礼拝メッセージ

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【礼拝メッセージの概要】2020.5.24

 

『三つの願い』 (ルカの福音書 826-39

 

<はじめに> 祈りは私たちと神を結ぶ絆です。祈りのすばらしさを、私たちはどこに見出しているでしょうか。この箇所には三者三様の祈りをイエスに告げています。祈りは自分の願いを神に何でも告げることから始まります。願い通りに聞かれた祈りもあれば、聞かれなかった祈りもあります。

 

苦しめないで(28-33

①この人から出て行くように(29

汚れた霊はこの人を捕えて、やりたい放題に暴れていました。イエスが来られ、悪霊に彼

を解き放つようにと命じられました。彼はイエスがいと高き神の子であると知っていました。彼とイエスには信頼関係はありませんが、イエスは悪霊も支配される権威をお持ちです。

②許してください(31-33

悪霊どもは、自由に振舞える時に限りがあり(12:12)、最後には底知れぬ所に投げ込ま

れることも熟知していました。だから、今しばらくは豚の群れの中に移ることを懇願し、イエスもそれを許可されました。なぜイエスは悪霊の願いを聞き届けられたのでしょうか。

③自由という名の制約

自由と主導権を保ちたいと願うのは、人の常です。それが神様とぶつかる時、私たちはど

うするでしょうか。自由と主権を保てる領域に移ることを求める人に、主は無理強いされま

せん。自由意志を人に与えられた主は、あえてそれをも許されます。

 

出て行ってほしい(34-37

①驚きの出来事

豚飼いやその地域の人々は、豚の群れの突然死に驚いて出て来たところ、悪霊の去った

男がイエスの足元に服を着て正気に返り座っているのを見ます。彼が救われた顛末を知

ると、彼らはイエスがこの出来事の張本人とわかると、出て行ってほしいと願いました。

②何が一番大切なのか

かつて彼を鎖や足かせでつなぎ、何とかしようと試みたにもかかわらず、悪霊の去った男

を喜ぶ者は見られません。不思議な御業を見て、神を讃える声も聞こえません。なぜ彼ら

はイエスに出て行ってほしいと願ったのでしょうか。彼らの望みは何だったのでしょうか。

③与えられた機会

イエスは彼らの願いを聞かれ、舟に乗り込まれます。主は彼らの残念な願いさえも聞き届

けられます。ゲラサ地方を主が再び訪れた記録はありません。主よりも自分を優先させる

祈りは、貴重なチャンスを失わせてしまいます(イザヤ55:6、エペソ5:15-17 参照)。

 

お供をしたい(38-39

①しきりに願った

辛く苦しい記憶ばかりでも、生まれ育った故郷を離れる決意は尋常ではありません。それ

以上にイエスとともに行きたい、弟子の一人になりたいと願いました。しかし主は、そんな

彼の願いを聞き届けられず、彼の意とは異なる道を示されました。

②神との語らい

祈りは一方的に神へ自分の願いを伝えることではありません。神との会話、語らいです。

重荷・必要・課題を神に聞いていただくだけでなく、神から聞く場です。自分の願いと神の

計画が違うことに気づいたことがありますか。その時、どうしましたか。

③イエスの足元に座す

願いが聞かれることに重きを置いたなら、自分本位に神を動かそうとする誤解(高慢)が入

り込んで来ます。足もとに座るとは、しもべとなって主人の言葉を待ち望む姿です。聞いた

しもべは、それを実行するのです。神が主であり王であることが、そこに現わされます。

 

<おわりに>願いが聞き届けられることばかり注目してませんか。すぐに祈りが聞かれない時は、神が私たちに語り掛けたく願っておられるかもしれません。「主よ、お話しください。しもべは聞いております」(Ⅰサム3:9)と申し上げ、主の御思いを受け取ることができるでしょうか。(H.M.)

礼拝メッセージの概要 2020.5.24
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【礼拝メッセージの概要】2020.5.17

 

『一緒にいたい』 (ルカの福音書 8 26-39

 

<はじめに> 「イエスと一緒にいたい」という願いはクリスチャン共通のものです。ゲラサ地方に住むこの男がこの思いを抱くようになったのは、どうしてでしょうか。今の時代、この思いを持つ人がどのように生きればよいのでしょうか。

 

救いを実感する

①イエスに出会う前(27-30)

彼は悪霊・汚れた霊につかれて墓場に住んでいました。衣服もつけずに自分の身を傷つ

(マコ5:4)、昼夜問わず叫び声を上げていて、人々が止めよう彼を捕えて、鎖・足かせに

つないでも断ち切ることを繰り返していました。大勢の悪霊が彼に入っていたからです。

②彼の身に起きたこと(29-38)

イエスは汚れた霊にこの人から出て行くように命じられ、悪霊は豚の群れに移り、悪霊の

去った男は服を着て、正気に返ってイエスの足元に座っているのを人々は見ます。そし

てその人は「お供をしたい」とイエスにしきりに願いました。

③神がしてくださったこと(39)

クリスチャンは主イエスに救われた者です。そこには必ず変化があります。イエスとお会い

して、自分にどんな変化があったでしょうか。自分にはできなかった素晴らしいことを神が

成し遂げてくださったと実感するほど、「イエスと一緒にいたい」との願いは高まります。

 

犠牲の大きさを知る

①レギオン(29-33)

悪霊が名乗った名はローマの1軍団を指すほど大勢でした。悪霊が懇願して移った豚の

群れは、突如崖を下り湖へなだれ込み、溺死しました。その数は2000 頭ほど(マコ5:13)

でした。それほどの力を持つ悪霊が彼を捕えて、傷つけ苦しめていたのです。

②救いの対価

豚はユダヤでは忌避される食物ですが、その地で飼われていました。彼を救うために、た

くさんの豚が死ぬことさえ、主イエスは許されました。救いには犠牲が伴います。私を救う

ために、誰が、どんな犠牲を払ってくださったかを思い起こせますか。

③犠牲を見る目(34-39)

損害を受けた飼い主たち、この地域の人々が、イエスに出て行ってほしいと願い出ます。

「非常な恐れに取りつかれていたから」とは意味深です。一人の救いのために具体的な

犠牲・奉仕・献身を求められるとき、私は何と返答するでしょうか。

 

救われた意味を知る

①懇願する理由(37-38)

悪霊が去った彼は、イエスがその地を離れようとする際に同行を願い出ます。彼にとって

辛く苦しい日々を過ごした地であっても、故郷を離れたいと思うのは余程のことです。それ

でも地元の厳しい眼差しと主への態度に、彼が決意したとしても不思議ではありません。

②イエスの願い(39)

むしろ、純粋に救われた感謝と喜びから、彼は主について行きたいと願ったのでしょう。し

かし主は彼の願い通りではない、別の道を示されます。この町に留まり、神が自分にして

くださったことをすべて、主を去らせた同郷の人々に話す、彼にしかできないことです。

③主が望まれることを選ぶ

彼は自分の願いよりも、主の道を選び取りました。献身とはある働きや立場に進むことで

はなく、主の思いを受け取り、それに進むことです。そうであれば、献身は一部の特別な

人にだけ求められているのではありません。全て救われた者に主は献身を望まれます。

<おわりに> 今日17 日は聖宣神学院創立71 周年の記念日です。献身者が少ないのは、時代・世代の差、体制の問題なのでしょうか。自らの救いを喜び感謝し、その犠牲に報いる生き方を求め、主の切なる願いに迫られる関係が築かれているでしょうか。(H.M.)

礼拝メッセージの概要 2020.5.17
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【礼拝メッセージの概要】2020.5.10

 

『散らされた人たちは』(使徒の働き1-8 節、11 19-26

 

<はじめに> 普段なら当たり前にできたことが、許されない状況が広がっています。教会に集えるのも当たり前ではありません。個人的理由だけでなく、大規模災害・社会不安に左右されます。これはあってはならないことでしょうか。その中で私たちはただ流され、諦めるしかないのでしょうか。

 

迫害と離散

①ステパノ殺害を越えて(7 )

主イエスを救い主と信じる群れは、ユダヤ教指導者にとって目障りでした。群れが増殖するにつれて無視できなくなり、ステパノを最高法院に連行し、彼の弁明に憤慨した指導者たちは、彼を石打ちの刑で殺害し、エルサレムの教会全体に迫害が及びました。

②分断・捕縛・離散(8:1-3)

使徒たちは当局の監視下に置かれ、信者たちはエルサレムから追い出されユダヤ・サマリヤ諸地方に逃げるしかありませんでした。ステパノを葬り、エルサレムに留まった敬虔な信者たちも次々捕えられて牢に入れられました。エルサレム教会はほぼ壊滅でした。

③あってはならないこと?

戦乱・迫害・動乱・災害などは誰も願いませんが、度々起こり、主を信じる者たちの平穏な営みを壊します。私たちが信じる主は全てを治めておられるのなら、これらのことが我が身に及ぶとき、どう受け止めればいいのでしょうか。御心、それとも御怒りなのでしょうか。

 

散らされた人たち

①福音を伝えながら(8:4-8

散らされた信者たちは身を隠さず、福音を証ししつつユダヤ・サマリヤに散り行きました。エルサレムでの集いの場は失われたことは辛く苦しいことですが、それで彼らの内にある信仰の営みが吹き消されません。むしろ、その中で主を証しは輝いたのです。

②ユダヤの外にまで(11:19-26

9章で迫害はユダヤを越えてダマスコにまで及んでいます。北に離散した信者はさらに遠くへと逃げざるを得ず、フェニキア、キプロス、アンティオキアに達します。それまではユダヤ人だけに証しされていた福音が、ギリシャ語を話す人たちにも宣べ伝えられました。

③使徒の働き=聖霊の働き

本書の別名です。人間の動きが表立っていますが、この背後におられる聖霊なる神が主導権を持ってことを動かしておられます。使徒18の主の約束は、順境下での福音宣教だけで実現したのではありません。迫害・試練・反対さえも推進力になっています。

 

今を生きる私たちに

①今は悪い時代?

状況・感覚は決して良いとは言えないでしょう。しかし八方塞がりではありません。暗い時代だからこそ、私たちの内にあるイエス・キリストが一層輝く機会にもなります。この世と私たちクリスチャンとの違いはどこにあるでしょうか。彼らの中から見つけ出してください。

②本質をとらえて

形式や組織・方法は本質の表われであり、多様です。かたちにこだわって本質を見失うことは人の常です。聖日に教会に集まり、牧師から説教を聞くだけが礼拝でしょうか。彼らはどうでしたか。教会・使徒から離された彼らは、どうやって主とつながっていたのでしょう。

③教会も変わる時

神様は時代を変えるために、まず教会とクリスチャンを変えられます。危機の中にも主は主導権を握っておられると信じますか。私たちは明らかに曲がり角を迎えています。今までのかたちにこだわりますか。むしろ何物にも左右されない主との関係を深めませんか。

 

<おわりに> 教会の歴史は危機の連続です。クリスチャンはそこで揺す振られ、本当に大切なも

の、変えてはならないもの、本質的なものに目覚めました。彼らのうちに住まわれる聖霊が、

必要なことを教え、彼らを導かれます。それは今を生きる私たちにも同じです。(H.M.

礼拝メッセージの概要-2020.5.10
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【礼拝メッセージの概要】2020.5.3

 

『すがりついていてはいけない』 (ヨハネの福音書20:11-18) 

 

<はじめに>主にすがる我に悩みは無しと讃美歌にあります(インマヌエル238)。主にすがることはすばらしいことです。ですのに主イエスは、「わたしにすがりついていてはいけません」(17)とマグダラのマリアに言われます。不思議なこの言葉に今日は心を留めます。

 

縋り付きたいマリア(11-15)

①なぜ泣いているのですか

主はゴルゴタの丘近傍の園にあった未使用の墓に葬られました(19:41)。マグダラのマリアは朝早く香油を亡骸に塗るために訪れましたが、空いた墓を見て弟子たちに知らせてまた戻ってきました。「なぜ泣いているのですか」と問い掛けられます(13,15)

②亡骸にこだわる

愛する者の亡骸・墓に生前同様の思いを示すのは自然なことです。亡くなって間もない時期はなおさらです。彼女はだれかが主の亡骸を取って運び去り、どこかに置いたのだろうと思っています。せめて在りし日の主をしのび、慰めを得たかったのでしょう。

③取り戻したい

マリアの本心は、主と過ごしたあの日に帰りたい、でした。穏やかで楽しかった過去に戻りたい、戻してほしいと願いますが、時は戻りません。私たちは主との交わり、主が良くしてくださったことを思い返し、それをもう一度、と思い描きます。しかし、主は先に進まれます。

 

すがりついていてはいけません(16-17)

①イエスが分からない(14-15)

振り向いたマリアは、そこに立っておられるイエスを園の管理人と思っていました。この事例は他にもあります(ルカ24:16、ヨハネ21:4)。主の復活を受け入れない者ならば当然です。主がここにおられるはずがない、主は亡くなられた、と思い込んでいるからです。

②生ける主の声(16)

主の「マリア」の声に、彼女は「ラボニ(先生)」と反射的に返します。積み重ねて来た主との交わりが、生ける主に気付くきっかけです。主が個人的に語られる経験、御言葉から主の御声を聞くことは、復活の主イエスを体験的に知ることです。知識以上の理解です。

③すがりついていてはいけません(17)

以前のように現れた主を見て、また以前に戻れるとマリアは期待したでしょう。しかし主は、これまでとは違う、新しい関係へと導かれます。物理的・実際的に共にいて、顔と顔を合わせて語らい、触れ合える関係に、主と私たちを留めようとしてはいないでしょうか。

 

父のもとに上る(17-18)

①父のもとに行く目的(ヨハネ14:16,15:26,16:7)

十字架を前にして、主はご自分が父の御許に行くことを明確に語られました(13:1)。弟子たちはよくわからずに悲しみましたが、彼らが喜びに満たされるご計画です(16:17-33)主が行かれるのは、もう一人の助け主である真理の御霊を彼らに与えられるためです。

②もう一人の助け主

この御方は、(1)いつまでもともにおられ(14:16)、(2)信仰者の内に住まわれ(14:17)、(3)内住の主を示し(14:20,15:26)、(4)御言を思い起こさせ(14:26)、(5)世の誤りを示し(16:8)、(6)真理に導き(16:13)、(7)将来起こることを告げ(16:13)⑦主の栄光を現します(16:14)

③わたしの兄弟たち

もう一人の助け主なる御霊が信仰者に与えられるなら、もはや物理的制限なく、いつどこででも主と語らい、主の思いを受け取り、主の助けを得ることができます。信仰者を「わたしの兄弟」と呼ばれたのは、私たちが小さなキリストとして整えられるのです。

 

<おわりに> これまでの主との交わり、信仰生活が許されない環境に置かれている私たちが元に戻ることだけを求めてはいないでしょうか。主は弟子たちを新しい関係、「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み」(コロサイ1:27)へと導かれています。(H.M.)

礼拝メッセージの概要-2020.5.3
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【礼拝メッセージの概要】2020.4.26

 

『よみがえらなければならない』(ヨハネの福音書20 章1-10 節)

 

<はじめに> 奇跡は偶然の産物、例外中の例外、神様の気まぐれでしょうか。死から甦ることなど

は、もはや非科学的なおとぎ話なのでしょうか。聖書は「イエスが死人の中からよみがえらなければ

ならない」(9)と言います。復活は必然だと理解していますか。なぜそうだと言えますか。

 

Ⅰ イエスが神の子であるから

①いのちの君(ヨハネ1:1-4)

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに

神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られ…、この方によらずにできた

ものは一つもない。この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。

②いのちの君を殺す(使徒3:13-15)

あなたがたはこの方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに…この方を拒みました。あ

なたがたは、この聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、いのち

の君を殺したのです。⇒しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。

③死んだままにはされない(9「聖書」⇒詩篇16:10)

「あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せに

ならないからです。」⇒【使徒2:24-32】神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみが

えらせました。この方が死につながれていることなど、ありえなかったからです。

 

Ⅱ 罪の赦しを与えるため

①イエスの自覚(マタイ16:21)⇒【17:9、17:22-23、20:18-19、26:32】

そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者

たちから多くの苦しみを受け、殺され、3 日目によみがえらなければならないことを、弟子

たちに示し始められた。⇒【マルコ8:31,9:9,9:31,10:33-34,14:28、ルカ9:22,18:31-33】

②罪の贖いの代価⇒【ロマ6:23】

人の子も…多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たので

す。(マルコ10:45)⇒【ロマ5:8】私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために

死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

③罪の赦しの宣言として(使徒4:30-31)

私たちの父祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスを、よみがえらせました。神

は、イスラエルを悔い改めさせ、罪の赦しを与えるために、このイエスを導き手、また救い

主として、ご自分の右に上げられました。⇒【使徒13:37-39】

 

Ⅲ 万物を従わせるため

①眠った者の初穂(Ⅰコリント15:20-21)

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。死が一

人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムに

あってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。

⇒【ロマ6:23】神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

②死を滅ぼし(Ⅰコリント15:26-27)

最後の敵として滅ぼされるのは死です。「神は万物をその方の足の下に従わせた」のです。

⇒【Ⅰコリ15:54】この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なない

ものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に呑み込まれた」。

③神に感謝して生きる(Ⅰコリント15:57-58)

神は、私たちのイエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、

私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あ

なたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。

 

<おわりに> キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また葬ら

れたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また弟子にあらわ

 

れたことです(Ⅰコリ15:3-5)⇒これが最も大切なこととして私も受け、伝えたことです。(H.M.)

礼拝メッセージの概要-2020.4.26
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【礼拝メッセージの概要】2020.4.19

 

 

『信じる幸い』 (ヨハネの福音書 20 章24-29 節) 

 

<はじめに>  私たちが生きる世界は玉石混交、本物と偽物が入り交じり、それを見分ける眼力が求められます。すべてを拒めば影響受けませんが、狭い世界に自分を閉じ込めます。今は安易に信じない時代です。しかし、イエスは「信じる者は幸いです」(29)と言われました。

 

Ⅰ 「私たちは主を見た」(24-25)

①いなかったトマス(24⇒19-23)

主イエスは甦られた日の夕方、弟子たちのいた部屋に来られた時、トマスは不在でした。他の弟子たちが部屋に閉じこもる中、彼はどこへ何をしに行っていたのでしょうか。街に出ることが怖くなかったのでしょうか。

②仲間の証言(25)

トマスが戻って来ると、弟子たちが「主を見た」と言います。彼には信じ難いことでしたから、素直に反論しました。本当に主だったのか、主ならば十字架の傷跡があるはずで、それを見たのか、自分なら触って確認する、と主張します。

③信じない理由

「見たことがない」は自分の経験値を、「聞いたことがない」は証人の真実さを判断材料とします。トマスを懐疑主義者と呼ぶのには賛同できません。信じるに足る揺るがない証拠を求める人です。彼が信じる根拠は自分の納得です。それが揃うまでは信じません。

 

Ⅱ 8日後の出来事(26-29)

①再び主が来られ(26)

1 週間前、トマスに弟子たちが報告した通りの状況が再現されました。違うのはトマスがいたことです。主はなぜもう一度来られたのでしょうか。主を再び見た弟子たちと、初めて見たトマスに、この出来事が何をもたらしたでしょうか。

②あなたの指と手を(27)

ここからはこの日独自の展開です。この主のことばから、イエスとはどんな方だと言えるでしょうか。主のことばを聞いたトマスと弟子たちはどんな心境で、何に気づいたでしょうか。トマス(あなた)と主(わたし)が向き合うことで、両者の関係に変化が表われます。

③「私の主、私の神よ」(28-29)

姿を見、声を聞き、存在に触れる経験こそ、人格の交わりです。「私の主、私の神」であるイエスが甦られて、今生きておられることをトマスは受け取りました。彼が信じるためには、幾つかの証拠が必要でした。私がイエスを信じるには、何が必要ですか。

 

Ⅲ 信じる人たちは幸い

①証拠を信じるのか

科学的真理は再現性の上に成立しますから、一回性の出来事は蚊帳の外に置こうとします。イエス・キリストの復活も一度きりですから、対象外とされます。それでも聖書はイエスが葬られた墓は空だった(2、6-7)という揺るがぬ証拠を示しています。

②自分は信じられるのか私たちもトマスのように自分の理解・納得を大事にしますが、それにも限界があります。識者・権威ある者の証言を借りることもあるでしょう。そもそも自分は信頼に足る者でしょうか。「私」はすべてを理解し、公正に判断できる者でしょうか。

③イエスは信じるに値するのか

イエスが言われる「信じる」とは、生ける人格なる神との出会いです。事実・実在は証拠・証言を越えた領域です。対面し、語らい、触れ、その働かれる様子を見ることを通して、「私の神、主は生きておられる」と告白します。それは私たちの生き方を変えます。

 

<おわりに>  甦られた主は、今も生きておられ、私たちの前に現れ、語り掛け、ご自身が生きて働いておられることを示されています。私たちは主イエスを肉眼では見なくても、信じるに足る御方だと受け止めて、「私の主、私の神」と信じますか。それはどうしてですか。(H.M.)

礼拝メッセージの概要-2020.4.19
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【礼拝メッセージの概要2020.4.12.

 

『平安があるように』 (ヨハネの福音書 20 章19-23 節)       

 

<はじめに>  イースターの朝を迎えました。一堂に会して主を礼拝できない中にはありますが、一人ひとりとともにおられる復活の主に目を上げ、それぞれがおられる場所で礼拝をささげ、主にお会いし、主からの語り掛けを受け、主とともに日々生きて参りましょう。

 

Ⅰ イエスは来られる(19)

①閉じ籠る弟子たち

主イエスの十字架処刑を目の当たりにした弟子たちは、すぐにエルサレムを離れませんでした。茫然自失の混乱の中で動けなかったでしょうか。主を十字架につけたユダヤ人の手を恐れて、動くこともままならなかったのかもしれません。

②弟子たちが恐れていたもの

主イエスを殺された喪失感とともに、その主を捨てて逃げた後悔は重く自分を責めます。自分たちを取り囲む敵に怯え、これからどうなるのか、どうすればいいのか分からない不安が、彼らを支配していました。私たちの今と似てはいませんか。

③鍵をかけた部屋

せめて自分の身の回りの安心を得ようと鍵をかけます。誰も入ってこないように、この中だけは守られ、自分でいられる半径2mの王国です。しかし、鍵は自分も狭い世界に閉じ込めます。いつまでそうしていられるのでしょうか。

 

Ⅱ イエスが現れる(19-20)

①イエスが来られる(19)

鍵のかかった部屋に突然主が現れ、彼らの真ん中に来られました。死なれて墓に納められた主、もう二度と会えないと思っていた主が目の前に現れたのです。鍵が閉まっていても、主には障壁となりません。「神は私たちとともにおられる」事実は今も変わりません。

②イエスが語られる(20)

「平安があなたがたにあるように」―懐かしい声の響きが彼らの心の緊張を溶かしたことでしょう。不安と恐れに取り囲まれ、固くなった彼らに必要なのは、平安・安心です。環境・状況、物事の有無や成り行きに依らない、生ける主の御声を聞く者に与えられるものです。

③イエスが示される(20)

主は弟子たちに手と脇腹を示されました。あの十字架で受けられた傷は主のいのちを奪いましたが、今主は生きて目の前に立っておられます。主は再びいのちを得られ、死から甦られました(ヨハネ10:17-18)。これが理論や定説を越えた安堵と喜びをもたらします。

 

Ⅲ 2度目の語り掛け(21-23)

①1 度目の平安

主が繰り返されるときは大切なことです。1 度目の語り掛けは、主が死から甦られた事実を彼らに示すことで、悲しみ・不安・恐れを吹き払い、主の臨在と平安に包まれるためです。主が私とともにおられる実感を、私たちは何によって得ているでしょうか。

②2 度目の平安(21)

2 度目には付け加えられたことがあります。主は弟子たちを以前と同じように遣わすと言われます。主を捨てて逃げた弟子を咎めることなく、ご自分の弟子とされました。この言葉が彼らの罪責感・自責の念を拭い、どれほど安堵したかは、想像に難くありません。

③聖霊を受けなさい(22-23)

さらに、主は彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われました。十字架の前夜、最後の晩餐で語られたもう一人の助け主です。この助け主とともに、遣わされる任務は、罪の赦しの福音を伝え、赦された者に与えられる平安を満ち渡らせるためです。

<おわりに>  どのような状況下でも、主は来られ、ご自分が生きて働かれていることを私たちが見られますように。また、罪赦され、主の弟子たる平安と喜びを感じられますように。そして、私たちも、罪が赦されることで得られる平安を助け主なる聖霊とともに伝えられますように。(H.M.)

礼拝メッセージの概要-2020.4.12
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