心のままに分け与えられ、私たちは遜って受け取るべきです。
<おわりに> 「主を用いず、主のために我は絶えず用いらる」(インマヌエル343)は、神の賜物への基本です。神様が私たちに下さっている素晴らしい賜物を感謝して受け取っているでしょうか。与えられているものを「無い」と言ったり、見過ごしにしてはもったいないことです。 (H.M.)
『救いのカンセイ』 (ルカの福音書 15章8-10節) 2023.9.10.
<はじめに> 落とし物をしたことがありますか。どんなものを無くして、その後どうしましたか。見つけ出せた時、どんな思いに満たされましたか。ここでは女の人が銀貨を失くしています。ギリシア銀貨の1ドラグマは、ローマ銀貨の1デナリに相当し、当時の労働者一日分の労賃の相場です。
Ⅰ 失くしたら
①どこかにある(8)
銀貨は世間に数多く流通していますが、この10枚の銀貨は彼女のものです。そのうちの1枚を無くしたのです。銀貨が消えたのではなく、どこかにあるのでしょうが、持ち主の女性の手元にはなく、使えない状況です。
②銀貨に表されたもの(10)
イエスがこれを語った真意が10節に言い表されています。そこで人を銀貨に例えていると分かります。人間は、神がご自分との関係に生きるように造られた存在だと聖書は告げます。私たちは神のもの、神と結び付くことで、存在価値と意味を発揮できるのです。
③罪人(10)
10節で人間は一人の罪人として描かれます。持ち主から離れ、存在価値と意味が事実上無い状態にある銀貨は、その絵です。極悪人・犯罪人だけが罪人ではありません。見かけにかかわらす、造り主である神から離れ、本来の目的が果たせない状態こそ罪です。
Ⅱ 見つけるまで
①10枚のうちの1枚(8)
この女性が失くした銀貨1枚を懸命に捜すのはなぜでしょう。銀貨そのものの価値を忘れ去ることができないからです。また、どうも10枚揃わないと困るようにも見えます。ならば、この10枚の銀貨は、女性にとってどんなものだったと想像できるでしょうか。
②一人の罪人(10)
イエスは神から離れている罪人の存在と、その人が持っている本来の価値と意味を取り戻したいと切望しておられます。その人一人が神の許に立ち返るまで、神の御計画は未完成です。その一人のために、イエスは今も語り続け、働いておられます。
③明かりをつけ(8)
女性が執拗に丹念に捜す姿も描かれています。銀貨は家の中に必ずある、との確信からの行動です。神は失われた人を捜すために、人の光なるキリストを世に送り(ヨハネ1:4-5,9、8:12)、人間社会の隙間にも行き巡るべく住まわせました(ヨハネ1:14)。
Ⅲ 見つけたら
①真価が輝く(9)
失くした1枚が見つかることで、10枚が揃い、その価値と目的が果たせるようになります。持ち主の女性は喜びと安堵に満たされます。神から離れた人間が悔い改めて神に立ち返るとき、その存在と真価も輝き、そのような人々が勢ぞろいすると救いが完成されます。
②一緒に喜んでください(9-10)
教会は神に立ち返った人たちの集まりです。先に立ち返った者は、あとに続く者が起こされ、皆が勢ぞろいするのを期待し、祈り働きます(Ⅰテモテ2:1-4)。神の思いと計画の実現のために働く者が神の御使いで、それが進展するとき、神と一緒に大いに喜びます。
<おわりに> 「失くしたら」も「見つけたら」も仮定法で、読者を探り、問い掛けています。私と、私の造り主・所有者なる神との関係はどうなっているでしょう。見失っていても、神はどうされますか。神に見つけられた喜びは誰のものですか。私はその喜びを感じているでしょうか。(H.M.)
『その日、教会に…』 (使徒の働き 7章51節-8章4節) 2023.9.3.
<はじめに> 読む者には心傷む記述が続く箇所です。神がおられるのに、どうしてうまく事を運んでくださらないのか、と苛立ち落ち込むことはないでしょうか。それでもなお、神を信じるとはどういうことなのでしょうか。神はそれにどう答えられるのでしょうか。
Ⅰ 耳をおおう人々(7:54-58)
①はらわたが煮え返る思い(54-58)
聖書に基づくステパノの論述に、議員たちは真っ向から反論できず、自分たちがいつも聖霊に逆らい(51)、律法を守らなかった(53)と言われて逆上します。ステパノが神の右に立つイエスを見た(56)との言葉を神への冒涜とし、町の外で彼を石打ちにします。
②なぜ怒ったのか
不意に真実を突き付けられると、人はどんな反応をするでしょう。怒りは強い否認の表れです。律法も預言者は、いつも彼らの立場と考え方・生き方の根拠であり、擁護するものとして見ていました。しかしステパノは、彼らに厳しい非難の言葉を浴びせたのです。
③聖書との向き合い方
彼らの姿は、聖書に親しむ者が自分の欲する言葉だけを求めることに警告を促します(Ⅱテモテ4:2-4)。聖書を読む者に、聖霊は語り掛け、気付かせようと働かれます。たとえ痛く厳しい言葉でも、それをへりくだって聞き従おうとする姿勢があるでしょうか。
Ⅱ 怒りが引き裂く(7:58-8:3)
①ステパノの殺害(7:58-8:1)
怒り猛る中でも彼らは律法に準拠します。神を冒瀆する者は石打ち刑(レビ24:14-16)で、宿営の外で行われ(レビ24:23)、証人たちから石を投げつけます(申命記17:7)。証人たちの上着を預かり、処刑に賛成していた者として、サウロ(のちの使徒パウロ)が登場します。
②ステパノの叫び(7:59-60)
石に打たれながらステパノは主を呼びます。自らの霊を御手に委ね、自らを迫害する者の罪の赦しを求める叫びの後、彼は息を引き取ります。十字架上の主イエスの祈り(ルカ23:46,34)が思い起こされます。処刑する者たちにも強い衝撃があったに違いありません。
③裂かれる教会(8:1-4)
ステパノ処刑を端に、使徒たち以外はみな、突然エルサレムから諸地方へ追い出されます。この激動の中、悲しみつつステパノを葬った人たちがいました。市内に潜む者たちも次々捕えられ、教会は崩れたかに見えますが、彼らは行く先々でも福音を伝え歩きます。
Ⅲ 苦難と神のみこころ
①神のみこころはどこに
ステパノらの登用で福音はさらに広まりましたが、片や迫害の起因ともなりました。教会は波風荒ぶる中、したたかに進んでいます。問題の相次ぐ中、聖徒たちは神のみこころをどこに見出していたのでしょう。私たちは神のみこころをどのように知ればいいのでしょう。
②殉教者の血は教会の種(教父テルトゥリアヌス)
ステパノの殺害とそれを起因にする迫害は教会と聖徒たちを苦しめ悩ませました。しかし彼の生き様は主イエスを思い起こさせ、復活の主を信じ、福音に生きる道を証しします。散らされた聖徒たちも、彼の生き方に倣い、困難な中にも福音に生きようとしています。
③主の通り道(詩篇68:24文語訳)
聖徒たちがユダヤ・サマリヤの諸地方に散らされたことで、福音はエルサレムからユダヤ全体へと広がります(1:8)。迫害者サウロの登場は、後の回心への序章です。禍中では困惑することも、後で分かる神の御計画があるのではないでしょうか(ヨハネ13:7)。
<おわりに> 万事自分の思い通りになることは稀です。むしろ困難と逆風に悩まされることの方が多いでしょう。しかし、その中にも主がともにおられ、聖徒たちを導き追い立ててでも、ご自身の御計画を着実に実現されて行きます。主の進み行かれる道に私たちも続きましょう。(H.M.)
『そのとおりなのか』 (使徒の働き 6章8節-7章2節、51-53節) 2023.8.27.
<はじめに> 突然、問われたり責められたりする場面に立たされるとき、心中は穏やかではありません。しかし、主イエスはそのような時への備えと約束を与えてくださっています(ルカ12:11-12)。本書の記者ルカは、前段で選ばれた7人の筆頭であるステパノの姿に焦点を向けています。
Ⅰ 論破と逮捕
①リベルテン会堂にて(6:8-10)
地中海沿岸の各地に奴隷となって散らされたユダヤ人が解放・帰還して、エルサレムでリベルテン(解放奴隷)の会堂に集っていました。ギリシア語に通じ、知恵と御霊によって語るステパノがイエスこそメシア(キリスト)と論じることに、彼らは対抗できません。
②偽りと扇動(6:11-13)
正攻法で対抗できない彼らは、言いがかりを浴びせてステパノを捕らえて最高法院へ連行します。人々をそそのかし、偽りの証人を立て、民衆と指導者を扇動して、奇襲逮捕して最高法院に立たせる手法と関わる面々は、主イエスの十字架の時とほぼ同じです。
③そのとおりなのか(6:14-7:1)
「ナザレ人イエスは、この聖なる所を壊し、モーセが私たちに伝えた慣習を変える」とのステパノの主張が、聖なる所と律法に反するのか、が訴えです。大祭司(カヤパ?)は「そのとおりなのか」と彼に問い、彼の長い答弁が始まります。彼の顔は神の栄光で輝きます。
Ⅱ イスラエルの歩みを振り返る(7:2-47)
①アブラハムと族長たち(2-16)
神がユダヤ人の父祖アブラハムにメソポタミアで現れ、約束の地へ導かれます。そこを所有するのは彼の子孫が他国の地で寄留者・奴隷となった後だと約束されます。ヨセフが兄たちにエジプトに売られ、飢饉をきっかけに父ヤコブ一族もエジプトに寄留します。
②モーセ(17-35)
神は幼子モーセを救い出し、彼はエジプト王宮で成長します。40歳の時、同胞を救おうとする彼の志は同胞から拒まれて、荒野へ逃亡・寄留します。80歳の時、燃える炎の中に神の御声を聞き、アブラハムへの約束(6-7)の実現のために再び遣わされます。
③イスラエル民族(35-47)
モーセはイスラエルに生ける神のことばを語り、神の約束の地へ彼らを導こうとしますが、民は拒み、神は背く民を偶像に仕えるに任せます(42-43=アモス5:25)。なおも神はモーセにより幕屋を、ダビデ・ソロモンにより神殿を建て、神礼拝の場を与え、今に至ります。
Ⅲ 歩みから導き出されること(7:48-53)
①神の御住まいはどこに(48-50)
イザヤ66:1-2を引用して、ステパノは神の宮の建物に固執することは神のみこころと合致しないと明示します。イスラエルの歴史には、神は異国にも現れ、語り、働かれている事実を列挙できます。会堂以外なら、私たちはどこに神を見出し、どこで神と語らいますか。
②いつも逆らっている(51-52)
モーセはイスラエルを「うなじを堅くする民」(出32:9他)「無割礼の心」(レビ26:41)と称し、エレミヤは「耳に割礼がない」(6:10)と断じます。イスラエルの歴史で神への反逆と反抗が繰り返され、預言者たちを拒み、今やその子孫が正しい方イエスを拒み、殺したのです。
③人の心に潜むもの(53)
ステパノの論述は聖書と歴史に基づいていて、聞く者たちも肯定するほかありません。しかし理解がそれにふさわしい応答と行動に繋がらない矛盾を人は抱えています。一体それは何でしょう。ここまで聞いて、人はその矛盾と過ちを素直に認めるでしょうか。
<おわりに> 「いつも」(51)は聖霊に逆らう人だけでなく、それでもなお働き掛ける聖霊にもかかっています。ここに神の忍耐とあわれみがあります。神に語られ、御声を聞けるチャンスが与えられている間に、その声に従う者に、神のあわれみと救いが届きます。(H.M.)
『これ、どうする?』 (使徒の働き 6章1-7節) 2023.8.20.
<はじめに> 教会には問題がない、あってはならないでしょうか? 教会も人の集まりですから、様々な問題が起こり得ます。苦情を聞かされ、問題を指摘されるのは、誰でも嫌で避けたいでしょうが、宝の山ととらえる人もいます。これらにどう向き合い、対処するかを学ぶチャンスにもなります。
Ⅰ 苦情の実像(1-2)
①寄せられた苦情(1-2)
教会内のやもめへの毎日の配給で不公平が生じている、という声が、12使徒たちの耳に届きます(1)。配給は使徒たちが担っていたようです。そこに彼らが抱えていたもう一つの悩みがありました。それは何ですか。使徒たちはそれをどこに持って行ったでしょう(2)。
②原因はどこに(1-2)
言葉の違いから来るコミュニケーション不足が考えられます。また、弟子の数が増えたことも大きな要因です。初発の時にはうまく回っていても、働きが拡大すると同じようには進みません。働き手の容量を超えて、不本意ながら全体に手が届かなくなったのでしょう。
③問題の背景
教会内での献金と配給は、イエスを信じた人たちが心と思いを一つにした表れとしての自発的な愛のわざです(4:32-35)。アナニアとサッピラの一件(5:1-11)で、人々は献げる心を探られ、より注意深く取り組んだでしょう。それでも苦情が出る事態になったのです。
Ⅱ 解決に向けて(2-6)
①いろいろな対処の中から(2-3)
不平等だから、担当者が足りないから、もう配給は止めよう、とすることもできます。むしろ責任者を立て、人を増やし、通訳も入れ、漏れのないようにチケット制にするなど・・・。しかし、使徒たちは御霊と知恵に満ちた評判の良い人たちを選任することを提案しました。
②選考基準(3)
この提案を教会全体に呼び掛ける前に、使徒たちは対処を話し合ったはずです。そこで、実務経験からどんな人に任せれば良いか、祈りつつ選考基準を吟味したことでしょう。この基準から、使徒たちが配給の働きをどうとらえて、何を大切にしていたとわかりますか。
③承認と選任(5-6)
この提案を教会全体が喜んで受け入れ、提案に沿う7人を選出します。名前からギリシア系のユダヤ人と見られます。使徒たちは彼らに按手し、神の祝福と権限委譲を祈ります。私たちは神と教会の働きのために、どういうやり方で、どういう人を選んでいるでしょうか。
Ⅲ 本質を大切に
①最優先すべきこと(2,4)
食事をともにし、貧しい人を助けることは大切ですが、それ以上に大切なことがあります。使徒たちは、神のことばが後回しにしている現状こそ問題の根本だと気づきます。優先順位が狂って来ると、各所から異音・違和感が生じるのは、教会も人の世も同じです。
②神に聞き、神と語らう(5-6)
みことばを通して神から語り掛けを聞くこと、祈りによって神と語らい、自分の心中にあることを神に知っていただき、神の教導と助けを仰ぐことは、イエスを信じる者にとって生命線です。イエスとつながる人のうちに、信仰と忍耐、愛とあわれみが豊かに湧き出て来ます。
③神と人をつなぐ(7)
神と自分をつなげる幸い・素晴らしさを味わっている人は、周囲にもそれを分かち流すことが自然とできてきます。この一件を越えて、神のことばが広まり、神と人を仲介する祭司たちが続々と信仰に入ったのは、自分たちの職責の具現を見抜いたからでしょう。
<おわりに> 問題の如何に拘わらず、その中で神と私たちの関係を探り整えようと、聖霊は教会と信仰者に今も働き、ささやき、行くべき道を照らし、その道へと私たちを導かれます。人の世も教会も問題に悩まされますが、それを用いて練り聖め、整えられて行きます。 (H.M.)
『よく気をつけなさい』 (使徒の働き 5章33-42節) 2023.8.13.
<はじめに>最高法院に集まった者たちは、使徒たちの弁明を聞いて怒り狂い、殺意をたぎらせます(33)。自分たちの権威と面子を踏みにじり、イエス殺害の責任を負わせたからです(28)。しかし、彼らの殺意に待ったがかかります。律法の教師ガマリエルが議場に再考を促したのです(34)。
Ⅰ ガマリエルの提案(35-39)
①二つの実例(36-37)
使徒たちを議場から出させてから、ガマリエルは議員たちに、テウダとユダがそれぞれ起こした蜂起が、首謀者も追随者も雲散霧消した顛末を思い起こさせました。
②手を引き、静観せよ(38-39)
苛立つ余り、自ら手を下そうとせず、むしろ使徒たちの動きがどのように推移するかを静観するようにと彼は勧めます。この根底には、この世の中と歴史を司り、そこに働かれる神がおられる、という歴史観があります。私たちはどう考えて生活しているでしょうか。
③二つの可能性(38-39)
もしその計画・行動が人間から出たものなら、やがて自滅するでしょう。しかし、もしそれが神から出たものなら、それを滅ぼすことはできず、むしろこちらが神に敵対する者になりかねない危険もはらんでいます。だから、よく気をつけなさい(35)、と彼は警告したのです。
Ⅱ 提案を受けて(40-42)
①議員たち(39-40)
ガマリエルの提案に従い、議場に使徒たち呼び入れて、鞭で打ち、重ねてイエスの名によって語ることを禁じてから、釈放しました。彼らが鞭打ちしてから釈放したのは、自分たちは間違っていない、と自負していたからではないでしょうか。
②使徒たち(41)
使徒たちは脅しの鞭を与えられました(Ⅱコリント11:24、申命記25:3)。イエスが受けた鞭はそれ以上で、死刑囚への見せしめでした。彼らは、痛み苦しみ辱められる中で喜びも感じています。主イエスをより近く感じ、慰めと希望を受け取ったからです。
③なおも宣べ伝える(42)
イエスの名で語るな、と三度禁じられ、これだけ傷めつけられたにもかかわらず、彼らはなおも語り続けます。使徒たちは、人に従うよりも神に従う、と宣言したとおりです。議員たちと使徒たち、どちらに神は目を留めて、支持加担されるでしょう。
Ⅲ 自分を探る
①秘密の出所(33-39)
使徒たちを追い出しての会話が、なぜ本書に記録されているのでしょう。ガマリエルの門下生の一人、サウロ(のちの使徒パウロ)が出所の可能性大です(22:3)。本書の記者ルカは、単なるスクープ・暴露として記録したのでしょうか。
②歴史は語る
ルカが本書を書いたのは、この出来事から約30年後です。そのときイエスを信じる者たちはどうなっていたでしょう。ガマリエルの提案と照らし合わせるなら、イエスの福音は人間から出たものでしょうか、それとも神から出たものでしょうか。なぜそう言えるのですか。
③今も聖書は語る
ガマリエルの提案は大変穏健で賢明です。それは箴言16:1-3、3:5-7を思い起こさせます。私たちは、自分を優先して神様さえ押しのけてしまってはいないでしょうか。一歩引いて神様に信頼し、自分の大切なものを御手に委ねるとき、神様はそれを確立されます。
<おわりに> 神を味方につけ、神側に着くことが最善であるということは、誰でも直感できます。ならば、その神に自分の計画・行動・願望を話し、相談し、その指導に従うことに具体的に進むべきです。それを阻むのが、神よりも自分が正しいとすることです。その誤解と過ちから救うためにイエスは来られ、呼び掛け、手を差し伸べておられます。(H.M.)
『より大きな喜び』 (ルカの福音書 15章1-7節) 2023.8.6.
<はじめに> いつもいるものが見つからない、ということがあるでしょうか。ならば、それを探して見つけ出した時の安堵と喜びも分かるでしょう。イエスが語られた短い物語にも描かれています。
Ⅰ 羊が100匹
①自分のもの(4)
羊を持っている人は、毎日羊を野に連れ出し、養い育てます。自分の群が全部が揃っているかを折々に確認するでしょう。数が合わないなら、行方不明になったはずです。自分のものを見失ったら、捜し歩きます。持ち主が失くしたものを捜すのはどうしてですか。
②かわりはいない(4)
見失ったのは100匹のうちの1匹です。99匹がいるから良し、とできるでしょうか。数字は抽象化させます。部外者には羊はどれも一緒に見えますが、飼い主はそれぞれの個性・特徴を把握しています。いなくなった1匹のかわりはどこにもいません。
③たとえられているもの
これはたとえ話です。物語に例えられた真意があります。聖書では、羊を人、飼い主を神にしばしば例えています(詩篇23篇、ヨハネ10章など)。そうすると、このたとえ話から、神は人をどう見ているでしょう。また、人が落ち着いていられるのはどんなところでしょう。
Ⅱ いなくなった1匹
①はぐれた羊(4)
羊はどうして群れと羊飼いから離れてしまったのでしょう。はぐれてしまったことに気付いたのはどの辺りでしょう。羊と羊飼いの距離はどう変化しましたか。群れに戻るためにその羊は何ができるでしょう。
②見つかるまで捜す(4)
羊飼いもはぐれた1匹に気付き、その名を呼びますが現れません。そこで、彼は捜し歩きに出掛けます。その1匹を見つけるまであきらめません。この羊飼いの姿勢は、神と共通です。神の呼び掛けに答えがないその人を捜すため、イエスをこの世に送られました。
③見つけたら(5-6)
ようやく羊飼いははぐれた1匹を見つけ出します。喜んで羊を肩に担いで連れ帰り、友人や近所の人たちと、羊を取り戻した喜びを分かち合います。見つけた喜びを大勢で共に喜ぶ情景を、イエスは天にある大きな喜び(7)だと言われます。
Ⅲ 天にある喜び
①たとえ話の背景(1-3)
この話をイエスは誰にされたでしょう。「そこで」(3)から、1-2節が語る発端であったと分かります。パリサイ人・律法学者はこの文句を何度も言っています。罪人を受け入れる者もその仲間で同等だ、と彼らは主張し、イエスを軽蔑していました。
②天にある喜び(7)
それは一人の罪人が悔い改めることで沸き起こります。悔い改める必要のない99人の正しい人は喜ばしい存在ですが、そこにもう一人加わることに神様の関心はより向けられています。罪を犯さないことは幸いですが、罪から離れて立ち返ることはもっと幸いです。
③一緒に喜んでください(6)
悔い改める必要のない人とは、どんな人でしょう。その人には、罪を赦され、神との関係を結び直した喜びが分かるでしょうか。この天にある喜びを分かち合えるのが教会です。皆、神に見出され、立ち返った経験者の集まりだからです。
<おわりに> 教会はきよい人の集まりだと思われがちですが、神に立ち返った元罪人の集まりです。喜びと安らぎへと導かれる羊飼いなる神様の声を聞き、道を外れたときにも連れ戻してくださるイエスを呼べる関係を日々刻々保つとき、この喜びが湧き上がります。(H.M.)
『主の憐れみと恵み』 (Ⅰテモテ1:12-17) 2023.7.30 M.M.M.
序) 先日、S姉とK兄が、好きな賛美の話をしておられるのを聞いた。
インマヌエル讃美歌510番 「あなうれしわが身の」 (折り返し)
♪歌わでやあるべき 救われし身の幸 称えでやあるべき 御救いのかしこさ
(原詩) This is My Story, This is My Song, Praising My Saviour All the Day Long
インマヌエル讃美歌511番 「罪とがを赦され」
♪ 罪とがを赦され 神の子となりたる 我が魂の喜び 比べ得るものなし
あれ?私、王子教会で救いの証ししたことあったっけ? したいな!
今回は、私のストーリーを分かち合いたい
Ⅰ.牧師の子供として
① 祈り、聖書、賛美は朝飯前 ②10歳の苦しみ ③救いの恵み
Ⅱ.放蕩娘時代
① この世へのあこがれ ②ふた心の苦しみ ③立ち返りと召命
15節 「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、
そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
16節 しかし、私はあわれみを受けました。それはキリスト・イエスがこの上ない寛容をまず
私に示し、私をご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。
Ⅲ.主に仕える者とされて
① 楽しい、嬉しい開拓 ②牧師としての苦しみ ③辿り着いた安息と喜び
結) 12節、私は、私を強くしてくださる、私たちの主キリスト・イエスに感謝しています。
キリストは私を忠実なものと認めて、この務めに任命してくださったからです。
真実でないのに誠実な者として、主に仕えるために任じてくださった。
ただただ、「主の憐れみと恵み」以外にはない。
インマヌエル讃美歌653番 「真実全き心もて」
♪ 真実 全き心もて いのちの君に仕え イエスを高き則として 雄々しく戦わばや
『人の思い、神の思い』 (使徒の働き 5章12-32節) 2023.7.23.
<はじめに> 私たちは、白黒板挟みの中で、難しい舵取りを迫られることがあります。そのとき、しっかり自分の立場と意見を伝えることはたやすいことではありません。教会と使徒たちには、擁護者のいない中、厳しい状況にあって、何を大切にして一つ一つ選び取って行ったのでしょう。
Ⅰ 人の反応(12-18)
①使徒たちと信者(12)
使徒たちは、イエス復活の証拠としての奇跡を、人々の間で数々行っていました。4:30の祈りの結果です。ソロモンの回廊は、信者たちが集まる場所となっていました。そこでかつて何が起こりましたか(3:11)。彼らは、何に心を一つにしていたのでしょうか。
②周囲の人たち(13-16)
遠巻きに尊敬のまなざしを向ける人もあれば、主を信じ、仲間に加わる者も増えて行きました。やがて病人や汚れた霊に苦しむ人々を連れて近傍の町々から大勢集まるようになります。自分の立場や考え、抱える必要や期待によって、距離感と対応が変わります。
③サドカイ派の者たち(17-18)
サドカイ派は大祭司を中心とする裕福な指導者層の多くを占めていました。奇跡、御使い、復活と来世を彼らは信じていません。彼らは、使徒たちに語ることを禁じたのに、なおも語り、人々の尊敬と関心を集めているのを妬んで、使徒たちを捕え、留置場に送りました。
Ⅱ 神の思いと人の企み(19-28)
①主の使い(19-20)
その夜、主の使いが牢の戸を開けて、彼らを連れ出し、「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばをすべて語りなさい」と告げます。使徒たちはこれを聞いて、どうしましたか(21)。神の思いと、世間の考えや自分の思いが食い違う時、私たちはどうするでしょう。
②大祭司たちの思い(21-27)
大祭司一派は、捕らえた使徒たちを、翌日最高法院で裁く段取りでした。ところが、牢に使徒たちの姿は無く、彼らが宮で教えていることが分かり、直ちに再び捕らえて、最高法院に連れ出します。彼らは、使徒たちのことでなぜ当惑していたのでしょう(24)。
③訴えのことば(28)
大祭司が使徒たちに言い聞かせたかったことは何でしょう。「われわれが命じたことを破り、われわれにイエスの血の責任を負わせようとしている」。自分が中心であり、自分は悪くない、間違っているのはお前たちだ、と言わんばかりです。神はどこにいるのでしょう。
Ⅲ 使徒たちのことば(29-32)
①神に従うべき(29)
使徒たちは4:19を決断として改めて表明します。大祭司は自らの立場と権威で迫りますが、神不在の人のことばです。彼らは、人よりも遥かに優る神に従う道を歩んでいました。神の名を語る大祭司に、これを否定することばはありません。
②神は赦す御方(30-31)
大祭司は、イエスの血の責任をわれわれに負わせようとしている、と逃げ腰です。しかし使徒たちは、イエスを十字架につけて殺した罪を赦すために、神はイエスを死からよみがえらせて天に上げられた、と告げます。だから悔い改めて、神に立ち返るよう促しています。
③二人の証人(32)
使徒たちは、イエスの復活の証人であるとともに、イエスによって罪を赦された証人です。神は、このイエスの福音に従う者に聖霊を与えて、ご自身も証言されています。「二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証される」(マタイ18:16)とおりです。
<おわりに> 人は常に自分は正しく、自分の意のままに物事を理解・解釈し、そのとおりになることを望む者です。神の目から見れば、人は過ち易く、偏り見る罪深い者です。しかし、神はイエスを救い主、信仰の導き手として私たちに与えられました。誰に従い歩みますか。(H.M.)
『大きな恵み・大きな恐れ』 (使徒の働き 4章32節-5章11節) 2023.7.16.
<はじめに> イエスの復活を力強く証しする使徒たちによって、イエスを信じる人たちが次々起こされて、教会は数的にも質的にも充実してきました。しかし、その最中に厳粛な出来事が起こります。神は愛の神なのに、こんなことが起こるのはなぜでしょうか。
Ⅰ 初代教会の様子(4:32-37)
①共有と分与(4:32-35)
持ち物・財産を教会に差し出す人もあれば、必要や乏しさを素直に明かす人もいました。自発的な心と思いを一つにして、共有していた(32)からで、その結果、お互いが満たされていました(34)。その人たちの心と思いを具体的に言い表すと、どんなものでしょうか。
②大きな力(4:33)
使徒たちは、民の指導者たちからイエスの名によって教え語ることを禁じられていましたが(18)、むしろ大胆に語らせてくださいと祈りました(29)。33節でその祈りが答えられたのです。使徒たちは、恐れ・不安を大胆に乗り越えて、イエスの復活を明確に証ししました。
③大きな恵み(4:33)
彼らはよみがえられたイエスを身近に感じて、日々生活していました。罪を悔い改めて新しく生まれ変わり、キリストに従い価値観と生き方が大きく変わっていきます。神の不思議な御業を体験し、喜びと感謝が心に湧き、それが具体的な共有となって表されました。
Ⅱ 献げる二者(4:36-5:11)
①バルナバ(4:36-37)
バルナバが、所有の土地を売り、その代金を差し出しました。この行動は彼が最初ではなかったようです。慰め(励まし)の子と呼ばれる彼らしいエピソードです。やがて彼は教会内で一目置かれる存在となり、使徒パウロの登用にも関わります(11:25-26)。
②アナニアとサッピラ(5:1-11)
アナニア・サッピラ夫妻も、所有の土地を売り、その代金を差し出しました。その動機は何でしょう。二人が代金の一部を自分のもとに残したのはどうしてでしょうか。妻は何のために3時間後に現れたのでしょう。二人どう言っていたら、死なずに済んだでしょうか。
③大きな誤解
神は献げ物を強制されていません。自分のために手元に一部を残すことも問題ありません。むしろ問題は、二人が心を合わせて偽ったこと、正直に真実を述べる機会を逸したことです。偽りを言っても、神には分からないと思っていたのではないでしょうか。
Ⅲ 大きな恐れ(5:11)
①神を侮ってはいけない
嘘は人は騙せても神を欺くことはできません。この方はすべてをご存じだからです。なのに、偽って騙せると思い込むことは高慢で、神はこれに厳しく向き合われます。アダムとエバ(創世記2:17,3:11)、アカン(ヨシュア7:1)に及んだ厳粛な結果と同じです。
②安全地帯にはいない
彼らもイエスを信じた者でした。その彼らの心を奪い、偽らせたのはサタンだ、とペテロは指摘します。サタンは今も信仰者の足元をすくおうと付け狙っています。聖霊に満たされていても、サタンの誘惑・攻撃や人間的な欲望から解放されたのではありません。
③聖霊は教えてくださる
クリスチャンらしさ、聖さを装おうと、無理をしてはいないでしょうか。誰かの真似をしていても、神はその心・動機まですべてご存じです。私たちは神と心と思いを一つにするために、聖霊が与えられ、この方に聞き従うようにと招かれています。
<おわりに> 教会と信仰者は、外からの攻撃だけでなく、一人ひとりの心に仕掛けて来る試みる者とのせめぎ合いの中に生きています。しかし、主イエスはサタンのわざを壊し、その策略から私たちを守ろうと聖霊を与えられました。この御方を軽んじてはなりません。(H.M.)
『主よ、今、ご覧になって』 (使徒の働き 4章13-31節) 2023.7.9.
<はじめに> 神を信じる者には、すべてのことがうまく運ぶなら、こんなに楽なことはありません。しかし、現実には神を信じる者にも悩ましいことが巡って来ることがあり、神を信じるが故の苦しみもあります。そのようなとき、私たちは神に祈ります。何と祈ればよいのでしょうか。
Ⅰ 実生活の中で起こること
①目覚ましい働き(3章-4:12)
ペテロとヨハネは主イエスの御名によって奇跡を行い、人々にイエスの復活を大胆に証しし、大勢が神をあがめ、イエスを信じました。民の指導者たちの前でも、二人は聖霊に満たされて、イエスこそ救い主(キリスト)であると大胆に証しします(5-12)。
②理不尽な命令(13-22)
民の指導者たちは二人を逮捕拘留し、翌日尋問した後、協議して、今後イエスの名によって語ってはならない、と二人に厳命し、脅したうえで釈放しました。主を信頼して、善い業をなし、人々に福音を宣べ伝え、成果を出す者に、なぜこんなことが起こるのでしょう。
③信仰者の葛藤
神に従い、福音を証しし、精一杯信仰の道をたどる者が、いつでも誰もが納得できる結果と報いを受けられるならどんなに良いでしょうか。神を信じ歩む者に理不尽が襲い掛かるとき、信仰者の心は穏やかではいられません。そんなとき、私たちはどうするでしょうか。
Ⅱ 神に持って行く
①仲間と分かち合う(23)
二人には同信の仲間がいて、一連の出来事も言い渡されたことばも、残らず伝えました。驚き・感謝・恐れ・痛みなど心のすべてを、ことばにする作業は大変ですが大切です。また、思いをありのままに打ち明けられる友、親身に聞いてくれる友が私たちに必要です。
②心合わせ祈る(24)
打ち明け話を聞くうちに、自分では力不足を感じることがあります。そんな時こそ、ともに聞いておられる神に目を上げて、心合わせて祈るのです。神は、ご自身に期待して、心を開いて祈ることを待っておられます。マタイ18:19で主も約束されます。
③主よ、ご覧ください(29)
見て、聞いて、知って、御手の中にこれらすべてを握り、主が主導権を持って関わってくださるように、と祈ります。私にとって難しいとか無理だとか言って思い悩むうちは、まだ自分で問題を握っているからです。さっさと手放して、主の御手に託すのが最善です。
Ⅲ 神の視点で見る
①神とこの世(24-28)
神なる主は天地万物の創造者・支配者です(24)。しかし、詩篇2篇にあるように(25-26)、人はおごり高ぶり、主に立ち向かおうと企み動くものです。イエスの十字架もその成就です(27-28)。人の反抗も神の御手の中にあって、御意は崩れることなく着実に実現します。
②神の計画の推進(29-30)
人に従うより、神に従うことを宣言した彼らは、神の御前で改めてしもべとなる決意を表します。しもべの務めは、みことばを大胆に語ることと、みことばに伴うしるしを行うことです(マルコ16:20)。イエスがよみがえり、罪の赦しを与える救い主だと証しするためです。
③神の応答(31)
彼らが祈り終えると、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出します。彼らの祈りを聞き届けて神が働かれるのを、彼らはこれからも実感していきます。取り囲む状況は変わっていませんが、神への信頼は増し、事々に祈り、主を身近に感じて歩みます。
<おわりに> 私たちの現実生活には、悩ましい理不尽な課題が山積していても、それらはすべて主なる神の御支配の中にあります。その主にすべてを打ち明け、持ち行く仲間・友として、私たち教会は結び合わされています。祈るところに神は臨み、祈る者を引き上げられます(H.M.)
『イエスは招く』 (マルコの福音書 2章13-17節) 2023.7.2.
<はじめに>「この教会は、いい人たちばかりです」という声を聞いたことがあります。それを聞いてどう思いますか。いい人でなければ、教会に行けないのでしょうか。教会の中心はイエス・キリストです。イエスの周りに集まって来る人たちとは、どんな人たちでしょう。
Ⅰ 食卓を巡って
①イエスについて行く人々(13-14)
イエスが湖のほとりへ出かけると、彼の教えを聞こうと大勢の群衆が集まって来ます。この群衆の中には、どんな人たちがいたでしょう。道すがら、イエスは収税所に座っているレビを招きます。「わたしについて来なさい」は、イエスの弟子になりなさい、の意です。
②二つに分かれる人々(15-16)
イエスに従ったレビは、イエスと弟子たちを自宅に招き食事を振舞います。そこには同業の取税人や罪人も同席していました。イエスについて来た群衆は、食卓に着く者と着かない者に分かれます。そして、着かない者は「なぜ、あの人は…?」と弟子に質問します。
③「なぜ?」に潜む思い
パリサイとは「汚れから自らを分け隔てる」の意です。律法学者は取税人を売国奴として毛嫌いし、律法を順守しない人を罪人扱いし、彼らと一線を画していました。そのような人たちと一緒に食事をしないことから、彼らが何を大事にし、恐れていたのか垣間見えます。
Ⅱ イエスは来られた
①関わらない人たちの思い(16)
怪しい汚れた人たちとは接触しない、関わらない、交わらないのは、自分を清く保とうとしてです。罪・汚れは接触感染すると言わんばかりです。イエスに関心を向けていた彼らとしては、イエスがそのような人たちと関わりを持つことが理解できません。
②イエスの理解(17)
彼らが弟子に尋ねる声を聞きつけて、イエスが自分を医者に例えて答えます(17)。イエスが取税人・罪人と関わるのは、彼らの行いと考えを是認・同意しているからではありません。むしろ、彼らを神の前に健全な心と生き方へと変えて、正しい人にするためです。
③招くために来たのは
患者と向き合う人たちは自ら罹患しないよう人一倍注意を払いながら、病人と病気に向き合います。思い悩む人と関わり、その人を正しい人に造り変えるために、イエスは私たちの生活の現場に来られ、一緒にいて、私と向き合ってくださいます(イ367-3)。
Ⅲ イエスは招く
①招かれる者の手本(15-16)
レビがイエスを食事に招待したのは、自分を弟子に招き、加えてくださったからでしょう。イエスとレビの間には招き招かれる交流があります。イエスもレビも相手の招きに快く応じています。私たちが招待を受けているのに、いろいろと考え悩むのはどうしてでしょう。
②わたしを呼べ(17)
病人は治ろうとして医者にかかります。自分で治せるなら不要です。罪汚れを抱えて、良くなりたいと思っている人に、「自分で頑張れ」とイエスは言われません。「わたしを呼べ」(エレミヤ33:3)と神は呼び掛け、イエスをその人のそばに遣わされています。
③イエスを必要とする
日々の生活の中で、私たちは自力で何とかしようと頑張っていますが、自分ではどうすることもできない事も多々あります。そのとき、私たちは神を、救い主イエスを呼び求めるでしょうか。必要とされている人・場面にイエスは関わりたい、関わろうとしておられます。
<おわりに> これらのことから、教会はイエスを必要としている人たちの集まりだとも言えます(ひむなる120)。イエスはご自分を求める人たちに答えられます。あなたは、イエスを必要としていますか(イ146-1)。(H.M.)