礼拝メッセージ
『十字架を囲む』 (マタイの福音書 27章32-44節) 2021.3.28.
<はじめに> 十字架を掛けるのはアクセサリーとして飾るためですが、十字架に架けられるのは犯罪者だからです。教会は処刑道具をシンボルとし、処刑された方を信じ敬っています。素直には理解しがたいことでしょう。しかしそこに神の知恵、メッセージが隠されています。
Ⅰ 十字架を囲む人びと
①物語の整理
この箇所を紙芝居にするなら、何枚になり、それぞれどんな場面でしょう。
登場人物をみな挙げてください。彼らをグループ分けすると、どう分けられますか。
この物語で犯罪人はだれですか。また、犯罪人同様に見られた人はいましたか。
②クレネ人シモン(32)
十字架は極刑で、本来刑場まで死刑囚自身が負って行きます。
しかしここでは、クレネ人シモンがイエスの代わりに十字架を負わされました。
なぜそうなったのでしょうか。十字架を背負いながら、彼は何を思っていたでしょう。
③ローマの兵士たち(33-38)
ゴルゴタで兵士たちがしたことが5つほどあります。どういうことか挙げてください。
苦みを混ぜたぶどう酒は痛みを麻痺させるためです。どんな場面で差し出されましたか。
兵士は何の目的からぶどう酒を差し出したのでしょうか。
Ⅱ イエスを取り巻く声
①浴びせられる雑言(41-43)
この物語で、言葉を発しているのは誰ですか。黙っている人はいるでしょうか。
イエスに向けてどんな言葉が浴びせられていますか。誰に聞かせようとしているでしょう。
祭司長、律法学者、長老たちはイエスにどんな思いを抱いて嘲ったのでしょうか。
②ののしる人々(39-40,44)
通りすがりの人たちや二人の強盗も、彼らもイエスをののしったのはなぜでしょうか。
彼らはイエスを昔から深く知っていたでしょうか。ののしる材料をいつ頃知ったのでしょう。
彼らはイエスが誰だと言っていますか。それを本心から納得して言っているでしょうか。
③人間とはどういうものか
彼らは処刑される犯罪者と対極に立っています。自ら「自分は悪くない」と思っています。それはイエスへの反発・非難・攻撃に表れ、残忍・浅薄・妬み・雷同付和・自己中心などが透けて見えます。彼らはイエスを十字架で殺すことに賛同・加担しました。
Ⅲ 十字架の意味
①苦しみに留まるイエス
ぶどう酒をイエスはあえて拒みました。イエスには十字架から降りることは不可能でしょうか。降りれば反対者はイエスを信じたでしょうか。正義・正論を振りかざし「自分は正しい、間違ってない」と主張する人たちから受ける苦しみ・痛みのすべてを味わうためです。
②イエスの罪状
イエスは自称「ユダヤ人の王」がローマ帝国への反逆、「神の子」と自称しているとみられたことが神への冒涜として十字架刑に渡されました。ののしりと嘲りにも一切弁明・反論されず、あえて罪人となり、十字架で死なれました。
③大逆転の御業
人々の非難はある前提に基づき、それが不成立なら判決は逆転します。神はその3日後にイエスを死から甦らせ、イエスが神の子・救い主であることを証しされました。それはイエスを信じる者の罪を赦し、新たないのちの歩みによみがえらせる保証でもあります。
<おわりに> イエスを信じるなら、私も罪人だ、と認めているでしょうか。「私は悪くない」と主張するならイエスとは対極です。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです」(マタイ9:13)。イエスによって十字架は断罪から贖罪へと変わったのです。(H.M.)
『進み行くイエス』 (ルカの福音書 9章46-62節) 2021.3.14.
<はじめに> 先回までのマタイの福音書からルカへと変わりますが、物語はその続きです。51節はイエスの活動の転向点です。ガリラヤ周辺から離れてエルサレムへと進まれます。ルカの福音書には、エルサレムへの旅に多くの独自の物語を描いています(9:51-19:44)
Ⅰ イエスの姿勢(51-53)
①エルサレムに向けて(51-53)
天に上げられる日とは十字架と復活・昇天の一連の出来事を指しています。ガリラヤからエルサレムへはサマリヤを通過する道が最短で、先遣隊に宿などの備えを命じました。イエスの目指すところはエルサレムだと弟子たちにも表明され、前進されます。
②毅然と進む(51)
イエスの相貌が今までと違うのを、弟子は気づきました。エルサレム進出を国の再興と結び付けていたかもしれません。かつてイエスを救い主と信じたサマリヤ人(ヨハネ4:42)が、今回は拒絶します。なぜなのでしょうか。ヨハネ4:20-24と合わせて考えてみましょう。
③ゴールを見据えて
今回のエルサレム上京は祭礼への巡礼だけではありません。イエスはそこでの受難と復活による神の救いの計画の完成に向けて毅然と進まれます。時・場所・出来事すべては神の定めです。主に従う者にもこの視点と姿勢が求められます。ゴールはどこですか。
Ⅱ 弟子の考え(54-56,46-50)
①焼き滅ぼそうか(54-56)
イエスを拒絶したサマリヤ人の態度に、ヤコブとヨハネ(マルコ3:17)が進言します。滅ぼそう、の言葉がイエスを振り向かせ、二人は叱られます。異本には19:10に似た加筆もあります。「今は恵みの時、救いの日」(Ⅱコリント6:2)、裁きと滅びは後に委ねて進むべきです。
②だれが一番偉いか(46-48)
弟子たちの関心事で、再三議論となります(22:24,マタイ20:25)。他に先んじ、上に立とうと虎視眈々と狙っていました。主は一人の子どもを例に、彼らの中で一番偉い者を説かれます。神とイエスにあって受け入れられる人を最も尊ぶのが、神の国であり教会です。
③だれが味方か(49-50)
ヨハネはその人が弟子一団に属さないから禁じたとイエスに報告します。以前(37-43) 彼らができなかったことへの嫉妬も垣間見られます。イエスの意は異なりました。狭量な仲間意識から、イエスの名による御業を止めてはなりません。(注:11:23はイエスとの関係です)
Ⅲ イエスに従う道(57-62、マタイ8:19-22参照)
①枕するところ(57-58)
一行がさらに進むと弟子志願者と会います。「どこへもついて行く」とは健気ですが、その道は安定・安住とは対極で、主の向かわれる先はエルサレムです。イエスがその生涯の最初と最後に身を横たえた場所もそのことを暗示しています。それでもついて来ますか。
②優先すること(59-60)
二人目は主から声を掛けられますが、まず父を葬ることを済まさせて欲しいと願います。親に対する義務の重要性を否定しているのではありません。イエスに従い、神の国を言い広め、生かす責務は死と葬りより優先されます。この価値観に基づき、ついて来ますか。
③表明と覚悟(61-62)
三人目はルカ独自です。この志願者は、主に受け入れられたなら家族に別れを告げるつもりでした。畑を耕す際、鋤を振る前に後方安全を確認します。イエスは慣用句を用いて、順序が逆であると諭されます。覚悟のない表明ではいつまでも前に進めません。
<おわりに> イエスは心定まって、着々とエルサレムへ、十字架へと前進されます。私たちの罪の贖いの実現のためにです。そのイエスについて行きますか。ならば、自分の考え・価値観を手放し、時には叱られたとしてでも、なおもイエスに聞き従おうとしているでしょうか。(H.M.)
『できないこと』 (マタイの福音書 17章14-23節) 2021.3.7.
<はじめに> 「神仏にすがり祈るのは弱い人のすること」と言う人があります。そうでしょうか。祈るよりも自分でもっと努力すべきだというのでしょうか。努力すれば必ず道は開ける、と言う人がありますが、絶対にそうでしょうか。「できない」という現実は、私たちに様々な問い掛けをもたらします。
Ⅰ 弟子にはできなかった
①お弟子たちのところに(14-16)
一人の人(14)はてんかんで苦しむ息子の父です(15)。彼は息子を連れて来ました。しかしイエスと三弟子は山に出掛け不在でした。彼はそこに居た弟子たちに息子を癒してくださるよう頼みましたが、治すことができず、困り果てたところにイエスたちが戻って来ました。
②弟子なのに
この種の問題は、元来弟子たちには難し過ぎたのでしょうか。彼らはかつて悪霊を制し、病気を癒す権威を主から授けられて派遣され(10:1)、その通りにできました(ルカ9:1-6)。彼らが一生懸命取り組まなかったからできなかったのでしょうか。そうとも思えません。
③不信仰な曲がった時代(17)
父親がイエスに近寄って訴える言葉を、イエスがその子が癒される様子を、弟子たちはどんな思いで見聞きしていたことでしょう。押し寄せる様々な問題課題を前に、私たちはどうしていますか。この時代に、信仰者の私たちは期待されているでしょうか。
Ⅱ できないことはない
①連れて来なさい(17-18)
イエスは問題課題を持って来るよう招かれ、主は求めに応えられました。イエスの手に渡すことです。弟子たちは「なぜ私たちは…」(19)と尋ねます。自分の手で解決を図ろうとしてはいないでしょうか。主イエスは「わたしのところに連れて来なさい」と呼び掛けます♪。
②からし種ほどの信仰(19-20)
弟子の問い掛けにイエスは信仰を問われます。「薄い」とはどういうことで、反対語は何でしょうか。からし種は極小、山は極大・不動を指します。しかし種にはいのちがあり、成長すると、根は岩も砕きます。信仰の肝は、イエスが何者で、その方との関係にあります。
③できないことは何もない(20)
私たちにはできないことだらけです。ならば、この約束は眉唾でしょうか。「あなたがたが」ではなく「あなたがたに」と主は言われます。自分にはできなくても「主イエスならばできる」と信頼して、主に持ち行くことが信仰、祈りです。
Ⅲ イエスにできないこと
①イエスの嘆き(17)
イエスが一緒に居なければ解決できないなら、人となられたイエスには限界があります。これをイエスは我慢されています。しかしいつまでもこれを続けるわけには行きません。問題に呻く声と神の子・救い主への叫びは世界中から時代を越えて止むことはありません。
②避けるわけには行かない(22-23)
からし種ほどの信仰を弟子に分かつために、イエスは山から下られました。同時にそれは不信仰な曲がった時代に、救いの道を打ち立てるためです。主の受難・十字架と復活は神のご計画です。全世界の救い主となるためにイエスは進まなければなりません。
③祈らないなら働けない
イエスは全能の神・救い主、できないことは何もありません。祈るところにイエスは臨在され、祈りに応えられます(18:19-20)。この物語から、祈るとはどうすることだとわかりましたか。祈らないことはどんなことにつながりますか。祈らないならこのイエスも働けません。
<おわりに> できないことは辛く苦しいことです。しかし、この中で私たちは自分を見つめ、神へと心が向かいます。主イエスに祈る人は自分の弱さ・乏しさを知りつつ、イエスが神の子・救い主であり、この方が今、私とともにいると宣言することです。さあ、祈りましょう。
『すばらしいこと』 (マタイの福音書 17章1-13節) 2021.2.28.
<はじめに> いいことや大きな出来事などがあると、何かに書き残し、また伝えたくなります。この物語は普通あり得ないことが綴られています。マタイはこの現場にはいませんでしたから、誰かから伝え聞いたことを記したのでしょう。それくらいにすごいことがここに描かれています。
Ⅰ 物語を振り返る
①高い山に(1)
「それから六日目に」は、前章からの続きです。そこではどんな出来事がありましたか。
イエスが誰を伴って山に登られましたか。なぜ彼らだけを連れて行かれたのでしょう。
前章はピリポ・カイザリアでの出来事でした。ならば高い山とはどこだと思いますか(地図)
②山の上で(2-8)
弟子たちは光り輝いたものを3つ見ました。何ですか。
弟子たちはどんな情景を見ましたか(4)。それは最後まで同じでしたか(8)。
弟子たちはどんな声を聞きましたか。その声に彼らはどんな反応をしたでしょう。
③山を下るとき(9-13)
イエスが弟子たちに命じたことは、どんなことでしたか。
10節から、律法学者たちはメシアが来る前に何が起こると言っていたのでしょう。
イエスは「エリヤはすでに来た」と言います。それは誰のことを言われたのですか。
Ⅱ すばらしいこと
①神に選ばれる(1)
イエスが選ばれたこの3人は優れていたからでしょうか。神は全員を常に均等にではなく、むしろ各自の能力(25:15)・信仰(ロマ12:3)・賜物(エペ4:7)に応じて個別に扱われます。また選ばれても応じなければ無意味です。大切なことは主とつながっていることです。
②完成された(2-3)
山上で見たイエスの栄光の姿は、神の御子が人となって歩まれた完成を表します。雲の中からの声(5)もその承認です(3:17)。このまま天に移されても良かったのですが、そうされませんでした。「エルサレムで遂げようとしておられる最期」(ルカ9:31)に向かうためです。
③栄光の証人
この出来事は、イエスが真に神の子であると弟子たちが確信する体験でした(Ⅱペテロ1:16-19)。モーセ、エリヤも現れての話題が十字架であったことも驚きでした。彼らがこのことを、この時、完全には理解できませんでしたが、後日悟る有力な根拠となりました。
Ⅲ もっとすばらしいこと
①人の子が受ける苦しみ(9-13)
キリストの前にエリヤが現れることから、主はご自身も受ける苦難を予告されました。主の十字架によって、私たちは罪から救われ得るのです。十字架が受け入れられない者に、復活などより難解です。十分理解できていないことを他言するのは誤解の素です(9)。
②イエスのほかには(8)
不思議な栄光の数々が展開された山の上での経験でしたが、雲が消え、目を上げると、そこにはイエスしかおられません。奇跡も幻も一過性ですが、御子イエスは永遠不易です(へブル13:8)。「彼の言うことを聞け」の御声に従い、この方を見、聞き続けるのです。
③山を下るイエス(9)
この場に立ち会えて興奮したペテロは提案します(4)。なぜそう言ったのでしょう。人は高揚状態に留まりたいと願いますが、より大切なことへと歩みを進めなければなりません。それが苦難を伴ってもです。そのために、イエスは弟子たちとともに山を下られました。
<おわりに> 「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロ1:8-9) (H.M.)
『とんでもないこと』 (マタイの福音書 16章21-28節) 2021.2.21.
<はじめに> イエスこそ「生ける神の子キリストです」(16)と弟子たちは告白しました。救い主(キリスト)を世に明らかにするのには、どんな方法が望ましいでしょう。私たちは救い主キリストをどんな方だと紹介しているでしょう。難しくわかりにくい方だから、紹介できないと思っていませんか。
Ⅰ イエスとペテロ(21-23)
①ターニングポイント(21)
イエスのこれまでの活動はガリラヤ地方での御業と教えが中心でした(4:12-17)。「そのときから」(21)イエスはご自分についてどんなことを弟子たちに告げましたか。そのきっかけは何だったのでしょう。イエスは彼らにキリストとはどんな者かを示そうとされました。
②諫めるペテロ(22)
イエスが「…なければならない」(21)と言ったのは強い願望・意欲でなく、御父の御心だからです。ペテロは、イエスのことばの何がとんでもないと思ったのでしょう。ペテロはイエスのことばを打ち消しにかかります。「神がそんなことを禁止されます」(英直訳⇒19脚注)。
③下がれ、サタン(23)
神を語り御心から逸らせようとするペテロに、イエスはサタンの影を見、退けました(4:10)。ペテロは神の計画には無知でした。自分の理想とするキリスト像に合致するなら受け入れ、そうでないなら拒絶する罠にはまり、イエスをも巻き込もうとしてしまいました(⇒1,6)。
Ⅱ イエスと弟子たち(24-28)
①いのちを見出す(24-25)
主はご自分について来たいと願う者にどんな行動を求めていますか。死刑宣告を受けた者が自分の十字架を負い、自分本位の判断にNoを、御心にYesを表します。自分を捨ててイエスのためにいのちを失う者には、逆説的に真のいのちを見出すと言われます。
②いのちを買い戻す代価(25-26)
自分のいのちを自分で救えるでしょうか。また自分のいのちを賭して全世界を手に入れたとしても、そのいのちの贖い代は高く、だれも何も差し出せません(詩篇49:7-8)。いのちは神の領域ですから、神の御心に沿うことなしに、真のいのちを得ることはできません。
③やがて人の子が来る(27-28)
受難の主が三日目によみがえる(21)ことは、弟子たちの耳には入らなかったでしょう。主はやがて栄光を帯びて来られ、それぞれの行いに報われます。28節は弟子たちの生存中に神の国と主の到来があるとの約束です。その実現が何なのかを考えてみてください。
Ⅲ 主を知ることに進もう
①救い主の道(21-23)
キリストが私たちの思い願う理想どおりに働いてくださるとは限りません。むしろ苦難・死を貫いて、なお輝く栄光の主です。聞かれない祈りはありませんが、私たちの思い通りに神様は動かれません。しかし信じる者を「なるほど」と肯かせ、「さすが」と唸らせる御方です。
②弟子の道(24-26)
この主について行く弟子の道もまた平坦ではありません。「もうだめ」と思われても、なお主にその身といのちを委ねる者を、死んでも生かしてくださる御方です。かつて自分のいのちを救おうとした傲慢な者のためにも、その贖いの代価として主は死んでくださいました。
③育て、報いられる(27-28)
受難の主を受け入れられなかった弟子たち、誤って主を諫めたペテロさえも、主は見限られてはいません。忍耐をもって教え諭し、その理解と信仰を育てようと関わられます。主は一人ひとり、その行い一つ一つを丁寧に報いてくださる御方です。
<おわりに> 「ですから、愛する者たち。あなたがたは前もって分かっているのですから、不道徳な者たちの惑わしに誘い込まれて、自分自身の堅実さを失わないよう、よく気をつけなさい。私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」(Ⅱペテロ3:17-18)
『わたしをだれだと言いますか』 (マタイの福音書16:13-20) 2021.2.14.
<はじめに> 「相手を知っている」と言っても、そのレベル・内容は様々です。名前・顔を知ること辺りから始まり、行動・能力・特徴・性格などを接する中でつかみ、常に更新深化されます。これは人間関係だけでなく、神様についても同じです。
Ⅰ 人の子をだれだと(13-14)
①ピリポ・カイザリア(13)
ガリラヤ湖から北へ約40㎞、ヘルモン山南麓に広がる高原で、ヨルダン川の水源地の一つです。ヘロデ大王の子ヘロデ・ピリポが建てたローマ皇帝崇拝の神殿がある町です。イエスが、このユダヤ辺境の地に弟子たちを導かれた意図はあったのでしょうか。
②最初の質問(13-14)
イエスは自身を「人の子」と好んで称します。イエスはまず世の人々が自分を何者だと言っているのかを弟子に問われます。人々は、バプテスマのヨハネ(14:1-12)、著名な預言者エリヤ・エレミヤ、昔の預言者と重ね合わせて見ていました。
③情報収集と私たち
人々が口々にいろんなことを言います。全てが嘘過ちでなくても、個人的な意見・推論・願望・噂などが混ざっていて、真実とは似て異なるものです。それを鵜呑みにせず、自ら真実を確かめる必要があります。そのためにどんな方法を活用していますか。
Ⅱ わたしをだれだと(15-16)
①核心の質問(15)
あなたがた「は」は区別の助詞で、イエスは弟子たち自身の理解を尋ねます。イエスとともに歩み語らい、傍らで教えや御業を見聞きする者が、イエスをどう理解しているかです。この問い掛けは福音書の核心であり、私たちにも向けられています。
②生ける神の子(16)
代表してシモン・ペテロが答えました。朽ちるもので昔作られた神ではなく、昔も今も永遠までも働かれる造り主なる神が、人となってこの世に生きておられます。また私たちとは全くかけ離れた偉大な御方です(イザヤ55:8-9、ロマ11:33、Ⅰコリント1:25)。
③キリスト(16)
偉大で優れた方に未熟で欠けだらけの者が近づくことは恐れ多いことです。しかし主は、近づこうとする者に手を差し伸べ、助け導き、支える方です(14:30-31)。イエスはキリスト(救い主)ですと認めることと、イエスは私の救い主と告白することは同じでしょうか。
Ⅲ あなたは幸いです(17-20)
①父が明らかにされた(17)
人が、イエスを生ける神の子キリストであると知り、信頼を告白できるのは、知識・経験・思索だけによるのではありません。天の父なる神が覆いを取り除き明らかにしてくださったからです。だから誇ることはできません。神のあわれみと恵みをほめたたえるのみです。
②この岩の上に、わたしの教会を(18)
答えたペテロを掛詞にして、16節の告白を土台にしてイエスはご自分の教会を建てると宣言されます。教会(エクレシア)は主に呼び出された者たちという集合名詞です。死と滅びに至るよみの門に吸い込まれる他ない私たちを、呼び出し引き止めてくださいます。
③天の御国の鍵(19)
加えて天の御国に自らも入れ、また自らが招き入れることもできる鍵を与えられます。それを地上でどう使うかが、天と直結しています。鍵を委ねられた者の責任は重大です。私たちは誰を思い浮かべ、この鍵を使いたいでしょうか。
<おわりに> 20節の禁止命令はどうしてなのか、何のためなのかは、思い巡らしてください。この信仰告白はまず誰に向けて告げるべきでしょう。かつて主を告白した方も、今、イエスがだれで、どんな御方だと言いますか。それは更新深化されているでしょうか。(H.M.)
『パン種に用心しなさい』 (マタイの福音書 16章1-12節) 2021.2.7.
<はじめに> これからどうなるのか、どうするのか、と論じるとき、エビデンスが求められます。パリサイ人とサドカイ人は、自分たちとは反対の厳しいことを語るイエスが神から遣わされた者かを探ろうと近づきます。天からのしるしとは、神の子・救い主である顕著な証拠・出来事です。
Ⅰ しるしを見せて(1-4)
①パリサイ人とサドカイ人
彼らは共にユダヤ人議会でのグループです。パリサイ人は律法とともに言い伝えも厳格に守り行い、復活や御使いを信じています。かたやサドカイ人はモーセ五書にのみ権威を認めていて、死後のいのちも認めず、当時の実力者・富裕者の多くが属しています
②試そうと近づく
本来、信仰・実践・政策で一致せず、議会で勢力を張り合う二派が、結託してイエスに近づいたのは、共通する目的があったからです。それは何ですか。イエスを試そうとする彼らは、どんなことを知りたかったのでしょう。彼らは知ってどうしたいのでしょうか。
③しるしを求める理由(2-4)
空を注意深く観察すると、先の天気の移り変わりが予想できます(2-3)。しるしを求めるのは、既存の証拠では満足しないからです。この世界に神がおられ、働いておられるしるしは既に与えられています(4)。それを認めない頑迷さはしるしを与えられても信じません。
Ⅱ パン種にご用心(5-12)
①イエスの警告(5-8)
イエス一行は向こう岸に渡ります。7つのパンで4000人を満たした奇跡(15:32-39)の地方です。イエスは弟子にどんな警告を与え(6)、彼らはそれをどう受け止めましたか(7)。彼らがそう受け取ったのは、なぜでしょう。イエスは彼らが誤解しているのに気づかれます。
②覚えていないのですか(9-11)
イエスは先に行われた2度のパンの奇跡を弟子たちに思い起こさせて、何を分からせようとしたのでしょうか。パンの有無よりももっと大切なことに目を開かせるためです。主の御業の内容や効果以上に、私たちが見落としてはならないことがあります。
③パン種は教え(12)
イエスはパン種を神の国と福音の拡大の比喩にも使われています(13:33)が、ここでは影響力の大きさの比喩です。パリサイ人・サドカイ人のしるしを求める姿は、実は自分の立場・理解・納得に合致するもののみを受け入れる、信仰とは相反するものです。
Ⅲ しるしを見る目
①ヨナのしるし(4⇒12:38-42)
かつてパリサイ人は律法学者とともに同じ願いをイエスに投げ、そこでもヨナのしるしを示されます。ヨナの厳しいメッセージでニネベの人々は悔い改めました。イエスはヨナと自分を重ねて、何を示されたのでしょう。イエスがこの世に来られた目的は何だと思いますか。
②時のしるし(3)
しるしとは証拠としての奇跡(1欄外注)で、証拠は事実で過去を指します。世はイエスを「どこから来たのか」と過去から今を見ようとします。イエスが示したいのは、これからどうなるのか、神は時の所有者・支配者で、この方がこれから何をなさるかに注目すべきです。
③主を見る(12)
パリサイ人・サドカイ人の教えは神由来ではあっても、神よりも自分を正しいとする傾向が顕著でした。これをイエスは偽善と明言されています(ルカ12:1)。イエスは、過去の御業を通して、全てを治められる主は生きておられることへと目を開かせようとされています。
<おわりに> 時代は混沌として、先が見通せない状況ですが、私たちはこの中に生きておられる主を見出しているでしょうか。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」(4:4)と主は言われます。神のことばを一つ一つ味わっていますか。 (H.M.)
『もっと器を、空の器を』 (列王記 第二 4章1-7節) 2021.1.24.
<はじめに> 先回の続きです。預言者の未亡人は直面する課題をエリシャに告げ、助けを求めました。エリシャは彼女に幾つかの指示を与えます。
Ⅰ 神の御業の準備
①借りて来なさい(3)
「あなたには何があるのか」(2)は、自分に何があって、何が欠けているのかを探る問いです。持っていないものがどうしても必要だから借りるのです。借りるときには頭を下げなければなりません。これらは神様に祈り求める者の姿にも通じるものです。
②空の器を(3)
ここでは油を入れる空の器が必要です。大小、形や見栄えは問いませんが、数多く集めるようにエリシャは言います。どこから、どれだけの器を借りるかは、その人の必要と期待に比例します。
③背後の戸を閉めなさい(4)
器を借り集めるのは戸を閉めるまでです。後から追加はできません。神のことばを信じて行動することが、神の御業に先立ちます。これから起こることは見世物ではなく、彼女家族だけが見るのです。そこにはエリシャもいませんが、神様はおられ、働かれます。
Ⅱ 神の御業の現場
①隠れた所で見ておられるあなたの父(マタイ6:6)
戸を閉じて、油の壺を手にした彼女は、エリシャのことばを反芻し、神に祈ったでしょう。そして器を受け取り、壺を傾けます。油は細い糸になっても途切れません。器が満ちると、また次を受け取り、油を注ぐ、これを繰り返しました。彼女たちの顔は輝いていきました。
②もっと器を(5)
彼女の声に子どもたちも次々に器を運びます。当初の不安・恐れは消えていました。やがて器すべてに油が満たされたことが分かると、油は止まりました。彼女たちの集めた器すべてが用いられ、満たされました。この時の彼女たちの気持ちを想像してください。
③神の法則
神は求める者に応える方です(マタイ6:33、ヨハネ14:13-14)。神は求める者を探られます(ヤコブ4:2-3)。何をどれだけ求めるかは、その人の神への信頼・期待の表れです(詩篇81:10)。神は御業の全貌を説明されません。ただその時、為すべき分を示されます。
Ⅲ 神の御業がもたらすもの
①必要が満たされる(7)
彼女はエリシャの許に向かいます。その足取り、顔つき、どう報告したかを思い描いてください。エリシャは彼女にその油を売り、それで負債を返すよう伝えます。二人の子どもは彼女の許から取り去られることはなくなりました。
②生きる力が与えられる(7)
問題解決を神に求め近づく人がいます。願いが叶えば、神から去って行く人もあります。神の御業は負債が返すだけでなく、今後の彼らの暮らしまで配慮され、満たすものでした。神は人に生きることを求められるとともに、生きるための必要と支えを与えてくださいます。
③生ける神の実感を得る
彼女たちはその後どう暮らしたでしょう。この後も様々な問題に向き合う中で、彼女たちはこの出来事を思い起こしたでしょう。自分たちのそば近くにおられ、生きて働かれる神がおられることを私たちも体験的に知り、それを新しい局面にも適用できているでしょうか。
<おわりに> 個人・家庭・教会・社会には問題と必要が満ちています。それらと神様を結び付ける役割を果たすのは誰でしょう。神様はあるものを活用して、空の器さえ用いて御業をなさいます。 (H.M.)
『家の中に何があるか』 (列王記 第二4章1-7節) 2021.1.17.
<はじめに> 私たちは今厳しい状況に取り囲まれています。何とか打開しようと、万策を繰り出して乗り越えようと必死に戦っている現状です。このような状況で、私たちは何ができるのでしょう。
Ⅰ 苦しみの中で叫ぶ(1)
①主を恐れる者にも
「あなたのしもべ」はエリシャの預言者集団の一員でした。彼は主を恐れて生きて来ましたが、家族と借財を残して死にました。なぜ借財があったのでしょうか。債権者は二人の子を借金の形に取ろうとします。彼の家族は、今や散り散りになる危機に直面していました。
②叫ぶ者の声
苦しみ・悩みを抱えるとき、誰に助けを求めますか。預言者の妻はエリシャに訴えました。どんな思いで、何を求めていたのでしょうか。「苦難の日にわたしを呼び求めよ」(詩篇50:15,参照107:6)と主は言われます。主を呼び求める者に必要なことは何でしょう。
③私たちの負い目
返済は他に優先されるものです。罪は負い目となり、私たちに死を突き付けます(ロマ6:23)が、主に赦しを求めることができます(マタイ6:12)。パウロは福音の負い目を感じていました(ロマ1:14)。私がしなければならない、と主から示されていることはありますか。
Ⅱ 神の人のことば(2)
①何をしてあげようか
イスラエルの律法では、借金の形として奴隷にすることは禁じられていました(レビ25:39)。「これでいいのですか」と妻はエリシャに叫び、彼は「何をしてあげようか」と答えます。エリシャにどんなことができるでしょう。実際、彼は何をしましたか。
②あなたには何があるのか
神の人(7)エリシャは彼女にことばを伝え、神への信頼が揺らぐ彼女の心を支え励まし、彼女が持っているものに目を向けさせます。彼女は「何もない」と答えた後、油の壺一つを見つけます。私たちは、乏しい状況を安直に「ない」と言ってはいないでしょうか。
③人の僅かに働かれる神
神は偉大な御方ですが、僅かな無駄も惜しまれる方です(マタイ25:26,創世記18:25-26)。神の御業の多くは、人の持つ僅かに気付かせ、それを取り上げるところから始まります(マタイ14:17)。僅かなものであっても神が関わられると、大いなる結果へとつながります。
Ⅲ 私にもできる
①主に叫ぼう(1)
緊急・危機・切迫した時に叫びます。そこに本音が入っています。私たちの心からの叫びを主は決してないがしろにされません。必ず聞き、応えると約束されています。信じますか。主が私の声を聞いて答えてくださった経験は、この信仰を支え励まします。
②家の中を見渡そう(2)
自分が乏しいと、周囲の豊かさに惹かれ、比べてしまいます。家の中、身近なところに与えられているものも神の賜物です。神の御前で、私が持っているもの、与えられているものに目を向けようではありませんか。何も与えられていない人はいないはずです。
③神に結び付けよう(2)
彼女の叫びを聞いたエリシャは、彼女と取り囲む状況、持っているものを神に結び付ける助けをしました。信仰を奮い立たせたのです。祈るしかできないのは無力ではありません。全能なる神が私の身近で活き働いてくださいます(ガラテヤ5:15-16,ハバクク3:1文語)。
<おわりに> 「私はあなたの行いを知っている。見よ、わたしは、だれも閉じることができない門を、あなたの前に開いておいた。あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである」(黙示3:8)。主の励ましに奮い立とうではありませんか(H.M.)
『今がその時です』 (ヨハネの福音書 4章19-24節) 2021.1.10.
<はじめに> 今日から再び教会堂に集まることを控えて、配信やCDによって各自宅で礼拝をささげることに切り替えました。急な対応でしたが受け留めてくださり感謝いたします。クリスチャンは礼拝を大切にしています。それはなぜ?と問われたとき、どう答えますか。
Ⅰ 礼拝を見直す(20-22)
①変化の中での気付き
私たちは、教会で集まって捧げる礼拝から、どんな恵みと祝福をいただいて来たでしょう。今回教会に集まっての礼拝を一時控えることにしました。しかし礼拝自体を止めたのではありません。何が変わって、変わっていないことが何なのかを見出せる機会です。
②礼拝で大切なこと
この箇所でサマリヤの女は礼拝すべき場所の理解の差をイエスに問いました(20)。これがサマリヤ人とユダヤ人の対立の理由の一つでした。イエスは何と言われましたか(21)。そこでイエスが重要視されていることは、礼拝の場所ではなく、礼拝の対象です。
③知って礼拝しているか
サマリヤ人は主も異教の神々も礼拝していました(22)。対象があいまいだったのです。礼拝の対象である父に目を向けずに、その他のことを論じることは空しいことです。時・場所、形式、人の意欲や誠意で礼拝を評価する傾向は今もないでしょうか。
Ⅱ まことの礼拝者(23-24)
①父を礼拝する
父と呼ぶからには、子であるはずです。父と子の健全な関係には、どんなものが見られるでしょうか(いのちの繋がり、親しい交わり、信頼と尊敬、愛によって従う、供給と保護…)。神は霊ですから見ることはできません。私たちはどうすれば父をとらえられるでしょうか。
②御霊と真理によって
1:18に神を解き明かされるひとり子の神がおられること、1:12に御子を信じた者に神の子となる特権が与えられるとあります。この御子イエスは真理です(14:6)。イエスは生ける水(4:10)、御霊(7:37-39)を信じる者に与え、御霊によって神を父と呼びます(ロマ8:15)。
③父が求めておられる
父なる神は、ご自分を礼拝する「者」を求めておられます。礼拝する「こと」とはなっていません。「アバ、父」と親しく屈託なく呼び求める神の子どもとされ、今もその関係に生きる者を礼拝者として招いておられます。
Ⅲ 私たちの礼拝
①場所よりも関係
会堂で一緒にささげる礼拝に連なる幸いを私たちは知っています。しかし、それが叶わない状況も起こり得ますが、父を礼拝することを止める必然はありません。いつ、どこであっても、イエスによって神の子とされた者が、父よ、と呼び掛ける機会が礼拝となります。
②わたしを信じなさい
イエスを信じるとは、イエスが語られることに心を傾け、思い巡らし、わかったなら従うことです。牧師の説教を聞くことが礼拝ではありません。説教を含む礼拝のすべてのプログラムから、また日々読むみことばからの語り掛けを受け取り、応答する関係こそ礼拝です。
③今がその時
教会に集まれないことは残念ですか。主は私たちにまたしてもこのような状況に導かれたのはなぜでしょう。むしろ主は私たちをまことの礼拝者として育てようとしてくださっている機会と捉えましょう。一人ひとりが父なる神とのより深い交わりに進まれますように。
<おわりに> 今は電話など種々のコミュニケーションツールもあります。それらも活用して、この期間にお互いが主から語られたことを分かち合い、励まし合えたならば、どんなに幸いでしょう。そして、再び相集ってともに主を礼拝する機会が早く訪れますようにと待ち望みましょう(H.M.)
『苦しみで知る幸い』 (詩篇 119篇65-72節) 2021.1.3.
<はじめに> 新しい年を迎えましたが、私たちは昨年来、苦境の中を通っており、出口は未だ見えてはいません。その中にあって、私たちはどのように歩もうとしているでしょうか。
Ⅰ 苦しみの中で気付く
①歓迎できない苦しみ
私たちは苦難は直感的に嫌悪します。しかし現実には様々な苦しみに会います。苦しみが無ければどれほど良いかと思うことはしばしばですが、苦しみに会うことで得られるものがあることも経験しています。この作者も71節でそのことを告白しています。
②苦しみが示すもの
痛みは辛いことですが、私たちに異常・異変を教えるアラームです。もし無ければ気付くことがより困難です。作者は苦しみに会う前の自分を「迷い出ていた」(67)と言います。神のみことばは私たちに幸いを示します。そこからはみ出て危険へと向かっていたのです。
③苦しみを通して
苦しみに会うと私たちはより注意を払い、今まで軽視・無視していたことにも目を向けます。自己過信していた者も謙虚になります。高ぶる者(69)、鈍感(70)は苦しみに会う前の姿です。しかし今は、神のみことば、みおしえに従順に耳を傾けるようになりました(67,70)。
Ⅱ 苦しみから受ける幸い
①良くしてくださる神
良くしてくださる神(65,68)を、人は自分本位に都合良いことをしてくださると考えがちですが、神はそれ以上の御方です。人のために「善にして善を行う」(68文語訳)方です。知恵と恵みに満ちた方が、有限な存在である私たちに語り掛け、教えようとされています。
②教えてください
謙虚さは教えられやすさに現れます。「教えてください」(66,68)と首を垂れ、そのことばに耳を傾けようとします。すぐに理解できなくても、信じ(66)期待し、その真理を学ぼう(71)と深く思い巡らします。また語られたことを守り行います(67,69)。
③みことばを喜ぶ
このような神との交わりを持つから、「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした」(71)と告白できるのです。その人にとって神のことばは喜びであり(70)、金銀にもまさります(72)。現実に起こり来る様々な問題課題の中にも、神を見て、神に聞き、支えられる幸いです。
<おわりに> 苦しみがなくなることも幸いです。しかし、苦しみさえも良きことに変えて、私たちに益としてくださる神に信頼し、その御方のことばを聞き、共に歩む者の幸いは、さらにまさるものです。(H.M.)
『すべて心に納めて』 (ルカの福音書 2章15~21節) 2020.12.27.
<はじめに> クリスマスを越えて、今年最後の聖日になりました。越年に向かう慌しい営みの中ですが、クリスマスの節季でもありますから、そのストーリーに目を向けて、越年の備えとしても主の語りかけに耳を傾けていただけると幸いです。心に留めたい聖句は19節です。
Ⅰ これらのことを
①相次ぐ不思議
クリスマスの物語は不思議の連続です。天使が現れ、思いもよらないことを告げ、その通りに事が進みます。また、取り巻く人々の思惑によっても、聖家族は翻弄されています。羊飼いや博士の来訪、讃美と預言を語る人たちの言葉も驚くべきものでした。
②語られたことば
「この出来事」(15)「告げられたこと」(17)「話したこと」(18)「これらのこと」(19)は、RHEMA(ギリシャ語)が用いられています(1:37,38,2:51も)。「神のことばに不可能なことは一つもない」(1:37)からクリスマスは始まりました。出来事の背後には神のことばがありました。
③広く深く
個別の出来事も繋げて見ると、法則・傾向を見出せることがあります。科学的な探求と洞察は信仰にも必要です。また、表層現象ばかりに目を留めていてはなりません。その背後で語り掛け、働かれる神がおられます。主の御業とみことばを忘れ去ってはなりません。
Ⅱ すべて心に納めて
①大切なものとして
人の記憶はあいまいです。本当に大切なことには相応の管理をします。マリヤは一連の出来事とその言葉を、価値あるものとして心に銘記しました。ルカはこの福音書の序章をマリヤの証言を基に記しました。それで私たちもクリスマスの原風景にたどり着けます。
②すべてを納める
神の御業とみことばを手繰りながら歩むマリヤが、そのときすべてを理解・納得できたわけではありません。疑問や不安、理解しがたいことがたくさんあったことでしょう。彼女は自分の感覚・知識で取捨選択せず、すべてを主からのものとして受け取ったのです。
③心の容量
前例や経験値があり、理解納得できることだけしか受け取らない傾向性が、私たちにはあります。そうすると私たちは新しい局面を受け入れることはかなり難しくなります。主は新しいことをなさると期待するなら、マリヤのように心の容量を広げるべきではないでしょうか。
Ⅲ 思いを巡らして
①お仕舞にしない
忙しい時代に生きる私たちは、過去へ送る時、けりをつけて仕舞い込もうとします。マリヤはこれらのことを心に納めて終わりにしてはいません。出来事は過ぎ去り、言葉は消えます。しかし、心に納めたものは消え行かず、今も思い返すことができます。
②掌の中で
マリヤは、わかったこともわからないことも、継続して心の中で「これはどういうことなのだろう」と主と語らい、熟考を重ねていました。昨日までわからなかったことが、今日の私には新しい意味をもって迫ってくることがあります。神の言葉を思い巡らす者の特権です。
③神が何をしようとしておられるのか
マリヤの思い巡らしのテーマは、出来事とことばの背後におられる神ご自身の御心です。人のことばと行動、その背後にある思惑や計画に私たちは目を留めがちですが、すべてを治める主が、何を願い、何をなさろうとされているのかを探るのが、信仰の営みです。
<おわりに> 2020年を、そしてこれまでのお互いの歩みを、多忙な中にあっても振り返りつつ、背後に働かれ、語ってくださる主を見出せる人は幸いです。その主が2021年も導かれます。主が一人一人に御言葉を与えて、主の道を思い巡らせ、辿らせてくださいますように。(H.M.)
『天に栄光、地に平和』 (ルカの福音書 2章8-14節) 2020.12.20.
<はじめに> 子どもの賛美歌に♪「サンタクロースのおじいさん よい子を訪ねてそりの旅」とあります。クリスマスプレゼントは、よい子へのご褒美なのでしょうか。
Ⅰ 救い主が生まれた!
①クリスマスおめでとう
クリスマスが救い主イエスの誕生を祝う時であることは大方の周知です。しかし生まれた本人に祝意を伝えるだけでなく、「クリスマスおめでとう」と互いに言うのはどうしてでしょう。私たちお互いも喜び祝う意味があるから、この言葉を交わすはずです。
②大きな喜び(10)
御使いが羊飼いに伝えたメッセージは「救い主がお生まれになった」(11)です。それが「大きな喜び」(10)に繋がると言うのです。問題課題に満ちる人の世に、解決と救いがもたらされるなら、大きな喜びが沸き起こります。今、私が求める救いとは何でしょうか。
③いのちの発露(11)
救い主はみどりごとして現れました。そこに表されているのは力ではなく、いのちです。いのちには希望があり、やがて成長し、状況さえも一変させる力があります。支配する力ではなく、内から変革するいのちが、この民全体に与えられたことを喜び祝う時です。
Ⅱ 栄光が神に
①ベツレヘムの羊飼い
この御告げを聞いた羊飼いたちは、神殿での祭儀用の子羊を飼っていたという説もあります。人が罪を犯した代償として、神に赦しを乞うために律法は子羊をいけにえに要求していたからです。人の罪と直結する彼らの生業に、彼らはどんな思いを抱いていたでしょう。
②神の子羊
生まれたみどりごが成人した時、バプテスマのヨハネは彼を「世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)と呼びました。「しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。」(へブル9:26)
③褒美ではなくプレゼント
このみどりごとして現れた救い主こそ、すべての人に与えられた神からのプレゼントです。人の心に住みつく罪は、世の諸問題の根底に横たわる永遠の苦悩です。そこから人を救い出そうと神自ら動かれました。だから「栄光が神に」(14)と御使いたちが賛美しました。
Ⅲ 地の上で平和が
①平和を求めて
「平和」と聞くと、国際関係や対人関係を思い浮かべる方が多いでしょう。互いを認め合うことが声高に叫ばれる昨今ですが、それとともに相手より上に立とうとする動きも止むことはありません。どうすれば平和が訪れるのか、人類は未だ答えを模索中です。
②御使いの賛美(14)
御使いは、まず神に栄光を返しています。賛美は神を高め、すべてに勝る御方として崇めます。人は神の前にへりくだるのみです。自分の罪を抱え、どうすることもできない無力な者だからです。この神の前では、人が誇り、上に立つことなどできません。
③みこころにかなう人々に
神があがめられるところに平和が訪れます。「みこころにかなう人々」とはどんな人でしょうか。いい人、正しい人、頑張った人、親切な人でしょうか。神の御前にありのまま進み出て、自らの弱さ・乏しさ・罪深さを認めつつ、尚も神に期待する人は甘えているのでしょうか。
<おわりに> クリスマスはすべての人に与えられ、訪れています。しかし、クリスマスに生まれた救い主キリストが下さるプレゼントを受け取っているでしょうか。それは届き得ない高い所にあるのではありません。手の届くすぐそこにあります。クリスマスを受け取りましょう。(H.M.)
『飼葉桶に寝かせた』 (ルカの福音書 2章1-7節) 2020.12.13.
<はじめに> 「キリストは馬小屋で生まれたって言うけど、それは後代が救い主への劇的な脚色を施したかったからだと思う」という言葉を聞いたことがあります。どう思いますか。救い主の誕生について、聖書は何と言っているでしょう。
Ⅰ ナザレからベツレヘムへ
①聖書のフォーカス
2章は全世界から始まります。当時の世界帝国・ローマの皇帝アウグストゥス(BC27-AD14在位)が徴税のために住民登録の勅令を出します。しかし聖書は為政者ではなく、ガリラヤ出身の若い夫婦に目を向け、ベツレヘムにあった飼葉桶に焦点を合わせます。
②振り回された人たち
ヨセフと許嫁の妻マリアは共にガリラヤのナザレに住んでいました。マリアは身重で出産準備に入っていたはずです。そこに住民登録の勅令が出され、彼らも出身地ユダヤのベツレヘムへの旅を強いられます。為政者の権勢に振り回された市井の一組でした。
③隠れたプロデューサー
彼らはユダヤのベツレヘムに行かなければなりませんでした。それは救い主(キリスト)はユダヤのベツレヘムで生まれると預言が実現するためです(マタイ2:4-6、ミカ5:2)。そのために神は皇帝さえも動かします。歴史(History)は神の物語(His Story)とも言われます。
Ⅱ 飼葉桶に寝かせた
①Go To ふるさと
ヨセフとマリアが目指したのはダビデの町ベツレヘムでした。ヨセフがダビデの家系だったからです。町に彼らが着いても、宿屋には居場所がありませんでした(7)。住民登録で各地から帰省した人に満ち、宿屋にとっては千載一遇のチャンスだったでしょう。
②止む無く追いやられて
やがて身重の妻マリアが月が満ち、出産場所としてヨセフが見出したのは家畜小屋の片隅でした。そこでマリアは男の子を産み、その子を飼葉桶に寝かせました。積極的に望み、選んだのではありません。その時、両親はどんな思いだったでしょう。
③そこに働かれる神
人間的には最低最悪ですが、この状況下での可能な最善が飼葉桶でした。しかし、これがその夜、御使いが羊飼いに示した救い主のしるしとなりました(12,16)。このことから、神はどんな方だと言えるでしょうか。また人とはどういう者でしょうか。
Ⅲ 御子を迎える
①今も働かれる神
神の御子・救い主が、力と思惑に翻弄される人々の只中に生まれ、更にその中で弾き出される小さな存在として来られました。しかし、この物語を主導される神を、注意深く見るならば見出すことができます。私たちの生活の中にも同じ神が働いておられます。
②布にくるんで
両親は生まれたばかりの嬰児を為し得る限り愛といつくしみをもって包みます。飼葉桶や藁に直接触れないようにとです。値段や品質では測れないものがあります。私たちが救い主をどんな思いで迎え、それを何で表せるでしょうか。
③へりくだった者に恵みを
先週も「神は高ぶる者に敵対し、へりくだった者には恵みを与える」(ヤコブ4:6)を引用しました。クリスマスは御子・救い主がへりくだった者に包まれる時です。それはどのように表されることを神は願っているでしょうか。
<おわりに> 布にくるまれ飼葉桶に眠るみどりごこそ、クリスマスの絵です。この情景は神が描かれたもので、ここに神のメッセージが込められています。そのメッセージを一人ひとりが汲み出されますように。(H.M.)
『力ある方が私に』
(ルカの福音書 1章39-56節) 2020.12.6.
<はじめに> 何を幸せだと感じますか。人によって何を喜び、幸いと思うかには開きがあります。それを分かち合おうとしても、通じ合わないとかえって対立してしまうことさえあります。共に喜ぶには、同じところに立つ必要があります。この物語からその鍵を見出しましょう。
Ⅰ 聖霊に満たされ(39-45)
①急ぐマリア(39-40)
マリアの住むナザレ(26)から山地にあるユダの町までは、直線でも約100㎞あります。何のためにユダの町に行ったのでしょう。急いで行ったことに、マリアのどんな思いを感じ取れますか。エリサベツに会って、マリアはどんな挨拶の言葉を掛けたのでしょう。
②聖霊に満たされ(41)
エリサベツがマリアの挨拶を聞くと、まず胎児が喜び躍り、エリサベツも聖霊に満たされました。彼は「母の胎にいるときから聖霊に満たされ」(15)と御使いが告げています。続くエリサベツの言葉も合わせて「聖霊に満たされる」について思い巡らして見ましょう。
③エリサベツの言葉(42-45)
マリアは挨拶しただけですが、エリサベツはマリアの身に起こっていることを告げます。これらは聖霊が彼女に示されたのです(ヨハネ15:26、16:13-14)。彼女は神の御業を共に喜び、その実現を信じた人を祝福します。聖霊によって、このような語らいができるのです。
Ⅱ 私を幸いな者と(46-49)
①マグニフィカート
マリアも語り始めます。マグニフィカートと称されるこの賛歌は、ハンナの祈り(Ⅰサムエル2章)や詩篇の聖句が散りばめられています。マリアも「聖霊があなたの上に臨み」(35)と御告げを受けており、御言を思い起こさせる聖霊の働きは、人から人へと共振します。
②主を大きくする
「あがめる」はmagnify(拡大する)です。それは、神を讃え(=大いに喜び47)、主の力と偉大さを認め(49)、主の御前で自分を小さくすること(48)によってです。ただ自己卑下し、卑屈になるのではありません。御前にて、自分のありのままの姿を直視し、へりくだるのです。
③目を留めてくださる主
そんな小さな者に、主は目を留めて(48)、大いなることを計画されます(49)。マリアの計画とは異なりますが、彼女は主を優先し、心から喜びます。自分にこだわらず、神にこだわり、神をほめたたえる朗らかさも聖霊の御業です。
Ⅲ 主のあわれみ(49-56)
①2つのグループ
マリアの賛歌は普遍的な真理へと進みます。50-53節には3組の対比が描かれています。低い者・飢えた者は主を恐れる者と、権力のある者・富む者は心の思いの高ぶる者と結び付けられます。どうしてそう言えるのでしょうか。
②神による逆転
主が立ち上がられ働かれると、両者の立場が逆転します。一方には災いですが、他方には救いです。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える」(ヤコブ4:6)方です。この大原則は、しばし破られていても必ず実現します。
③主はあわれみを忘れず
あわれみは「真実の愛」とも訳され、相手がどうであろうとも揺るがない恩顧です。それを示すためにイスラエルに目を留められました。幾度も神を押しのけ、後ろに投げ捨てた民に、神はご自身の聖さと真実をもって忘れ去れませんでした。
<おわりに>
マリアもエリサベツも主のあわれみによる幸いを実感し、互いに分かち合い、主をあがめています。彼女たちの間で交わされた神の御業を喜ぶ語らいは、聖霊による賜物です。私たちの礼拝も語らいもこのようであるでしょうか。(H.M.)
『神から恵みを受けた』
(ルカの福音書 1 章24-40 節) 2020.11.29.
<はじめに>
「恵み」はクリスチャンが多用する言葉です(恵まれた、恵みです…)。神は恵みを与える方です。どんなことが恵みだと思いますか。すぐに恵みと感じられるものもあれば、後になって恵みだったとわかることもあります。恵みと感じ、受け取るとは、どうすることなのでしょう。
Ⅰ 戸惑うあいさつ(24-29)
①プロローグ(24-28)
マリアとは、どんな人ですか。わかることを挙げてください。何歳くらいだと思いますか。マリアの許に訪れたのは誰ですか。彼はマリアにどんな言葉をかけましたか。
「その6 か月目」の「その」とは何を指しているのでしょうか。
②おめでとう?(29)
マリアは御使いの言葉(29)にひどく戸惑い、考え込んでいます。御使いと会ったのも初めてでしょう。「おめでとう、恵まれた方」と言われる理由が分かりません。ヨセフの許嫁になったからでしょうか。「主がともにおられる」と改めて言われるのも、解せないことです。
③古の聖徒たちも
「主がともにおられる」と神が声掛けられた人は、旧約聖書の中に幾人も見出されます。彼らはみな、個人的に語られ、神から使命を託され、そのために奮い立つようにと促されています。この御声は、その人を通して新しい時代を切り開こうとされる時に響く言葉です。
Ⅱ 恵みを受けた(30-34)
①御使いのメッセージ
御使いは、これからマリアに何が起こり、どうするようにと言いましたか。
御使いは、生まれる子についてどんなことを言っていますか。この言葉を、マリアはどう感じたでしょう。神から恵みを受けた、と感じたでしょうか。
②神からの恵み(28・30)
英語訳にはfavore(d)とあります。神がその人に目を留めて、神の好意を示し、役割を分かち与えるために選ばれ、そのために必要なものを与えてくださる、そのすべてが恵みです。だから、神の恵みは、私たちにいつも受け入れやすく、甘美で軽いものとは限りません。
③どうして起こるのでしょう(34)
マリアの疑問は当然です。ヨセフと結ばれてからなら理解できますが、今なら困惑します。マリアが救い主を胎に宿す役割を受け取ると、どんなことが起こると予想できるでしょうか。私たちが救い主を受け入れようとする時、どんな葛藤や悩み、不安がありましたか。
Ⅲ 恵みを受け取る(35-40)
①神にはできる(35-37)
最初の人を造られた神は、マリアを身ごもらせることもできます。親類エリサベツの懐胎も神の御業です。神には不可能なことはありません。それは、神の御性質と御心に適ったところに、神ご自身の言葉を通して(37 欄外注)表されます。
②ご覧ください(38)
31・36 節で御使いはマリアに何を「見なさい」と言いましたか。それはすぐに見られますか。39-40 節で、マリアがユダの町に急いだのは、何のためでしょうか。
マリアが「ご覧ください」(38)と言ったとき、彼女の何を見てもらおうとしているのでしょうか。
③あなたのおことばどおり
神の恵みが示される時、神の御心と私の思いがいつでも一致するとは限りません。むしろ違う方が多いでしょう。その時、私たちはどちらを優先しますか。神が語られることは真実で信頼に足り、そちらを選んでいるでしょうか。そういう人が主のしもべ、はしためです。
<おわりに> 神から恵みを受けることは、決して軽いことではありません。神が語られる言葉に向き合うとき、私たちは神を知り、自分が何者であるかを知るきっかけになります。それこそ神の恵みです。(H.M.)
『父の心、子の心』
(マラキ書 3 章16 節-4 章6 節) 2020.11.22.
<はじめに>
冬を前に感染拡大の第三波が予測通りに顕著になって来ました。その一因に「コロ
ナ疲れ」があると言われます。私たちは大切だと教えられたことを、丁寧に心掛けることが苦手です。倦怠感を抱き、心を伴わない形式に流れる人たちは、いつでもいます。マラキの時代もそうでした。
Ⅰ 倦み疲れ怠ける人たち
①マラキ書と時代背景
マラキ(=主の使者)は、BC5 世紀終わり、ネヘミヤと同時期に活動した預言者と見られます。バビロン捕囚から帰還したユダヤ人は、神殿を再建してイスラエル再興を期したのですが、思い通りに事は進まず、収穫も乏しく、主への礼拝も形式的になって行きました。
②冷めた言葉
本書は主と民のやり取りで綴られています。不具な物を主に献げ(1 章)、妻を離縁して異邦の女をめとり(2 章)、不義・不正も横行(3 章)していました。主の指摘に民が「どのように」「何と」(1:2,6,7,2:17,3:7,8,13)と返すと、主は「あなたがたは言う」と本音を暴露されます。
③記憶の書が記された(3:16-18)
主の厳しい言葉に失望してはなりません。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちを忘れ、見捨てられたのではないからです(16)。主のあわれみは絶えることなく注がれています。主は「彼らはわたしのもの、宝となる」(17)と言われ、善悪をさばかれ、公にされます(18)。
Ⅱ その日が来る(4:1-4)
①「その日」とは
預言書でよく見る表現で、人の世に主なる神が顕現され、著しく働かれるその時を指します。究極的にはこの世の終末を指していて、その時すべてが成就しますが、その手前にある幾つかの時も重ね見ています。
②二面性
その日について、対照的な局面が描かれています。すべて高ぶる者、悪を行う者には焼き尽くすさばきの時となりますが、主の名を恐れる者には義の太陽・癒しの翼(2)です。同じ主の御顔も、見る者の実質と主との関係によって、その印象は大きく異なるからです。
③秩序の神
3:14-15 は倦怠感を抱く信仰者の本音です。神は信頼に足らない方とし、その律法と言葉を後ろに投げ捨てると、空しさと混沌・混乱に包まれます。それでも主は秩序の神です。その律法・掟・定めを彼らの前に再度差し出し、「覚えよ」(4)と迫られます。
Ⅲ 父の心を子に(4:5-6)
①どちらが先か
どうして「子の心をその父に向けさせる」方が後なのか、むしろ先ではないか?と問われたことがあります。父は神、子は人であるなら、父に向けて心を翻し、悔い改めて立ち返るべきは人なのでは、という疑問です。どう思いますか。
②まず父の心から
確かに人は神に立ち返るべきです。しかし、悲しいかな、人から神に近づき、神に受け入れてもらえる状況ではありません。それほど神と人の距離は遠く隔たっていて、間に立ち塞がる罪の裂け目は大きいのです。だから、まず御心を罪人に向けなければなりません。
③恵み・あわれみの実現(ヨハネ1:17)
それこそ神の恵み・あわれみです。それは、大いなる恐るべき日が来る前に預言者を遣わし、神の恵みとあわれみが実現したことを告げ知らせ、人々に悔い改めを促します。バプテスマのヨハネです。そして、恵みとまことはイエス・キリストによって実現します。
<おわりに> クリスマスが一か月後に近づいて来ました。神の恵みとあわれみはもう実現しています。主の到来の終わりの時(6)も近づいています。今は恵みの時、今は救いの日です(Ⅱコリント6:2)。私たちの心を主に向けて、立ち返ろうではありませんか。(H.M.)
2020 年11 月15 日
宣教DVD ショートメッセージ
「神のみことばはどこに?」(使徒の働き6 章7,8 章4 節)
台湾派遣宣教師 平瀬 義樹
◎聖書朗読 使徒の働き6 章7、8 章4 節
6:7 前半 こうして、神のことばはますます広まっていき、エルサレムで弟子の数が非常に増えていった。
8:4 散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。
1.教会の成長・拡大
使徒の働きは、初代教会の歴史です。古い聖書の、文語訳聖書の「使徒行伝」、これが中国語の書名です。まさに「聖霊に満たされた使徒たちが生き生きと活動した信仰生活の歩みが記されています。それを読むと、教会が目覚ましい勢いで成長したことがわかります。主イエスは、天に上られる前に、エルサレムにとどまって聖霊が与えられるのを待つよう、弟子たちにお命じになりまし
た。その時の弟子たちは、およそ120 名でした。(使徒1:15) ところが、ペンテコステの日に聖霊が弟子たちに降られ、彼らが御霊に満たされて神のみことばを宣べ伝えた時、その日だけで、三千人がバプテスマを受けて、弟子たちの群れ
に加えられました。(使徒2:41) 主は、毎日、主を信じて救われる人々を教会に加えて下さり、あまり日が経たないうちに、弟子の数が男性だけでも五千人になりました。(使徒4:4) 使徒5:14 には、「そして、主を信じる者たちはますます増え、男も女も大勢になった。」とあり、いま、お開きしました、使徒6:7 には、「こうして、神のことばはますます広まっていき、エルサレムで弟子の数が非常に増えていった。・・・」とあります。聖書はその具体的な数を記していません。このような目覚ましい教会の成長、伝道の拡大は、どのようにして起こったのでしょうか。使徒の働きを読むと、ひとつのキーワードに要約された節がいくつもあることに気が付きます。それは、使徒の働きの随所にちりばめられている;「こうして・・・」という節です。5つあります。
1) 「こうして神のことばは、ますます広まって行き…」(使徒6:7)
2) 「こうして教会は、…聖霊に励まされて前進し続けた」(使徒9:31)
3) 「こうして、大ぜいの人が主に導かれた。」(使徒11:24)
4) 「こうして諸教会は、その信仰を強められ、日ごとに人数を増して行った。」(使徒16:5)
5) 「こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。」(使徒19:20)
どの節も「こうして」という言葉で始まっています。「こうして」とは、「どうして」なのでしょう。それを理解すれば、初代教会の成長の秘訣、伝道の方策を見つけることができるのではないでしょうか。実は、この「こうして」の前に、初代教会は、幾多の問題・課題に直面するのです。
2. 教会は、問題・課題によって成長する 問題・課題を解決することによって成長する。まず第一は、教会は「問題・課題」によって成長するということです。6:7 前半 こうして、神のことばはますます広まっていき、エルサレムで弟子の数が非常に増えていった。最初の「こうして」とある箇所は、使徒6 章1-7 節です。ここにある問題は、教会内のやもめたちへの食糧の配給に関してのものでした。当時の社会は、貧富の差が大きく、教会が、貧しい人たちを助けていました。エルサレム教会で
は、豊かな人たちがその財産を売り、その代金を教会にささげ、それが貧しい人々に分け与えられていたのです。(使徒4:34)けれども、どんなに細やかな配慮をしていても、人の集まる所には、何らかのトラブルが起こるものです。ギリシャ語を話すユダヤ人から「ヘブル語のやもめたちには毎日配給があるのに、私たちには、配給がない日がある。」という苦情が出ました。この背景にはヘブル語を話す人たちとギリシャ語を話す人たちとの間の不一致があったのです。ギリシャ語を話すユダヤ人というのは、外国生まれのユダヤ人で、外国から、母国に帰ってきたのですが、まだヘブル語を話せないでいる人たちのことでした。この人たちは、ことばの壁もあり、いろいろな面で肩身の狭い思いをしていたのでしょう。初代教会は、多言語、多文化の教会でした。 それだけでもいろんなトラブルが起こる要素が多くあります。けれども、教会は、そのことばの壁、文化の壁を乗り越えて一つとなって行かなければなりませんでした。愛する兄弟姉妹、けれども、これは海外の教会、初代教会だけの問題・課題でしょうか?私たちの心に他の人を思いやる心、受け入れる心、赦す心が少しづつ萎えて、失われていってはいないでしょうか。「やもめたちへの配給」の問題には、教会の霊的な一致という大きな課題を含んでいましたが、神さまは、この問題を通して、教会に、さらに一致を与えようとされたのです。7 節に;「こうして、神のことばはますます広まっていき」とあるように、教会は、この問題・課題によって、もっと正確に言うなら、この問題・課題を解決することによって成長して行ったのです。しかもどこか外からというのではなく、教会の中から、その解決の為に人材を選び、その任に当たるようにという方法を取ったのです。教会は、問題・課題のないところではありません。けれども、教会は問題・課題を克服し、解決していくところです。そして、その教会の問題・課題が克服され、解決されていく時、神のみことばはさらに広がっていくのです。主の導きと助けによって、問題・課題の解決を求めて進むとき、主は私たちになすべきことを示してくださるのではないでしょうか。
3.聖言による成長 みことばを宣べ伝えての成長 8 章4 節をご覧ください。8:4 散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。この8 章では、初代教会の問題は、いっそう深刻なものとなり、彼らは、さらに厳しい現実に直面させられます。サウロによるこの道の者たちへの情け容赦ない迫害です。あの執事の一人、御霊と知恵とに満ちた、恵みと信仰と力に満ちたステパノが、公衆の面前で生命を落としたのです。それはあまりにも突然の、受け入れられない事態でした。初代教会の人々の心の痛みと悲しみは、察するに余りあります。「主よ、なぜですか?」「主よ、どうしてですか?」サウロの迫害は、さらに勢いを増し、激化します。クリスチャンたちは、非常な恐れと募る憂いの思いをもって、散り散りバラバラに散らされていきました。「主よ、いつまでですか?」「どこにおられるのですか?助けて下さらないのですか?」愛する兄弟姉妹、彼らは散らされて何をしたのでしょうか?
もう一度8:4 の後半を見てみましょう。「・・・みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。」散らされた人々・初代教会の人々がしたこと。それはみことばを伝えたということでした。ルカは、このことを4 章31 節では「神のことば」、5 章20 節では「いのちのことば」、8 章25 節では「主のことば」、そして15 章7 節では「福音のことば」と呼んで、使徒の働きの記述の中で、繰り返し強調しています。人は、ほんとうの自由と救いを与える神の生けるみことばこそが、いつの時代にも、どのような状況においても、教会が聞くべき、そして信じるべき、そして宣べ伝えるべき、教会の宣教の中心なのです。8:4 散らされた人は・・・みことばを伝えながら巡り歩きました。確かに、迫害者たちの目から見れば、エルサレムから散り散りばらばらに散らされていったのですが、けれども、その視点を聖霊の力による宣教の前進という所に置くとき、この「散らされた」という現実は、主の御手によって遣わされていった派遣の旅路ということになります。宣教の困難についての理由を挙げればきりがありません。もし「この状況では、宣教活動は難しい、自粛しよう」という時があるとするなら、それはいつでも、そのような時になるかもしれません。特に、彼らの置かれていた時は、まさに、そのような状況に、十分当てはまる時だったでしょう。けれども、彼らは、この困難な迫害の時、追放と離散の時をそのようには捕らえませんでした。むしろ彼らは、散らされていくことを宣教の拡大と前進の時と受け止め、果敢に福音を宣べ伝えることにチャレンジしていったのです。
この初代教会の信仰者の生き生きとした姿には、時に、そのしたたかさやしぶとさにすら、痛快な感じを覚えます。今、私たちは、それぞれの家庭に、それぞの会社に、それぞれの学校に、地域に、社会に、国に、皆と離ればなれになり、散り散りになって、一人で置かれているのではありません。主イエスさまご自身の約束;「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)に基づいて、聖霊による力と励まし、慰めとを受けて、見えない公同の教会の交わりの中で、今、ここに遣わされているのです。ですから私たちも、決して私たちの存在の小ささや弱さ、力のなさのゆえに意気消沈することなく、むしろ散らされてこその主の証人であるとのもえる思い・信仰をもって、この時代にまっすぐに生きていく者でありましょう。
『クリスマスの起源』
(創世記 3 章8-15 節) 2020.11.8.
<はじめに> 11 月に入り、街中や店先にもクリスマスを見つけられる昨今です。
毎年巡り来るクリスマスが盛大に祝われるのは、どうしてなのでしょう。
Ⅰ エデンの園で
①神に造られた人(1-2 章)
神は天地万物を造り、最後にご自分のかたちに似せて人を造られ、エデンの園の管理を彼に任せました(1:26)。神ご自身と人が人格的交流を持つことを願われたからです。更に、人が一人であることは良くないと、ふさわしい助け手として女をも造られました(2:22)。
②惑わしの声(3:1-6)
蛇の狡猾さを利用するサタンが背後に働いています。彼は「神は本当に言われたのか」(1)と疑問を投げ掛け、曖昧さと不安を引き出し(2,3)、権威ある者のような言葉で惑わし(4,5)、神よりも自分を信頼させて違反に至らせます(6)。欺く者の常套手段です。
③腰の覆い(7)
善悪の知識の木(2:17)から食べた二人は、目が開かれて自分たちが裸であることを知り、それを隠そうといちじくの葉で腰の覆いを作りました。事の良し悪しをすべて自分が基準となって判断するようになり、都合の悪いものは見えないように覆い隠すことを始めました。
Ⅱ 断たれた交わり
①主の御顔を避けて(8)
いつものように人と語らい交わろうとされる神が園を歩き回られます。すべてをご存知の神である主の前にありのままで出られた二人が、御顔を避けて身を隠すようになります。直感的に自分自身が御前に悪であると自覚しての行動です。
②罪のスパイラル(9-13)
「あなたはどこにいるのか」の神の呼び掛けに、人は隠れ場から答えます。交わりの習性は残っていました。そこで二人が神の禁制を破ったことも明らかになりますが、それぞれ責任転嫁を始めます。自分の罪の責任を負うことからも逃げ出したいからです。
③わたしは敵意を置く(14-15)
神がみことばで作られたこの世界を、サタンは言葉で惑わし壊しました。14 節は蛇への宣告で、15 節は蛇の狡猾さに乗じて神に反逆したサタンに対する宣戦布告です。サタンが神とそのことばに敵対したため、神はサタンとの間に敵意を永続的に置かれました。
Ⅲ 救いと回復に向けての戦い
①復讐の神(詩篇18:47、94:1)
神である主は至高者であるが故に、ご自分に敵対する者に徹底的に復讐され、愛する者のために戦われます。彼により壊されたこの世界と交わりをそのまま放置せず、即刻対抗して建て直す戦いに打って出られます。神は罪を犯した人をなお愛されているからです。
②世代を越えた戦い
この戦いは人類全体、子々孫々に及ぶものです。サタンの謀略への敵意として置かれた「彼」にサタンは襲い掛かり傷つけますが、「彼」はサタンに致命傷を与える勝利者です。これが、人を救う神が描かれたシナリオです。「彼」とは誰でしょうか。
③神は私たちの味方
神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。(ロマ8:31-32)
<おわりに> 神のことばを疑い、逆らうことで、人は神に罪を犯しました。その人を罪から救うために、神はすぐに立ち上がられました。そのために神はクリスマスに御子を世に下されました。そして彼のことばを信じる者を救うと定められました。このギフトを受け取っていますか。(H.M.)
『よみがえりの主』
(ヨハネの福音書 11 章17-32 節) 2020.11.1.召天者記念礼拝
<はじめに>
「召天者」という言葉をどう捉えるのかは様々です。今日は、地上生涯を終えられた
お互いの近親者をそれぞれが思い起こしつつ、私たちが受け継いでいるいのちの流れに目を留め、またやがて私たちにも訪れる死について、イエスの物語から共に思い巡らす時です。
Ⅰ 遠ざけたい、遠ざけ難い(17-22)
①イエスが見た光景イエスがベタニヤに来られた時、既にラザロは墓に葬られて4 日が経っていました(17)。ラザロはマルタ・マリアの兄弟です。彼女らの許に弔い客も大勢集まっているところに、イエス到着の知らせが入り、マルタは出迎えに行き、マリアは家で座っていました(19)。
②死ななかったでしょうに(21、32)
イエスが居られたなら、ラザロも癒されて死ななかった、と姉妹は開口一番に言います。裏返せば、死の現実はイエスにもどうすることもできない、とも取れます。マルタが続けた信頼のことば(22)から、主が間に合わなかった無念さを悲しんでいることが分かります。
③厳粛な死の事実
死は絶対的で不可逆なブラックホールのように私たちの行く手に立ち塞がります。そこに誰もが吸い込まれて行きます。私たちのささやかな願いは、死を避けたい、少しでも遠ざけようと、為し得る限りのことをします。それでも、厳粛なその日はやがて必ず訪れます。
Ⅱ イエスのことば(23-27)
①「あなたの兄弟はよみがえります」(23-24)
このイエスのことばは衝撃です。肉体の死が終わりではなく、死の後に続く別のいのちがあると明言されます。それがいつ、どのような形で実現するのでしょうか。マルタは、終わりの日がよみがえりの時だと捉えました。終わりの日は、新しい始まりでもあります。
②「わたしはよみがえりです」(25)
よみがえりは死が前提にあります。肉体の死は袋小路ではなく、新しいいのちが現れる舞台です。事実、イエスは十字架で死なれた後、3 日目によみがえられました。それは元に戻るのではありません。神の御前で生きる永遠のいのちが輝き現れることです。
③「永遠に死ぬことがありません」(26)
いのちは二つあります。一つは肉体の命で、もう一つは永遠のいのちです(→ヨハネ17:3)。「決して死ぬことはない」のは永遠のいのちであって、肉体にあって生きていてイエスを信じる者には必ず与えられると約束されています。「あなたは、このことを信じますか。」
Ⅲ 信じる者に与えられる(25-27)
①イエスとはどんな方か
「わたしを信じる者」とイエスは言われました。イエスが如何なる方だから、私たちは信じているのでしょうか。この問い掛けは繰り返され、答えは更新され続けるものです。聖書から答えを見出すとともに、主との交わりから得た今日の答えを主は待っておられます。
②はい、主よ。信じております(27)
マルタは明解にイエスが神の子キリストであると信仰を告白しました。主はそれを受け取り、その信仰をより具体的に表すようにと育て導かれます(39-40)。信じるとはポジションではなく主との関係です。毎瞬更新され、深められていくことを主は望んでおられます。
③ゆだねよう
主イエスへの信仰が今どうなっているかは、人の目には明白にわかりません。そう見えないときにも、やはり主を信じるのです。主の愛とあわれみは絶大で、私たちの不十分・失敗・無力を越えて働くものです。その主に自分も愛する者もゆだねることができます。
<おわりに>
「わたしに従った者」ではなく、「わたしを信じる者」は死んでも生きるのです、と言われたイエスに目を留めましょう。私たち人間側の力やわざではなく、どこまでもイエスへの信仰を主は私たちに求められていることです。(H.M.)
『イエスは知っていた』
(ヨハネの福音書 6 章60-71 節) 2020.10.25
<はじめに>
パンの奇跡から始まった6 章の一連の物語の終局です。53 節以下のイエスの言葉
は、イエスが彼らに伝えたい真理を率直に表したのですが、聞いていた弟子たちに強い嫌悪と反発、動揺を与えます(60)。しかし、彼らの反応さえイエスは「初めから知っておられた」(64)のです。
Ⅰ 信じない者たちが誰か(60-66)
①肉は益をもたらさない(63)
律法で厳に禁じられている「血を飲む」ことをイエスが説いたのに、弟子たちはつまづき文句を言います(60-61)。彼らは依然として実際の飲食の概念にとらわれていました。63 節の「肉」は「(御)霊」の対比語で、イエスは彼らに何とかそこから脱するようにと語られます。
②信じるか、信じないか
どうすれば人は信じるのでしょうか。論理的に納得する証拠と説明があり、自分も同じ見解ならば、素直に受け入れることができます。では、話の内容は不可解でも、なお信じる道はあるでしょうか。「ことばは霊であり、またいのちです」(63)を思い巡らしましょう。
③初めから知っておられたイエス(64-66)
救い主が人の罪のために死ぬことはメシア預言の神髄(イザヤ53:3-6,8)で、人はこれを信じずに拒絶することまで予告されています。その如く「肉」に頼む弟子はイエスから離れ去りました。しかし神は今もご自身に引き寄せようと、ことば・霊をもって働き掛けられます。
Ⅱ 裏切る者が誰か(67-71)
①シモン・ペテロの告白(67-69)
イエスを王にしようと押し寄せる群衆(15)が一夜で霧散したこの状況で、イエスは12 弟子も同調するのかと問われます。シモン・ペテロは代表してイエスへの信頼を告白します。それは、彼らはイエスのことばを理解・納得できたからでしょうか。
②わたしが選んだ(70-71)
イエスの選び・予知を運命的な不可避なものと受け取ってはなりません。選びは招きです。選ばれましたが、それに応じるか否かは本人の意志・選択です。そこに道徳性・善悪が生じます。イエスは悪魔を選んだのではなく、選ばれた者が主に逆らう道を選んだのです。
③理解を越えた信頼へ
イエスのことばを聞いて、示そうとされた主の十字架の真理を12 弟子が悟れませんでした(ルカ9:44-45 他)。でも彼らはイエスを神の聖者(すなわち救い主)と信じ、ついて行きます。主も彼らの応答を喜ばれたことでしょう。これは私たちの信仰のモデルです。
Ⅲ 何をしようとしているのか(1-13)
①イエスの意図・目的(6)
本章初めの奇跡に戻ります。6 節の「何を」が、僅かな食料で群衆を満腹にする奇跡を指
しているだけでしょうか。その後の対話を通してご自分が天から下って来たいのちのパン
であることを告げ、ご自身の肉と血を与えるため十字架に進まれることを指しています。
②望むだけ与えられる(11)
イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげられたように、十字架でご自身のいのちを与えることを心から願っておられます。そして求める者には望むだけ与えられます。私たちが主イエスに必要でも赦しでも、何事でも大胆に願い求めることをイエスは待っておられます。
③一つも無駄にならないように(12)
パンで満腹になった人々は、その後に主が語られたことばを食べ残して去りました。しかし、12 弟子はそのことばを拾い集め、主を信じました。主のことばは無駄ではなかったのです。イエスはパンくず、人に捨てられた石(詩篇118:22-24)です。
<おわりに> パンの奇跡自体は四福音書すべてに記されていますが、後日譚はヨハネのみです。そこでイエスご自身が何者で、何を為し、伝え、期待されたのかが分かります。同じものを見聞きした者たちが二分されています。このイエスとともにあなたは歩いて行きますか。(H.M.)
『天から下ってきたパン』③
(ヨハネの福音書 6 章51-65 節) 2020年10月18日
<はじめに>
「わたしの与えるパンは…わたしの肉です」(51)のイエスのことばに、ユダヤ人たちは更にざわつきます(52)。相手の話がよくわからない、納得いかない場合どうしますか。言葉尻を捕らえる論争に入りますか。相手との関係を見直しますか。他に取れる対応は何かありますか。
Ⅰ イエスにつまづく
①絞られる聴衆
「これが…会堂で話されたこと」(59)とあります。どこでイエスは会堂に入られたのでしょう。最初はカペナウムまで追って来た群衆に、やがてユダヤ人たちに、60 節以降は弟子たちにイエスは話されています。聴衆が入れ替わったのではなく、絞られて行ったのです。
②聞くに堪えない話(60-61)
弟子の多くが「ひどい話」とイエスの語られることに嫌悪感をあらわにします。モーセの律法に厳に禁じられている「血を飲む」こと(レビ記7:26-27、17:10-14 等)をイエスが要求したからです。イエスに信頼し、期待してついて来た弟子の多くが文句を言い出しました。
③つまづくのは(61-65)
イエスのことばを文字通り現実的に捉えた故に、彼らはつまづきました。彼らはイエスよりも自分が正しいと思ったからです。これは今でも起こり得ることです。父なる神は今も人に働き掛けておられ(65)、その価値観が覆されると、その人はどうするのでしょう(62)。
Ⅱ わたしの肉、わたしの血(53-58)
①霊・いのちのことば(63)
「どうやって自分の肉を与えて食べさせるのか」(52)に対して、イエスは本気で答えます。53-56 節に繰り返される「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」には、天から下って来たイエスが行う父のみこころ(38)が表されています。これがイエスの食物です(ヨハ4:34)。
②まことの食べ物・飲み物
肉と血からユダヤ人ならいけにえを連想できます。これはやがて現れる救い主の予表です。彼はすべての人の罪を負って、自分のいのちを代償のささげ物として差し出す、と預言されていますが、ユダヤ人はそれに思い至りません(イザヤ53:4-6,10)。
③わたしを食べる者
ここでイエスは、自らが進まれる十字架を暗に語られるとともに、この贖いの御業に与る者に永遠のいのちが与えられ(54)、キリストとの交わりの内に生きること(55,56)を約束されます。主を信じて聖餐に与る者にも、等しくこの約束は有効です。
Ⅲ 弟子の道
①聖餐に与る
聖餐式において、イエスの肉と血を魔術的に食するのではありません。イエスの死によって提供されている罪の贖いと生まれ変わり、永遠のいのちを、新たに受け取ります。そして、主の弟子としてイエスの足跡に倣って生きる(Ⅰペテロ2:21)決意を新たにします。
②十字架を負う
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(ルカ9:23)。主の弟子となる者にも、自分が負うべき十字架があります。従い行く者の前には主イエスの足跡があり、慰めと励まし、希望を汲み出せます。
③日々弟子として生きる
師にあこがれ、尊敬と期待をもって弟子となる者はそれなりにいます。しかし、66 節には弟子の多くがイエスから離れ、共に歩もうとはしなくなったのは何故でしょうか。主の弟子とは立場・ポジションではなく、日々主を信頼し、主との関係を保つ者です。
<おわりに> 食することを用いて、主イエスはご自分と弟子たちとの関係を表されました。イエスが成し遂げてくださった十字架の贖いの恵みを日々に仰ぎ受け取り、また主が分かち与えられる自分用の十字架さえも主とともに担い進み行くのが、主の弟子です。(H.M.)
『天から下ってきたパン』② 2020.10.11
(ヨハネの福音書 6 章41-52 節)
<はじめに> パンを求めてイエスを追いかけて来た群衆の追求が、ここに至って鈍り始めます。イエスの語られることがよくわからなかったからです。期待と信頼がぐらつくとき、私たちはどう対処しているでしょうか。
Ⅰ 文句を言うユダヤ人
①群衆⇒ユダヤ人(41-42)
イエスを取り囲んで対話して来た群衆の中にいたユダヤ人たちは、イエスの「わたしは天から下って来た」の表現を見過ごしにできませんでした。彼らはイエスの出自を知っており、その彼が神から遣わされた者である、と名乗ったことに不満を抱きました。
②自分たちの間で(43)
ユダヤ人の文句は小声で、自分たちの間で交わされたものでした。それをイエスは諫めます。今まで彼らはイエスと対話して来ましたが、41 節以降はイエスに直接話すことを止めて、小声で近しい者同士で異議を唱え始めます。よく見かける光景です。
③イエスの呼び掛け(43)
イエスは、彼らの顔が自分から逸れて行くのを見逃さず、43 節の警告を告げます。イエスとの対話を止めてはなりません。不満・疑問・異論さえも、イエスに投げ掛けてよいのです。イエスはなおも彼らに語り続けていますが、もはや対話にはなっていません(52)。
Ⅱ 父が引き寄せる者
①「イエスのもとに来る者」(44)
独特なこの表現は、37・45 節にも出て来ます。イエスを遣わされた父が引き寄せられることが、イエスのもとに来る必須条件です。父なる神は今も人をイエスに引き寄せようと働いておられます。神はどんな手段・方法を用いて働いておられるでしょうか。
②神によって教えられる(45)
神の人への自己開示を「啓示」と言います。自然界や人間の人格・良心、歴史の出来事から、神についてある程度理解できます(一般啓示)。更に奇跡と不思議、ユダヤ人の歴史、聖書、神の御子イエスを通して、神と御心はより明確に現されています(特別啓示)。
③父を見た者(46)
父なる神を人は見たことがなく、見ることはできませんが、これら啓示によって神を知ることができます。その筆頭が天から下って来たイエスです。父なる神は私たちをこのイエスに引き寄せようと今も働かれ、イエスを通して私たちは父なる神を見るのです。
Ⅲ このパンを食べる者
①信じる=食べる(47)
出された食事を食べるには、提供者を信じなければなりません。また、食べるとは自らが生きるために他のいのちをいただくことです。食べ続けなければ私たちは生きられません。それは肉体だけでなく、霊の世界でも同様です。
②先祖はマナを食べた(49)
マナは神の奇跡で、ユダヤ人の先祖はこれを食べたが、死にました。彼らの「食べる」と、イエスの「食べる」には、食べた物が違います。それとともに、神からの啓示である奇跡に触れ、それに与るだけでは、イエスの示す「食べる=信じる」には至っていません。
③わたしはいのちのパン(48,50-52)
信じる者が持つ永遠のいのちは、終わりの日によみがえることで明らかにされます(44)。永遠のいのちを与え、支える食物は、天から下って来た生けるパンであるイエスです。それはやがてご自身のからだ(肉)を与えることで実現しますが、何を指しているのでしょう。
<おわりに> 父なる神は、今まで見聞きしたことのない新しい食べ物を私たちに差し出されます。それは天から下って来たイエスです。それをいただきましたか。今もいただいているでしょうか。躊躇を覚えるなら、父なる神にさらに尋ねれば良いのです。横を向いてはなりません。(H.M.)
『天から下ってきたパン①』
(ヨハネの福音書 6 章32-41 節) 2020.10.4
<はじめに> 前日にイエスの奇跡によってパンを食べて満足した群衆は、「あの奇跡をもう一度、願わくばいつも、いつまでも」と願ってイエスを捜し出して求めています(34)。しかしイエスは、パンの奇跡から彼らに伝えたい真意がありました。「わたしがいのちのパンです」(35)こそ、それです。
Ⅰ イエスが語るパン(32-36)
①天からのまことのパン(32-33)
モーセが与えたマナは天来のものでしたが、後に来るまことのパンの予表・影に過ぎません。神は世にいのちを与えるために、天からパンを下されるのです。いのちと直結するパンを引き合いして、イエスは目に見えない霊的真理へと話を進められています。
②わたしがいのちのパン(35)
35 節で真理が開陳されます。イエスご自身こそ、父なる神が世にいのちを与えるために天から下された方です。「わたしは…」は本書で17 回出て来る特徴的な表現です。「来る」「信じる」は主イエスと私たち人間の関係を表し、観念ではなく行動に表れます。
③先の奇跡の意味(34,36)
奇跡もたとえ話も、卑近な事物から始めて天的・霊的真理へと導く踏み台に過ぎません。そこで展開される出来事・物語が如何に良く願わしくとも、それに固執してはなりません。しかし群衆は腹を満たす「パン」を求め続け(34)、与え主と真理に目を向けません(36)。
Ⅱ イエスが指し示すもの(35-40)
①「いのち」とは(35)
パンはいのちを支えるものです。イエスはご自身がいのちを与えるものと紹介されました。いのちとは何でしょうか。私たちが思い描くいのちと、主が語られるいのちは同じでしょうか。「終わりの日によみがえらせる」(39,40)という表現からいのちの特徴を見出してください。
②「わたしを遣わされた方」とは(38-39)
その方をイエスは「わたしの父」と呼びます(32,40)。「父」は神を指す別称です。ならば、イエスは何者なのでしょうか。イエスは、派遣者から使命完遂のためにこの世に遣わされました(38)。イエスを信じるとは、遣わした方と遣わされた方の意図・心を受け取ることです。
③「みこころ」とは(39-40)
イエスに触れ、その御業と教えを見聞きして、この方こそ父なる神が遣わされた者・神の御子であると信じる者すべてに、神は永遠のいのちを与えられると約束されます。そのいのちは終わりの日によみがえることで明らかに表れます。信じる者はイエスのもとに来ます。
Ⅲ 群衆が求めるもの
①信じるきっかけ~求めること(34)
三度イエスが「パンを与える」(32-33)と言われたことに、群衆は色めき立ち、イエスにそのパンを求めます(34)。現在的・現世的・物質的な求めから始まって、永遠的・永続的・霊的な事柄に目が開かれて行くことは十分あり得ます。そのために主はしるしを行われます。
②信仰の飛躍~しるしの奥にあるもの(35)
群衆が求めるパンからパンに込められた真理へと、イエスは一気に進まれます。神は「目を高く上げて、見よ」(イザヤ40:26)と、視座・視点の飛躍を促されます。神が見せようとされる世界へとなだらかなスロープを上るのではなく、高低差を一気に飛び越えるのです。
③イエスが与えるものを求める(37)
前段落では、イエスと群衆はかみ合わない対話でも共に進んで来ました。しかし、ここに至って両者の目指す方向性の違いが明確になります。このような時、私たちはどうするでしょうか。イエスを信じる者とは「わたしのもとに来る者」です(35,37)。
<おわりに> 自分の求めるもの・目指す方向へと突っ走ろうとし、その実現のために主イエスさえも利用しようはしていないでしょうか。イエスを信じるとは、主が与えてくださるものが最善であり、いつでも主が指し示される方向に軌道修正する柔らかさです。それを持ってますか(H.M.)
『なくならない食物』2020.9.27
(ヨハネの福音書 6 章22~34 節)
<はじめに> 前日に向こう岸でパンの奇跡(1-15)に与った群衆が、イエスを捜しにカペナウムまで追い掛け、ようやくイエスを捜し当てました(22-25)。25 節以降は、群衆とイエスの対話が綴られています。私たちが折々に対話するとき、どんなことを心掛けていますか。
Ⅰ 捜す人々
①探≠捜(25-27)
欲しいものには「探す」、見失ったものには「捜す」が使われます。群衆はイエスを見失ったから「イエスを捜し」(24)ました。見つけられたイエスがなおも「わたしを捜しているのは」(26)と言われます。群衆が捜しているのは実は何だ、と主は言われるのでしょう。
②神のわざ(28-29)
「永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」(27)と聞いて、彼らは神のわざを行うことを考え、何をすべきかと問い直します(28)。イエスの答えは「神が遣わした者を信じること」(29)でした。人が考え付く「神のわざ」には、他にどんなことがあるでしょうか。
③信じるためのしるし(30-34)
イエスが神から遣わされた者であると信じるために、先祖が荒野で食べたマナ(出16:4,15、詩78:24-25 他)を引き合いに、彼らは更にしるしを求めます。彼らの本心は34 節で明かされます。与え主よりも、賜物であるパンを切望していました。
Ⅱ 答えるイエス
①しるしが指し示すもの(26-27)
彼らがイエスを捜していたのは、パンを食べて満腹したから、とイエスは図星を突きます。奇跡・しるし(26)は、人の子が神から遣わされた者である証印(27)です。私たちは御業や賜物から、施主・与え主に目を向けているでしょうか(インマヌエル讃美歌343)。
②信じることが神のわざ(28-29)
「神のわざを行う」(28)と言った背後には、神から受けるためには、人は何か対価を差し出さなければならない、という志向があります。これが律法主義です。主は「神が遣わした者を信じること=神のわざ」を打ち立てられます。これなら誰にでもできます。
③天からのパン(30-33)
主はパンのしるしを行われたのに、彼らは更にしるしを求めます(30)。まことに、まことに(32)は真理を語る枕詞です。パンを与えたのはモーセではなく父なる神であり、マナは天からのパンの予表に過ぎず、天から下って来て、世にいのちを与える実体を示します。
Ⅲ 伝えたいことがある
①似た物語
イエスが与えるものは、受けてもすぐに無くなるものではなく、いつまでも無くならない永遠のいのちに至るものだ、と聞いてそれを求める物語が、本章より前にあります。その物語の終盤でイエスが言われたことばにも「食べ物」が出て来ます。
②あなたがたの知らない、わたしの食べ物(ヨハネ4:32,34)
食物はいのちを維持・成長させるために必要不可欠なものです。永遠のいのちにも食物は必要です。それが天から下ってきたまことのパンである主を信じることです。加えて食物は交わりと喜びにも深く関わります。御心を行い、主をより深く信じることに見出されます。
③私たちの食べ物
日常の出来事、時折経験する不思議な出来事の中に、主イエスを見つけ出す喜びを味
わっているでしょうか。不可解・不明の事柄に直面するとき、全てを治められる主と向き合い語らう喜びを知っていますか。主から語られ教えられるとき、心は喜びにあふれます。
<おわりに> この種の喜びは、現象の如何に関わらず、私たちを満たし、力づけ、より主を信じ、期待し、愛し従って行こうと奮い立たせ、私たちの内にある永遠のいのちを成長させます。「いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。」(H.M.)
【礼拝メッセージの概要】2020.9.20
『わたしだ。恐れることはない』(ヨハネの福音書6 章14-21 節)
<はじめに> 「神は確かにおられる」と感じたことはありますか。逆に「神がおられるのに、どうしてこんなことになるのか」と思ったことはありませんか。また、神に振り回されていると感じることはありませんか。神を信じるというとき、私たちはどんな神だから信じるのでしょうか。
Ⅰ イエスを王にしよう
①満ち足りた人々(14)
「イエスのなさったしるし」は、前段に記されたパン5 つ・魚2 匹で群衆の空腹を満たされた奇跡です。これは群衆が主に求めたからではなく、イエス主導でなされた御業です。それ故に御業に浴した人々がイエスに歓喜し、熱烈な歓迎と称賛を向けました。
②この方こそ預言者(14-15)
ユダヤ人は、神が遣わされる救い主の約束(申命記18:15、マラキ4:5-6)を待望していたからです。この群衆の目には、イエスこそその方だ、と映り、イエスへの期待を告白し、自分たちの王にしようと群がります。
③信じるきっかけ
私たちが神と出会い、信じるようになったのは、何があったからでしょうか。大方、祈り願いが聞かれ、神が私に良くしてくださることがきっかけでしょう。これは信仰の始まりとしてはすばらしいことですが、いつまでもそこに留まっていてはなりません。
Ⅱ イエスが分からない
①奇跡の後で(15-17)
イエスは群衆から離れて、一人山に退かれます。祈るためです(マタ14:23)。弟子たちは舟で対岸カペナウムを目指します。主に強いられたからです(マルコ6:45)。大いなる御業を拝し、熱狂・興奮する彼らに対して、主はどうしてこのように振舞われたのでしょうか。
②荒れる湖の上で(18-19)
湖に乗り出した弟子たちは、強風に進みあぐねていました。彼らの心中も穏やかではありません。「どうして主は私たちを…」と苛立っていたでしょう。夜を迎え、岸から4.5~5.5km辺りで、彼らは湖上を歩いて近づいて来られるイエスの姿を発見し、恐れ怯えました。
③戸惑いと恐れの中で
主がなさることと意図に納得できる時に信じることは難しくありません。しかし、理解できず、意見を異にする時には、私たちは主を疑い、反発しないでしょうか。予想外の主の動き・働きを目にする時、戸惑い恐れることはないでしょうか。信仰はどこにあるのでしょうか。
Ⅲ イエスを迎える
①「わたしだ。恐れることはない。」
湖上に主の声が響き、彼らは主であると気づきます。私たちが主を見失い、戸惑うとき、これまでの歩みで培った主との交わりと理解を、主は呼び覚まされます。主イエスは私にとってどんな方でしょうか。嵐の中、湖の上にも主がおられると受け取れるでしょうか。
②喜んで舟に迎える
弟子たちは主を舟に迎え入れました。「喜んで」は感情とともに意志です。理解し、納得でき、願わしい主とその御業を受け入れるところから、不可解と不思議を帯びた主を信頼し、この方の愛と最善に自らを委ねる決意です。
③主との関係
群衆は主を預言者と認めつつも、自分たちの理想と願いへと主を引き連れようとします。しかし主はそれに自らを任せられません(ヨハネ2:23-25)。主は神の御心に従おうと、祈りに向かわれます。そして、主の弟子にも同じ信仰と姿勢を求められます。
<おわりに> 思い通りにならないとき、物事が我が意とは別の方向に向かうとき、私たちの心は乱れます。その時にも主は近づいてくださり、「わたしだ。恐れることはない。」と力強く語られます。私たちは主がどういう方だから、信じているのか、改めて探られます。(H.M.)
【礼拝メッセージの概要】2020.9.13
『必要を満たす主』 (ヨハネの福音書 6 章1-15 節)
<はじめに>
5000 人を越える人々に、イエスがわずかな食料を用いて満たされたこの奇跡は、4つある福音書すべてに記されています(マタイ14:13-21、マルコ6:30-44、ルカ9:10-17、ヨハネ6:1-15)。こんなことが今も起こるのでしょうか。
Ⅰ 人を動かすもの
①大勢の群衆
人々がイエスについて行ったのはなぜでしょう。イエスが病人たちにされた奇跡を見たからとあります。それがイエスへの興味と期待に拍車をかけて、人から人へと伝わり、やがて大勢の群衆となって、イエスの後を追いかけて来ました。
②人々が抱える必要
人々は何をイエスに期待し、求めていたのでしょう。病気に悩み苦しむ人は癒しと回復を求めたでしょう。教えと導きを求める人もいたでしょう。生活や社会の問題の解決を期待した人もあるでしょう。そしてこの山では、食事という目先の必要もありました。
③必要が救い主へと導く
問題に直面し、必要を抱えるのは私たちも同じです。その解決に尽力・奮闘することも大切です。それとともに、私たちが生きている場面に救い主イエスがおられます。そのことに気づき、この方に期待し、求めて見ませんか。
Ⅱ 必要に応える主
①知っておられる主
大勢の群衆が来るのを見て、主イエスは彼らの食事に関心を払われ、それにどう答えようかとピリポに問われます(5)。彼らの必要を我が事として向き合われています。主の祈りにもそれは表れています。主はその重荷を弟子たちにも分かち与えられます。
②計算では間に合わない
ピリポは200 デナリ(1 デナリは労務者1 日分の賃金に相当)のパンでも間に合わないと予想します。アンデレが5 つのパンと2 匹の魚を持つ少年を見つけていましたが、焼け石に水です。しかし、主はアンデレが見出したパンと魚を取り、用いられました。
③用いられる主
必要に見合わない乏しいものを主は退けられず、むしろそれを活用されます。主に差し出された僅かを受け取り、感謝の祈りをもって祝福して用いられます。弟子たちにも分け与える役割を与えられます。主は私たちを用いて必要を満たされます。
Ⅲ 必要以上を与える主
①欲しいだけ与える
「一人ひとりが少しずつ」(7)でも、ピリポの計算では厳しい情勢でした。しかし主イエスの御業は、彼らに「望むだけ」(11)「十分」(12)分け与えられました。主の供給は豊かで、人々の必要を満たします。私たちはどれだけ主に期待しますか(詩篇81:10、16)。
②余りも無駄にしない
心していないと余裕は浪費を生みます。主は余ったパン切れを弟子たちに集めさせました。一つも無駄にしてはならないと言われます。集めたパン切れは12 のかごに一杯になりました。そのかごは誰のものでしょう。集めたパン切れはどう用いられたのでしょう。
③何をしようとしているのか
6 節は思い巡らすべき言葉です。イエスご自身が何を目指し、しようとされているのでしょうか。群衆を満腹にすることも含まれていますが、それがゴールなのでしょうか。この物語には続きがあります。必要を満たす主が期待していることとは一体何なのでしょう。
<おわりに> 私たちの必要を主は知っておられ、求めに応じてくださいます。その経験を通して私たちは主を知ることができます。それとともに、主が願われることに私たちが心を向ける者でありたいものです。(H.M.)
【礼拝メッセージの概要】2020.9.6
『弱さの中の完全』 (コリント人への手紙 第二 12 章1-10 節)
<はじめに> この世では、「弱=悪・負」という公式がまことしやかに信じられています。 自分を大きく強く見せようとする誇張に走る人も少なくありません。しかし、これにはすべての人がこたえられるわけでもありません。聖書には、この公式の発展形が書かれています。
Ⅰ
誇りを賭けた戦い
①この手紙の背景
パウロはコリント教会へ遣わしたテトスを通して、その現状報告を受けて書いたのがこの手紙です。エルサレムの聖徒たちへの醵金活動を励ますとともに、一部の人たちがパウロの使徒職に疑問を抱いていたことへの弁明のために、パウロはこの手紙を書きました。
②パウロが語る誇り
「誇る」「誇り」の語が、パウロの手紙13 書中61 回使われ、本書には34 回出て来ます。特に10 章以降に顕著です。彼への非難・攻撃の要約が10:10 です。対するパウロは「もし誇る必要があれば、私は自分の弱さのことを誇ります」(11:30)と言います。
③何を誇るのか
私たちは何を誇り、何を恥じるでしょう。自分語りはその人の誇るところで、大方は労苦・災いです(詩90:10 第3 版)。パウロも折々に自分の証しを語ります(使徒26 章、Ⅱコリ11:21~、ピリ3:4~、Ⅰテモ1:12~)。彼も私たちと同じなのでしょうか。
Ⅱ パウロの経験
①主の幻と啓示(1-6)
ある一人の人(2)と言っていますが、実はパウロ自身の体験談です。彼がパラダイスに引き上げられ、言葉に表せない幻と啓示を受けました。この経験は真に誇らしく、彼を奮い立たせたでしょう。しかし他人に誇ることで過大評価を受ける恐れもあり、詳細は語りません。
②サタンの使い(7-8)
証しは肉体のとげに移ります。パウロが抱える持病のことです。これによって主の働きが妨げられることが多かったのでしょう。だからサタンの使いと呼んでいます。しばしば邪魔をするこの病からの救いを、三度主に祈り求めるほど、彼は悩まされていました。
③祈りは聞かれるのか
神は祈りを聞かれる方です(詩65:2)が、すべてが叶えられていません。叶えられないのは私が価値無いから、祈りが足らないから、神がえこひいきされているからでしょうか。叶えられない祈りに信仰者は悩みます。神と人の思いは違うのです(イザヤ55:8-9)。
Ⅲ 弱さを誇る
①主の回答(9)
弱さ・病を克服し、理想的で有用な存在へと変える力を神はお持ちですが、ここではそうではありません。人は神に力を期待しがちですが、主は十分な恵みに目を留めることを望まれます。弱さをあえて残して、私たちが神の恵みと力に期待することを意図されます。
②高慢にならないために(7)
正当な誇りは自分を支えますが、往々にして分を越えた高慢に及びます。パウロも例外ではありません。彼はこの病にもう一つの意味があることに気づきます。高慢から彼を守り、へりくだらせるために、神はあえてこの病を自分に与えられたと捉えています。
③弱さは神の現れる場面(9-10)
人が抱える弱さは悩ましく、歓迎できませんが、「弱=悪・負」という公式にキリストを加えると「キリスト+弱=強・有」となります。弱い私たちをキリストは愛し、恵みで包まれます。私たちの弱ささえ、キリストの力を実感する場面となり得ます。
<おわりに> キリストを知った私たちは必要以上に、限度を越えて誇る必要はありません。弱い自分をも愛して下さるキリストを迎えるなら、この方の力が完全に現れ、私たちの弱さも飲み尽くされます。だから弱ささえキリストにあって誇れるのです(H.M.)
【礼拝メッセージの概要】2020.8.30
『すべて数えられている』(マタイの福音書 10 章24-33 節)
<はじめに>
この世に生きることは、楽しみや希望でしょうか。それとも不安や恐れの方が色濃く
感じられるでしょうか。悩みや不安は生きる力を削ぎます。私たちはこの世にあって、恐れとどう向き合っていけばよいのでしょう。
Ⅰ 狼の中に羊を
①12 弟子の派遣(1-15)
本章は主イエスが12 弟子を選び(1-4)、各地に派遣する際のメッセージ(5)です。天の御国が近づいたことを伝え(7)、神の平安を祈るため(12-13)に彼らは遣わされました。彼らに委ねた奉仕の範囲(5-6)、使命(7-8)、装備(9-10)、手順(11-15)を主は示されています。
②直面する困難(16-23)
この派遣は、狼の中に羊を送り出すよう(16)、と主は言われます。敵対者が彼らを捕え、迫害し、権力者たちの前に引き出されます。身内さえも逆らい立ち、主の御名のゆえにすべての人に憎まれます。迫害に会うとき、逃げることを主は命じておられるのは、興味深いことです。
③賢く、素直に(16)
賢さは判別力です。蛇のように用心深く相手と機会を伺います(17⇒11)。素直さは主人に対してです。伝書鳩は目的地を目指し、伝言を伝えます(19-20⇒27)。この2つの特徴はこの世に生きるクリスチャンにも必要です。
Ⅱ 恐れてはいけません
①弟子は師にまさらず(24-25)
これだけ困難・迫害を予告されると不安になります。主はその心を読み取り、恐れるな、と言われます。主がどう呼ばれ、どう扱われたか、またどう振舞われ、勝利者となられたかをを知ることは、私たちに覚悟、慰め、希望をもたらします。
②必ず明らかに(26-27)
苦難は行く手を閉ざしますが、反対に隠された真理が明らかにされる時だ、と主は言われます。主の十字架は正しくそうでした。死はいのちに呑まれました。私たちのいのちも隠されています(コロサイ3:3)。この奥義を知った私たちは、むしろ大胆に証しするのです。
③真に恐れるべき方(28)
身体に宿る命にこだわると、この世は恐れるものに満ちていますが、それらはたましいまでは滅ぼせません。「たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことのできる方」は神お一人です。この神は、ご自分を畏れ敬う者を顧み、救い、永遠のいのちを与えてくださいます。
Ⅲ 一羽の雀さえ
①一羽の価値(29-30)
二羽で1 アサリオンの雀は、ルカ12:6 では五羽で2アサリオンで売られています。まとめ売りにすれば一羽おまけです。一羽の値打ちはその程度です。そんな雀の一羽のいのちさえ、神の支配と権限の中に置かれています。髪の本数さえも把握されている方です。
②あなたがたは価値がある(31)
苦しみの中に置かれると、私たちは神から忘れられ、見捨てられたように感じます。雀や髪の毛でさえすべて掌握され、支えられる神が、私たちの父であると聖書は言います。父が子を何にも増して大切にしないはずがありません。だから恐れることはないのです。
③わたしを認めるなら(32-33)
主を証しすることにためらい、恐れる私たちに、主は地上の証しと天上の法廷がつながっていることを示されます。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ロマ8:31)。この方は圧倒的な勝利者です。だから恐れてはいけません。
<おわりに> 私たちを不安に陥れようとするものや動きは、この世に満ちています。それらを凝視しているから恐れてしまうのではないでしょうか。「目をイェスに向け その御顔見れば 栄光と恵みは照り 地のものは消え去る」(教会福音415)のです。(H.M.)
【礼拝メッセージの概要】2020.8.23
『クリスチャン・コーディネート』(コロサイ人への手紙 3章12-17節)
<はじめに> 「何かをするときには…すべてをイエスの名において行いなさい」(17) いわば、クリスチャンの生活はすべてイエス・キリストの名代であると聖書は言います。この世にあって主が神の栄光を現されたように、私たちもキリストの栄光を現すようにと期待されています。
Ⅰ モデルとしての私たち
①新しい人(9-10)
神はこの世界に「新しい人」をプロデュースするために、モデルとして私たちを選ばれました。モデルは着ていた古いものを脱ぎ捨てて、神が用意された「新しい人」を着るのです。「新しい人」がどんなものなのかは、12 節以降に描かれています。
②神に選ばれた者(12)
私たちが選んだのではなく、神が私たちを選んでくださり、神に属する者、聖なる者と任命してくださいました(ヨハネ15:16)。資格や資質があったからではありません。あわれみ豊かな神が私たちを愛してくださったからです(エペソ2:4、Ⅰテモテ1:12-16)。
③主が赦してくださった(13)
私たちはかつて神を忘れ、神に背き、敵対していました。その報いを神は私たちに負わせず、御子イエス・キリストにすべて負わせて、この御子を信じる者の罪をすべて赦してくださいました。「新しい人」を着るために、まず洗い清められるのです。
Ⅱ 新しい人を着る
①自他への理解(12)
「謙遜」は自分が神に選ばれ、あわれみを受けたことから出て来ます。「深い慈愛の心」は自分が受けたあわれみと愛が他者にも、神は等しく注がれていると理解するところから出て来ます。これがベースです。
②理解から行動へ(12-13)
「親切」は相手の立場で考え、祝福します。「柔和」は自己の権利・利益を主張せず、「寛容」は他者の愚かさ・無知に反発しません。むしろ「忍耐」と「赦し」へと向かうのです。「互
いに~合い」は、神の御前に進み出るときに気付かされます。
③愛を着けなさい(14)人間を結び合わせ、数々の品徳をまとめ整えるのが「愛」です。それは律法の要約であり(マタイ22:36-40)、神の性質の凝縮です(Ⅰヨハネ4:8)。愛を欠けば、先の徳目も道徳的義務となり、神の御前では無益で空しくなります(Ⅰコリント13:1-3)。
Ⅲ 新しい人を飾る
①キリストの平和(15)
自分の願い通りになることではなく、神の御心に委ねる者に与えられる平和です。これをキリストは約束され(ヨハネ14:27)、厳しい状況の中でも主はその心を乱されることはありませんでした(ルカ23:46)。
②心の審判者(14-15)
複雑で悩ましいこの世を生きる私たちにとって、行動・判断を決する審判者としてキリストの平和に目を留めましょう。世は正論と様々な思惑が入り乱れています。私たちはキリストが何と言われているかに関心を払います。神の愚かささえ、人よりも賢いからです。
③感謝と賛美(15-16)
キリストの平安があるところには感謝と賛美が溢れます。主が教え示してくださったことを、互いに分かち合い、励まし合う交わりが育まれます。新しい人を着た人たちで構成される新しいステージに、神の栄光が現れます。
<おわりに>
クリスチャンらしさとは何でしょうか。言動だけでなく、雰囲気・品性にまでキリストらしさが現れることです。キリストは、私たちに「新しい人」を着させて、その輝きをこの世に現わそうと、私たちを招かれています。備えられた「新しい人」を受け取りましょう。(H.M.)
【礼拝メッセージの概要】2020.8.9
『必要なこと』(2) (ルカの福音書 10 章38~42 節)
<はじめに>
主のことばを聞いていたのはマリアだけに見えますが、主と会話したのはマルタでした。主とお会いし、語らうスタイルはそれぞれです。しかし、イエスは「マリアはその良いほうを選びました」とも言われます。イエスが「良いほう」と言われることに、今回はさらに注目しましょう。
Ⅰ 姉妹の姿
①身近な物語
この物語で、マルタとマリア、どちらにあなたは共感しますか。
もしその場に居たなら、どちら側に立って、応援・弁護しますか。それはどうしてですか。この物語はとても身近に感じられます。二人の姿と関係性に自分を重ねて見るからです。
②マルタのことば(40)
「心が落ち着か」ない彼女の気持ち・感情には、どんなものがあったでしょうか。
この言葉についてどう思いますか。マルタが本当に言いたかったことは何だと思いますか。それは相手に真っ直ぐに伝えているでしょうか。それは相手に伝わっているでしょうか。
③マリアの様子(39)
マリアは、主をもてなすことやマルタの手伝いに、全く関心が無かったのでしょうか。マリアが「主の足もとに座っ」たのは、いつ頃で、何かきっかけがあったでしょうか。「主のことばに聞き入っていた」彼女は、その時何か手放したものがあったでしょうか。
Ⅱ 姉妹の心
①マリアの心
選択は、一方を掴むとともに他方を手放すことです。何を選ぶかはその人の価値観です。マリアは主のことばを聞くことを選びました。それだけの価値をそこに見出し、そのために自分を変えたのです。その価値観を主は良いほうと言われました(マタイ6:21)。
②マルタの心
旅人をもてなすことを聖書は推奨しています(ロマ12:13)。マルタは実践しています。そのために彼女は、マルタも主さえも同調させようと動きました。自分の目的・価値観が中心となり、周りを動かそう、変えようとしたのです。しかしイエスはそれに賛同されません(42)。
③二人の立ち位置
マリアが主の足もとに座る姿は、イエスに聞き、主に自分を従わせようとする象徴にも見え
ます。マルタもみもとに来ますが、マリアのようにではありません。むしろ主でさえも我が意
のままに動かそうとしました。主を愛し、喜んでいる者の内に潜む大きな課題です。
Ⅲ 私たちへの語り掛け
①「マルタ、マルタ」(41)
イエスはなぜ「マルタ、マルタ」と二度名前を呼ばれたのでしょうか。彼女が多くのことに気持ちが分散して、心を乱していると、主は言われます。彼女自身はそのことに気が付いていたでしょうか。マルタにこの言葉を語る主の声色や表情はどんなものだったでしょう。
②イエスの教え方
イエスはマルタを叱責されたのでしょうか。むしろ彼女の本当の姿を愛をもってはっきりと伝えてくださったのです(エペソ4:15)。あなたには、そういう人が必要ですか。イエスはマルタにどうすべきかを教えていますか。この後、姉妹はそれぞれどうしたと思いますか。
③この物語から
人間とはどういうものでしょうか。自分自身について何か気付いたことはありますか。イエスとは、どんな方でしょうか。人にどう向き合ってくださる方でしょうか。
神様とは、どういう御方だとわかるでしょうか。
<おわりに>
「必要なことは一つ」と言われたイエスは、心に注目されています。心は表情に、言
葉に、行動に表れて来ます。主は、今の私の心をご覧になってなんとおっしゃるでしょう。私は主イエスの前に必要なこと、良いほうを選んでいるでしょうか。(H.M.)
【礼拝メッセージの概要】2020.8.9
『必要なこと』 (ルカの福音書 10 章38~42 節)
<はじめに> 聖書には多くの物語が書かれています。神様は物語を通して私たちに語り掛けようとされています。物語には私たちにも通じる真理が描かれているからです。今日ともに分かち合うこの物語には、近しい関係の中で起きた一つの出来事が描かれています。
Ⅰ 物語を振り返って
①二人の女性
ここに二人の女性が出て来ます。どんな関係で、それぞれの名前は何ですか。イエスを自分の家に迎え入れたのはどちらでしたか。迎え入れたのはイエスだけですか。イエスを迎えた後の二人は、それぞれ何をしていましたか。
②マルタのことば
マルタがイエスの許に来た時、彼女はどんな気持ちでしたか。マルタが「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか」と言った後、彼女はイエスに何かを頼んでいます。どんなことですか。
③イエスのことば
イエスに訴える以外に、マルタにはどんな選択肢、方法があったでしょう。イエスは「マルタ、マルタ」と名前を2 度呼ばれました。そして、必要なことはわずかです(42 節欄外注)と言われました。いくつあると言われましたか。
Ⅱ 物語に描かれた心理
①気持ちの変化
マルタがイエスを自分の家に迎え入れたとき、どんな気持ちだったでしょう。しかし、やがて彼女の気持ちが変わっていきます。どう変化しましたか。なぜ、マルタの心はそんな風に簡単に変わってしまったのでしょうか。
②ことばと思い
マルタはイエスに「私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを何とも思いにならないのですか」と言っています。なぜ直接マリアに手伝いを頼むことをしなかったのでしょうか。マルタがイエスに言いたかった本心は何でしょうか。
③マリアの姿
マルタがイエスに話している言葉がマリアには聞こえていたでしょうか。聞こえていたなら、彼女はどう感じたと思いますか。それでもマリアはすぐにうごきません。マリアはなぜ、それほどにイエスの話を聞きたかったのでしょうか。
Ⅲ 物語からのメッセージ
①二人の特徴
マルタとマリアは姉妹でしたが、それぞれに特徴があります。それを挙げてみてください。二人の間に違う点はどんなところでしょう。共通点は何かあるでしょうか。
二人の特徴から、この物語以前に、二人の間にどんなストーリーがあったと思いますか。
②志向性
活動志向の人は、人との関係よりも活動を重んじ、関係志向の人は、活動よりも関係を大切にします。私はどちらの傾向が強いでしょうか。この物語ではマルタは働きを重んじたために、結果的にマリアとの関係を損ないました。最初から意図したのではありませんが。
③みことばを聞く
「必要なことは一つだけです。マリアはその良い方を選びました。」と言われました。それは主の御言葉を聞くことです。ところで、マルタはイエスの御言葉を聞いたでしょうか。聞いていたなら、それはどんな場面でしょうか。
<おわりに> 日常生活のありきたりな出来事の中で、イエスは私たちに気付きを与えられます。それが主の語り掛けです。聖書の物語、ことばが生活の中に入り込んで来て、主は私たちを導かれます。その時、しばし手を留め、心を向けるとき、私たちは主にお会いできます。(H.M.)
【礼拝メッセージの概要】2020.8.2
『パウロの祈り』 (ピリピ人への手紙 1 章9-11 節)
<はじめに> 「私は祈ってます」(9)は力強い告白です。「祈ってください」は比較的言い易いですが、「祈ってます」を真実に果たせているでしょうか。パウロは、ピリピの信仰者たちを覚えてどんなことを祈っていたのでしょうか。
Ⅰ 愛がいよいよ豊かに(9-10)
①パウロの抱く愛(8)
感情としての愛は主観的になりやすいものです。パウロは「キリスト・イエスの愛の心」でピリピの聖徒たちを思い、神の御前に探られて、なお立ち得る純粋なものでした。「愛」と称すれば全て善きもの、という乱暴な使い方を彼はしていません。
②知識と識別力によって(9)
別訳で「知る力と見抜く力を身に着けて」とあり、これらの力は神から与えられるものです。単なる知識の蓄積から得られる審美眼ではなく、神に聞き、教えられ、導かれる者に与えられる「知恵」「悟り」のことです(箴言1:2,5)。これらの助けを得て愛は成長します。
③正しい価値観(10)
「真にすぐれたもの」は、何にも勝って優先されることです。それは私にとって何ですか。愛の志向性が価値観が作り上げます。「真に」は、イエスの「まことにまことに」の言葉を思い起こさせます。世の終わりが近い今、この見分ける力を伴うことが必要です。
Ⅱ 純真で非難されるところなく(10)
①知識の落とし穴
「知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます」(Ⅰコリント8:1)。知識や洞察力を備えるようになると、自分が偉くなったように誤解しがちですが、愛は人を謙遜にします。サタンは、善悪の知識の木の実を食べさせ、神のように賢くなれる、と人を誘惑します(創世記3:5)。
②純真さ
別訳で「清い者」とあり、誠実・正直とも解されます。信仰者が成長するとは、幼子のように謙遜な態度で常に学ぼうとする姿勢に表れます。それは神の御前に問われる心の在り方です。これを追求するとき、神の御前で非難されることがありません。
③キリストの日に備えて
ここでもパウロはゴールから物事を見ています。主の御前に立つその時、私たちのすべては神の御前に明らかにされます。「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます」(Ⅰヨハネ1:7)から、この日に備えられます。
Ⅲ 義の実に満たされて(11)
①義の実
実はいのちと性質の凝縮です。どんな実を結ぶかは、どんな生き方をして来たかと密接です。キリストとつながり、この方が内に働いてくださるとき、義の実に満たしてくださいます。イエス・キリストによって与えられるものです。
②神の御栄えと誉れを現す
実は育てた者の取り組みの証しであり、栄光です。私たちに見出される数々の実は、私を救い、導いてくださった主イエス・キリストの御業であって、栄光と誉れはすべてこの方に帰されるべきものです。主にあって私たちもそうなれるのです。
③祈りの視点
とかく私たちの祈りは近視眼的で、自分本位になりがちです。パウロの祈りは、私たちの視点を神中心、永遠の視点へと導きます。このような祈りに触れることで、私たちの視点・焦点が主に喜ばれるものへと整えられます。
<おわりに>
「あなたのために何を祈ればいいですか」と問われたとき、どう答えますか。祈りはその人の関心事と結びつき、何を祈り求めているかにその人の心と思いが見えて来ます。パウロに倣って、私たちを主の望まれる姿、主の栄光を現す者へと整えられますように。(H.M.)
【礼拝メッセージの概要】2020.7.26
『完成させてくださる』 (ピリピ人への手紙 1 章1-8 節)
Ⅰ ピリピにいる聖徒たち
①ピリピ教会の始まり(1-2)
ピリピはエーゲ海からほど近いマケドニアの主要都市です。ここにパウロ一行が滞在した数日間に、紫布の商人リディアや看守家族が主イエス・キリストを信じ、教会の基礎となりました(使徒16:12-40)。彼はこの教会に主の愛の心をもってこの手紙を書きました(8)
②最初の日から今日まで(3-5)
ピリピにいる信者に思いを馳せる度に、パウロは感謝しています。彼らが福音を伝えることにパウロと同じ心で携わってきたからです。それはリディアや看守が主を信じた日から続く特色・姿勢でした。私たちには喜びをもって祈り、感謝できることがあるでしょうか。
③良い働きを始められた方(6)
ピリピはパウロがヨーロッパで最初に伝道した町ですが、彼の計画ではありません。彼が聖霊の導きに従ったからピリピに導かれ(使徒16:6-12)、出会った人々に福音を届けました。これが端緒となり、多くの人が主を信じ、ピリピ教会が形成されました。
Ⅱ ともに恵みにあずかる
①良い働きの陰で
回心者が興されたものの、ピリピでのパウロの働きは迫害・投獄、町からの追放で数日で中断させられます。そして手紙執筆時には、キリストを宣べ伝えたがゆえにパウロは投獄されていました。主の良い働きは挫折したのでしょうか。
②ともに福音に携わる(5、7)
ピリピ教会はパウロがピリピを離れた後も交流し、彼の宣教活動を様々な形で支援してきました(4:15-16)。彼が囚われの身となっても、なおも物心両面で支えていました。ピリピ教会も反対者たちに脅かされる中、福音宣教の働きを果敢に推し進めていました(14)。
③キリストのために受けた恵み
物事が計画通りうまく進展しているなら、感謝できます。反対が巻き起こり、事態が悪化し、予期せぬ方向に向かうとき、私たちはどうするでしょう。キリストのために恵みとして受けたのは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです(29)。
Ⅲ 完成させてくださる主(5)
①キリスト・イエスの日
この手紙は送り手も受取側も厳しい状況にありますが、その内容は「喜び」をテーマにした明るいものです。罪と死に打ち勝たれたキリスト・イエスの福音が苦境さえも喜びに変換します。今で判断せず、ゴールからこの状況を見ることをパウロがしていたからです。
②完成させてくださる
主にあって為した福音の働きは空しく終わることはありません。私たち個人の救いの御業も宣教の働きも、始められた方は完成まで導かれます。私たちにできないことはお委ねすればしてくださいますが、できることは私たちに「させて」くださいます。
③確信をもって
主が働きを完成させてくださると約束されたなら、その過程で紆余曲折があろうとも恐れることはありません。パウロの今日までの歩みはその証しでした。同じ主がピリピ教会にも、私たちにも完成まで導かれると彼は確信しています。私たちはどうでしょうか。
<おわりに> パウロが語っている喜びは、から元気でも幻想でもありません。イエスを信じる者に完成させてくださる神がともにおられます。だから環境・状況にとらわれない喜びが常にあります。(H.M.)
【礼拝メッセージの概要】2020.7.19
『いったいだれでしょう』 (マタイの福音書 24 章45-51 節)
<はじめに> この世界はいつまでも続くのでしょうか。近年の様々な現象・出来事を見聞きすると、世の終わりが近いのでは?と感じることはありませんか。聖書は、この世は終わりに向かっている、と明言します。その時に私たちがどう向き合ったらいいかを、イエスはたとえで説かれました。
Ⅰ 世の終わりには
①終わりのしるし(1-29)
数々のしるし(4-28)は世の終わりの前兆現象に過ぎません。それは苦難の日々(29)と言われ、その兆候に気付く人もいれば、目を背ける人もいます。声高に救いと解決を叫ぶ者が次々現れますが、群がるハゲタカの餌食となるだけです(28)。
②人の子のしるし(30-44)
神に造られたこの世は、人の子の到来で終わります。確実にその時は近づいていますが、その日がいつなのかは、誰も知りません(36)。ですから、目を覚まし(42)、用心するように(44)と、二種類のしもべの姿を引き合いにして主は促されています(45-51)。
Ⅱ 時への認識
①主人が帰って来る時
二種類のしもべは、主人が帰って来る時への認識が違います。いつであっても備えている者には報奨が、遅延がまだ続くと思い込む者には悲劇が訪れます。人の子の到来など無い、あるいはまだ先だと思う人は少なくありませんが、思いがけない時に来られます。
②時は誰のものか
しもべには主人が帰るまでの時間が与えられますが、帰る時を決めるのは主人です。それを自分のものと誤解したのが悪いしもべです。時は神のものです。私たちはすべての時に主の眼差しを感じ、主が時を司られていることを認めて、委ねているでしょうか。
③主の日への思い
主が来られるのは、私たちを裁くためではなく、救うために来られます世の終わり、人の子の到来の時が近づいていると聞いて、私たちはどんな思いを抱いているでしょうか。その時が来ないようにと願っていますか。それとも待ち望んでいますか。
Ⅲ 任命への認識
①任されているもの
主人はしもべに任務と権限を与えます。彼らに食事を与えるために任命されたのです。私たちにも主から任されているものがあります。何を、何のために任されているでしょう。それは重荷ですか、それとも主の期待を感じますか。
②模範は主
時機と相手にふさわしく与え続けるには、忠実と賢明が必要です。そのモデルは主人です。手本を見続けることで、弟子は成長します。主がされたように、主が周囲に置いてくださった人や物事に向き合うのです。
<おわりに> 主が来られる時は定かではありませんが、必ずやって来ます。イエスは救い主として来られます。それは恐いですか、それとも希望でしょうか。そこに私たちと救い主との関係がにじみ出て来ます。(H.M.)
【礼拝メッセージの概要】2020.7.12
『ノアの日の如く』 (マタイの福音書 24 章32-44 節)
<はじめに> 「○○年に一度」の状況が毎年のように各地で発生し、もはや次はどこで災害が起こっても不思議ではないと聞きます。このような災害が起こるたびに、ノアの洪水とその後に虹をしる
しとされた神の契約に、私の思いは向かいます。「主よ、あの契約は今も有効ですよね」と。
Ⅰ ノアの日(37)
①箱舟と洪水(創世記6-8 章)
ノアは神から箱舟造りを命じられます。神が大洪水で地上のすべてのものを滅ぼし、箱舟に入るものだけが生き残ると決めたからです。ノア600 歳の時に大洪水が起こり、40 日40夜雨が降り続け、箱舟は半年ほど漂い、彼らは1 年2 カ月後に箱舟から出られました。
②洪水と虹の契約(9:8-17)
地上に人の悪が増大し、神が人を造ったことを悔やまれ、大洪水に及んだのです。ノアは主の心にかなっていましたが、彼とその家族も大洪水を箱舟の中で忍びました。洪水後、神は、再び大洪水ですべてのものを滅ぼさないと、虹の契約を立てられました。
③さばきと救い
ノアの洪水は一方的な神の怒りで理不尽だ、と思われますか。この世界は誰が支配しているのでしょうか。「主は救い」です。神は洪水が訪れる前からノアに箱舟を造らせ、救いの手を伸べておられます。いつの時代も神は私たちに救いの道を指し示されています。
Ⅱ 人の子の到来とノアの日
①時のしるし(32-35)
24 章は、弟子から質問された主イエスが世の終わる時のしるしを説いています(4-31)。
世の終わりは人の子の到来(37)で、人の子とはイエス(=主は救い)です。数々の災い・惑わす者の動きに、主イエスの到来が近づいていることを感じ取らなければなりません。
②その日はだれも知らない(36-44)
ノアは箱舟を造りながら周囲の人々に、洪水が来るから箱舟に入るように説いていました。しかし人々は洪水が来るまで普通に生活しました。ノアの言葉を信じなかったからです。人の子の到来も同じように訪れます。その時を私たちは知らないのです。
③用心していなさい(42,44)
「しかり、わたしはすぐに来る」(黙示22:20)と主は言われます。そのしるしも顕著になって来ています。その時を予測できませんが、確実に近づいています。私たちにできることは目を覚まして、その時に備えること、「主は救い」を体現する方を待ち望むことです。
Ⅲ 消え去らないもの(35)
①人が思い描く救い
自然災害、未知の病、気候変動、環境汚染、食糧問題、戦乱と民族紛争、人の心の闇が私たちを苦しめ悩ませ、生命の危機を感じさせます。主はこれらから私たちを守り、救い出して、生かしてくださるのでしょうか。「天地は消え去ります」(35)と主は言われます。
②取られる者と残される者(40-41)
両者の違いは何でしょうか。本人が何かを為し、選択したから(あるいは、しなかったから)でしょうか。どちらになりたいですか。人類皆兄弟だから、その時に受け取るものも均一平等でしょうか。今、一緒に見えていても、主が来られる時には明確に二分されます。
③神の賜物である救い
消え去るものとそうでないものが混然しているこの世も、やがて人の子の到来でいつまでも残るものがはっきりします。救いは神のあわれみと恵みによる賜物で、人の行いによるのではありません。私たちは差し出された救いを信仰で受け取るのです(エペソ2:8-9)。
<おわりに> この時代をうずまく問題課題から救う手立てと権威ある言葉を、人々は探し求めています。決して消え去ることのないことばは、主イエスです。この救い主イエスを信じる者は、やがての日に消え去るこの世から分けられて、御許に引き上げられます。(H.M.)
【礼拝メッセージの概要】2020.7.5
『引き離すことはできない』 (ローマ人への手紙8 章31-39 節)
<はじめに>私たちは、この世にあって日々様々な戦いと課題の中を生きています。しかし、使徒パウロはこの戦いの中にあっても「私たちは圧倒的な勝利者」(37)になると力強く宣言しています。彼とともに私たちもこの勝利の確信を高らかに歌えるでしょうか。
Ⅰ 確信の土台
①これらのこと(31)
この直前の箇所(18-30)で、今の苦難の先にはやがて来る栄光がある、とパウロは説いています。それは、神のご計画に従って召された人たちが神の子として名実ともに整えられて現れる時です。神の計画、キリストの犠牲、御霊のとりなしが私たちには与えられています。
②対話法
読者に問い掛ける対話法は、彼がよく使う論法で、本書1-11 章に40 回ほど使われています。パウロは一方的に自論を展開して、押し付けているのではありません。彼は読者の反論・疑問を想定して織り込みながら、読者と共に考え、答えを見出そうとしています。
③神が味方
日々の困難と戦いの中に生きていると、「神様、どうして…」と思うことはないでしょうか。かつて私たちは神に敵対していました(5:10)が、今は神と和解して、神の子どもとされています。「アバ、父」(15)は、神こそ私の味方と心底信じる者にしか叫べません。
Ⅱ 訴えと反論
①だれが訴えるのか(32-33)
神が味方である者に、敵は執拗に攻撃します。彼は「この者は神の敵だったではないか」と過去を引っ張り出して来ます。しかし、神が彼を義と認められた(=罪を赦された)のです。そのためにご自分の御子さえ惜しまずに死に渡されたのですから。
②だれが断罪するのか(34)
義と認められたのは神の御前での立場の変化にすぎません。だから敵は粗探しをして罪ありと責め立てます。しかし、よみがえられたイエスが、その立場にふさわしく神の子としていのちを与えて育てようにと、今も私たちをとりなしてくださっています。
③だれが引き離すのか(35-36)
敵は私たちをキリストの愛から引き離そうと、ありとあらゆる手を使います。社会環境から来る外的圧力と、それから来る内面の葛藤、社会的な対立からの圧迫・疎外、衣食住を脅かす危機、国と国・人と人の争いは、神の民にも珍しくありません(36=詩篇44:22)。
Ⅲ 圧倒的な勝利者
①神の愛を測るもの(37)
35 節に列挙されている状況の有無でキリストの愛を測るなら、私たちはまさしく屠られる羊、死ぬために生まれた空しい存在です。37 節の「しかし」は重要です。私たちへの神の愛はこれらの苦難と試練で帳消しされるものでなく、別次元にあって揺らぐことはありません。
②神が神であられるなら(38-39)
35 節でキリストの愛を脅かす地上の諸問題が取り上げられました。38-39 節では時間・空間、生死と霊的権威、全被造物にまで広げて問い直しますが、この世界で私たちを神の愛から引き離せるものは何一つありません。神は被造物とその世界とは別格です。
③神の愛を見つめて
敵は、私たちが神の愛から、人知を超える存在や被造物に目を逸らそうと働き掛けて来ます。しかし神は手を緩めることはありません。キリスト・イエスを与えてくださった神とその愛を見つめるなら、私たちは圧倒的な勝利者です。
<おわりに>
神はその私たちを愛し、救いの道を開き、救い主キリストを信じ仰ぐ者を勝利者にしてくださいます。その勝利は確約されています。だから、神の子どもたちは地上にいる今から主をたたえ、救いの凱歌を心から歌います。(H.M.)
【礼拝メッセージの概要】2020.6.28
『今の苦難、やがての栄光』(ローマ人への手紙8 章18-30 節)
<はじめに> 今がどんな時だと思えますか。上り坂、絶頂、下り坂、どん底…いろんな局面があるでしょう。今の時と苦難を結び付ける人は珍しくありません(18)。その中で人は悩み苦しみ、もがきながら日々どこに向かって歩んでいるのでしょうか。聖書は、やがて来る栄光がある、と言います。
Ⅰ 被造物のうめき(19-22)
①被造物は何のために
神は万物を創造されて、人にそれらを任せられました(創世記1:28、2:15)。人は自然界から多くの恩恵を受け取るとともに、時に牙をむく自然の驚異に悩まされて来ました。その度に疑問が沸き起こります。「人を悩み苦しませるために、神は万物を創造されたのか」と。
②被造物の現状(20-21)
被造物は自分の意志ではなく、虚無に服し(20)、滅びの束縛(21)に囚われていると、聖書は言います。それは人間の堕罪によって、神ののろいに服させられたからです(創世記3:17-19)。その後の人間の身勝手な仕業が、被造物の苦しみをより深めています。
③ともにうめき苦しむ(19,22)
被造物は神に背いた人間の道連れです。今の被造物は、本来神が創造された姿ではあ
りません。今に至るまで人の罪ののろいを共に味わい、うめいています。だから、被造物は人が神の子どもとして回復されて現れるのを切望し、産みの苦しみをしています。
Ⅱ 私たちのうめき(23-25)
①御霊の初穂(23)
キリストのものとなった人には御霊が与えられています(9)が、初穂に過ぎません。救いは始まったばかりで、からだが贖われ、復活の身体が与えられる救いの完成へと向かうために召されたのです。御霊は救いの実現の手付けとして与えられています。
②子にしていただくこと(23)
御子キリストを信じる者には、神の子どもとする特権(ヨハネ1:12)と御霊(15)が与えられ、キリストとともに栄光を受ける相続人とされました。やがて相続人は神の御国を受け継ぎ、キリストとともに治めます。その資質と今の自分の実質の狭間で、人はうめいています。
③この望みとともに(24-25)
ある人は、キリストに救われたことで新たな悩みと重荷が課されたと感じるでしょうか。神の子としてくださるのは神の約束で、栄光の自由に与ります(21)。まだ見ていないこの約束の実現に向けて、日々御霊に従い、うめき悩み、忍耐して待ち望んでいます。
Ⅲ 御霊のうめき(26-30)
①弱い私たち(26)
救われたのに苦しみ悩むとは、矛盾に見えるでしょうか。苦難は信仰の未熟・不足・落伍のしるしではなく、神からの警告や訓練です。罪から離れて、神に従う歩みに切り替える日々の戦いがあります。私たちはその過程で、何をどう祈ればよいのでしょうか。
②御霊のとりなし(26-27)
私たちには御霊の助けがあります。祈りもままならない私たちのために、御霊は神のみこころに私たちが沿うようにとりなしてくださり、神につなげてくださいます。人の心を知り探られる神は、ことばにならない私たちの思いも御霊のとりなしを受け留めてくださいます。
③神のご計画(28-30)
神のご計画は、人を御子キリストの像・姿に整えることです。そのために人を召し、義と認め(罪を赦し)、栄光を与えられます。神は、この召しに応えた人のためにすべてのことを動員して、その人を神の子どもに相応しく育て整えようと、今も働いてくださっています。
<おわりに> 苦難の中にも神の深いご計画があることを私たちは知っていますか。知っているなら、神を愛し、神の導きと招きに、素直に大胆に応じましょう。私たちは神の子どもとして召され、わが身にもやがて現されるその栄光を望み見て、今日も主とともに歩みましょう。(H.M.)
【礼拝メッセージの概要】2020.6.21
『「アバ、父」と叫ぶ』 (ローマ人への手紙 8 章12〜17節)
<はじめに> 今日は父の日です。両親から受け継いだいのちの祝福に目を留め、いのちの流れを遡りつつ感謝したいものです。私たちクリスチャンには、肉体のいのちとともに御霊によるいのちを受けていると聖書は言います。御霊のいのちを有する人とはどんなものなのでしょうか。
Ⅰ 三種類の人(15)
①生まれながらの人(Ⅰコリント2:14)
人は肉体のいのちはあっても、霊的には眠っている人です。理性と良心でかろうじて善悪を判断していますが、霊的・道徳的には目覚めていません。だから、神についても自分についても無知で、罪責感も鈍く「自分は道徳的で自由だ」と思い込んでいます。
②律法の下にある人(奴隷の霊)
生まれながらの人に聖霊が働き、たましいに光を注ぐと、罪の奴隷であることに目覚めて、神に認められようと格闘を始めます。神が与えた律法の要求に応えようと真剣に努力しますが、するほどに自分が罪に縛られ無力であることを実感するばかりです。
③福音の下にある人(子とする御霊=養子の霊)
罪の束縛と律法の要求にもがく人が、キリストの十字架と復活の福音を聞き、自らを委ねるとき、聖霊を通して神の愛がたましいに注がれ、罪の赦しを経験します。もはや奴隷ではなく、神の子どもの身分を与えられ、恐れは愛にかわり、苦悩は喜びにかわります。
Ⅱ 神の子の義務
①肉に対する義務ではない(12)
「義務」(第3 版:責任、文語:負債)と聞いて、「何かしなければ」と怯えてはいませんか。奴隷の霊の残像です。キリストの福音によって負債はすべて払われたのに、またも自分の力で神の要求に応えようとする古い肉に従う生き方からは自由にされています。
②生きるための戦い(13-14)
9-11 節には私たちが御霊によって生かされる神の御業が記されています。いのちは抵抗力・免疫力を有し、自らを守るために外敵を殺します。神の子どもも霊的免疫力を高めなければなりません。神の御霊に聞き従い、導かれることを選ぶばねばなりません。
③相続人として(15、17)
親は子にいのちとともに子の立場を与えます。孤児同然の私たちを、神は奴隷ではなく実子として迎え入れてくださいました。子は家族として苦難も分かち合いますが、やがて相続人として親が所有するすべてを受け継ぎます。キリストはその筆頭相続人です。
Ⅲ 神の子の特権
①「アバ、父」(15)
ゲッセマネの祈りで主イエスは御父をこう呼んで祈られました(マルコ14:36)。「アバ」は父親への親愛の情を込めた呼び掛けです。十字架を前にイエスが切に願われたのは、何だったでしょうか。その時「アバ、父」と呼び掛けられたのは、どうしてでしょうか。
②私たちも叫ぶ(15)
このイエスの十字架と復活によって、私たちは神と和解し、神の家族の一員に加えられました。その関係に曇りがないとき、子どもは素直に大胆に願えます。それが「アバ、父」の叫びに表されます。私たちも今日、「アバ、父」と心から叫べるでしょうか。
③聖霊の証し(16)
祈りが聞かれることで神の愛を測る人もありますが、何事でも話せる関係を保っていることこそ大切にしなければなりません。祈ろうとする私たちに、御霊は「これはわたしの愛する子」(マタイ3:17)との御声と救いの歓声で取り囲んでくださいます(詩篇32:7)。
<おわりに> かつては遠く隔たり、何の関わりも無い者を、父なる神を「我が主、わが父」と呼べる立場と関係に聖霊は導き入れてくださいました。私たちは神の子どもにしていただいたのです。大胆に「アバ、父」と叫び願う声は、神の子の特権であり証しです。(H.M.)
【礼拝メッセージの概要】2020.6.14
説教題『わたしもつながっている』
聖書:ヨハネの福音書 15章1〜11 節
<はじめに> ぶどうの木を例に、主イエスと私たちクリスチャンとの関係が描かれています。美しい描写は私たちに印象的に語り掛け、絵画やさんびかにもなっています。これを語られたのは、主の十字架の前夜、間もなく主と弟子たちが引き裂かれる直前でした。
Ⅰ ぶどうのたとえ
①旧約聖書に見る
ぶどう園のぶどうは、栽培に適した野生種を植え替え、良い実をならせる枝を接木して作られます。詩篇80:8-9、イザヤ5:1-7、エレミヤ2:21 には、イスラエル民族をエジプトから引き出して、神の民に育てようとされる父なる神の御思いと現状が描かれています。
②新しいぶどう畑(1)
まことのぶどうの木なる御子イエス・キリストは栽培に適した台木です。台木に慣れなかったイスラエルの代わりに農夫なる父なる神が備えられ、そこから新しい神の民を育てようとされています。そこに私たちも選ばれて、枝として継がれたのです(5)。
③わたしがあなたがたを選んだ(16)
私たちがキリストと結び合わされたのは、主が選んでくださったからです。御父なる神が私たちに可能性を見出して、キリストに接木されました。私たちもその選びを受け取り、同意したからです。今も私たちは選んでくださった方を信頼し、期待しているでしょうか。
Ⅱ いのちのつながり
①結実を期待される
8 回「実を結(ぶ)」が出て来ます。ぶどう畑はそのために作られました。ただ実を結ぶだけでなく、もっと多く実を結び(2,5,8)、その実が残ること(16)を期待されています。主が私たちに期待される結実があります。何でしょうか(ガラ5:22,エペ5:9,ヘブ12:11,ヤコ3:17)。
②生命的関係の結果
結実の条件は「とどまる(新共同訳:つながる,NASB:abide)」で、11 回出て来ます。接木はまず枝を幹に固定することから始まります。本来つながりのなかった両者に生命的交流ができるまで密着させます。だから、つながることをより重要視されています。
③生命的関係の深化
つながりは物理的な近接から始まります。集まることを大切にして来た教会の意義はここにあります(使徒2:43-47,ヘブ10:25)が、ゴールではありません。大切なのは、ことば(3,7)、愛(9)、戒め(10,12)、喜び(11)が通い合う、生ける主とのいのちの相互交流です。
Ⅲ わたしのことば
①きよめることば(2,3)
「あなたがたは…すでにきよい」は13:10 を想起させますが、むしろ「刈り込む」(2)を受けています(脚注・直訳)。実を結ぶ枝と結ばない枝、双方に刃は当てられますが、当てる部位と目的が異なります。主のことばで気付き、我が身を委ねる者を目的へと整えられます。
②とどまることば(7)
ことばはいのち(ヨハネ1:3)です。ことばは権威であり、受け入れる弟子(8)を育てます。主のことばが私たちに流れ込むと、欲するものにも主の御思いが反映されます。だからそれはかなえられ(Ⅰヨハネ5:14-15)、それによって御父は栄光を受けられます。
③わたしもつながっている(4,5)
この箇所を読むと、つながる私たち側が主に「とどまる」ことに目が向きがちです。しかし、主は「わたしもとどまります」と宣言されています。私たちを選ばれた方は、私たちの手が緩む時にも、力強い御手で握り締め、今もこれからも支え導かれます。
<おわりに> 集まることの難しい中で、私たちは主から引き離されたように感じているかもしれません。しかし、この機会は主との霊的・内的ないのちのつながりに目を向けるようにと、主は語っておられます。接木された枝もしっかりつながれば、幹と一つになるのです。(H.M.)
【礼拝メッセージの概要】2020.6.7
『あなたを一人にはしない』(ヨハネの福音書 14 章16~31 節)
<はじめに> 先聖日にペンテコステ(聖霊降臨節)を迎えました。これはクリスマス(聖誕節)、イー
スター(復活節)と並ぶ教会の大切な節季です。これらはみな、歴史の事実の中に起源があります。
Ⅰ ペンテコステの位置
①主イエスの十字架
神の御子が人(イエス)となってこの世に生まれ、30 歳ごろから公生涯に入られ、教えとしるしとしての奇蹟による伝道を約3 年行われました。しかし、ユダヤ人はこのイエスを救い主として受け入れず、十字架につけて殺してしまいました。
②主イエスの復活
イエスの遺体は弟子に引き取られ、真新しい墓に葬られましたが、3 日後の週の初めの日の朝早くにイエスは甦られ、それから40 日の間、度々弟子たちにご自身を現され、ご自身の復活を弟子たちに証しされて後、天に上られました。
③約束された聖霊の降臨
主イエスは、弟子たちにご自分の十字架と復活を予告され、またご自分のいなくなった後に「もうひとりの助け主」(16)が弟子たちに与えられると約束されました。この約束を待ち望んだ弟子たちに、主の昇天から10 日後、約束どおり聖霊が弟子たちの上に下りました。
Ⅱ 助け主の約束
①去られる時が近い(19)
ヨハネ13-16 章には十字架前夜、最後の晩餐の席上での主の言葉が綴られています。主を「見なくなる」時は迫っていました。目に見え、触れることのできる主イエスに頼り切っていた弟子たちは、そのことを告げられると困惑してしまいます(13:33,36、14:5)。
②孤児にはしない(18-19)
主は、弟子たちを捨て去るのではない、と断言されます。世は主を見なくなっても、弟子たちとは再会する、と言われます。復活後の顕現の予見です。そして、もうひとりの助け主なる「真理の御霊」(17)が彼らの内に住み、ともにおられ、その人に主を現されるからです。
③その日にわかる(20)
もう一人の助け主は、主イエスのことばとわざを思い起こさせて、主と父なる神が一つであることを示されます(10)。主と弟子の関係も内的なものへと変わります。「その日」とは定まった時期は限りません。これらを私たちが実感し、納得する「その日」です(16:23,26)。
Ⅲ 助け主の役割
①主を思い起こさせる(26)
助け主(パラクレートス)なる聖霊は主を信じるすべての者に与えられています(ロマ8:9)。
この方が私の傍らにいて(16)、主を指し示し(19)、すべてのことを教え、主のことばを思い起こさせます。御言がふと心に通い、主に思いを向けさせてくださいます。
②平安と喜びを与える(27-28)
ことばと人格は密接です。故人の語録にその人となりを探ることができます。主のことばを思い起こさせる聖霊は、私たちに主の思いと計画へと導かれます。それが分かると、私たちは平安と喜びに満たされます。
③内に住まわれる
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(1:14)は、クリスマスの出来事と結び付けられて理解されていますが、聖霊が私たちの内に住まわれることによって実感されます。聖霊は、主を信じる者の内に主のことばが響かせ、そのことばに生きるよう促されます。
<おわりに> 内に住まわれる聖霊によって、私たちは今も主を見、ともに生き、主のことばを受け取り、実現するのです。その時「私たちはこの方の栄光を見た」(1:14)と証します。聖霊は弱く乏しい私たちの傍らにいて、支え、励まし、助けてくださいます。(H.M.)
【礼拝メッセージの概要】2020.5.31
『聖霊に励まされて前進』 (使徒の働き 9 章31 節)
<はじめに> 異例な状況下で今年のペンテコステを迎えました。世界は以前とは異なる局面に入ったと異口同音に聞かれます。すっきりと不安が解消されて従来に戻れるのではなく、新しい時代に進もうとしています。このような大きな転換点に、主は何を私たちに語られるのでしょうか。
Ⅰ 平安を得た教会
①迫害者サウロの回心(1-30)
「こうして」は、直前に記されているサウロの回心を指しています。彼が率先していた迫害は、教会に大きな痛手を与え、信者は各地へ離散させられました。そのサウロが回心し、使徒たちと面会したことで組織的迫害が鈍り、迫害者は造反したサウロ殺害を企てます。
②シャローム
迫害が治まって、教会と信者が平安を得たのはごく自然なことです。安心を得て落ち着いただけに留まらず、教会はそれを基に前進・拡大していきます。平安はヘブル語でシャローム、健全・安寧・繁栄の意も含みます。
③広がる教会(8:4-8、11:19-26)
迫害前はエルサレムが教会の中心でしたが、信者たちが散らされた先々で主を証ししました。やがてユダヤ・ガリラヤ・サマリヤの各地に教会が生み出されて行きます。迫害さえも用いて、聖霊は教会を早く広く深く各地に築き上げたのです。
Ⅱ 主を恐れる教会
①祈りは聞かれた(Ⅰコリント10:13)
多くの聖徒たちの血と涙に、信者たちは迫害が止むようにと切に祈ったはずです。主は、サウロの回心という形で応えられました。迫害の急先鋒が回心するなど、思いもよらぬ展開にただ驚き喜ぶだけでなく、祈りに応えて大いなることをなさる主をおそれ崇めました。
②主の計画を知る(ロマ8:28)
使徒1:8 を弟子たちは聞いていましたが、福音はゆっくり広がりました。そこに迫害が起こ
り、信者は散らされ、結果福音が急速に各地に広まりました。試練を通して、主は聖徒た
ちを祈らせ、錬りきよめ、考え直させ、新しい方向へと押し出されます(へブル12:10-11)。
③主権者は神
権力、知識、富を持つ者がこの世を治めていると思いがちです。目に見えないウィルスが私たちの生活を翻弄し、それとの戦いに目を奪われてはなりません。真の支配者、時代のドライバーは、甦られた主なる神・聖霊であり、この御方を私たちは内に宿しています。
Ⅲ 前進する教会
①聖霊に励まされて(ヨハネ16:13-15)
共におられ、全てを導かれる王なる主を認めるならば、時代・物事を見る目が変わります。
聖霊は御言を思い起こさせ、主イエスを常に指し示し、この方に目を留めるようにと教会と信者に働き掛けます。これが聖霊の励まし方です。聖霊の御声が響いていますか。
②前進し続ける
教会と信者は、主が望まれることを明確に捉え、それに向かって進みます。迫害した者さえ赦し受け入れ(21-30)、癒し・回復をもたらし(32-43)、特権意識・偏見を捨てて異邦人回心者とともに喜び(10-11 章)、危機には祈り(12 章)、聖霊の計画に順応します(13 章~)。
③プロセスがあっての結果
教会・信者の増殖という結果に注目しがちですが、結果にはプロセス(経緯)があります。時代や環境、人為的要因などを結果が伴わない言い訳にしていませんか。それらが主因だと捉えていることを手放し、内におられ励まされる聖霊に信頼し、従うべきです。
<おわりに> 世は新しい時代の覇権争いに移って行くでしょう。しかし教会には、真の支配者なる神の御国の証しが託されています。聖霊は初代教会を励まし、導かれました。
同じ聖霊が与えられている私たちも、主の御思いを受け取り、前進するのです。 (H.M.)
【礼拝メッセージの概要】2020.5.24
『三つの願い』 (ルカの福音書 8 章26-39 節)
<はじめに> 祈りは私たちと神を結ぶ絆です。祈りのすばらしさを、私たちはどこに見出しているでしょうか。この箇所には三者三様の祈りをイエスに告げています。祈りは自分の願いを神に何でも告げることから始まります。願い通りに聞かれた祈りもあれば、聞かれなかった祈りもあります。
Ⅰ 苦しめないで(28-33)
①この人から出て行くように(29)
汚れた霊はこの人を捕えて、やりたい放題に暴れていました。イエスが来られ、悪霊に彼を解き放つようにと命じられました。彼はイエスがいと高き神の子であると知っていました。彼とイエスには信頼関係はありませんが、イエスは悪霊も支配される権威をお持ちです。
②許してください(31-33)
悪霊どもは、自由に振舞える時に限りがあり(黙12:12)、最後には底知れぬ所に投げ込まれることも熟知していました。だから、今しばらくは豚の群れの中に移ることを懇願し、イエスもそれを許可されました。なぜイエスは悪霊の願いを聞き届けられたのでしょうか。
③自由という名の制約
自由と主導権を保ちたいと願うのは、人の常です。それが神様とぶつかる時、私たちはどうするでしょうか。自由と主権を保てる領域に移ることを求める人に、主は無理強いされません。自由意志を人に与えられた主は、あえてそれをも許されます。
Ⅱ 出て行ってほしい(34-37)
①驚きの出来事
豚飼いやその地域の人々は、豚の群れの突然死に驚いて出て来たところ、悪霊の去った男がイエスの足元に服を着て正気に返り座っているのを見ます。彼が救われた顛末を知ると、彼らはイエスがこの出来事の張本人とわかると、出て行ってほしいと願いました。
②何が一番大切なのか
かつて彼を鎖や足かせでつなぎ、何とかしようと試みたにもかかわらず、悪霊の去った男を喜ぶ者は見られません。不思議な御業を見て、神を讃える声も聞こえません。なぜ彼らはイエスに出て行ってほしいと願ったのでしょうか。彼らの望みは何だったのでしょうか。
③与えられた機会
イエスは彼らの願いを聞かれ、舟に乗り込まれます。主は彼らの残念な願いさえも聞き届けられます。ゲラサ地方を主が再び訪れた記録はありません。主よりも自分を優先させる祈りは、貴重なチャンスを失わせてしまいます(イザヤ55:6、エペソ5:15-17 参照)。
Ⅲ お供をしたい(38-39)
①しきりに願った
辛く苦しい記憶ばかりでも、生まれ育った故郷を離れる決意は尋常ではありません。それ以上にイエスとともに行きたい、弟子の一人になりたいと願いました。しかし主は、そんな彼の願いを聞き届けられず、彼の意とは異なる道を示されました。
②神との語らい
祈りは一方的に神へ自分の願いを伝えることではありません。神との会話、語らいです。重荷・必要・課題を神に聞いていただくだけでなく、神から聞く場です。自分の願いと神の計画が違うことに気づいたことがありますか。その時、どうしましたか。
③イエスの足元に座す
願いが聞かれることに重きを置いたなら、自分本位に神を動かそうとする誤解(高慢)が入り込んで来ます。足もとに座るとは、しもべとなって主人の言葉を待ち望む姿です。聞いたしもべは、それを実行するのです。神が主であり王であることが、そこに現わされます。
<おわりに>願いが聞き届けられることばかり注目してませんか。すぐに祈りが聞かれない時は、神が私たちに語り掛けたく願っておられるかもしれません。「主よ、お話しください。しもべは聞いております」(Ⅰサム3:9)と申し上げ、主の御思いを受け取ることができるでしょうか。(H.M.)
【礼拝メッセージの概要】2020.5.17
『一緒にいたい』 (ルカの福音書 8 章26-39 節)
<はじめに> 「イエスと一緒にいたい」という願いはクリスチャン共通のものです。ゲラサ地方に住むこの男がこの思いを抱くようになったのは、どうしてでしょうか。今の時代、この思いを持つ人がどのように生きればよいのでしょうか。
Ⅰ 救いを実感する
①イエスに出会う前(27-30)
彼は悪霊・汚れた霊につかれて墓場に住んでいました。衣服もつけずに自分の身を傷つけ(マコ5:4)、昼夜問わず叫び声を上げていて、人々が止めよう彼を捕えて、鎖・足かせにつないでも断ち切ることを繰り返していました。大勢の悪霊が彼に入っていたからです。
②彼の身に起きたこと(29-38)
イエスは汚れた霊にこの人から出て行くように命じられ、悪霊は豚の群れに移り、悪霊の去った男は服を着て、正気に返ってイエスの足元に座っているのを人々は見ます。そしてその人は「お供をしたい」とイエスにしきりに願いました。
③神がしてくださったこと(39)
クリスチャンは主イエスに救われた者です。そこには必ず変化があります。イエスとお会いして、自分にどんな変化があったでしょうか。自分にはできなかった素晴らしいことを神が成し遂げてくださったと実感するほど、「イエスと一緒にいたい」との願いは高まります。
Ⅱ 犠牲の大きさを知る
①レギオン(29-33)
悪霊が名乗った名はローマの1軍団を指すほど大勢でした。悪霊が懇願して移った豚の群れは、突如崖を下り湖へなだれ込み、溺死しました。その数は2000 頭ほど(マコ5:13)
でした。それほどの力を持つ悪霊が彼を捕えて、傷つけ苦しめていたのです。
②救いの対価
豚はユダヤでは忌避される食物ですが、その地で飼われていました。彼を救うために、たくさんの豚が死ぬことさえ、主イエスは許されました。救いには犠牲が伴います。私を救うために、誰が、どんな犠牲を払ってくださったかを思い起こせますか。
③犠牲を見る目(34-39)
損害を受けた飼い主たち、この地域の人々が、イエスに出て行ってほしいと願い出ます。「非常な恐れに取りつかれていたから」とは意味深です。一人の救いのために具体的な犠牲・奉仕・献身を求められるとき、私は何と返答するでしょうか。
Ⅲ 救われた意味を知る
①懇願する理由(37-38)
悪霊が去った彼は、イエスがその地を離れようとする際に同行を願い出ます。彼にとって辛く苦しい日々を過ごした地であっても、故郷を離れたいと思うのは余程のことです。それでも地元の厳しい眼差しと主への態度に、彼が決意したとしても不思議ではありません。
②イエスの願い(39)
むしろ、純粋に救われた感謝と喜びから、彼は主について行きたいと願ったのでしょう。しかし主は彼の願い通りではない、別の道を示されます。この町に留まり、神が自分にして
くださったことをすべて、主を去らせた同郷の人々に話す、彼にしかできないことです。
③主が望まれることを選ぶ
彼は自分の願いよりも、主の道を選び取りました。献身とはある働きや立場に進むことではなく、主の思いを受け取り、それに進むことです。そうであれば、献身は一部の特別な人にだけ求められているのではありません。全て救われた者に主は献身を望まれます。
<おわりに> 今日17 日は聖宣神学院創立71 周年の記念日です。献身者が少ないのは、時代・世代の差、体制の問題なのでしょうか。自らの救いを喜び感謝し、その犠牲に報いる生き方を求め、主の切なる願いに迫られる関係が築かれているでしょうか。(H.M.)
【礼拝メッセージの概要】2020.5.10
『散らされた人たちは』(使徒の働き8 章1-8 節、11 章19-26節)
<はじめに> 普段なら当たり前にできたことが、許されない状況が広がっています。教会に集えるのも当たり前ではありません。個人的理由だけでなく、大規模災害・社会不安に左右されます。これはあってはならないことでしょうか。その中で私たちはただ流され、諦めるしかないのでしょうか。
Ⅰ迫害と離散
①ステパノ殺害を越えて(7 章)
主イエスを救い主と信じる群れは、ユダヤ教指導者にとって目障りでした。群れが増殖するにつれて無視できなくなり、ステパノを最高法院に連行し、彼の弁明に憤慨した指導者たちは、彼を石打ちの刑で殺害し、エルサレムの教会全体に迫害が及びました。
②分断・捕縛・離散(8:1-3)
使徒たちは当局の監視下に置かれ、信者たちはエルサレムから追い出されユダヤ・サマリヤ諸地方に逃げるしかありませんでした。ステパノを葬り、エルサレムに留まった敬虔な信者たちも次々捕えられて牢に入れられました。エルサレム教会はほぼ壊滅でした。
③あってはならないこと?
戦乱・迫害・動乱・災害などは誰も願いませんが、度々起こり、主を信じる者たちの平穏な営みを壊します。私たちが信じる主は全てを治めておられるのなら、これらのことが我が身に及ぶとき、どう受け止めればいいのでしょうか。御心、それとも御怒りなのでしょうか。
Ⅱ散らされた人たち
①福音を伝えながら(8:4-8)
散らされた信者たちは身を隠さず、福音を証ししつつユダヤ・サマリヤに散り行きました。エルサレムでの集いの場は失われたことは辛く苦しいことですが、それで彼らの内にある信仰の営みが吹き消されません。むしろ、その中で主を証しは輝いたのです。
②ユダヤの外にまで(11:19-26)
9章で迫害はユダヤを越えてダマスコにまで及んでいます。北に離散した信者はさらに遠くへと逃げざるを得ず、フェニキア、キプロス、アンティオキアに達します。それまではユダヤ人だけに証しされていた福音が、ギリシャ語を話す人たちにも宣べ伝えられました。
③使徒の働き=聖霊の働き
本書の別名です。人間の動きが表立っていますが、この背後におられる聖霊なる神が主導権を持ってことを動かしておられます。使徒1:8の主の約束は、順境下での福音宣教だけで実現したのではありません。迫害・試練・反対さえも推進力になっています。
Ⅲ今を生きる私たちに
①今は悪い時代?
状況・感覚は決して良いとは言えないでしょう。しかし八方塞がりではありません。暗い時代だからこそ、私たちの内にあるイエス・キリストが一層輝く機会にもなります。この世と私たちクリスチャンとの違いはどこにあるでしょうか。彼らの中から見つけ出してください。
②本質をとらえて
形式や組織・方法は本質の表われであり、多様です。かたちにこだわって本質を見失うことは人の常です。聖日に教会に集まり、牧師から説教を聞くだけが礼拝でしょうか。彼らはどうでしたか。教会・使徒から離された彼らは、どうやって主とつながっていたのでしょう。
③教会も変わる時
神様は時代を変えるために、まず教会とクリスチャンを変えられます。危機の中にも主は主導権を握っておられると信じますか。私たちは明らかに曲がり角を迎えています。今までのかたちにこだわりますか。むしろ何物にも左右されない主との関係を深めませんか。
<おわりに> 教会の歴史は危機の連続です。クリスチャンはそこで揺す振られ、本当に大切なも
の、変えてはならないもの、本質的なものに目覚めました。彼らのうちに住まわれる聖霊が、
必要なことを教え、彼らを導かれます。それは今を生きる私たちにも同じです。(H.M.)
【礼拝メッセージの概要】2020.5.3
『すがりついていてはいけない』 (ヨハネの福音書20:11-18)
<はじめに>♪主にすがる我に悩みは無し…と讃美歌にあります(インマヌエル238 番)。主にすがることはすばらしいことです。ですのに主イエスは、「わたしにすがりついていてはいけません」(17)とマグダラのマリアに言われます。不思議なこの言葉に今日は心を留めます。
Ⅰ 縋り付きたいマリア(11-15)
①なぜ泣いているのですか
主はゴルゴタの丘近傍の園にあった未使用の墓に葬られました(19:41)。マグダラのマリアは朝早く香油を亡骸に塗るために訪れましたが、空いた墓を見て弟子たちに知らせてまた戻ってきました。「なぜ泣いているのですか」と問い掛けられます(13,15)。
②亡骸にこだわる
愛する者の亡骸・墓に生前同様の思いを示すのは自然なことです。亡くなって間もない時期はなおさらです。彼女はだれかが主の亡骸を取って運び去り、どこかに置いたのだろうと思っています。せめて在りし日の主をしのび、慰めを得たかったのでしょう。
③取り戻したい
マリアの本心は、主と過ごしたあの日に帰りたい、でした。穏やかで楽しかった過去に戻りたい、戻してほしいと願いますが、時は戻りません。私たちは主との交わり、主が良くしてくださったことを思い返し、それをもう一度、と思い描きます。しかし、主は先に進まれます。
Ⅱ すがりついていてはいけません(16-17)
①イエスが分からない(14-15)
振り向いたマリアは、そこに立っておられるイエスを園の管理人と思っていました。この事例は他にもあります(ルカ24:16、ヨハネ21:4)。主の復活を受け入れない者ならば当然です。主がここにおられるはずがない、主は亡くなられた、と思い込んでいるからです。
②生ける主の声(16)
主の「マリア」の声に、彼女は「ラボニ(先生)」と反射的に返します。積み重ねて来た主との交わりが、生ける主に気付くきっかけです。主が個人的に語られる経験、御言葉から主の御声を聞くことは、復活の主イエスを体験的に知ることです。知識以上の理解です。
③すがりついていてはいけません(17)
以前のように現れた主を見て、また以前に戻れるとマリアは期待したでしょう。しかし主は、これまでとは違う、新しい関係へと導かれます。物理的・実際的に共にいて、顔と顔を合わせて語らい、触れ合える関係に、主と私たちを留めようとしてはいないでしょうか。
Ⅲ 父のもとに上る(17-18)
①父のもとに行く目的(ヨハネ14:16,15:26,16:7)
十字架を前にして、主はご自分が父の御許に行くことを明確に語られました(13:1)。弟子たちはよくわからずに悲しみましたが、彼らが喜びに満たされるご計画です(16:17-33)。主が行かれるのは、もう一人の助け主である真理の御霊を彼らに与えられるためです。
②もう一人の助け主
この御方は、(1)いつまでもともにおられ(14:16)、(2)信仰者の内に住まわれ(14:17)、(3)内住の主を示し(14:20,15:26)、(4)御言を思い起こさせ(14:26)、(5)世の誤りを示し(16:8)、(6)真理に導き(16:13)、(7)将来起こることを告げ(16:13)、⑦主の栄光を現します(16:14)。
③わたしの兄弟たち
もう一人の助け主なる御霊が信仰者に与えられるなら、もはや物理的制限なく、いつどこででも主と語らい、主の思いを受け取り、主の助けを得ることができます。信仰者を「わたしの兄弟」と呼ばれたのは、私たちが小さなキリストとして整えられるのです。
<おわりに> これまでの主との交わり、信仰生活が許されない環境に置かれている私たちが元に戻ることだけを求めてはいないでしょうか。主は弟子たちを新しい関係、「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み」(コロサイ1:27)へと導かれています。(H.M.)
【礼拝メッセージの概要】2020.4.26
『よみがえらなければならない』(ヨハネの福音書20 章1-10 節)
<はじめに> 奇跡は偶然の産物、例外中の例外、神様の気まぐれでしょうか。死から甦ることなどは、もはや非科学的なおとぎ話なのでしょうか。聖書は「イエスが死人の中からよみがえらなければならない」(9)と言います。復活は必然だと理解していますか。なぜそうだと言えますか。
Ⅰ イエスが神の子であるから
①いのちの君(ヨハネ1:1-4)
初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られ…、この方によらずにできたものは一つもない。この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
②いのちの君を殺す(使徒3:13-15)
あなたがたはこの方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに…この方を拒みました。あなたがたは、この聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、いのちの君を殺したのです。⇒しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。
③死んだままにはされない(9「聖書」⇒詩篇16:10)
「あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。」⇒【使徒2:24-32】神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえなかったからです。
Ⅱ 罪の赦しを与えるため
①イエスの自覚(マタイ16:21)⇒【17:9、17:22-23、20:18-19、26:32】
そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、3 日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。⇒【マルコ8:31,9:9,9:31,10:33-34,14:28、ルカ9:22,18:31-33】
②罪の贖いの代価⇒【ロマ6:23】
人の子も…多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。(マルコ10:45)⇒【ロマ5:8】私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。
③罪の赦しの宣言として(使徒4:30-31)
私たちの父祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスを、よみがえらせました。神は、イスラエルを悔い改めさせ、罪の赦しを与えるために、このイエスを導き手、また救い主として、ご自分の右に上げられました。⇒【使徒13:37-39】
Ⅲ 万物を従わせるため
①眠った者の初穂(Ⅰコリント15:20-21)
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。
⇒【ロマ6:23】神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
②死を滅ぼし(Ⅰコリント15:26-27)
最後の敵として滅ぼされるのは死です。「神は万物をその方の足の下に従わせた」のです。
⇒【Ⅰコリ15:54】この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に呑み込まれた」。
③神に感謝して生きる(Ⅰコリント15:57-58)
神は、私たちのイエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。
<おわりに> キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また弟子にあらわれたことです(Ⅰコリ15:3-5)⇒これが最も大切なこととして私も受け、伝えたことです。(H.M.)
【礼拝メッセージの概要】2020.4.19
『信じる幸い』 (ヨハネの福音書 20 章24-29 節)
<はじめに> 私たちが生きる世界は玉石混交、本物と偽物が入り交じり、それを見分ける眼力が求められます。すべてを拒めば影響受けませんが、狭い世界に自分を閉じ込めます。今は安易に信じない時代です。しかし、イエスは「信じる者は幸いです」(29)と言われました。
Ⅰ 「私たちは主を見た」(24-25)
①いなかったトマス(24⇒19-23)
主イエスは甦られた日の夕方、弟子たちのいた部屋に来られた時、トマスは不在でした。他の弟子たちが部屋に閉じこもる中、彼はどこへ何をしに行っていたのでしょうか。街に出ることが怖くなかったのでしょうか。
②仲間の証言(25)
トマスが戻って来ると、弟子たちが「主を見た」と言います。彼には信じ難いことでしたから、素直に反論しました。本当に主だったのか、主ならば十字架の傷跡があるはずで、それを見たのか、自分なら触って確認する、と主張します。
③信じない理由
「見たことがない」は自分の経験値を、「聞いたことがない」は証人の真実さを判断材料とします。トマスを懐疑主義者と呼ぶのには賛同できません。信じるに足る揺るがない証拠を求める人です。彼が信じる根拠は自分の納得です。それが揃うまでは信じません。
Ⅱ 8日後の出来事(26-29)
①再び主が来られ(26)
1 週間前、トマスに弟子たちが報告した通りの状況が再現されました。違うのはトマスがいたことです。主はなぜもう一度来られたのでしょうか。主を再び見た弟子たちと、初めて見たトマスに、この出来事が何をもたらしたでしょうか。
②あなたの指と手を(27)
ここからはこの日独自の展開です。この主のことばから、イエスとはどんな方だと言えるでしょうか。主のことばを聞いたトマスと弟子たちはどんな心境で、何に気づいたでしょうか。トマス(あなた)と主(わたし)が向き合うことで、両者の関係に変化が表われます。
③「私の主、私の神よ」(28-29)
姿を見、声を聞き、存在に触れる経験こそ、人格の交わりです。「私の主、私の神」であるイエスが甦られて、今生きておられることをトマスは受け取りました。彼が信じるためには、幾つかの証拠が必要でした。私がイエスを信じるには、何が必要ですか。
Ⅲ 信じる人たちは幸い
①証拠を信じるのか
科学的真理は再現性の上に成立しますから、一回性の出来事は蚊帳の外に置こうとします。イエス・キリストの復活も一度きりですから、対象外とされます。それでも聖書はイエスが葬られた墓は空だった(2、6-7)という揺るがぬ証拠を示しています。
②自分は信じられるのか私たちもトマスのように自分の理解・納得を大事にしますが、それにも限界があります。識者・権威ある者の証言を借りることもあるでしょう。そもそも自分は信頼に足る者でしょうか。「私」はすべてを理解し、公正に判断できる者でしょうか。
③イエスは信じるに値するのか
イエスが言われる「信じる」とは、生ける人格なる神との出会いです。事実・実在は証拠・証言を越えた領域です。対面し、語らい、触れ、その働かれる様子を見ることを通して、「私の神、主は生きておられる」と告白します。それは私たちの生き方を変えます。
<おわりに> 甦られた主は、今も生きておられ、私たちの前に現れ、語り掛け、ご自身が生きて働いておられることを示されています。私たちは主イエスを肉眼では見なくても、信じるに足る御方だと受け止めて、「私の主、私の神」と信じますか。それはどうしてですか。(H.M.)
【礼拝メッセージの概要】2020.4.12.
『平安があるように』 (ヨハネの福音書 20 章19-23 節)
<はじめに> イースターの朝を迎えました。一堂に会して主を礼拝できない中にはありますが、一人ひとりとともにおられる復活の主に目を上げ、それぞれがおられる場所で礼拝をささげ、主にお会いし、主からの語り掛けを受け、主とともに日々生きて参りましょう。
Ⅰ イエスは来られる(19)
①閉じ籠る弟子たち
主イエスの十字架処刑を目の当たりにした弟子たちは、すぐにエルサレムを離れませんでした。茫然自失の混乱の中で動けなかったでしょうか。主を十字架につけたユダヤ人の手を恐れて、動くこともままならなかったのかもしれません。
②弟子たちが恐れていたもの
主イエスを殺された喪失感とともに、その主を捨てて逃げた後悔は重く自分を責めます。自分たちを取り囲む敵に怯え、これからどうなるのか、どうすればいいのか分からない不安が、彼らを支配していました。私たちの今と似てはいませんか。
③鍵をかけた部屋
せめて自分の身の回りの安心を得ようと鍵をかけます。誰も入ってこないように、この中だけは守られ、自分でいられる半径2mの王国です。しかし、鍵は自分も狭い世界に閉じ込めます。いつまでそうしていられるのでしょうか。
Ⅱ イエスが現れる(19-20)
①イエスが来られる(19)
鍵のかかった部屋に突然主が現れ、彼らの真ん中に来られました。死なれて墓に納められた主、もう二度と会えないと思っていた主が目の前に現れたのです。鍵が閉まっていても、主には障壁となりません。「神は私たちとともにおられる」事実は今も変わりません。
②イエスが語られる(20)
「平安があなたがたにあるように」―懐かしい声の響きが彼らの心の緊張を溶かしたことでしょう。不安と恐れに取り囲まれ、固くなった彼らに必要なのは、平安・安心です。環境・状況、物事の有無や成り行きに依らない、生ける主の御声を聞く者に与えられるものです。
③イエスが示される(20)
主は弟子たちに手と脇腹を示されました。あの十字架で受けられた傷は主のいのちを奪いましたが、今主は生きて目の前に立っておられます。主は再びいのちを得られ、死から甦られました(ヨハネ10:17-18)。これが理論や定説を越えた安堵と喜びをもたらします。
Ⅲ 2度目の語り掛け(21-23)
①1 度目の平安
主が繰り返されるときは大切なことです。1 度目の語り掛けは、主が死から甦られた事実を彼らに示すことで、悲しみ・不安・恐れを吹き払い、主の臨在と平安に包まれるためです。主が私とともにおられる実感を、私たちは何によって得ているでしょうか。
②2 度目の平安(21)
2 度目には付け加えられたことがあります。主は弟子たちを以前と同じように遣わすと言われます。主を捨てて逃げた弟子を咎めることなく、ご自分の弟子とされました。この言葉が彼らの罪責感・自責の念を拭い、どれほど安堵したかは、想像に難くありません。
③聖霊を受けなさい(22-23)
さらに、主は彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われました。十字架の前夜、最後の晩餐で語られたもう一人の助け主です。この助け主とともに、遣わされる任務は、罪の赦しの福音を伝え、赦された者に与えられる平安を満ち渡らせるためです。
<おわりに> どのような状況下でも、主は来られ、ご自分が生きて働かれていることを私たちが見られますように。また、罪赦され、主の弟子たる平安と喜びを感じられますように。そして、私たちも、罪が赦されることで得られる平安を助け主なる聖霊とともに伝えられますように。(H.M.)